ウチは鼻歌交じりに朝ご飯の支度を進めていた。
「うぅ……おはよぅ美波ぃ」
準備をはじめて二十分くらい経った頃だろうか。
「あ、おはよアキ。もう起きたの? まだ寝てても良かったのに」
「僕もまだ寝ていたかったんだけどね……。お客さんにご飯作らせたらダメだって姉さんに叩き起こされたんだよ」
「そんなの気にしなくていいのに」
「いやぁ。確かに姉さんの言うとおりだよ。朝食は僕が作るよ。と言ってもこんな頭じゃ何か失敗しそうだし……。美波も手を貸してくれる?」
「いいわよ。でもウチが手伝うんじゃなくてアキが手伝うのよ。今回はウチが作るって決めたんだから」
「あぁ、うん。分かった。それでいい……よ……ふぁ……あー。……顔洗ってくる」
そう言うとアキは寝癖の付いた髪を掻きながら洗面所の方へ消えて行った。
すごい寝ぼけた顔してるわね……。
眠れなかったのかな。
ウチはよく眠れたんだけどな。
もう覚えてないけど、なんかいい夢を見た気もするし。
あ……。
もしかしてウチ、やっぱり寝ている間に蹴飛ばしちゃったのかな。
それで眠れなかったからソファなんかで寝てたのかな?
だとしたら謝っておかないといけないわね……。
程なくして戻ってきたアキは朝ご飯の準備の手伝いを始めた。
後ろ髪をピンと立てたままで。
アキったら寝癖に気付いてないのね。
面白いからこのまま言わないでおこう。ふふ……
「うー……。冷めたい水で顔を洗ってきたのにまだ眠いなぁ……」
「大丈夫? アキ」
「これが大丈夫に見えるなら美波は眼科に行ったほうがいいかもね」
そう言うアキの
どう見ても大丈夫じゃなさそうね。
やっぱりウチのせいなのかな……。
「ね、ねぇアキ、もしかしてウチ、寝ている間に蹴飛ばしちゃったり……した?」
「うん? そんなことは無かったと思うけど?」
「ホントに?」
「うん。なんでそんなこと聞くのさ」
「ううん! 特に意味は無いのよ! ただなんとなく、ね」
「?」
どうも違うみたいね。よかった。
でもそれじゃあ、どうしてこんなに眠そうなのかな。
「それにしてもアキ、ずいぶん眠そうだけど、眠れなかったの?」
「あぁ……。眠れなかったよ。眠れるわけないじゃないか……」
「どうしてよ。ウチはよく眠れたわよ?」
「どうしてって……。どうして美波は平気なんだよ。僕は緊張しちゃって眠れやしなかったよ」
「緊張?」
「うん。美波はしないの?」
「ウチは緊張なんかしないわよ? どちらかと言うと安心するって感じかな」
「緊張してたのは僕だけなのか……はぁ」
「それよりいつの間にベッドを抜け出したのよ。それにまたソファなんかで寝てるし」
「明け方だよ。明け方になってやっと抜け出せたんだよ。でも抜け出したのはいいけど他に寝る場所が無くてさ。姉さんのベッドで寝るわけにもいかない……し……ふぁ……あぁ……」
大きなあくび。こんな状態で火を扱って大丈夫かしら。
「うぅ……それにまだ体がギクシャクするよ」
そう言いながらアキは頭を左右に揺らし、肩や首をコキコキと鳴らしている。
うん。
それはきっと昨日ウチらが投げまくったからね……。
「ご、ごめんねアキ。昨日はちょっと無茶し過ぎちゃったかな」
「ホント無茶し過ぎだよ……姉さんまで一緒になってさ」
「だって……アキが抵抗するんだもん」
「そりゃ抵抗するよ。美波と一緒になんて寝られるわけないじゃないか……」
「なによ。それじゃ、玲さんならいいとでも言うの?」
「いや、そうじゃなくて……」
「それならどうしてよ」
「だからそれは……ドキドキしちゃって……」
「ウチの色仕掛けは効かないんじゃなかったっけ?」
「う……あ、あれはだって色仕掛けというか……なんと言うか……」
「ふふ……」
あれ? なんか……焦げ臭い?
って!
「アキっ! アンタ裾が燃えてるわよ!」
「ほぇ? おわぁっ! あちちぃっ!」
いつの間にかアキの上着はガス台に触れていて、黒い煙を出していた。
でも燃えにくい素材だったのか、幸い焦げた匂いを発するだけで済んだ。
危なかったけど、おかげでアキの目が覚めたみたい。
この後のアキはすっかりいつもの調子を取り戻したようだった。
……寝癖を除いて。
まだ気付かないなんてね。
しょうがないわね。
「アキ、アンタいいかげん寝癖直しなさいよ。ほら、ちょっと後ろ向いて」
「ん。こう?」
アキはくるりと背を向けた。
ウチは手を水で濡らして、そのアキの髪を手ぐしで整えてやった。
……
あんまり意識したこと無かったけど、アキの背中って意外に大きいのね。
こうしてると、なんか大きな子供みたい。
ふふ……
「そういえばさ、さっき蹴飛ばしたとかなんとか言ってたけど、何かあった?」
「あ、うん……」
アキが野菜を切りながら後ろのウチに問い掛けてくる。
さっきウチが言ったことを気にしているのね。
アキは眠れなかったのは緊張してたからだって言ってたけど、さっきは寝ぼけてたみたいだし……。
やっぱりもう一回ちゃんと聞いてみよう。
ウチはアキの髪を整えてやりながら事情を話した。
「実はね、たまに葉月と一緒に寝ることがあるんだけど、朝起きると葉月が床で寝てたりするのよ。だからウチに蹴飛ばす癖があるのかなって。それで今朝もアキを蹴飛ばして眠れなくしちゃったのかなって思って……」
「あぁなんだ、そういうことか。それなら心配ないよ。それは葉月ちゃんの寝相が悪いだけだからさ」
「えっ? 葉月がって……どうしてアンタがそんなこと知ってるのよ」
「あ……っと、いや、そんな気がしただけだよ。うん。きっとそうなんだよ」
この口ぶり。怪しい……。
後ろを向いていて表情は確認できないけど、何か隠してるわね。
「アキ、答えなさい。どうして葉月の寝相なんか知ってるの?」
「どうしてって……い、いいじゃないかそんなことどうだってさ」
「いいから答えなさいっ!」
「わわっ! 危ないって美波! 包丁! 包丁持ってるから!」
「えっ? あ」
気付いたらウチはアキの背中にのしかかり、腕を首に回して締め上げようとしていた。
「そっ、そうね。さすがにこれは危ないわね」
「気をつけてよ美波。特に料理中はさ」
キッチンでの短気は禁物ね。
危うくアキに怪我をさせるところだったわ……。
ウチはアキの背中から降り、代わりに横から覗き込むように睨み付けた。
「これでいいでしょ? さぁさっきの葉月のこと、答えなさいよね」
「う~ん……。仕方ない……分かったよ。えっと、前に美波の家に泊めてもらったことがあったよね」
「そうね。忘れもしないわ」
「あの時、寝ようとしたら葉月ちゃんが入って来たんだよ。何度も自分の部屋に戻るように言ったんだけど、一緒に寝るんだって言ってぜんぜん聞いてくれなくてさ。それで仕方なく──って、美波? なんでそんな恐い顔してるの!?」
「アンタね……葉月に手を出したりしたら承知しないわよ」
「わ、分かってるよ! 大丈夫、何もしてないから! だからとにかく落ち着いて続きを聞いて!」
「……分かった。信じる」
「ふぅ……。そ、それでさ、とりあえず寝かしつけて、眠ったら葉月ちゃんの部屋に運んでやろうと思ったんだよ。そしたら葉月ちゃん寝返りが激しくてさ。ずいぶん蹴飛ばされたよ。その時に寝相が悪いってことを知ったってわけなんだ」
「……そういうことだったのね」
そっか。
床で寝てたのはあの子の寝相が悪かったからなんだ。
それでアキはあの時もソファなんかで寝てたのね。
もう。葉月ったら……。
アキに迷惑掛けちゃダメって言ってるのに。
帰ったら叱ってやらないといけないわね。
……
でもそのおかげでアキと一緒に寝る口実ができたのよね。
ここは葉月に感謝するべきなのかな。
……ダメダメ。
やっぱりちゃんと叱るべきよ。
それとアキにも謝らなくちゃ。
「ごめんねアキ。葉月がまた迷惑掛けちゃったのね。帰ったら叱っておくわ」
「いや、いいよ。葉月ちゃんも別に悪気があったわけじゃないし。僕も気にしてないからさ」
「そうはいかないわよ。こういうことはしっかり言って聞かせないとあの子、調子に乗るから」
「うーん……。だからあんまり言いたくなかったんだよなぁ」
「? どういうこと?」
「いや、これを話したら美波のことだからきっと葉月ちゃんを叱るだろうなって思ってさ」
「当然よ。人に迷惑を掛けるようなことしたら叱らなくちゃ」
「僕は別に迷惑だって思ってないんだけどな……。やっぱり美波は厳しいな。なんかお母さんみたいだ」
「えっ? お母さん?」
「うん。前から思ってたんだよね。美波って気が利いて、すごく面倒見が良くて、でも怒るところはしっかり怒って。きっといいお母さんになるだろうなってね」
「ウチが……お母さん……」
……
そ、それじゃ、お父さんはアキ……かな。
ここでウチは自分たちの状況に気付いた。
休日の朝。
キッチンの二人はご飯の支度。
そこでの話題は
そう。これは未来の……。
ウチの夢見た、未来の姿……。
それでこの後は……。
できたスープの味見をしてもらって。
アキは笑顔で『おいしい』って言ってくれて。
幸せな時間……。
「う~ん。でも美波はちょっと怒りっぽいところがあるかな」
「なっ!? そんなことないわよ! ウチだって少しは我慢できるようになったんだからね!」
「ほらほら、そうでもないみたいだよ? あははっ」
「あっ……。む~っ! アキのバカっ!」
ウチだって気にしてたんだから!
だからあれから気をつけようって────
「アキくん、お皿はこれでいいですか?」
あっ……。
「あ、姉さんありがとう。そこに置いてくれる? って、美波? どうかした?」
「う、ううん! なんでもないっ!」
そういえば玲さんがいるのを忘れてた。
すっかり二人っきりの気分だったわ……。
夢のような時間はここまでね。
この続きはまたいつか。
近い将来……。
夢じゃなくて現実で……ね。
「それにしても美波さんの仰しゃる通りでしたね。私も昨晩はとてもよく眠れました」
「姉さん!? まさかこれからずっと僕を抱き枕の代わりにするつもりじゃないだろうね!?」
近い将来なんて悠長なこと言ってられないかも……。
「いいえ。私はもう遠慮しておきます」
「「ほっ……」」
「って、なんで美波まで安心してるのさ」
「だ、だって……。玲さんは毎日アキと一緒にいるわけだし……」
「安心してください美波さん。アキくんはもう私だけの物じゃありませんからね」
「姉さん……僕を物扱いしないでよ……」
そうだ。ちょっとからかってやろう。
さっきの仕返しよ。ふふ……
「じゃあウチと共有ですね! ウチが左半分で、玲さんが右半分でいいですか?」
「えぇいいですよ」
「えっ? ちょっ、美波……さん? なんか僕の扱いおかしくない?」
「アキ、今度逃げ出したら罰として布団で『すまき』にしてサンドバッグよ」
「えぇぇ!? そ、そんなぁ……」
「では次回はロープを用意しておきますね。美波さん」
「えぇぇぇっ!? ね、姉さんまで冗談はやめてよ!」
「ふふっ。冗談よアキ」
「あぁ……なんだ冗談か……。もうそういうの勘弁してよ……」
「ふふ……」
さっきのお返しよ。
これでおあいこね。
でもやっぱりアキってからかうと面白いな。
「あら。冗談だったのですか?」
「「──!?」」
ウチはその声の主を見た瞬間、絶句した。
隣のアキも同じように言葉を失っていた。
それは真顔で問う玲さんの両手にはロープが握られていたから。
ど、どこから出したんだろう……?
取りに行ったようには見えなかったけど……。
「なんて。冗談ですよ。冗談」
「そ、そうだよねっ! 冗談だよね姉さんっ! あははっ……!」
「そうよアキっ! こんな冗談くらいすぐ分かりなさいよねっ……!」
玲さんはにっこりと微笑んでいる。
……
冗談……よね?
その微笑む瞳の奥からは、殺気のような……妙な迫力が伝わってくる。
「「……目が本気だ……」」
ウチはアキと一緒に呟いた。