アキは教科書を前に置いて座り直すと去年の出来事を語りだした。
それはウチの知らぬ間にはじまり、すべてが終わっていた。
事の
アキはその勘違いにより、当時犬猿の仲だった坂本と殴り合いの喧嘩をしたと言う。
それは木下や土屋を巻き込み、教室をめちゃくちゃにしての大喧嘩だったらしい。
その出来事の中心にあったのが、このボロボロの教科書。
この破れた教科書を坂本が持っているのを見たアキは、坂本がウチを虐めているのだと勘違いしたと言う。
それが誤解と知らずに何度も坂本に殴り掛かり、その度に返り討ちにされたと。
この時、坂本の喧嘩の実力を身をもって知ったそうだ。
その後、土屋の情報でその誤解は解けて。
代わりの教科書を求めて自転車で車を追いかけて。
傷だらけになって、最後には先生に叱られて……。
ホント……。アキは昔から変わらない。
こんな教科書ひとつを巡って周りを巻き込んで大騒ぎして。
ほとんど開きもしなかった、こんな教科書のために……。
……
知らなかった。
アキがこんなことをしていたなんて。
この教科書のために、こんなにも苦労をしていたなんて。
でも土屋の話しによれば教科書がこうなってしまったのは事故みたいなもの。
わざわざここまでしなくたって、ゆっくり、ありのままを話してくれればウチにだって理解できたはず。
どうしてこんなことを──
……そうだった……。
あの時、ウチはアキの言葉なんて聞こうとしていなかった。
わけの分からない言葉でバカにされているなんて思い込んでいて……。
冷たく当たって……。
それでもアキは気に掛けてくれていたんだ。
こんなウチのために。
出会って間もない、友達なんて状態とは程遠かった、ウチなんかのために……。
バカはウチの方じゃない……。
ここまでしてくれた人を嫌っていたなんて……。
でもどうしてアキはこんなに一生懸命になってくれるの?
それも言葉もほとんど通じなかったウチのために……。
……
そうだ。今なら分かる。
どうしてアキが人のためにこんなにも頑張れるのか。
アキはウチと違って素直なんだ。
ウチと違って自分の気持ちに正直なんだ。
ただ、ちょっと不器用で……。
「──あの時は美波が虐められてるって思ったら完全に頭に血が上っちゃってさ。ホント酷い勘違いだったよ」
思い込んだら一直線で……。
「だからもうあの時みたいな勘違いをしちゃいけないって。あんな失敗をしちゃいけないって思って。それを忘れないために、これをとっておいたんだ」
でも、とっても真面目で……。
「また同じような勘違いをしたら、また誰かを傷つけちゃうかもしれないからさ」
とっても優しくて……。
「や、やっぱりおかしいよね。これがあっても僕の勘違いぜんぜん治ってないし……。如月ハイランドで美波がバカにされた時だってカッとなって殴り掛かろうとちゃったしさ……。あ、でもあれは勘違いじゃなかったかな」
ずっとウチのことを思ってくれていて……。
……
そんなアキが……ウチは好きで……。
……
大好きで……。
……
アキ……。
大好きなアキ……。
もっとよく顔を……見せてよ……。
アキの顔が……歪んで……見えないよ……。
胸が……熱いよ……苦しいよ……。
「ん? 美波?」
「アキぃ……」
「どっ、どうしたの美波! なんで泣いてるの!?」
「ごめ……ね……ウチ…………ぜんぜん分かって……なかった……」
「へ? なに? なにが?」
胸が高鳴り、激しく締め付けられる。
止め処なく涙が溢れてくる。
色々な気持ちがごちゃ混ぜになって頭の中をかき回す。
頭が真っ白になっていき、渦巻くように込み上げてくる様々な感情はウチの目から涙を溢れさせる。
感情の渦に翻弄され、わけが分からなくなってしまったウチはこれ以上何も言えず、ただその場で涙を流し続けることしかできなかった。
「あわわわ……み、美波、どうしたんだよ……。うぅ……どうしよう……なんかマズいこと言っちゃったかなぁ……」
そんなウチを前にアキは慌てふためき、
アキが心配している。
それは混乱した頭でも理解できた。
でも涙を止めようとしても、心を静めようとしても、まったく抑えが利かない。
ウチは何も出来ず座り込んで泣き続けた。
その前ではウチを
こんな妙な
そうしているうちにアキは突然頭を下げ、額を床に擦り付けて言い出した。
「ごめん美波っ! 如月ハイランドのアイツらのことを思い出しちゃったんだよね? ホント無神経でごめん!」
やっぱりアキはウチが泣いている理由が分かっていなかった。
あの時バカにされたことなんて、もうなんとも思っていない。
むしろ今では素敵な思い出の一部となっている。
この涙はそんなことが理由じゃない。
ただ、この理由はひとつではなく、いくつかある。
ひとつは、アキの気持ちに気付かなかった自分が情けなくて。
もうひとつは、アキがこんなにも一生懸命に思い、尽くしてくれたことが嬉しくて。
それから────
「違う……よ……アキ……」
「ほぇ? 違うの?」
アキは頭だけを上げると、さっぱり分からないといった感じの間の抜けた顔を見せた。
その
「っ──!」
「おわっ! みっ、美波!?」
身を乗り出してアキの首筋に両腕を絡ませ……。
「大好き……だい……っ……き……」
頬をすり寄せて、声を絞り出した。
その言葉にウチの想いのすべてを込めて。
涙の一番の理由。
それは、アキのことがもっと、もっと大好きになってしまったから。
ウチは力いっぱい抱きつき、無我夢中で頬をすり寄せた。
苦しかった。
アキのことを考えると猛烈に胸が締め付けられ、息苦しかった。
でもアキのことしか考えられなかった。
こんなに苦しいのはきっと、もっとアキに触れたいからだ。
本能的にそう思って、今までで一番強く抱き締めた。
これでもかと言うほど、強く、きつく抱き締めた。
それでも胸の切なさは治まらず、苦しさは増す一方だった。
「美波……」
こんなに強く締め上げているのにアキが苦しむ様子はなかった。
きっとウチの力はいつもの半分も出ていなかったんだと思う。
「……(僕も)…………」
アキが耳元で小さく囁き、その腕をそっとウチの背に添える。
暖かい感覚が全身を包み込み、優しい声が耳に響く。
それは苦しむウチにとって追い打ちとなり、心は更に乱れを増した。
声の出なかったウチは返事の代わりに更に腕に力を入れ、熱い涙をアキの頬や肩に落とした。
☆
どのくらいの時間こうしていただろうか。
いつしか涙は止まり、混乱した頭も元に戻りつつあった。
それでもまだ高ぶる感情は治まらず、ウチはただひたすらに抱きついていた。
アキもそれに応じるようにウチの背中を優しく包んでくれている。
「アキく────」
そんな時、扉の方から玲さんの声が聞こえた気がした。
その声にアキの体が一瞬、ビクッと震えたような気もした。
呼びに行ったはずウチが戻ってこないので様子を見に来たのかもしれない。
でもウチにはそれも気にならず、ひたすらに頬を寄せた。
ただ、この時には複雑に絡み合っていたウチの気持ちはひとつに束ねられていた。
一生離れたくない。
という、ひとつの気持ちに。
「えっと……美波、そろそろ放してくれない?」
「……イヤ」
「え……だ、だってお母さんとの約束もあるし、ずっとこのままってわけにも────」
「一生放さない」
「えぇっ!? そ、そんな! 僕に一生、美波を抱えて生活しろって言うの?」
「うん」
「い、いや……うんってそんな……こ、困ったな……」
自分のわがままは分かっている。
こんな状態のままで生活なんて出来るわけがない。
それでも放したくなかった。
放したら遠くに行ってしまいそうな気がして。
だって、アキは誰にでも優しいから。
でも、確かにお母さんとの約束もある。
……しょうがない。我慢しなくちゃ。
ウチは渋々、腕を解いた。
そうしたらやっぱり寂しさが込み上げてきた。
「ふぅ……」
ウチの腕から解放されたアキは軽く目を閉じ、安堵の表情を見せている。
……
隙ありっ。
「ありがとう、みな────っ!」
目を瞑っているアキに隙を見たウチは再び顔を寄せ、その唇を奪ってやった。
数秒間の唇同士の触れ合い。
我慢してあげるんだからこれくらい当然の権利よね。
「これで勘弁してあげる」
ウチは唇を離すと、そう言葉を掛けた。
でもアキはそれに反応しなかった。
おかしいな。もうウチのキスにも動じないのかな。
それはそれで寂しいな……。
そう思っていたらアキの顔はみるみる赤くなっていき、恥ずかしそうに目を背けた。
なんだ。反応できなかっただけなのね。
よかった。ふふ……
ウチはその顔に満足して、立ち上がった。
「行こうアキ。玲さんが待ってるかも」
「う、うん……」
アキはそう言ったものの立ち上がろうせず、頬を赤く染めたまま目を逸らしている。
「もう。しょうがないわね。ほら行くわよ」
ウチは強引にアキの手を取を引いて立ち上がらせ、部屋を出た。
その手をぎゅっと握りながら。