《統一暦1926年 4月下旬 帝都ベルン》
ルーシー連邦による東部国境への怒涛の大侵攻が開始されてから、一ヶ月以上が経過した夜。
帝都ベルンの中心部に位置する巨大な屋内競技場は、異様なまでの熱気と狂騒、そして酸欠になりそうなほどの熱狂に包まれていた。
会場を埋め尽くす数万の聴衆の頭上を、無数のサーチライトが交差する。そして、演壇の特等席には、最新鋭のテレビジョン・カメラが陣取っていた。帝都周辺の広場や酒場に設置された受像機の前でも、何百万という帝国臣民が固唾を呑んで画面を見つめている。
演壇の中央。帝国の国章を背負い、黒いマイクの前に立つ一人の男。
帝国宣伝相、アドルフ・ペルツルであった。
彼の前髪は汗で額に張り付き、その双眸は狂信的な光を帯びて爛々と輝いている。
騒がしさに包まれる人々を前にしても彼は何事もないように壇上に立っている。
彼が壇上に上がって1分、2分、3分とたち、何も語らないことに会場の人々が困惑し、静寂へと変わると彼は両手を大きく広げ、絞り出すような、それでいて人々の脳髄を直接揺さぶるような独特のダミ声で、会場の隅々まで己の言葉を叩きつけていた。
「――我が帝国は、かつてない国家存亡の危機に直面している! 一ヶ月前、東方の野蛮なるボリシェヴィキの津波が、我が神聖なる国土を汚さんと越境を開始した! 前線の兵士たちは、数倍する赤い虫どもを相手に、泥と血に塗れて祖国の盾となっている!!」
ペルツルの言葉に人々は固唾を飲んで聞き入った。
「仮に帝国が東部で負けようものなら、2000年と続いた欧州の歴史は残虐なボリシェヴィキによって破壊されるだろう!それは欧州の危機である!そしてその欧州の危機を救う力を我々は!我が帝国は持っている!!連邦の動員は悪魔的である!我々が同一でなくとも、等しい方法で総力戦を戦い抜かない限り、我々はボルシェヴィキの脅威から逃れることはできない!」
ペルツルが拳を振り下ろすたびに、会場から地鳴りのような歓声が上がる。
「これまで、帝国は戦争経済下にあったとはいえ、国家と民族の総力を完全に動員するには至っていなかった。我々は、片手を縛られた状態でこの戦争を戦ってきたのだ! だが、もはや妥協の余地はない! 敵は我々を絶滅させる気である! ならば、我々もまた、国家の全細胞、全機能、全人民を一つの巨大な鉄槌へと変えねばならない!」
ペルツルは大きく息を吸い込み、マイクを握りしめた。彼の声が、極限まで張り上げられる。
会場が水を打ったように静まり返った。
「アルビオンどもは、帝国臣民が勝利への信念を失ってしまったと主張する!しかし、吾輩は諸君に問う、諸君は帝国の最終的な、完全なる勝利を皇帝陛下とともに、我らとともに信じているか?」
「「「「ヤー!」」」」
「アルビオンどもは、帝国臣民がますます過酷となる戦時労働に嫌気が差していると主張する。吾輩は、諸君に問う!!諸君帝国臣民はもし皇帝陛下が非常事態に命じるならば、10時間、12時間、必要とするならば14時間働く決意があるか?」
「「「「ヤー!!」」」」
「諸君は、総力戦を望むか!! もし必要とあらば、我々が今日想像できる以上の、最も総合的で、徹底的な戦争を望むか!!」
数万の聴衆が、一斉に立ち上がった。
「「「「ヤー!!!」」」」
会場の屋根を吹き飛ばさんばかりの絶叫が、ベルンの夜空に轟いた。
「吾輩は諸君に問う!! 諸君は、我が帝国の勝利を、皇帝陛下と軍を、いかなる困難があろうとも絶対的に信じ抜く覚悟があるか!!」
「「「「ヤー!!!!」」」」
「ならば立て、帝国臣民よ!! 嵐よ起これ!!」
熱狂は臨界点を突破した。男も女も、老いも若きも、涙を流しながら帝国と皇帝の名を絶叫し、腕を突き上げている。テレビジョンの画面を通じてこの狂乱を目撃した帝都の臣民たちもまた、街頭で狂ったように歓声を上げていた。
この演説は、国際周波数のラジオ電波にも乗せられ、大気を震わせて世界中へとばら撒かれていた。
海を隔てたアルビオン連合王国、ロンディウムの地下官邸。
分厚い葉巻を燻らせていたチャーブル首相は、ラジオから響く帝国の狂騒を聞きながら、忌々しげに顔をしかめた。
「……聞いているか、諸君。我々が相手にしているのは軍隊ではない。狂信という名の宗教に染め上げられた、一億の狂人どもだ。奴らは正気ではない。だが、正気でないがゆえに、この戦争は我々が奴らを根絶やしにするか、奴らが我々を食い尽くすかの二択になったということだ」
帝国の占領下にあるフランソワ共和国、パリースィの政府庁舎。
老将ペトン元帥は、執務室のラジオから流れるペルツルの演説に、深い絶望の吐息を漏らした。
「……神よ。我々は、とんでもない巨獣の腹の中に繋がれてしまったようだ。片手を縛ってあれほどの軍事力を持っていた国が、総動員をかけるというのか。我々の流す血もまた、あの狂熱の炉にくべられる運命なのだな」
そして、東方の極寒の地、ルーシー連邦のクレムリン宮殿。
同志書記長ヨシフ・ジュガシヴィリは、翻訳官が震えながら読み上げる演説の同時通訳を、冷たい目で聞き流していた。
「……なるほど。あのヴァルシャワの地獄ですら、帝国にとっては『片手を縛った状態』の余技に過ぎなかったというわけです」
同志書記長は、口元のパイプを弄りながら低く呟いた。
「資本主義の豚が、自らその全てを国家に捧げるというのだから皮肉なものです。ですが、これで帝国の全火力が我が連邦へと向かってくる。あの厄介な工場群が、完全な総動員体制に入るということです。我々も、さらなる血の代償を支払う覚悟が必要ですね」
世界が、ペルツルの声によって破滅の第二幕へと引きずり込まれていた。
演壇の上で、ペルツルは割れんばかりの歓声を全身に浴びていた。
双眸を見開き、荒い息を吐きながら、彼は眼下に広がる熱狂の海を見下ろしていた。自らの言葉が、一億の人間を一つの巨大なうねりへと変える。この万能感。この至高の芸術。
ふと、ペルツルの脳裏に、遠い過去の情景がフラッシュバックした。
そうだ。吾輩はかつて、何者でもなかった。泥に塗れ、絶望に沈み、社会の底辺で己の才能を持て余していた、無力な青年であったのだ。
――統一暦1909年。
冷たく湿った、カビ臭い牢獄の匂いを、ペルツルは今でも鮮明に思い出すことができる。
当時の帝国は、急速な工業化の波に乗りつつも、まだまだ発展の途上にあった。帝都の裏路地には煤煙が立ち込め、貧富の差は激しく、労働者たちの不満が燻る、混沌とした未成熟な国家であった。
その日、ペルツルは警察の留置場に放り込まれていた。
酒場で帝国の腐敗した現状と政治の無能さを激しく糾弾していたところを、運悪く社会主義者の扇動家と間違えられ、官憲に警棒で殴りつけられた末に投獄されたのだ。
(くそっ……吾輩のような真の愛国者を、薄汚い赤の手先と間違えるとは! 帝国の官憲は目が腐っているのか!)
冷たい石の床に座り込み、ペルツルが怒りに打ち震えていたその時。
コツ、コツ、と硬い軍靴の足音が、地下の牢獄に響いてきた。
看守の媚びへつらうような声とともに、鉄格子が開かれる。
そこに立っていたのは、仕立ての良さがひと目で分かる真新しい軍服に身を包んだ、一人の青年将校であった。
「出るといい、アドルフ。誤解はこっちで解いておいた」
暗がりから現れたその男の顔を見て、ペルツルは息を呑んだ。
二人は、留置場からほど近い、煤煙で薄汚れた安カフェのテラス席に座っていた。
向かいに座る男は、出された粗悪なコーヒーには口をつけず、どこか気まずそうにペルツルの顔を見た。
「君は、たしか画家志望だったな。どうだ、調子は……って、見る限り、よさそうには見えんな」
ペルツルは、男の右頬に刻まれた歴戦の傷跡を食い入るように見つめた。かつてルーシーの地獄で出会った記憶が蘇る。
「君は……その傷。ローゼフシルト中尉か!?」
ペルツルの驚きに、男――ジーク・マイヤー・アンドシェル・フォン・ローゼフシルトは、微かに苦笑して首を横に振った。
「今は少佐だ。……かつての戦友が、何やら帝都で有名な名物活動家になっていると聞いてね。たまたま近くに寄ったから顔でも合わせようと思ったら、社会主義者として投獄されているというんだ。あの時は流石の私も驚いたよ」
「吾輩をあんな連中と一緒にしないでくれたまえ! 吾輩は帝国の現状を憂うがゆえに、真実を語っているだけだ!」
ペルツルはテーブルをバンと叩き、身を乗り出した。
「見ろ、この帝国の有様を! 労働者は貧困に喘ぎ、政治家は腐敗し、周辺諸国には舐められている! 吾輩の芸術を理解できぬ愚かな連中が蔓延るこの国は、一度根本から叩き壊して、美しく作り直さねばならないのだ!」
熱弁を振るうペルツルを、ローゼフシルトは静かに、しかし値踏みするような鋭い眼差しで見つめていた。
「相変わらず、君の演説は人の心を惹きつける妙な魔力があるな。革命戦の中でも、君が語り始めると皆が聞き入っていたのを思い出す」
ローゼフシルトは腕を組み、冷徹な資本家の顔になって言った。
「そんなにいまの帝国を変えたいのなら、場末の酒場でわめくのはやめて、いっそ政治家にでもなればいい。君のその『声』は、武器になる」
「政治家だと? 莫迦な。吾輩のような後ろ盾も金もない人間に、何ができるというのだ」
ペルツルが自嘲気味に笑うと、ローゼフシルトは不敵に口角を吊り上げた。
「私は軍人であり、資本家であり、貴族だぞ。金も力も、いくらでも作れる。……戦友の頼みとあれば、多少の難題は聞いてやる。私が君のスポンサーとなり、君がこの国を熱狂させる俳優となる。どうだ?」
その瞬間、ペルツルの背筋に電流が走った。
キャンバスに絵の具を塗るのではない。この巨大な国家そのものをキャンバスに見立て、数千万の人間を己の言葉で染め上げる。それこそが、吾輩に課せられた真の芸術ではないのか。
「……吾輩の言葉を、信じるのか? 少佐」
「君の言葉ではない。君の『熱狂を生み出す才能』を信じるのだ、アドルフ」
こうして、歴史の歯車は狂い始めた。
ローゼフシルト財閥の莫大な資金力と、参謀本部におけるローゼフシルトの権力という絶対的な後ろ盾を得たペルツルは、政治家として瞬く間に頭角を現した。
党を立ち上げれば、ローゼフシルトが新聞社を買収して大々的に宣伝し、彼が政敵を攻撃すれば、裏で財閥の圧力が政敵を社会的に抹殺した。ペルツルは持ち前の悪魔的なカリスマ性と扇動能力をいかんなく発揮し、またたく間に宣伝相という国家の中枢へと登り詰めたのである。
「「「「帝国万歳!!」」」」
「「「「皇帝陛下万歳!!」」」」
「「「「ペルツル! ペルツル!! ペルツル!!!」」」」」
会場の地鳴りのような歓声が、ペルツルの意識を1926年の現在、総力戦演説の演壇の上へと引き戻した。
視線を上げれば、熱狂の渦に巻き込まれた数万の民衆が、狂ったように吾輩の名を叫んでいる。彼らの目は完全に理性を失い、吾輩の紡ぐ言葉の奴隷となっていた。
そして、演壇の袖の暗がりには、あの時と同じように不敵な笑みを浮かべ、腕を組んでこちらを見つめる男――ローゼフシルト准将の姿があった。
(そうだ。吾輩は国家という名のキャンバスに、世界で最も巨大で、最も美しい狂気を描き出すのだ)
ペルツルは総毛立つような歓喜に震えながら、再びマイクに向かって両手を高く掲げた。
「立て、帝国臣民よ!! 我々を阻むすべての敵を、国家の総力をもって粉砕せよ!!」
かくして、帝国は文字通りの『総力戦』へとその姿を変貌させた。
一千万のルーシー連邦軍という赤い津波に対し、極限まで狂信と生産力を研ぎ澄ませた帝国の巨大な歯車が、最悪の衝突に向けてフル回転を始めたのである。
予想できたと思いますが宣伝副大臣がゲッペルスなら大臣はこの人しかいませんよね。