さよならだけが人生ならば
人生なんていりません

『幸福が遠すぎたら』寺山修司

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惜春

「お、おれと、おれと結婚してくれないなら、こ、殺し、ます」

 

 十五の春。初めておれは人に向かってはさみを向けた。百円ショップで買った刃先は、チープながらも鋭く尖っている。ダラダラと流れる汗。どくどくと脈打つ脳みそ。まるでピントの合わないカメラみたいに焦点が定まらない視界の真ん中には、おれの神様がいる。今まで画面越しにしか会えなかった、おれの神様がいる。

 表情は、わからない。わかりたくなくて、少しだけ視線を下にそらしながら俺は神様に迫る。その人は、何も動じていない様子だった。まるで、牧師のような落ち着いた態度で、おれを見つめていた、と、思う。

 

「そうだね。一度、そのはさみをどこか置いてこれるかい? それから、話をしよう」

 

 神様はそう口にした。まるで赤子を諭すような物言いだった。じゃあおれはこの人にとって赤子のようなものなのか。いや、違う。この人も怯えているんだ。おれに。おれが手に持っているそれに。

 喉元に突き立ててみた。鋭い刃先を。少し当てるだけで、あかいあかい血が出てしまうような刃先を。近づいたおかげで、ようやく顔が見えた。あなたはその長いまつ毛を伏せている。ぎゅっと噛み締められている唇が、綺麗だった。

 

「結婚してくれるなら、しまい、ます」

 

 喉の筋肉を震わせながら、ちょっとだけ刃先を喉に押し込む。あなたが少し多めに息を吸う音が聞こえた気がした。初めて聞いた音だった。

 ……あなたに見つけてもらうために、こうやってあなたを脅すことしか思いつかなかった自分の頭が、少し嫌になる。でもいいんだ。見てくれさえすれば。

 きっと、強く押し込みすぎたらしい。あなたの首筋に、紅が差した。ああ、しまった。傷をつけてしまった。おれなんかが、あなたに、大好きなあなたに。

 

「薫さん、だいすきです」

 

 どうしていいのかわからなくて、あなたを強く抱きしめてみた。冬と春が混じった空は、まだ少し肌寒い。でも、あなたは温かった。春の陽だまりのように。こんなおれのことを振り払わずに、何も言わず受け入れてくれる優しさも、全部、温かい。

 あなたの体温に触れた瞬間、何かが込み上げてきて、涙が止まらなくなる。手に持っていた凶器も床を転がって、ただ、泣きじゃくっていた。

 

 

「落ち着いたかい?」

 

 優しい声に導かれるように、意識がはっきりとしていく。背中を撫でる手が、心地いい。

 あれから、ずっと、あなたは、薫さんはおれのことを抱きしめてくれていた。初めて出会った子供に、こんなにも優しくしてくれるのは、きっとあなただけだと思う。

 

「……おかげさまで、なんとか」

「そうか。それなら良かった」

 

 そんなやり取りを交わしたあと、少しの沈黙が流れる。空をふわふわの雲が泳いで、桜の蕾がひらひらと揺れて。まるでさっきのやり取りがなかったことみたいに、ゆるやかな時間が流れる。

 ……少しだけ気まずい。恐る恐る薫さんの方を見ると、薫さんは目を合わせてにこりと笑ってくれる。おれなんかと、目を合わせて笑ってくれる。それが幸せでたまらないはずなのに、ちょっとだけ胸が苦しくなった。

 

「君の名前は、なんというんだい?」

 

 この沈黙を破ったのは、薫さんの方だった。まさか名前を聞かれるなんて思っていなくて、少しパニックになってしまう。ていうか、聞いてくれるんだ。こんな不審者人間の名前も、聞いてくれるんだ。

 

「……藤宮紫苑(ふじみやしおん)、です」

 

 しばらく口にしたことがなかった名前を、あなたは優しく拾い上げる。よろしくね、紫苑くん。優しいアルトの声で、抱きしめてくれる。それだけで、死んでしまいそうだった。

 だから、怖かった。どう考えても初対面は最悪なはずだ。よりにもよって変な形で、話しかけてしまった。それなのに、どうして。それを聞こうとして、喉が詰まる。ここであなたにおれの存在を否定されたら、おれはきっとダメになってしまう。おれは、あなたに救われたいがためにここまで来たのに。どうしよう、どうしようと頭を回す。

 ぐう、と腹の音が鳴った。薫さんはびっくりした顔でこちらを見ている。全身の熱が顔に集まって、頬が燃えるように赤くなった。

 

「え、えと、思いつきで、東京来たので。お金……もうなくて、一日ぐらい、ずっと何も食べてなくて」

「寝る場所も、ないです、えと……多分」

 

 言い訳するように言葉を紡ぐ。薫さんの耳に入ってしまった自分の情けない音をどうにかかき消したくて、ありったけの理由を並べて、ごまかす。

 あなたは、目を丸くして驚いていた。ダメだ。言うんじゃなかった。言わなくてもいいことまで、言ってしまった。薫さんは、不安げにおれにこう問いかけた。

「親御さんは、心配しないのかい?」と。

 

「いませんよ、おれに親なんて!」

 

 親の話をされて、思わず声を荒げてしまったのが、間違いだった。違う、薫さんはおれを哀れんだんじゃなくて、ただ、普通の人として、咄嗟に思いついた言葉をおれにかけただけ。そうだと思いたい。

 

「あんなの、とっくの昔に死にました。そんな当たり前のこと、いちいち聞かないでください」

 

 じゃあなんでおれは両親が死んだ話を薫さんに向かってしちゃってるんだろう。そういう目で見られたくないのに。当たり前のことって言っても、薫さんはおれのことなんて何も知らないのに。ああいやだ、本当にいやだ。おれって本当にダメだ。

 薫さんにまで可哀想、って言われたら、おれはどうしたら。おれは、絶対に可哀想なんかじゃない。もう嫌だ。それが嫌で、逃げてきたのに。この地獄から解放されたくて、あなたに会いにきたのに。

 

「いや……います、じーちゃんが。でも、じーちゃんは、おれのこと、キライです。だからあの田舎には死んでも戻りたくない、それだけで」

 

 苦し紛れに、大嫌いな祖父の話をした。なんの気晴らしにもならなかった。

 沈黙は続く。薫さんは、何かを考え込んでいる。それが、怖い。やっぱり、おれは、薫さんからどんな風に見えているんだろうか。考えるだけで怖くて、思考を放棄した。その時のおれはさながら死刑宣告を待つ死刑囚のようだった。

 

「そう、だったんだね」

 

 薫さんは、それ以上何も言わなかった。

 

「泊まる場所がない、と言っていたけれど、これから紫苑くんはどうするんだい?」

「え……の、野宿、とか……」

「三月はまだ寒いから、風邪をひいてしまうよ。君のようなかわいい子猫ちゃんを寒い夜の中ひとりにするのは、あまり儚い選択とは言えないね」

 

 それどころか、おれの泊まる場所の心配すらしてくれる。おれみたいなのなんて、風邪ひいてそのままのたれ死んでいいのに。でも、目の前の神様はそれをさせてくれない。

 

「そうだ、今から私の家においで。今日の夕ご飯はシチューなんだ」

「……み、未成年誘拐、です」

「フフ、そうかもしれないね。本当なら君の家まで送ってあげたいところだけど……帰りの電車は、もう見つからないようだから」

 

 あなたは笑いながらおれの手を引いた。その手は、温かい。その時、改めて実感した。

 やっぱりあなたは、春だ。おれにとっての、春だ。ツンと凍えてしまいそうな空気の中、ふわりとほおを撫でたやわらかくあたたかな風には、きっと、あなたの名前がついている。そう思えるくらい、あなたは温かい人だった。

 

 

 薫さんの家に来た。おれの姿を見た薫さんのお母さんはひどくびっくりしていた。それもそのはず。「普通」の親なら、娘が知らない男、それも子供を連れてきたら、まず不審がるだろうから。

 

「よろしくね、紫苑くん! 自分の家だと思ってくつろいでいいからね」

 

 あれ? なんだか違ったみたいだ。凄い勢いで握手をされた後、やけに豪勢な食事を食べさせてもらった。おかしい、こんなはずじゃないはず。もっとこう、拒絶とか、しないのかな。

 ぎこちなくシチューに手をつけるおれの隣で薫さんがおれに向かってウインクしている。ここはもうそういう家系なのだろうか。なんとなく、あなたの優しさが生まれた場所が分かった気がした。

 ……温かいシチュー。綺麗に並んだ食器。誰かと囲うダイニングテーブル。懐かしくなった、ほんの少しだけ。

 久しぶりに風呂にも入った、というか入らせてもらった。染みついた潮の香りを、シャワーで洗い流す。大嫌いな田舎町の香りが取れて、ちょっとだけ嬉しい。その代わりに、大好きな薫さんが使っているシャンプーの香りが……そう考えた瞬間、手が止まった。そのままボディソープで全身を洗った。考えるだけで動悸がして、そのまま浴槽の中で溺れてしまいそうだ。

 着替えはここに置いておくよ。薫さんの声が聞こえる。あ、そうだ、おれ、薫さんち……脳みそが回りすぎて、回らなくなる。とりあえず、のぼせないうちに急いで浴室を出た。薫さんのお父さんのものらしいパジャマは、少し、というかだいぶブカブカだった。

 リビングに戻ると、薫さんが優しく出迎えてくれる。紫苑くんもどうぞ、そう言って手渡されたホットミルクは、甘くて美味しい。

 少し距離を空けて、腰掛けたソファ。のはずが、薫さんは当たり前のように距離を詰めてくる。ずっと画面越しに見つめてきた紫色の髪が瞳の真横にあって、緊張が止まらない。髪の毛をおろした姿もはじめて見たから、余計に。

 

「ところで、紫苑くんは、どうやって私を知ってくれたんだい?」

「……え」

「なに、ちょっとしたアンケートさ。遠いところからはるばる会いにきてくれた子猫ちゃんは、どうして瀬田薫に出会ったのか。それが気になるんだ」

 

 なんていうか、薫さんはプロ意識のすごい人だと思った。こうして生で喋っても、そのまんま、っていうか、自分の家でもちゃんとしてるっていうか。そういうの考えるのやめよう。なんか純粋なファンらしくなくて恥ずかしいや。

 どうして薫さんに出会ったのか、どうして薫さんに会いたいと思ったのか。その理由は、今でも鮮明に思い出せる。だって薫さんは、おれの散々な人生に、かけがえのないお守りをくれた人だから。

 

「……三ヶ月くらい、不安で眠れない時があって。その時にずっと見てたんです、ハロハピちゃんねる。特に、薫さんが好きな詩を紹介してくれるシリーズが、すごく好きで。その優しい言葉が、仕草が、声が、紹介してくれるあたたかい詩の全部が、大好きで。あのコーナーを見てると、薫さんが布団の中にあるおれの孤独に寄り添ってくれるみたいな気がして、好きなんです」

「その、特に好きな詩があって。ずっと、お守りにしてる言葉があって。シェイクスピアの言葉をよく使う薫さんの、シェイクスピアじゃない人の言葉だったから、たまたま覚えてただけなのかもしれません。でも、その言葉がずっと胸に残ってるんです」

 

 そう言って、おれは充電の切れかけた携帯から、とある動画を流す。

 

『さよならだけが人生ならば         

また来る春は何だろう』

 

『さよならだけが人生ならば

めぐりあう日は何だろう

やさしいやさしい夕焼と

ふたりの愛は何だろう』

 

『さよならだけが人生ならば

建てたわが家は何だろう

さみしいさみしい平原に

ともす灯りは何だろう』

 

『さよならだけが人生ならば

人生なんていりません』

 

 画面の中の薫さんは、ゆっくり、ゆっくりと、言葉を紡いでいく。この声を聞いていると、布団の中の暗闇を思い出す。その暗闇すら照らすような、深い深い寂しさに寄り添うような、その温かい声に、おれは恋をした。どうしようもない苦しみから救ってくれるような優しい言葉を教えてくれたあなたに、ただ会いたいと願ってしまった。

 

「……素敵な詩、だね」

 

 薫さんは、優しく笑った。つられて、おれも笑う。窓から月の光が差し込む。今日の月は、いつもより綺麗だな。隣に、あなたがいるからかなあ。

 

「お、おればっか話して、ごめんなさい。えと……だいたい、そんな感じです」

「フフ、教えてくれてありがとう。こうして画面越しに君に笑顔を届けられて、よかった」

 

 感謝したいのはこっちの方なのに。嬉しそうな薫さんを見ていると、なんだか胸がくすぐったい。まっすぐ瞳を見つめられなくて、首元に目を逸らす。

 そう、いえば。薫さんの首元に、少しだけ切り傷があるのが見えた。きっと、これはおれがはじめて会った時につけた傷だ。おれが、あなたにつけてしまった傷だ。

 今更何をしても気休めにしかならないと分かりつつも、リビングに置いたままのバッグの中から絆創膏を取り出して、薫さんの傷口にそっと貼り付ける。

 

「あ、あの時、はさみとか突きつけて、ご、ごめんなさい。おれ、きっと、頭がおかしくなってたんだと思います。今更、冷静になりました」

「いいんだよ。誰しも、過ちはあるものだからね」

「……そういうもの、なんですか」

 

 返答は、聞けなかった。これを過ちと言う言葉で片付けてもいいのか、ならおれなんかがあなたを好きになったことは過ちなのか、そんな言葉が、浮かんで消えて、黙り込む。

 もう、夜の十時だね。薫さんはそう言って、ふたり分のホットミルクを片付けた。そろそろ寝ようか、と手招きされて、おれは薫さんがいる場所へと向かう。

 

「ど、どうして……上の階に行こうとするんですか」

「リビングじゃぐっすり眠れないだろう?」

「え、じゃ、じゃあ、おれ、どこで寝ればいいんですか」

「? 私のベッドだよ?」

 

 わけがわからない。この人は正気なのだろうか。このベッドはふかふかだから安心したまえ、と言われるが、おれが気にするのはそこじゃない。出会って一日の人間を、それも男を、自分のベッドで眠らせようとするその感覚がおれには一切理解できなかった。

 とはいえ、断ることもできずおれは恐る恐る薫さんの部屋に入る。なんでおれ好きな人のお部屋入ってるんだろ。もう何がなんなのかわからなくなってくる。

 廊下で寝ます、そう言っても薫さんは首を横に振る。遠くからやってきて疲れただろう、なんてまるで遠い親戚みたいなことを言って、ベッドで寝かせようとする。

 

「……っ、あの、多分子供だから油断してると思うんですけど、全然普通に男ですからね、おれ! 女の人が知らない男を自分のベッドで寝かせるの、ダメですから! き、危機感とか……ちゃんと持ってください」

 

 ただでさえ誰かのベッドを借りて寝るだけでも怖いのに、それが好きな人のベッドなら、尚更。薫さんは絶対ことの重大さをわかってないと思うけど、その行為のどんなにハードルの高いことか。

 ……いや、まあ、ちょっとだけ寝てみたくはあるけど。

 

「フフ、心配しなくても私は布団で寝るから大丈夫だよ。子猫ちゃんのプライバシーを守るのが瀬田薫さ!」

「そういう話じゃないし! ……あ、です、……から」

「ふふっ」

「い、今笑いました!? 笑いましたね! そういう子供扱い、なんかすごいイヤです!」

 

 すまないね、つい。そう言って、ぶうぶうと不満を口にするおれの頭を薫さんは優しく撫でる。出会って一日なのに、すっかり弟みたいな扱いをされているのがちょっと不服で、ちょっと嬉しい。おれって単純だな。

 ……こうして、誰かと話して、眠りについたのなんていつぶりだろうか。なんてことないやりとりをして、たわいもないことで笑って、やわらかな眠りに落ちていく。いつのまにか抜け落ちた幸せのかけらに、もう一度触れられた気がした。

 

 

 夢を見る。おれは、いつもの砂浜で大好きな薫さんの動画を見ている。どうしても田舎町はインターネットに繋がりづらいから、なんとか方法を調べてスマホの中にダウンロードした薫さんの動画を見ている。

 最初はひとりで眺めているだけだった。波の音と、薫さんの声しか聞こえなかった。おれは、この時間が一日の中で一番大好きだ。おれが、おれに戻れる、唯一の時間だから。

 さて、これからどんな言葉を紡ごうか。そう言って、薫さんは手に持っている本をパラパラとめくる。その音が心地よくて、ちょっと眠りそうになる。

 今日は、この一節を子猫ちゃんに捧げよう。そう言って、薫さんはおれにたくさんの言葉を教えてくれる。なんか、国語のせんせいみたいだ。

 薫さんの声を追いかけるように、大好きな言葉を読み上げる。今日はシェイクスピア、明日はゲーテ、宮沢賢治に、またシェイクスピア。たくさん、たくさん、一緒に言葉を覚えていく。

 そうだ、教えてあげよう。押し寄せる波にも、あたたかい言葉を教えてあげる。そうしたら、冬でもぽかぽかの海になって、魚たちもあったかく過ごせるかなあ、なんて、笑ってみた。ねえ、あの海の向こうには、薫さんがいるのかなあ。遠くに手を伸ばしてみた。

 海に、ポツンと浮かんでいる。変色した男の水死体が。ひどく悍ましくて、グロテスクなそれは、たしかにおれの父親だったものだった。頭にノイズが走る。意識が手放される。やがて、何も思い出せなくなった。

 飛び起きる。心臓がどくどくとうるさい。おれは、悪い夢を見た。ひどく悪い夢だ。おかげで、身体が思うように動かない。誰か、助けて。手を伸ばした。その手は、ただ空を切った。

 時計は、夜中の三時を指していた。やわらかくあたたかな眠りは、おれにはまだ早いんだろうか。ただ、聴こえるのは大好きなあなたの眠る音。その穏やかな寝顔が、愛おしくて、憎くて、苦しくなった。

 

「……薫さん」

 

 あなたを眠りから起こそうとして、やめた。これは、おれのわがままだから。そっとほおを撫でて、また布団に籠る。充電させてもらっていた携帯を手にして、いつものように動画を開いた。早く、このぐちゃぐちゃの意識がどこか遠くへ飛んでいくことを、ただ、祈りながら、ただ、言葉を聞き流していた。

 

 

 ……薫さんの家に泊めてもらうようになってから、一ヶ月が経った。そろそろ、あの町へ帰らないと、そう思うと動悸がして動けなくなる。戻るための勇気もお金もないから、ずっと甘えている。薫さんの優しさに。

 いや、本当は、次の日にあの町に帰るはずだったんだ。でも、変な夢を見て、布団から出られなくて、なかったことになった。

 動けないおれに、薫さんは言ってくれた。実は、出演した舞台の出演料の使い道に困っていたんだと。お金のことは気にしないで、君の気持ちが落ち着くまでここにいていいよ、と。

 知らない間に、薫さんはじーちゃんに連絡していたらしい。じーちゃんは、やっぱりおれを咎めなかった。それどころかそのまま東京にいればいい、とまで言っていたらしい。やっぱりあの人は嫌いだ。薫さんは「おじいさんは紫苑くんの上京を応援してくれているんだね」なんて言ってるけど、絶対勘違いだ。ただ、無関心なだけ。そういう人だ、じーちゃんは。薫さんに迷惑がかかることも知らないで、呑気な人だ。

 もういい。あんな町捨てたんだ。おれは、薫さんがいるこの街で暮らしてるんだ。薫さんといられるなら、進学とか、未来とか、もう、全部どうでもいいし。持ってるもの全部投げ出して、おれはあなたのために生きたいです。

 気を抜けば、そう言いそうになる。でも、おれにその言葉を言う資格はない。現におれは、薫さんの負担になっている存在でしかないから。薫さんに、おれという呪いを背負わせていることにしかならないから。ああやだなあ、子供ってイヤだ。こうして誰かを頼らないと生きていけない自分が、本当にイヤだ。

 早く自立して、迷惑かけないようにしないと。早く自立して、薫さんの前からいなくならないと。

 子供のままで、薫さんにずっと甘やかされたい。子供のままで、薫さんのそばで生きていたい。

 ふたつの心が、ずっと渦巻いている。おれはどこまでも子供だ。情けないくらいに、子供だ。一日きりで終わるはずだった奇跡が、だらだらと続いている。おれが甘えているせいで。

 帰りたい。帰りたくない。ここは天国のはずなのに、苦しくて仕方がない。なんでこんなおれをそばに置いてくれるのか、薫さんの気持ちもわからない。

 どうして、おれなんかに優しくしてくれるんですか。勇気を出して、聞いてみた。薫さんは、笑ってこう答えた。

 

「誰かを笑顔にしたいと思うことに、理由はいるのかい?」

 

 ……ああ。王子様だ。

 あなたって、薫さんって、瀬田薫って、まるで幸福な王子さまみたいだな。宝石みたいな瞳も、流れ星みたいな髪も、陶器みたいな肌も、全部、誰かの幸せのために捧げてしまいそうで、なんだか怖い。

 薫さんは、いつも、舞台のセリフみたいに、優しくてあたたかい言葉をおれにかけてくれる。そのあたたかさが大好きで、嬉しくて、幸せでたまらないはずなのに、苦しい。優しさが、怖い。

 

「それにね」

「なんだか、放っておけないんだ」

 

 あなたは笑った。その笑顔は、ひどく綺麗だった。

 

「勝手に、死なないでください」

「もし死ぬのなら、おれのためだけに死んで」

 

 静かな祈りを、胸の中で捧げる。あなたに届かないように、あなたに届くように。怖いんだ、失うのが。あなたを失うのが。せめて、失うのならおれの腕の中で。

 頭の中で、あなたの首の骨を折った。その先を考えて、怖くなって、やめた。これ以上考えたら、おれは人間に戻れなくなる。

 ああそうだ。何も考えず、日々を食い潰そう。思考を止めて、あなたの優しさに溺れよう。

 

「薫さん、今日はシチューを作ってみたんです。た、食べてくれますか?」

「いいのかい? すごく嬉しいよ!」

 

「薫さん、おれ、ギター弾いてみたいです。良かったら、教えてくれますか」

「もちろんさ。一緒に練習しよう」

 

「薫さん、おれ、シェイクスピアの戯曲、ちょっと覚えたんです。でも、演じ方わからないから、お手本、見せてください」

「ああ、喜んで。紫苑くんとの共演……なんて儚いんだ!」

 

「薫さん」

「ねえ、薫さん」

「大好きです、薫さん」

 

 何度も、薫さんの名前を呼ぶ。薫さんの中に、おれを刻むように。薫さんがおれを忘れないように。ずっとずっとそばにいられるように。絶対に離れないように。

 薫さんは、いつもおれに優しくしてくれる。おれが抱えてるくすぶった気持ちも知らんぷりして、優しくしてくれる。それでいい。それがいい。ずっと、こうしていたい。

 一年が経った。ふたりの時間は、やがて日常になった。おれの生活の中心には薫さんがいる。薫さんの生活の中心にはおれがいる。ふたりの日々が溶け合って、重なって、ひとつになって。幸せだ。幸せでたまらない。「このまま結婚しましょうね、おれたち」そう口にするたび、薫さんは考えておくよ、と笑う。きっと、本気にされていない。あなたは誠実で、不誠実。おれの気持ちを一過性の春だと思って、疑わない。ひどいなあ。

 薫さんの特別は、おれじゃないとダメなのに。おれは、薫さんの特別にならないといけないのに。

 

「全部、わかってる」

 

 まあいいや。明日はハロハピさんに会いに行って、何個目かのサインをもらいに行くんだ。明後日は気になってた映画に一緒に行って、その後カフェでお茶しよう。新しい洋服も買って、またお揃いできたらいいな。

 

「わかってるから、怖いんだ」

 

 来週は何をしようか。シェイクスピアの本を図書館に読みに行きたいな。おれ、薫さんと比べたらまだまだ詳しくないんです。たくさん教えて欲しいな。あなたはおれのせんせいだから。

 

「その優しさが」

 

 そうだ! この街にいる薫さんファンの人とももっと話してみたいな。薫さんのライブ、まだまだ見に行きたいよ。もちろん、舞台も。推し活、憧れてたから。やってみたいんです。

 

「おれだけのものじゃないことが」

 

 ある日の夜、薫さんに聞いたことがある。あの日やってきたのがおれじゃない他の誰かでも、同じことをしたのかって。薫さんは、もちろんさ、と笑っていた。だからわかってる。おれだけが特別じゃないことぐらい。

 でも、おれは特別が欲しかった。特別になりたかった。なれなかった。だから、せめて、ひとつだけ。おれは薫さんにあるお願いをした。

 

「いつか、おれが育った町にある海を一緒に見にいって欲しい」って。

 

 ねえ、薫さん。これは約束、約束ですからね。絶対に、守ってくださいね。守ってくれないなら、針千本飲ませます。冗談じゃないですからね。

 お願い。お願いだから、おれをひとりにしないで。それ以上は何も望まないから。だから、約束。薫さんはおれの約束を叶えてくれる人だって、信じているから。もう、何も失いたくないんです。おれは、ぽつり、ぽつりと言葉を紡ぐ。おれの言葉に、薫さんは頷く。わかった、と小指を出してくれる。その細い指に自分の小指を結んで、おまじないをかけるようにただ、祈った。

 ねえ、薫さん。薫さんはおれのために、おれのためだけに生きてほしいんです。おれはあなたのためだけに生きているのだから、あなたもそうしてよ。わがままだって笑ってもいいから、おれを一番大切にして。

 おれがいないところで、また誰かを勝手に救ってもいいから。おれがいないところで、知らない誰かに手のひらを差し伸べたりしてもいいから。おれがいないところで、誰かのために自分を犠牲にしてもいいから。最後は、おれのところに戻ってきて欲しい。

 そう思うことは、罪なんですか。これは、おれに対しての罰なんですか。

 

「……馬鹿」

 

 ……その頭に巻かれた包帯で、あなたの首を強く締めて殺してしまいたいと思った。

 

 

 これは、とある昔話。

 おれの父は、たぶん聖人だったと思う。子供であるおれから見ても、優しくて、かっこよくて、立派で、皆の良き隣人であり、誰かを幸せにすることが大好きな人生のお手本みたいな人だった。王子様みたいな、人だった。おれはずっと、そんな父に憧れていた。三歳の頃病気で死んでしまった母の分まで、父は俺を愛してくれていた。おれはそんな父が大好きだった。

 父は人気者だった。いつでもどこでも、誰かに囲まれていた。ぐいぐいと押しやられて、おれが会話の輪っかの外に出ちゃうぐらい、父は人気者だった。でも、父はそんな俺に気づいて、優しく手招きしてくれた。父は、おれのことを、とても大切に思ってくれている、はずだった。

 

「ねえ、とーちゃんは、おれのこと、大事?」

「もちろん、とーちゃんは紫苑が世界で一番大切だぞ!」

 

 ……うそつき。父は、この男は、おれをひとり残して、勝手に死んだ。小さい子供を助けるために、深い深い海に溺れていった。おれを、ただ一人置き去りにして。

 あいつは、自分の子供じゃなくて、赤の他人の子供を助けて死んだんだ。おれのためじゃない、誰かのために。

 ……自分の子供のために死ねないような親は、他人の子供のために死ぬような親は、おれにとっての親なんかじゃない。その日、おれは大好きだった父が大嫌いになった。

 単なる偽善で、あいつはおれの人生に呪いを残した。なにせ、田舎町は、噂がすぐ広がる。

 気づけば、おれの頭にはちびっ子の命を救った最強のヒーロー! に遺されたかわいそうな一人息子、というレッテルが貼られるようになった。剥がそうとしても、剥がれない。染み付いたように剥がれない。まるで、この町の潮の香りみたいだった。

 あの憐れむような目が、声が、ずっと脳みその裏にこびり付いている。どこに逃げても、どこに隠れても、おれを可哀想、可哀想って言ってくる。おれは、そんなに可哀想なのか。可哀想でないと、いけないのか。

 泣けるわけがない。あんな薄情ものの葬式でなんて。自分の関係ない誰かのために死ぬなんて情けない、じーちゃんは隣でそう何度も口にしていた。全くもって、その通りだと思った。

 父が死んだのが、一年前。ちょうど、一年前の四月。それからずっと、おれはどこに行っても可哀想な残り物。そんな生活に嫌気がさしていた。逃げるように、インターネットに浸った。限りある回線で、逃げ道をずっと探していた。そんな時、見つけたんだ。おれの神様を。

 

「ハロハピちゃんねるへようこそ、かわいい子猫ちゃんたち!」

「さて、今日も儚い言葉の一節を子猫ちゃんたちにプレゼントしていこうと思うよ。どうか、受け取っておくれ」

 

 初めて見る人だった。なんだか不思議な人だった。でも、すっと心の奥底に入ってくるような、陽だまりのような温かさがある人だった。気づけばおれは、食い入るように魅入っていた。

 

「そうだね……今日は別れについての詩を紹介しようか。子猫ちゃんたちは、別れ、という言葉にについてどう思っている?」

「変わりたくないと思っていても、人は変わる。終わりたくないと思っていても、時は過ぎる。私たちが生きている限り、別れは必然的に起こりうるものだね」

「……私はね。それを、とても尊いものだと思っているよ。永遠なんてないからこそ、全てが愛おしくて、全てが美しい。別れがあるからこそ、私たちはその思い出を胸に前に進んでいける。別れが寂しいのは、きっと、そこに幸せな記憶があったからなんじゃないか。私は、そう思っているよ」

「そんな別れの儚さを歌った詩があるんだ。聞いてくれるかい?」

 

「さよならだけが人生ならば         

また来る春は何だろう」

 

「さよならだけが人生ならば

めぐりあう日は何だろう

やさしいやさしい夕焼と

ふたりの愛は何だろう」

 

「さよならだけが人生ならば

建てたわが家は何だろう

さみしいさみしい平原に

ともす灯りは何だろう」

 

「さよならだけが人生ならば

人生なんていりません」

 

「さよならだけが人生ならば

人生なんていりません」

 

 

 新進気鋭の舞台女優、瀬田薫は舞台の下でも王子様だった!

 令和⬛︎⬛︎年四月、暴走した乗用車から子供を庇い、全治四年の大怪我を負う。今後の舞台出演は全てキャンセル、復帰も未定。彼女に救われた少女は、自分を助けてくれた王子様に向かって毎月手紙を書いている──。

 何度見てもふざけた記事だ。反吐が出る。どうせその手紙も三ヶ月ちょっとでやがて届かなくなったであろうことも、容易に予想できる。人間なんてみんなそんなもんだ。

 あれから、三年が経った。背丈も伸びて、免許も取って、適当なバイトで日々を食い繋いで、ひとり暮らしとかも、最近始めた。まるであの日々が嘘だったみたいに、俺の人生から瀬田薫は消えていって、あの人はもう、俺の当たり前の中にいない。

 ……だから今、あの人がどこでどんな風に生きているかは、知らない。顔も声も忘れて、どんな人となりをしていたかすら思い出せない。あなたが事故に遭ってから、俺はすぐにあの田舎町に帰ったから、全部知らないんだ。帰ってきた俺に、じーちゃんは何も言わなかった。相変わらず薄情な人だ。

 ああ、でも。どこかのうさんくさいゴシップ雑誌のインタビューの中で、あなたが「私は成すべきことを成しただけさ」と馬鹿げたことを口にしていたことだけ、覚えている。ああ、あの日々に依存してたのは、俺だけだったのか。ふたりでいられる幸せに執着していたのは俺だけだったのか。きっとそう、そうなんだろうな。

 

「寂しい思いをさせてごめんね」

 

 あなたから届いたこのメッセージは、今の今までずっと既読無視している。みんなの王子様であろうとするくせに、俺なんかにも寄り添おうとするのが、あなたの中途半端なところ。俺が一番嫌いなところ。俺が一番大好きなところ。その全部が、あいつに重なって、本当に嫌だ。

 今も薫さんの身体には、たくさんの管が繋がれているとか、繋がれていないとか。そんな与太話が、インターネットに流れている。もしそうなら、今すぐにでも全部引き抜いて、殺してやりたいと思った。俺と一緒に生きてくれなかった罰として、ふたり海に溶けることができたなら、どれだけ良かっただろう。

 あの人と違って、薫さんは生きている。でも、あの人と同じで、おれのために生きていなかった。それだけの話でしかなかった。そう思えるようになるまで、随分と時間がかかったみたいだ。

 残り物のシチューをかき込んで、朝の支度をする。生活の歯車を回すために、家を出る。

 

「さよならだけが人生ならば またくる春はなんだろう」

 

 うざったいくらいに満開の桜に向かって、そう呟いてみた。ああ本当に、なんで春ってくるんだろう。しかも毎年。俺は何も変わらないのに、変われないのに、何度も何度も春はやってくる。

 

「はるかなはるかな地の果てに 咲いている 野の百合何だろう」

 

 全部全部馬鹿だった。なけなしの小遣いを握りしめて、慣れない電車に乗って、帰れなくなって。計画性のない旅、そのままのたれ死んでしまえばよかった。

 

「さよならだけが人生ならば めぐり会う日は 何だろう」

 

 出会ってすぐの薫さんに向かって結婚して欲しい、なんて言っていた自分の青さを思い知る。どうせ、あの人は誰のものにもなってくれないのに。無謀だったんだ、全部が。

 

「やさしいやさしい夕焼と ふたりの愛は何だろう」

 

 薫さんは、どうして俺をそばに置いてくれたんだろう。薫さんは、俺といて幸せだったのかな。薫さんは、俺を愛していたのかな。結局、何もわからなかった。

 

「さよならだけが人生ならば 建てた我が家はなんだろう」

 

 そういえば、薫さん、ずっと、俺にベッド使わせてくれてたな。敷き布団よりもベッドの方が寝心地がいいだろうに、薫さんはいつも俺をふかふかのベッドで眠らせてくれてた。たまに作ってくれる手料理、好きだったな。あの暮らしに、なにかの意味はあったのかな。

 

「さみしいさみしい平原に ともす灯りは何だろう」

 

 俺があなたに救われた意味って、なんだったんだろうな。どうして、俺の人生なんかに灯りをともしてしまったんだろうな。こうなるくらいなら、ずっと真っ暗な方が幸せだった。

 

「さよならだけが人生ならば 人生なんかいりません」

 

 この詩の中で、一番好きな言葉。俺の中のどうしようもない寂しさを少しだけ埋めてくれた、魔法の言葉。俺の人生の、かけがえのないお守り。

 この言葉を俺にくれたあなたが大好きだった。あなただけだった。俺の孤独を、初めて見つけてくれたのは。

 

「最後に、ひとつだけいいかな」

「この人生は、さよならばかりだけれど。君は、絶対にひとりじゃないよ。私が、瀬田薫が、ずっと、君のそばにいる。それだけは覚えていて欲しいんだ」

 

 全部、全部嘘ばっかりだ。うつくしい詩に添えられた、あなた自身の言葉が好きだったけれど、今になっては蛇足でしかない。そんなことを言っておいて、薫さんは、また俺を、おれを置いていったでしょう。

 約束を守れない大人は、嫌いだ。みんな、ずっと一緒って言いながら、俺だけ遺して消えていく。ひとりにされた側の気持ちも知らないで、ひどい話だ。

 あの春は、あの出会いは、あの日々は、いったいなんのためにあったんだろう。いつか来るさよならのため、だったのかな。

 

「さよならだけの人生に、なんの意味があったんですか」

 

 今は隣にいないあなたに向かって、問いかけてみた。返事はない。当たり前の話だ。

 ……ああ、さみしいな。こうなるくらいなら、この人生ごと捨てたかった。

 それが出来ないのは、あなたのせいだ。まだ、さよならが言えていないせいだ。ずっとそうだ。父さんも薫さんも、俺の知らないところで、勝手に俺を置いていくんだから。

 だからさ、また、会えるんじゃないかって、期待してしまうんだ。俺は、どこまでも夢みがちだから。あの日交わした約束に、まだ焦がれてるんだ。結局、俺はまだ子供のままみたいだ。

 俺のことなんか忘れて、幸せになっていたらいいな。そんな綺麗事を言えるほど、大人になれない。俺との思い出に縛られて不幸せになってたらいいな。そう思えど、あの人にはきっと無理だろうなあ、と思ってしまうところだけ、中途半端に大人になってしまった。

 あの日からずっと、俺は、おれは、春に、あなたに縛られている。あなたからのさよならを、ずっと待っている。もう面影すら上手く思い出せないのに、あなたとの思い出だけが深く胸に刻まれている。

 

 


 

 

 いつもの駅のホームに並ぶ。無機質な日々が、また始まる。そのはずだった。物珍しそうに辺りをキョロキョロと見回す、見慣れない女性を見つけなければ。

 その人は、上手に歩けないようだった。長い手足を引き摺るように、ホームを歩いていた。路線図を見て、首を傾げる。ふらふらと揺れるその背中がなんだか危なっかしくて、一本電車を遅らせることにした。

 

「綺麗な海が見える町に行きたいんだ」

 

 彼女は、路線図を指さしながらそう言った。やけに不思議な観光目的だな、と思いつつも、この辺りで有名な海水浴場をいくつか勧めたが、彼女は首を横に振る。

 とは言われても、それ以外によその人間が知るような海を俺は知らないし、俺ぐらいしか知らないであろうあの海は、到底綺麗なものとは到底思えない。

 

「前にね、とある男の子と約束をしたんだ。一緒に綺麗な海を眺めようって。その海は、彼が育った町にあるようでね。そこに行けば、その子に会えないかと思っていたところだったんだ」

 

 女性は、懐かしむようにそう口にした。路線図を指す手が、ぴたりと固まる。きっと気のせいだと、関係のない話だと思って、俺は他人事のようにあの海の写真を彼女に見せた。

 

「ああ! きっとそこだ! 彼が見せてくれた写真にそっくりだからね! ありがとう、お兄さん。この恩は忘れないよ……!」

 

 女性は、嬉しそうに歩き出した。きっと、そのまま電車に乗っていくのだろう。その背中が、ひどく眩しく見えた。あの日の、どこかの誰かに重なるみたいで。

 と思ったら全然普通にUターンしてきた。急にどうしたんだろう。

 

「す、すまない……私としたことがどこかでカバンを落としてしまったみたいだ」

 

 彼女はひどく焦っているようだった。そう言えばこの人何も持ってないよな、と最初の方思っていたことを思い出した。もうちょっと早く言ってあげればよかったな。

 帰り、大丈夫なんですか? そう聞くと彼女は何も言わず目を逸らした。ダメなやつじゃん。

 

「つまり……無一文というわけだね」

 

 なんでそんな無一文でカッコつけられるんだろう、この人は。我ながら、話しかける人を間違ったような気がしないでもない。でも、少しだけ、ほんの少しだけ誰かの面影を感じるやり取りに、頬が緩む。

 と思ったら急に胸を抱えて苦しみ出した。話を聞くとまだ何かしらのリハビリ中なのに医者に黙ってここまで来ていたらしい。本当になんなんだこの人。一応、命に別状はないから安心して欲しい、らしい。

 そういえば、その時初めてこの人の顔を覗き込んだ気がする。いきなり求愛のポーズみたいな感じで唸りだすから、流石に何事かと思って。

 

 目と目が、合う。そのまなざしを、確かに覚えていた。だからこそ、なにかここで言葉を紡ぐのも野暮な気がして。

 

「じゃあ、今から俺の家来ます? ちょっと、散らかってますけど」

「……綺麗な海が見える、いい家ですよ」

 

 ふたりの間を、電車の音が通り過ぎた。帰りの電車は、もう見つからない。


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