それは、ウォーターサーバーの営業だった——声の主は、どこか品のある、しかし寂しげな若い女性。
かつて令嬢と呼ばれた彼女は、いまは借金を返すため、配達も修理もこなす水の仕事人。
だがその瞳には、音楽の影が宿っていた。
“オブリビオニス”と名乗り、かつてバンドの鍵盤を奏でていたことを、誰にも明かさずに。
水を通じて交わされる、名もないやりとり。
冷たいボトルのなかに、じんわりと温もりが宿っていく。
やがて、サーバーの色を変える話から、ふたりの過去と心が静かに交錯する。
霞藍がかった“オブリビオニスカラー”は、忘却の色ではなく、彼女の再生の色だった。
そしてある日、再び旅に出ることを決めた彼は、サーバーの解約を申し出る。
担当として現れたのは、やはり彼女だった。
「今日で、この仕事も最後なんです」
再結成されるバンド。
そして、手渡される一枚のCD。
旋律の奥にしまわれた、ありがとうとさよなら。
旅のまえの、最後の水音が、やさしく胸を打つ——
これは、情に生きる男と、音に生きなおす女の、小さな再会の物語。
いやぁ、まいったまいった。今日も今日とて、のんびり昼飯食ってたらさ、電話が鳴るんだよ。ピピピピってね。出てみりゃ、ウォーターサーバーの営業の電話だ。
「突然のお電話、失礼いたします。株式会社ミネラル天然ライフと申します。本日はお得なキャンペーンのご案内で——」
もうその時点で切ろうと思ったんだけど、なんだろうね、声が…違うんだよ。
まるで昔の山の手のお嬢さんみたいな、品のいい声でさ。けど、どこか必死な響きもあって。
だから、つい聞いちまったんだ。「あんた、どうしてこんなことしてんだい?」って。
そしたら、電話の向こうで、ちょっと黙って、それからぽつりぽつりと話し出したんだ。
——親が事業に失敗して、借金だけが残った。
——学費も払えず、バイトを掛け持ちして、いまはコールセンターで働いてる。
——でも、ひとの暮らしの中に、ほんの少しでも「まっとうな水」を届けられるならって、そう思ってるんです…って。
……おいおい、聞いてるこっちが泣けてきちまうよ。
「わかった!おじさんの家にそのサーバー、置いてくれ!」って即決さ。
あっちはびっくりしてたけどね、「えっ、ほんとうに…?」って。
うん、ほんとうさ。
おれは、そういう"がんばってる人間"が好きなんだ。
昔お嬢さんだったとか、そんなことはどうでもいい。
今、泥まみれになって、必死に生きてるってことが、なにより美しいじゃねえか。
冷たい水が流れるたびに思うよ——
あの娘、今も電話の向こうで誰かの明日を支えてるんだろうな、ってさ。
―――
雨がね、そりゃもう、どしゃぶりだったんだよ。バケツひっくり返したってのはああいうのを言うんだろうね。
おれも家ん中で、ぬくぬくと湯呑み片手に「今日はどこにも出ねえぞ」って決め込んでた。
そしたら、ピンポーン、だよ。
こんな日に誰が来るんだって思ったらさ、玄関のガラス越しに、小さな人影が見える。傘もささず、びっしょ濡れ。でっかいポリタンク抱えて、ひょろっと立ってるんだ。
「お届けに参りました、株式会社ミネラル天然ライフでございます」って——ああ、あの娘だよ。電話の向こうにいた、あの元令嬢。
カッパの袖、破れてるし、髪なんか顔に張りついてるし、でも背筋はピンとしててさ。
「濡れたままで申し訳ありません…けれど、配達は遅れたくないので…」
もうさ、おれ、その場で泣きそうになっちまったよ。
「おいおい、あんた、こんな日にわざわざ…!そりゃあ仕事かもしれねえけど、そんな命削るような顔して水運ばなくたっていいじゃねえか…!」
でもその娘は、ちょっとだけ微笑んで言ったのさ。
「…でも、誰かが待っていてくれるかもしれないから。
水を冷やすことしかできませんけど、気持ちは…温かいままでいたくて」
……おいおい、聞いたかい?
おれ、あんときばっちり風邪ひいたけどよ、心だけはぽっかぽかだったよ。
あれから毎日、サーバーの水飲むたびに思い出すんだ。
——人間ってのは、濡れても、転んでも、それでも気高く生きられるんだってな。
―――
いやぁ、こりゃまいったよ。
朝からどうも水が出ねぇと思ったら、サーバーが、ピクリとも動かねぇ。ポンポンと叩いてみても、うんともすんとも言いやしない。
「おいおい、これじゃ麦茶も作れねえじゃねえか…!」ってんで、仕方なく電話をかけたわけだよ、サポートセンターに。
「大変申し訳ありません。本日中に修理スタッフを手配いたします」
そんな調子のいいこと言われてもさ、この雨の中じゃ、来られるもんかねぇとタカをくくってた。
そしたらだ。午後になって、またあの玄関のチャイムが鳴るんだよ。
ピンポーン。
開けてみりゃ、またもやびしょ濡れのあの娘だ。
そう——あの元令嬢。
今度は作業着にキャップ姿で、工具箱まで持ってる。
「お待たせして申し訳ありません。修理に伺いました」
……おいおい、あんた、水も運ぶのに修理までやるのかい!?
世の中どんだけのこと背負ってんだよ、って言いたくなるけど、彼女はただ、静かに笑ってた。
「お水って、止まってしまうと不安になりますよね。だから、すぐに来たかったんです」
それから黙々と点検して、パーツを交換して、
最後に「これで、また冷たいお水が飲めます」と言って、深くお辞儀をした。
でも、帰り際にちょっとだけ、手が震えてた。
きっと今日も、他の家に回るんだろう。雨の中、ひとりで。
だけどな、その背中が、小さく見えて…すごく、大きかった。
おれ、思ったね。
あのサーバー、たぶんもう壊れねぇよ。
だってあの娘が、その魂ごと直してったんだからさ。
――――
このあいだ、ウォーターサーバーのパネルを見てたら、ふと気づいたんだよ。
「カラー変更できます」って、ちいせぇ文字で書いてあった。
白、黒、青、ピンク——まぁ、そこまでは想像の範囲内だよ。けど、その中にひとつだけ、妙な名前があってね。
“オブリビオニスカラー”
なんだいそりゃ?呪文か?と思ったんだけど、ちっちゃなサンプル色を見て、なんだか胸がちくりとした。
霞掛かった、藍ともつかねえ…
夜明け前の空みたいな、名残惜しい色だった。
なんていうか、あの娘の髪の色みてぇだ、って思ったんだよ。
ほら、あの元令嬢の。雨の日に水を運んできた、あの気丈で、どこか寂しげな娘さ。
次の配達のとき、彼女が来てくれたんだ。
それで、なんてことない顔して聞いたのさ。
「なぁ、この“オブリビオニスカラー”って、どういう意味なんだい?」
彼女は、一瞬だけ息を呑んだように見えた。
でもすぐ、いつもの声で答えた。
「…忘却、です。ラテン語で、"Oblivion"。
でもそれは、忘れるためじゃなくて、背負いすぎた記憶に一度、やさしく蓋をするような…そんな、色です」
……なんでだろうな、そのとき、おれは確信したよ。
あの色は、彼女のことなんだって。
だから頼んだ。「あの色に変えてくれないか」って。
そしたら彼女、少しだけ目を見開いて——そして、ほんの少し笑った。
あれは、心の底からの笑みだった。今までで、いちばん。
数日後、届いた新しいサーバーは、確かに“オブリビオニス”に染まってた。
どこか音の余韻みたいな色だった。
まるで——歌が染みこんでるみたいな。
あの娘、昔は奏でていたんだろう。
それを、いまでも誰にも言わずに、大事に抱えてるんだ。
おれはそれ以上、何も聞かないさ。
ただ、冷たい水を飲むたびに、その色に滲む歌声を、そっと心で聞いてるだけさ。
――――
また旅に出ることにしたんだよ。
なんでかって?理由なんかねぇさ。気づいたら、汽車の音が聞きたくなってた。それだけさ。
だから、身のまわりを片付けて、ついにあのウォーターサーバーも、解約の電話をかけたんだ。
「かしこまりました。本日、担当が伺います」って言われて、それっきりだったんだけど——
まさか、まさか、あの娘が来るとは思わなかったよ。
濃紺の制服じゃなくて、今日は少しラフな格好でさ。
でもやっぱり、あの目は変わらねぇ。まっすぐで、どこか遠くを見てる。
「ご無沙汰しております」って、少しだけはにかんで。
で、いきなり言うんだよ。「今日でこの仕事、辞めさせていただきますわ。最後なんです。」って。
一瞬、なんかあったのかと思ったけど、次の言葉でおれの心は、ぐぐっと熱くなった。
「——バンド、再結成することになって。今度はもう、逃げません」
……いいじゃねぇか。
逃げたって、戻ったって、またやり直せばいいんだよ。
おれなんざ、何十回やり直してきたかわかんねぇくらいさ。
でもな、ひとつだけ——大切なことがある。
「なぁ、お嬢さん。おれの言葉なんて、もしかしたらなんの役にも立たねぇかもしれねぇけど…
あんたの音、あんたが誰かのために奏でてたってこと、忘れんなよ」
彼女は少しだけ黙って、それから、まっすぐおれを見て言った。
「…忘れません。忘れられるものなら、“オブリビオニス”なんて名乗ってませんから」
参ったね。
こっちが泣きそうになっちまったよ。
彼女の手には、小さな紙袋。
差し出されたそれを開けると、中には薄いCDケースが入っていた。
「…本当は、こういうの、営業で渡すものじゃないんですけど」
少しだけうつむいて、でもすぐ、顔を上げた。
「でも、あなたには…聴いてもらいたくて。
——たぶん、あなたに出会えなかったら、私はまだあの色に閉じこもったままでした」
彼は黙って、それを受け取った。
何も言わず、でもいつもの、あの照れ隠しのような笑みで。
「…そうかい。なら、旅のお供がひとつ増えたな」
それきり、ふたりは多くを語らなかった。
彼女は深くお辞儀をして去り、彼は、CDをポケットにしまった。
——きっと旅先の夜、寂れた宿の一室で、
古いCDプレイヤーにそれを入れて、そっと再生するだろう。
静かなイントロ。水音のようなシンセの波。
その奥で、確かに聞こえるんだ。
「さよなら」の代わりに編まれた、再出発のための音。
——彼は、その夜、少し長めに窓を開けていた。
春の風のなかに、あの“オブリビオニス”の旋律が、いつまでも溶けていたから。
エイプリルフールの株式会社ミネラル天然ライフコールセンターからインスピレーションを受けました。
男性は柴又の人情おじさんを想像していただければ…