リンは先生のペットか何かだった。与えられた仕事は熱心にこなし、一線を越えるようなことはほとんどなかった。頻繫に厄介事を起こしては、面倒な書類仕事を巧妙にいなそうとした連邦生徒会長とは対照的だった。
しかしながら、たとえ何度も厄介事に巻き込まれようとも、生徒会長との友情を心から楽しんでいたことは自覚していた。運命のいたずらか、先生もまた生徒会長と似たような者だった。リンの勤勉さを心配する様子は真剣そのもので、常にリラックスした態度で安心感を与え、圧力にも決して屈することがなかった。
そして連邦生徒会長のように、ひどく過保護だった。生徒会長の方が控えめで、ある意味では冷淡で、普通は一人一人に集中するタイプではあったが、先生は…
リンが中に入れば、空気はがらっと変わった。彼の視線は彼女に向き、それは柔らかかっただが。空気は違った。彼は真剣に心配しており、同様に怒っていた。態度には出していながったが、でもそうであった。何か、説明できないような息苦しさを感じるものがあった。
「それで…」ゆっくりと口を開き始め、次の言葉を吐き出すための勇気をかき集めることに最善を尽くす。「先生も何か…訴えたいことがありますよね?」
“俺が?”
不満が何もないかのように彼は微笑む。マスクもアーマーも着用していなかったため、不思議と不気味さがより一層引き立てられた。
“いや、何もないぞ。俺は先生で、それに余所者だからな。君たちの運営の手法を語る立場でもないし、口を出す立場でもない。だが官僚主義はというと相変わらず遅い。最悪だ。”
「そうですか?」
“そうだ。自治区といったものを見殺しにしたことはないと言いたい。でも──”
彼は大げさに肩をすくめ、リンは思わず身をすくめそうになるのをこらえる。
“俺はエキスパートではない。”
笑顔は一瞬で消え、ブラウンの瞳が彼女をぐいと視界に捕らえる。
“だが俺には義務と、責任がある。リンと──”
彼はリンを指さす。
“この場所に暮らす全ての生徒と、俺に対するそれを。その二つを放棄するとなれば、俺は裏切り者になってしまう。だから教えてくれ、リン。俺はどうするべきだ?”
彼の目と彼の声の圧に押され、答えることは出来なかった。その声、その目、それら全てが、あることを告げていた。
────聞け。
“本当は君に迷惑をかけるのは嫌だが、それでも迷惑をかけるぞ。もうすでに十分な程に忙しいし、更に負担をかけることになってしまう。さて、どうして今まで何もしてこなかった?”
まるで釘のように、心臓の奥深くには一つ、また一つと彼の言葉が打ち付けられていった。
“どうして事態が"ここまで"悪化するまでしてこなかった?”
周囲を指し示しながら、彼は言う。
“連邦生徒会の重いケツは上がらなかったのか?どうして俺は死にゆく自治区で巨大な"蛇"がいることを気づいて、そのせいで怪我をしなければならなかったのか?連邦生徒会が介入できない規則や書類、法律といったものがあるかどうかは俺には分からない。「なあ、ここって昔は繫盛してたけど今はもう"死にかけ"てるし調べたほうがいいかも」って誰も思っていなかったのか?こんなのはキヴォトスと周辺の自治区に避けようがない影響を"及ぼしていく"ものだっていうのに。”
彼はこれ以上何も言わず、リンは何も言えなかった。心配、怒り、焦燥、更なる感情が複雑に入り混じった彼の目は未だに圧を掛け続け、事態を更に深刻なものへとしているようだった。
結局のところ、彼女自身が抱えている感情よりも優先的に──守らなければならない規則やルールがある。
ゆっくり、ベッドから滑り出る音をリンは聞く。彼はさらに続ける。
“俺がいた場所でこんな問題を放置するとどうなるか知りたいか?俺の人事記録やそういったものが徹底的に黒塗りにされている理由を知りたいか?あの書類に四年分もの記録が書いてある理由を知りたいか?一つヒントをやろう。さっき言ったことは全て繋がっている。全ては、たった、一人の、"故意の無知"から始まった。”
ほとんど唸るように彼は言い、リンの頭はうつむいたままだった。怒りに満ちた声が間近に聞こえた。憤りに満ちた声が間近に聞こえた。他人事ではない事柄だと間近に感じた。
一瞬、静寂が訪れた。両者共に何も言わず、リンは顔を上げようとせず、マテオは未だに感情を表に出さずに彼女を見つめていた。やがて、マテオは息をついた。
“聞いてくれ。”
彼はそう言い始め、普段よりもずっと穏やかな口調で、リンの前にしゃがみ込みながら頭に手を乗せた。
“リン、君がキヴォトスのことを心から何よりも思っていることは分かっている。つまり、普段なら些細なことに目をつぶらなければならないということだ。一般的には賛同できない考え方だが、理解はできる。”
結局のところ、エージェント時代にも時折似たような任務をこなさなければならないことがあった。それこそが彼の技術は磨き上げられ、可能な限り問題を放置せずに解決しようとする姿勢を育んだのである。
“だから、この辺りでやめよう。”
優しく言い終われば、そっと彼女の髪をなでた。
“まだ言いたいことはあるが、もう気が付いているはずだ。”
優しく手を伸ばし、リンの目からこぼれた涙をそっと拭う。
“君に完璧を求める──いや、君に完璧を要求するのは…先生がすることでも、大人がすることでも、俺がしたいことでもない。だから君がそれでいいのなら、俺は手を貸したいんだ。”
一方、リンは生徒会長が残したメモを思い出し、彼を睨むが、頬の赤みがその効果を半減させている。「女たらし。」
“組織内では一番の良識派だったと言っておこう。”
自信に溢れた笑みを浮かべて、立ち上がれば張り詰めていた空気が和らいだ。
「初めから、信用できない組織でしたからね。」微笑みながらそう答え、マテオは肩をすくめる。
“脅して入らせたと言っておこう。”
マテオがそう答えると、リンは目を丸くして驚く。
「良識を持った人がそのようなことをするわけがありません!」そう答え、すぐに合点がいったように目を瞬かせる。「先生が女たらしだったから加入できたんです!」
“まさか!口達者なだけだ!女たらしとは別だ!”
言いがかりにそう反論するマテオ。
懐疑的な目で見つめるリン。何しろ、アヤネが出ていく様子を彼女は見ていたのだ。"口達者"では、あの笑顔は生まれるはずがなかった。
そうして、リンはため息を吐き、頭を抱えた。「分かりました。本日の準備は私が行います。」
“ああ!それとビナーとの戦闘でフィクサーを雇って──”
「そういえば。」とリンが割り込み、関心と共に前のめりにする。「数年前に、アビドス生徒会がビナーの目撃情報を送っていたはずです。先生は──」
“入手して送ったぞ。それでフィクサーについてだが…”
ただただため息をつくリン。「普通、軍とPMCは対立するものではございませんか?」
“俺はカイザーを地の底に沈めてやるぞ。”
嫌悪と自信を声に滲ませながら彼は素早く断言し、リンは唸る。
「やめてください。カイザーはキヴォトスの生活の根幹を担う企業です。」そう答えるリンにマテオは片眉を上げ、疑いに満ちた表情だった。「…これ以上のことは何も言えません…。」
“とにかく、そうだな、あの子たちは…”
明らかに楽しげな声で、敬意と懐旧も少し込めて言う。
“凄かった。"本当に"凄かった。それと、元々はアビドスを占領するために雇われたと考えている。”
「…今なんと?」とリンが尋ねれば、マテオは非常に大きなため息を吐く。
“考えてみろ。アビドスに居座っていたギャングを追い出したら、すぐにフィクサー集団が現れた。”
そう彼が説明をし始めると、普段のロードアウトであるM4とクエレブレが固定されてあるゴーバッグの側部から、レーションバーを取り出す。
“そして、想像を絶する広さで、誰一人として住めない不毛の地──そして何よりも、秘密がごまんとある砂漠が手放されることで一番得をするのは、誰だ?”
リンは答えず、それどころか困惑しているようだった。全員が得をするようなものだったからだ。
意味が伝わらないことは重々承知していたが、それでもマテオはある言葉を伝えた。
“ニューメキシコ。”
ただただ困惑した様子で見つめるリン、マテオは目を閉じ、カイザー共を潰すその日を待ち望んでいた。そしてその完璧な方法を持っていた。
アメリカでは、誰かを捜索するには合理的な疑念を持たなければならない────情報といったものに対してだ。
他の国でもそう言えるのか?
まあそうだ、計画の実現性次第ではあるが、カイザーがじきに直面する問題としては、超法規的機関の一員から妨害もしくは、他の措置を受けると言っておこう。
リンが戻らなければならない時間になるまで、しばらく他愛もない会話をしていけば、彼女の機嫌は多少良くなっていった。そうしてアヤネが戻っていく。
特に進展が進まない状況を踏まえ、一度全員を招集して会議を開くべきだと、リンはそう結論付けた。
とはいえ、マテオは電話をかける必要があるため、一旦席を立つことになる。