祈りの名を、いつか呪いが覆うとしても   作:名もなきうちは

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ようやく書き終わった……


誰かのために、もう一度

 朱がかった夕陽が、ガラス窓の割れた屋上を赤く染めている。風に煽られて、マミのスカートとリボンが揺れる。

 

 虎杖と共に魔女を倒し始めて、数日が過ぎていた。未だにまどかやさやかとは顔を合わせていない。放課後のチャイムが鳴ると、マミは鞄を抱えて、誰とも目を合わせぬまま早々に校門を目指していた。

 

(……美樹さん、鹿目さん)

 

 歩きながら、そっとスマートフォンを取り出す。画面には、見慣れた名前がいくつも並んでいた。

 

 通知の羅列。繰り返される、優しい呼びかけ。 

 

『またお茶しましょう!』

 

『最近どうですか? 会いたいです』

 

 その文字のひとつひとつが、まるで胸を突くようだった。

 

 何度も既読にした。返信をしようとしては、言葉が見つからず画面を閉じる——そんなことを繰り返していた。画面に浮かぶ、グループチャットのアイコンに指先が触れる。だが、開くことはできなかった。通知だけが、今日も静かに積もっていく。

 

(今さら、どんな顔して会えばいいの……?)

 

 情けない姿を見せたくない。ただそれだけだった。自分だけが取り残されているような、そんな孤独と焦燥に駆られて、学校を出た。

 

 しかし、逃げるように自宅に帰った先には、意外な人物がいた。マミは思わず息を呑む。

 

「暁美さん……?」

 

 ほむらはゆっくりと視線を向ける。

 

「……体の方は大丈夫そうね」

 

 唐突な切り出しに、マミは戸惑いながらも小さく頷いた。

 

「ええ……」

 

 言葉少なに答えたマミの声には、どこか居心地の悪さがあった。正面からほむらの視線を受け止めることができず、目線を少しだけ逸らしてしまう。短く揃えたスカートの裾を、指先で無意識に摘まんでいた。

 

「魔女との戦いも、復帰出来て何よりだわ。正直、貴女は“もう駄目”。そう思っていた」

 

 マミはほむらの発言に反論出来ないでいた。復帰したとはいえ、まだマミには虎杖という補助輪が必要。——そんな自覚が、ほむらの評価を否定できない理由だった。

 

 ほんのわずか、唇を引き結ぶと、マミは自嘲気味に微笑む。

 

「……彼がいるおかげで、少しずつだけど……戦えている気がしてるの」

 

 その言葉は、誰に向けたものでもなく、むしろ自分に言い聞かせるようだった。

 

「そう、なら貴女はそのままでいい。自分の心配だけしていればいいのよ」

 

 ほむらの声は変わらず淡々としていた。けれど、その無表情の奥には、ほんの一瞬だけ、鋭い熱が宿った気がした。そして、言いにくそうに視線を逸らす。

 

「それと……貴女に言わなければならないことがあるの」

 

 ほむらは一息溜めて続けた。

 

「……悪いけれど、虎杖悠仁は“貸して”もらうわ。後、佐倉杏子とも、正式に同盟を組んだの」

 

「え……?」

 

 マミの目が揺れる。

 

「———数週間後にやってくる、ワルプルギスの夜の為に」

 

 魔法少女ですら脅かす、未だ討伐されない強大な魔女———ワルプルギスの夜の名を聞いて愕然とするマミ。

 

「虎杖さんから……そんな話、聞いていないわ」

 

 彼女の声は小さく震えていた。虎杖に足手纏いだと思われた。稀に情報のやり取りをしていた佐倉杏子からもそんな話は持ちかけられなかった。

 

 ——置いて行かれたような実感が、胸の内にじんと広がっていく。

 

 ほむらはそんな彼女の様子を見つめていた。その瞳には非難は宿ってはいない。あるがままを話しただけ、という冷静さがあった。

 

 重い沈黙が落ちる。

 

 マミは思わず俯き、膝の上で指を組んだまま動けずにいた。ほむらはふと目を伏せる。ほんのわずかに口元が揺れた気がした。

 

「……貴女にとって、良い知らせではなかったわね」

 

 それは、あくまで淡々とした口調だった。けれど、わずかに——ほんの少しだけ、迷いのようなものが混ざっていた。

 

 マミは答えられなかった。その胸には、重く、答えの出ない問いが残されたままだった。

 

 ——なぜ、彼らは自分にそれを話さなかったのか。

 

 信じていたからなのか。あるいは、信じられていなかったからなのか。

 

 いずれにせよ、この感情に名前をつけるには、今はまだ少しだけ時間が足りなかった。

 

「———不満そうね」

 

 ほむらの声が風を裂く。心を見透かされたような発言に、マミは目を見開いた。

 

「なぜ、彼らが貴女に話さないのか……分かっているくせに、妙なところでプライドが高いのね」

 

 マミの目の奥で、何かが崩れ落ちていく。

 

「理由は明白。貴女はまだ“怯えている”。結界に入るたびに動きが遅れ、照準は乱れる。自分でも分かっているでしょう?」

 

 マミは俯いた。否定する言葉は、ひとつも浮かばなかった。虎杖と一緒にいる時ですら、過去の記憶が足を鈍らせる。あの夜、撃てなかった引き金——銃弾を逸らせた手——すべてが、自分を縛っている。

 

 既に理解はしていたとはいえ、突きつけられた現実が、マミの心に深い影を落とす。

 

 ほむらは、マミの沈黙に何も言わず、ふと遠くの空を見やった。

 

「……無理して魔女を狩る必要なんてないのよ。貴女が生きるために必要最低限だけ戦えばいい。……それで十分」

 

「……」

 

「本来、魔法少女とはそうあるべきなの。使命感なんて持たなくていい。誰も貴女を責めはしないわ。虎杖悠仁も、きっと——」

 

 その声には、奇妙な慈悲が宿っていた。冷淡ではあるが、突き放すようでもない。

 

 マミは、言葉が喉に詰まる感覚を覚えながらも、ようやく声を絞り出す。

 

「でも……それじゃあ……暁美さんも、虎杖さんも……佐倉さんも皆、命を賭けてワルプルギスの夜と戦おうとしているのに。私だけ、逃げるように引き下がるなんて……!」

 

「誰だって、命は惜しいわ。強敵との戦いを避けるのも、戦い方の一つ。不調なら尚更よ」

 

「じゃあ……暁美さんは、どうして命を賭けられるの? 孤独で戦い続ける意味って、何?」

 

 その問いに、ほむらは微かに目を細めた。そして、まるで“過去の自分”を噛みしめるように、囁く。

 

「……重症ね。一人で戦い続けていた巴マミから……そんな言葉が出てくるなんて思わなかったわ」

 

 そして、視線をマミに戻す。

 

「目的ならある。私には、成し遂げなければならない“約束”がある」

 

 その言葉に、マミは口を噤んだ。——そうだ、自分には、何がある?

 

 震えるように手が胸元へと伸びた。そこに浮かぶソウルジェム。虎杖の背中が脳裏に浮かぶ。

 

「虎杖悠仁は貴女を支えようと必死よ。戦うべき理由がある。強い意志も、ある」

 

 ほむらの声は、今までで最も熱を帯びていた。マミの唇が、微かに震える。

 

「なら……私も、戦わなきゃ……!」

 

 無意識に絞り出した言葉だった。だが——

 

「——なぜ、そこまでして貴女は戦いたいの?」

 

 その問いが落ちた瞬間、マミは全身から力が抜けていくのを感じた。目の奥が熱くなる。

 

 ——何のために戦っていたのか。どうしてここに立ち続けているのか。もう、分からない。

 

「……誰かが戦うから……共に戦う。大層な理由だけれども、人の為に戦ってきた結果が今の”貴女”よ」

 

 それは問いではなく、事実確認だった。けれど、それが一番マミの心に刺さった。

 

 自分は、何のために戦いたいのか。虎杖のように、まっすぐな理由を持っているのか。それとも、かつて見捨てた命への贖罪——そんな、自分勝手な動機でしかなかったのか。

 

 ほむらの言葉が胸を突いたとき、マミの内側にあった“空虚”が、ありありとした輪郭をもって浮かび上がった。

 

———命を賭してまで戦うべき理由とは一体なんだったのか。

 

 問いの答えを出せないまま、マミは俯く。返す言葉も浮かばなかった。両手の中で、ソウルジェムだけが微かに煌めく。自分は、まだ何も掴めていないのだと、その温もりが静かに告げていた。

 

 その沈黙を破ったのは、ほむらの柔らかな声だった。

 

「……貴女は疲れている。休むべきよ。……今は」

 

 その声音には、冷たさはなかった。静かで、あまりにも淡々としていて——けれど、そこには明確な“労り”があった。

 

 戦いに戻れとは言わなかった。傷ついた者に向けて、ただ“生きていればいい”という許しを与える慈悲だった。

 

 マミが顔を上げた時、ほむらはもう踵を返していた。階段へ向かうその足取りは、やがて静かに、黄昏が落とす深い陰影に消えていく。

 

 マミはその背を黙って見送った。呼び止めることは敵わなかった。ただ、胸の奥に残された問いかけが、じわじわと形を成していくのを感じていた。

 

 しばしの静寂。回廊に灯が灯っていく。夜の帷が降り、夕陽が沈んでいったすぐその後だった。

 

「……随分と言ってくれんじゃねぇか」

 

 物陰から聞こえた声に、マミは思わず肩を跳ねはせた。顔を向ければ、薄暗い踊り場の影から赤いポニーテールがふわりと揺れて現れる。

 

 ——佐倉杏子だった。

 

「佐倉さん……?」

 

 マミの声に、杏子は鼻を鳴らすようにして近づいてくる。

 

「……あいつの言ってることも分からなくはねぇけどさ。あんな言い方すんなら、あたしの前でやれってんだよ」

 

 言い捨てるような口調の割に、足元を見たままの視線は、どこか落ち着きがない。杏子は少しだけ間を置いて、ポケットから手を出さず、視線も向けずに言葉を続けた。

 

「よう……。思ったより元気そうじゃんか」

 

 ただそれだけの挨拶。けれど、マミには分かった。あの瞳の奥、睨むような目元にほんのかすかに揺れるもの——それが、気にかけていた証拠だということを。

 

 何かを言いかけて、結局、飲み込んだような杏子の間。それは昔から変わらない、互いに上手く距離が測れなかった二人の“らしさ”だった。

 

「……私のことなら、大丈夫よ。少し考えすぎてただけ」

 

 苦笑混じりに答えるマミに、赤い瞳が向く。

 

「……あたしらさ、ずっと見てたんだ。あのバイクっぽい魔女との戦いをさ」

 

 そして、次の瞬間、気まずさを振り払うように、わざとらしくそっぽを向いて壁に背を預けた。照れ隠しにも似たその仕草に、マミはかつて二人で笑い合ったあの頃を思い出す。

 

「魔女の結界の中で、あんだけ震えてたのに……ちゃんと最後は撃っただろ」

 

 その言葉に、マミははっと息を呑んだ。だが、杏子は未だ視線を合わさず続ける。

 

「確かに、今のあんたは完璧じゃねぇよ。今だって無理してんのも分かる。だけどな……あんだけのもん見せられてさ。それでも“足手纏い”とか言い切れるやつがいたら——そいつの目こそ節穴ってもんだ」

 

 口調こそいつも通りだったが、その声色にはどこか怒りに似た熱がこもっていた。

 

 マミは言葉を失い、視線を伏せた。胸の奥に何かが詰まるようだった。

 

 そんなマミの肩に、ぽん、と掌が軽く乗った。

 

「……あのさ」

 

 杏子は少し照れくさそうに目を逸らしながらも、真っすぐに言葉を継ぐ。

 

「クズにはクズなりの、やり方ってのがあるんだよ。ワルプルギスは、あたしらでなんとかする。悪いと思うなら……いつか借りを返してくれりゃそれでいい」

 

 それは強がりの様にも、覚悟の様にも聞こえた。或いは、その両方。

 

「それに———」

 

 杏子は灯る街を見やる。夜の帳に揺れて交錯する車灯りはどこか遠くて儚い。

 

「あんたみたいに……根がいいヤツの周りには、いいヤツが集まるんだよ」

 

 ぽつぽつと吐き出されるようにして出てきたのは、ぎこちない褒め言葉。

 

「あんたの今組んでる野郎と話す機会があってさ———」

 

 杏子は、一瞬だけ視線を彷徨わせた。空を見上げるでもなく、マミを直視するでもなく、ただ何かを思い返すように小さく息を吐いた。

 

「虎杖悠仁は……確かに“あんたを支える”って、堂々と言いやがったからな。聞いてるこっちが恥ずかしくなるぐらい真っ直ぐだった。……でも、そういうバカがあんたの側にいるのは、きっとあんたが”そういう生き方”をしてきたからだ」

 

 その声には、微かな悔しさと——ほんの少しの羨望があった。

 

「側から見たら無駄に見えるようなことでも……意味はあったのさ。ちゃんと、残ってんだ。結果って形でな」

 

 静かだった。風の音も遠ざかり、ただ二人の間に時間だけが流れる。

 

「……クズのあたしとは、根本的に違う。……巴マミは」

 

 それは自嘲とも慰めともつかない、けれど杏子なりの“真実”だった。マミには分かっていた。これは、彼女の精一杯の励ましだと。

 

 だからこそ、マミは目を伏せながら、小さく呟いた。

 

「……そんなこと、ないわ」

 

「ん?」

 

「貴女は……そんな風に言われるような人じゃない」

 

 杏子はきょとんとした顔を見せたあと、すぐに目をそらして壁に寄りかかった。

 

「……使い魔をほったらかしにしてるような奴に言うセリフじゃねぇな」

 

 茶化すような言葉とは裏腹に、どこか態度には気遣いがあった。

 

 小さな沈黙が、二人の間に漂った。だがそれは、決して不理解からではない。かつて共に過ごした友同士だからこその距離感。

 

 訪れ始めた夜風が、マミの髪を優しく撫でる。遠くで瞬く街の光が、まるで“おかえり”と言うかのように、仄かに煌めいていた。

 

 心の奥底でまだ燻る迷いを抱えながらも、マミの胸に小さな灯火が灯っていた。

 

 

 

 

 

 ワルプルギスの夜襲来の報告から次の日の事。放課後の鐘が鳴ると、マミはゆっくりと教室を出た。今日は、まどかとさやかに再び呼び出されていた。屋上——人気の少ないその場所で待ち合わせをしている。

 

 だが、そこへ向かう足取りは、決して軽くはなかった。

 

(……なんで、私は、鹿目さんたちにまた会おうと思ったのかしら)

 

 そう問いかけながら歩いていた。

 

 あの夜。ほむらに言われた言葉が、今も胸に引っかかっていた。戦う理由を問われた時、自分は何も答えられなかった。

 

 虎杖と共に魔女を倒すようになってから、確かに動きは戻りつつある。でも、自分はまだ——どこかで”誰かの背中を借りて”ようやく立っているような、そんな心地が拭えなかった。

 

 まどかやさやかに顔向けできないのは、そのせいだ。怖いのだ。二人が、自分の弱さを見て、失望するのではないかと。

 

 醜くも、生き延びるために家族を見捨ててしまった——その過去を、マミはずっと胸の奥に封じてきた。魔法少女として“正しく”戦うことでしか、その罪を贖えないと信じていた。正義でなければ、理想であり続けなければ自分に存在する意味などないと。

 

 だからこそ、あの夜。魔女に敗れ、誰かを守るどころか、自らの無力に膝を折ったとき——巴マミは、自分という存在の“価値”そのものが揺らいだ。

 

 けれど、そんな時。

 

 命を賭けて戦い、支えるとまで言ってくれた戦友・虎杖悠仁。

 

 そして、かつてのように笑顔で接してくれたまどかやさやか。

 

 対立してぎこちない関係だった、杏子の本心を知れたことも励みになった。

 

 ——失意に沈んだ自分を、見捨てなかった人たちが、確かにそこにいた。

 

(自分には、もう価値なんてない)

 

 そう思い込んでいた心に、彼らの在り方が静かに灯をともした。再び、自分自身を見直そう——その切っ掛けを、確かにくれたのだ。

 

(……逃げ続けていたら、もう、戻れなくなる)

 

 放課後のチャイムが鳴り終わってしばらく。巴マミは、教室から少し離れた屋上に通じる階段の踊り場にいた。視界に広がるのは、夕陽に染まる見滝原の街並み。

 

 遠くから笑い声が聞こえる。部活帰りの生徒たち、談笑しながら帰路につくクラスメイト。そこに混じる、どこか聞き慣れた声。

 

「……マミさん!」

 

 振り返ると、鹿目まどかと美樹さやかが駆けてくるのが見えた。制服の袖を軽く押さえながら、顔を輝かせてマミに手を振っていた。

 

 少しだけ戸惑いを覚える。けれどマミは、それを表には出さず、微笑んだ。

 

「鹿目さん、美樹さん……こんにちは」

 

 まどかとさやかは、一瞬だけ目を見合わせると、どこかほっとしたような顔で頷いた。

 

 校舎の屋上は、夕暮れの光に包まれていた。吹き抜ける風がカーテンのように空気を揺らし、少し肌寒い感覚が三人の距離を逆にそっと近づける。

 

 まどかが何か言い出そうとして口を開きかけると、マミは視線を屋上の隅へと向けた。

 

 ぽつんと置かれたベンチに座り、三人は自然と歩み寄る。誰ともなく同じ方向を向いて並ぶ。お互いに言葉を懸命に探しながら。

 

「マミさん……ずっと心配してたんです。放課後、全然見かけなくなっちゃって……連絡も、全然返ってこなかったし……」

 

 さやかがぷくっと頬を膨らませて見せる。マミは思わず目を伏せ、手にしていた鞄の取っ手をぎゅっと握った。わざと明るく振る舞うさやかの姿は、明らかにマミを気遣う優しさだと分かり、気まずくなる。

 

「ごめんなさい……。二人には心配かけてしまったわね」

 

「ううん、いいんです。ほんとに会えてよかったです!」

 

 まどかの言葉に、胸が小さく締めつけられる。

 

 あまりにも優しくて、あまりにも真っ直ぐで。だからこそ、今の自分には刺さる。

 

 まどかとさやか。マミがこの二人と初めて出会ったのは魔女結界の中。虎杖悠仁が現れる直前。彼女らは命の危機に晒されていた。

 

 こんな優しい人たちが、魔女と遭遇すればあっさり命を落とす。何の力も持たず、ただ普通に生きているだけの人が、理不尽に傷つく世界がある。

 

 ——そんな光景を、もう何度も見てきた。

 

 それなのに、どこかで目を逸らしていた。怖かったから。逃げ出したかったから。でも、目の前の彼女たちは、あの頃と変わらず、笑って隣にいてくれた。

 

 そう。———魔法少女になって、ただ辛いことばかりだった訳ではない。

 

 感謝の言葉を向けられたことがあった。命を救った相手が、何度も頭を下げてくれた。戦いの果て。虎杖や杏子と、息を合わせて魔女を倒したときには、勝利を分かち合った。

 

 そんな過去の断片が、静かに心の底に積み重なっていく。

 

 痛みでも、後悔でもない。それはかつて自分を支えてくれていた“何か”に、もう一度触れたような感覚だった。

 

 ———いつか確かに抱いていた、誇り。その傍に変わらずあった何か。

 

 それは罪を償うためでも、誰かに褒められるためでもない。

 ———人との繋がり。今という居場所を失いたくない生命としての欲求。

 

「……私ね」

 

 マミは自然と口を開いていた。

 

「今まで、“誰かのために”って言葉に縋って戦ってきたの。でも……死にかけて……それが正しいのか、自信がなくなってしまって」

 

 二人は静かに聞いていた。まどかも、さやかも、決して口を挟まない。ただ、まどかはそっと手を伸ばし、マミの手に触れる。マミもまた、まどかの手を優しく握り返す。

 

「戦えば……誰かを守れる。でも、戦えば……自分も傷つく。ずっとその間で揺れていて……気づいたら、自分がどうしてここにいるのか分からなくなっていたの」

 

 夕陽が視界の向こうで、校舎を茜に染めていく。

 

 マミは、少しだけまどかの方を見た。その手は、温かくて柔らかい。

 

 さやかを一瞥するとやはり気まずそうに目を伏せる。かつて、”魔法少女になる”と宣言したあの言葉がまださやか自身を責めているように思える。優しさ故の責任感があるのだ。

 

 だからこそ——謝らなければならない。

 

「……鹿目さん、美樹さん。こうして、また顔を見られて改めて思ったの……。こんなに優しい人たちが、笑っていられる世界を、壊したくないって」

 

 まどかが、少しだけ目を潤ませて、小さく頷いた。さやかも静かに聞き入れる。

 

 マミはそっと目を伏せ、唇を結んだ後、か細い声で続けた。

 

「……ごめんなさい。あの時、虎杖さんがもういなくなるかもしれないって思ったら……すごく怖くなって……」

 

 二人の視線が、マミを静かに捉える。

 

「本当は……誰かに、傍にいて欲しかったの。支えて欲しくて……でも、それが怖くて言えなくて……」

 

 マミの指が、スカートの裾をぎゅっと握る。そこには、魔法少女の凛とした姿とはかけ離れた、ひとりの少女の弱さがあった。

 

「……だから、あの時。二人に“魔法少女体験コース”が危険と知りながら誘った。あれは、希望を与えたかったんじゃない。ただの建前。綺麗事。二人が魔法少女になってくれたらっていう、私の甘えだった。そう……自分の不安を……埋めたかっただけなの」

 

 言葉を終えた瞬間、まどかの目から涙がこぼれ落ちた。堪えきれずに、両手で顔を覆う。

 

「マミさん……そんな……そんなことで謝らないでよ……っ」

 

 まどかは震える声でそう言いながら、ただ泣いていた。その涙は、怒りや悲しみではなく、深く、優しい共鳴だった。

 

 さやかは息を飲んだまま、何も言葉が出なかった。ただ、強く拳を握りしめていた。

 

 マミは、そんな二人を見て、小さく頭を下げる。

 

「それでも、こうしてまた会ってくれて。聞いてくれて……本当に、ありがとう……」

 

 まどかの手が、そっとマミの手に触れる。

 

「マミさん……」

 

 その声は、まるで包み込むように優しかった。けれど、ふいにまどかの表情が曇る。小さく俯いて、言葉を続けた。

 

「……私も、本当はすごく怖かったんです。あの日、マミさんが入院してから……魔女と戦うなんて、怖くて、足がすくんで……。マミさんや虎杖さん、ほむらちゃんに頼ってばかりで……」

 

 高く、か細く声が震える。

 

「契約できる立場にいながら、戦えるかもしれないのに……私は、何もしてない」

 

 まどかの謝罪の言葉は、涙のようにそっと落ちた。責めているのではなく、責めて欲しい訳でもなく——ただ、自分の無力さを悔いているようだった。

 

「……鹿目さん……」

 

 マミは、ゆっくりとまどかの名を呼ぶ。胸の奥が、静かに締めつけられていた。

 

 さやかはともかく、まどかが泣くまで自分を責めていたことすら、マミは知らなかった。ただ優しく、寄り添ってくれたその子が、どれだけ葛藤していたのか。

 

 マミは、そっと目を伏せた。

 

(……私は、なんてことを……)

 

 彼女たちが優しくて、責任感が強いことは知っていた。誘えば、必ず悩み、苦しみ、何かを背負ってしまうと分かっていたはずなのに。

 

———魔法少女の資格。

 

 ”人を救う力を得られる”という事実が、重荷になると理解していたはずなのに。

 

 マミの喉元がきゅっと詰まる。

 

「……ごめんなさい。鹿目さん、美樹さん……」

 

 その懺悔は、ただ掠れていた。

 

「私は……自分の弱さを、貴女たちに押しつけてしまった。戦う覚悟も持たないまま、無意識に……貴女たちの優しさに縋ろうとしていた」

 

 うつむきかけたその顔に、まどかの声が柔らかく差し込む。

 

「そんなこと……ないです。もし、マミさんがいなかったら、私たちは……あの日、魔女に殺されていたかもしれません」

 

 続くように、さやかも言葉を重ねた。

 

「そうだよ。あたし、はっきり覚えてます。あの時、マミさんがいなきゃ、今こうして屋上で話してるどころじゃなかったんです」

 

 マミははっとして、顔を上げた。二人の視線はまっすぐで、責める様子はない。

 

「……でも、それは……全ては償いのつもりでやってきたことなのよ」

 

 戸惑ったマミは少しだけ言葉に詰まるが、絞り出すように話を再開する。

 

 かつて、さやかにだけ打ち明けた過去の話があった。あの時の続きをマミは語っていく。

 

 ———交通事故に際して、両親を差し置き、自らが助かるためだけに願いを叶えたこと。

 

 自己満足とも呼べる贖罪に、仲間である佐倉杏子を巻き込んで、彼女の気持ちを蔑ろにしてしまったこと。

 

 そして今回もまた、二人を魔法少女に誘い、同じ過ちを繰り返してしまったこと。

 

 マミの言葉が途切れたあと、しばし沈黙が訪れた。けれど、まどかとさやかは何かを探るような様子もない。

 

 下の校庭からは、ボールが跳ねる音や、誰かの笑い声が、ぼんやりと届いてくる。春の夕方らしい、賑やかさと穏やかさが混じった空気。

 

 マミは、そっと視線をやる。まどかは何も言わなかった。それだけのことが、不思議と胸に沁みた。

 

 やがて、まどかが、ごく自然に身体を寄せてきた。言葉も前触れもなく、マミの袖に肩をそっと預ける。強くもない、遠慮がちな、それでも確かな体温がそこにあった。

 

 マミは目を伏せる。制服の布越しに伝わるそのぬくもりは、胸の奥にいつの間にかできた空白を、少しずつ埋めていくようだった。

 

 何も言わず、ただ一緒にいる——それだけのことが、今の自分には救いだった。

 

 まどかがマミの隣に寄り添ったその瞬間、さやかは少しだけ目を細めてその様子を見ていた。何かを言いかけたような気配を残して、だが、言葉にはしなかった。ただ、小さく鼻を鳴らして脚をぶらぶらとさせる。

 

「……でも」

 

 ぽつりと落とすように、さやかが口を開く。声色はどこか遠くを見るようだった。

 

「やっぱり……魔法少女って、凄いです。マミさんみたいにさ。誰かのためにちゃんと戦って、誰かを守って……」

 

 まどかがそっとさやかを見る。けれど、さやかは目を逸らしていた。足元のコンクリートをつま先で軽く擦りながら、どこか所在なげに呟く。

 

「危ないことだって、分かってる。簡単なことじゃないって……マミさんのこと見てたら、余計に」

 

 その言葉には、ただの称賛ではない。何かを置き去りにされたような、小さな焦り。

 

 マミはその横顔をちらりと見て、微かに瞳を伏せる。

 

 ——もしかすると、彼女は自分以上に“揺れて”いるのかもしれない。

 

 魔法少女にならずに済むならそれが一番だと、心のどこかで願いながら、それでも、心のどこかで手放せないものがある——さやかのその微かな揺らぎを、マミは言葉の端から感じ取っていた。

 

 さやかの小さな呟きに、マミはそっと目を伏せた。

 

「美樹さん……」

 

 少し間を置いて、静かに言葉を継ぐ。

 

「……その気持ちは、嬉しいわ。でも、駄目よ」

 

 さやかがハッとして顔を上げる。その蒼瞳は戸惑いに揺れていた。

 

「たとえ誰かを助けたいと思っても、自分が壊れてしまっては意味がない。魔法少女っていうのは、そんなに甘いものじゃないのよ……。貴女もよく知っているでしょ?」

 

 言葉の節々に、あの日の恐怖と絶望が染み込んでいた。———お菓子の魔女との戦いで起こった悲劇を目にしたさやかもまた、それを理解しつつあった。

 

「死ぬかもしれない。救えないかもしれない。それでも戦うことが“正しい”なんて、そんなの、誰にも言い切れない」

 

 さやかは唇を噛みしめた。マミはそっと、彼女の視線に向き合う。

 

「貴女があの時……私を見捨てかけたって思っているのなら、それは違う。あれは、私の判断ミスだった。助けようとしてくれたこと、私はちゃんと分かってる。だから、謝らないで」

 

 だが、さやかは首を振った。

 

「違うよ、マミさん。あたし……あの時、自分が怖くて……助けることも出来ずに逃げそうになった。許せなかった、自分が……。魔法少女の杏子って子に”殺してやる”って言われて……本当にその通りの奴だって思った。あたし、大切な人たちが苦しんでるのに……何にも出来ない最低な奴なんです」

 

 まどかが、そっとさやかの背中に手を置いた。マミはゆっくりと息を吸い、視線を柔らかく落とす。

 

「美樹さん、あなたの正義感は素晴らしいものよ。だけど、それが貴女自身を責め続ける理由にしてはいけない」

 

 さやかの目が、再びマミを見つめた。そこには痛みと、微かな希望が混ざっていた。だが、マミはそんなさやかの未練を断ち切る為に告げる。

 

「今ならはっきり言える。……貴女には私と同じようになって欲しくない。私や上条君を”願い”で助けた先に、貴女が幸せになれなければ……待つのは苦悩の日々よ」

 

 マミの言葉で、揺さぶられるのはさやかの身体だった。

 

「使い魔や魔女は待ってはくれないの。戦わなければグリーフシードが手に入らない。そうなればソウルジェムが濁って身体は鈍っていってしまう」

 

 隣に座るさやかの手を握ったマミ。その手が追憶と共に、かたかたと震え始めた。

 

「日常生活に命懸けっていう、考えたくもない日課が舞い込んで来ることを想像してみて」

 

 真剣に蒼眼を見据えるマミ。その黄金の瞳には涙が滲む。

 

「これから先、友人や恋人と遊びたくても容易には出来なくなる。勉強したくても……逃げたくても、避けられない。常に頭の片隅に、日常に、戦いが入り込む」

 

 嗚咽と共に吐き出された吐露が、さやかの背筋を張らせる。だが、マミはさやかを追い詰めた責任から逃げるわけにはいかないと、言葉を紡いでいく。

 

「そして、この先———大きくなって社会人になっても働きながら、誰にも理解されず……戦い続ける。たった一つの願いを叶えたとして、幸せに生きる人々を横目にしながら他人を呪わずにいられる?」

 

 自身の頬から伝う涙すら無視して、マミは訴え続けた。

 

「誰かを救ったとて、殆ど見返りはない。助けを求めても簡単には望めない。同じ魔法少女が助けてくれるとは限らない」

 

 マミは胸に手当てる。

 

「私は幸運だった。もし虎杖さんが、暁美さんが居なかったら……私は———間違いなく死んでいたわ」

 

 蘇る記憶が、マミの胸を鋭く抉った。シャルロッテとの戦い、魔女の口に呑まれた瞬間の恐怖。あの時、感じた死の予感と——ひとりきりであることの孤独。

 

 ひとりでに身震いし、ぶわりと額に汗が滲む。手のひらはしっとりと湿り、背筋を這う冷気が、肺の奥まで凍らせていくようだった。

 

 そんなマミの様子に、さやかの肩が小さく震える。視線を伏せ、両膝に置いた拳を強く握りしめる。瞳の奥に浮かぶのは、かつてマミを見捨てかけた——あの罪の記憶。

 

「マ、マミさん……ごめんなさい、あたし……」

 

 掠れるような声で、さやかがそう言った時、マミはそっとその手を取った。汗ばんだ手の甲はわずかに震えている。マミは指先に力を込めて、包むようにさやかの手を握り返した。

 

「多分、優しい貴女なら、きっと戦い続けていくうちに……疲れ果ててしまう。そんな貴女を私は……見たくないの」

 

 言葉を選びながら、マミはぐっと息を吸った。

 

「今更だけど……」

 

 そう言って、深く頭を下げる。

 

「貴女に縋ってしまった私を……どうか許して」

 

 その一言に、さやかの瞳から涙がひとすじ零れ落ちた。声にならない嗚咽が喉の奥で詰まり、唇がかすかに震える。

 

 まどかも、さやかの涙に呼応するように、そっと目元を拭った。強くあろうとする彼女たちの、その感情の揺らぎはあまりにも純粋で、どこか痛々しくすらあった。

 

「あたしなんかのために……マミさんが、なんで謝るの……? こんなの……絶対におかしいよ……」

 

 さやかの小さな声は、壊れそうに脆かった。けれども、それは迷いの中にいる少女の、精一杯の叫びだった。

 

(どうしてマミさんみたいな人が……こんなに苦しまなきゃならないの……?)

 

 胸の内で言葉にできない感情が、さやかの中で揺れていた。憧れと、後悔と、救いたいという衝動。それらがないまぜになって、心を覆っていく。

 

 そして次の瞬間、何も言わずにまどかとさやかが、そっとマミの左右に寄り添った。ベンチの真ん中で、俯いたままのマミを、二人の少女が静かに支える。

 

 ことさら言葉は要らなかった。過去の罪も、今の不安も、未来への決意も——すべてを赦すように、その静かなぬくもりが、マミの背を支えていた。

 

 夕焼けが静かに色褪せていく中、マミの目に滲んでいた涙は、もはや悲しみだけのものではなかった。マミの顔に赤い光芒が差し込む。そこには微笑みが戻ってきていた。

 

「私、少しずつだけど……進んでみるわ」

 

 マミの声は小さいが、どこかに芯が戻りつつあった。夕暮れの空は、三人の背中をやさしく包むように、淡い赤に染まっていった。 

 

 

———

 

 

 巴マミは、軽く息を吸ってから、駅前の雑踏へと足を踏み入れた。

 

 見滝原の中心街を外れたその一角——場末の飲食店や古びた雀荘、夜になるとシャッターを下ろす裏路地。その片隅にある、薄暗い自動販売機の脇に、彼はいた。

 

 虎杖悠仁。

 

 制服姿でもなく、もちろん学生証も持たない。表向きには“存在しない”人間。彼は学校には通っておらず、戸籍も住居もない。時折、名前も知らぬ大人たちの下で、昼夜問わず働き、日銭を稼いでいた。

 

 違法なバイトだと、マミは薄々感じていた。だが、咎める気にはなれなかった。——彼がどれだけ、この世界で“浮いている”かを、誰よりも理解していたからだ。

 

 路地の向こう、虎杖は缶コーヒーを片手に座っていた。

 

 マミは、一歩だけ躊躇ってから声をかける。

 

「……虎杖さん」

 

 そう声をかける直前、マミはほんの少しだけスマートフォンを見下ろした。

 

 メッセージの履歴に、送信済みの短い文章が残っている。

 

《今夜、少しだけ……会いたい。話がしたいの》

 

 何度も書き直して、けれど結局、簡潔なそれしか書けなかった。たったそれだけの言葉にどれほどの逡巡を込めたか、きっと彼は知らない。

 

 だから、待ち合わせ場所に立つ虎杖の姿を見つけたとき、マミの胸に広がったのは、安堵と、ほんの少しの勇気だった。

 

 振り向いた彼の顔は、変わらず飾り気がなかった。油染みた作業服の袖をまくり、手には細かな傷跡が残っている。バイト明けだろうか、髪も少し乱れていて、それでもその眼差しは、誰かを疑うことのない優しさに満ちていた。

 

「マミさん? 何かあったの?」

 

 明るい声だった。けれどその奥には、少しだけ疲れの色が滲んでいた。今日もどこかで、誰かのために身体を動かしてきたのだろう。

 

 マミは言葉を選びながら、ほんの少しだけ視線を逸らす。そして、微かに首を傾げるようにして告げた。

 

「貴方に……どうしても、お礼を言いたくて」

 

 虎杖は、きょとんとした顔で立ち上がる。

 

「俺に? 何かあったっけ」

 

「あるわ。貴方がいなかったら、私は今もきっと——立ち止まったままだった」

 

 自分でも驚くほど素直に言葉が出た。虎杖は目を瞬かせ、口を開きかけてから、何も言わずに笑った。その笑みは、どこか寂しげで、それでいて優しかった。

 

「……そんなん、大したことしてねぇけど」

 

 彼はそっと缶をゴミ箱に放り込むと、マミに向き直った。

 

「でも……ありがと、マミさん。そう言ってくれるだけで、俺は……この世界に来て良かったって思えるよ」

 

 その言葉が、なぜだかマミの胸に強く響いた。

 

 ——この世界に来て良かった。

 

 それは、異邦人としての孤独の中でも、誰かのために手を差し伸べ続ける虎杖だからこそ言える言葉だった。

 

 マミはそっと、胸元のソウルジェムに手を添えた。

 

「……私も、もう逃げないわ。戦うわ、貴方と一緒に」

 

 その宣言に、虎杖は何も言わず、ただ深く頷いた。

 

 マミは知っている。この背中となら、進める。あの夜、ほむらに問われた”なぜ戦うのか”という問いの答えが、今はもう心に根付き始めている。

 

 誰かのために、今を守るために——自分の足で、再び立つと決めたのだった。

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