ENTUM23   作:マブラマ

293 / 313
第293話 過去の贖罪

2025年5月12日

 

都心から少し離れた、静かな住宅街の一角。

小さな看板に「Lost Heaven」と書かれた店が、柔らかなオレンジ色の照明を落としていた。リィズ・ホーエンシュタインのドーナツ屋。

店内は甘い香りに満ち、カウンターのガラスケースには、ふわふわのクラシック・ドーナツ、色とりどりのフルーツ・グラデーション、黒糖きなこ、季節限定の桜あん入り……今日も完売間近の品々が並んでいる。

リィズはエプロンを腰に巻き、慣れた手つきで新しい生地をこねていた。

「いらっしゃいませ~。本日のおすすめは、塩キャラメル・ナッツですよ。」

客に向ける笑顔は穏やかで、どこか母性すら感じさせる。

かつて「胎児殺しのホーエンシュタイン」と恐れられた女とは、思えないほど柔らかい表情。

しかし、ふと視線を窓の外へ移した瞬間――

その瞳の奥に、凍てついた氷の刃のような光が一瞬だけよぎった。

[(……アクスマン中佐。あの男がまた動き出したのね)」

朝のviviONでのやり取りが、まだ胸の奥に残っていた。

あの冷たい声、あの嘲るような笑み。

すべてが、過去の悪夢を呼び覚ます。

リィズは深く息を吐き、再び生地を丸める手に力を込めた。

ドーナツを揚げる油の音が、静かなBGMのように店内を包む。

客席では、近所の主婦が笑いながらおしゃべりし、小さな子供が「もっと甘いの!」と指を差している。

そんな日常の光景が、リィズの心を少しずつ溶かしていく。

「リィズさん、今日もおいしかったです!」

常連の老紳士が会計を済ませながら声をかけると、彼女は優しく微笑んだ。

「ありがとうございます。またお待ちしています。」

店を閉めた後の片付けを終え、リィズはカウンターの奥にある小さな休憩スペースに腰を下ろした。

壁には、義兄テオドールと二人で撮った最近の写真が飾られている。

彼と再会できた今、彼女はもう「殺しの道具」ではない。

ただの、ドーナツ屋の店主だ。

それでも、指先にはまだあの頃の感触が残っている気がした。

血の匂い。 叫び声。 命令を下す冷たい声。

「……もう、終わりよ。」

リィズは小さく呟き、スマホを取り出した。

画面には、NEOENTUMのベアトリクスから届いたメッセージ。

 

【今日もお疲れ様。アクスマンの件、ありがとう。あおぎり高校の皆が、あなたの言葉をちゃんと受け止めてくれたみたいよ】

 

リィズの唇に、ほんのわずかな微笑みが浮かんだ。

彼女は立ち上がり、厨房の奥にある小さな工房へ移動した。

明日の新作――「希望のピンク・グレーズド」を作る準備を始める。

生地に練り込むのは、ただの砂糖とバターではない。

自分の過去を乗り越えた証。

そして、あおぎり高校の少女たちが守ろうとする「ほんわかとした平和」を、少しでも届けたいという願い。

油の音が再び響き始める。

外はすっかり夜の帳が降り、街灯が優しく照らす。

ドーナツ屋の窓から漏れる暖かな光は、まるで小さな灯台のようだった。

かつて闇の中で生きてきた女が、今は甘い香りと共に生きている。

アクスマンが再び影を落とそうとも、リィズ・ホーエンシュタインはもう、過去の亡霊に囚われない。

彼女は静かに微笑みながら、次のドーナツに、そっと「明日も平和でありますように」と心の中で祈った。

アオギリエースの戦いはまだ続く。

しかし、どこか遠くの小さな店では、もう一人の戦士が、静かに、しかし確かに自分の戦いを続けていた――。

 

Fortgesetzt werden

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。