2025年5月12日
都心から少し離れた、静かな住宅街の一角。
小さな看板に「Lost Heaven」と書かれた店が、柔らかなオレンジ色の照明を落としていた。リィズ・ホーエンシュタインのドーナツ屋。
店内は甘い香りに満ち、カウンターのガラスケースには、ふわふわのクラシック・ドーナツ、色とりどりのフルーツ・グラデーション、黒糖きなこ、季節限定の桜あん入り……今日も完売間近の品々が並んでいる。
リィズはエプロンを腰に巻き、慣れた手つきで新しい生地をこねていた。
「いらっしゃいませ~。本日のおすすめは、塩キャラメル・ナッツですよ。」
客に向ける笑顔は穏やかで、どこか母性すら感じさせる。
かつて「胎児殺しのホーエンシュタイン」と恐れられた女とは、思えないほど柔らかい表情。
しかし、ふと視線を窓の外へ移した瞬間――
その瞳の奥に、凍てついた氷の刃のような光が一瞬だけよぎった。
[(……アクスマン中佐。あの男がまた動き出したのね)」
朝のviviONでのやり取りが、まだ胸の奥に残っていた。
あの冷たい声、あの嘲るような笑み。
すべてが、過去の悪夢を呼び覚ます。
リィズは深く息を吐き、再び生地を丸める手に力を込めた。
ドーナツを揚げる油の音が、静かなBGMのように店内を包む。
客席では、近所の主婦が笑いながらおしゃべりし、小さな子供が「もっと甘いの!」と指を差している。
そんな日常の光景が、リィズの心を少しずつ溶かしていく。
「リィズさん、今日もおいしかったです!」
常連の老紳士が会計を済ませながら声をかけると、彼女は優しく微笑んだ。
「ありがとうございます。またお待ちしています。」
店を閉めた後の片付けを終え、リィズはカウンターの奥にある小さな休憩スペースに腰を下ろした。
壁には、義兄テオドールと二人で撮った最近の写真が飾られている。
彼と再会できた今、彼女はもう「殺しの道具」ではない。
ただの、ドーナツ屋の店主だ。
それでも、指先にはまだあの頃の感触が残っている気がした。
血の匂い。 叫び声。 命令を下す冷たい声。
「……もう、終わりよ。」
リィズは小さく呟き、スマホを取り出した。
画面には、NEOENTUMのベアトリクスから届いたメッセージ。
【今日もお疲れ様。アクスマンの件、ありがとう。あおぎり高校の皆が、あなたの言葉をちゃんと受け止めてくれたみたいよ】
リィズの唇に、ほんのわずかな微笑みが浮かんだ。
彼女は立ち上がり、厨房の奥にある小さな工房へ移動した。
明日の新作――「希望のピンク・グレーズド」を作る準備を始める。
生地に練り込むのは、ただの砂糖とバターではない。
自分の過去を乗り越えた証。
そして、あおぎり高校の少女たちが守ろうとする「ほんわかとした平和」を、少しでも届けたいという願い。
油の音が再び響き始める。
外はすっかり夜の帳が降り、街灯が優しく照らす。
ドーナツ屋の窓から漏れる暖かな光は、まるで小さな灯台のようだった。
かつて闇の中で生きてきた女が、今は甘い香りと共に生きている。
アクスマンが再び影を落とそうとも、リィズ・ホーエンシュタインはもう、過去の亡霊に囚われない。
彼女は静かに微笑みながら、次のドーナツに、そっと「明日も平和でありますように」と心の中で祈った。
アオギリエースの戦いはまだ続く。
しかし、どこか遠くの小さな店では、もう一人の戦士が、静かに、しかし確かに自分の戦いを続けていた――。
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