フォドラに平和が訪れてから、早数ヶ月。アイスナー領の領主の館、その庭園に面した広々としたテラスは、午後の柔らかな日差しと咲き始めた薔薇の甘い香りに包まれていた。テーブルの上には美しい刺繍が施されたクロスが敷かれ、銀のティーポットからはハーブの穏やかな香りが立ち上っている。三段重ねのティースタンドには色とりどりのフルーツタルトや、ふんわりとしたスコーン、そして繊細な細工が施されたチョコレートがまるで宝石のように並べられていた。
「このチーズケーキ、本当にカシアン先生が作ったんですか? 帝都のケーキにも勝てますよ…!」
ベルナデッタは小さなフォークで切り分けたチーズケーキを恐る恐る口に運び、その濃厚で滑らかな味わいに、驚きで目を丸くした。
「ええ、そうなの」ベレスは、嬉しそうに頷いた。
「私が『甘いものが食べたい』って言ったら、昨日の夜、執務室の隅でこっそり試作を繰り返してたみたい。あなたたちが来るって言ったら、幾つか取り寄せて、また今朝は張り切って用意してくれた」
その声には夫への愛情と、少しばかりの誇らしさが滲んでいた。
「ふふっ、カシアン先生ったら相変わらずベレス先生には甘いんですから」
ドロテアは優雅に紅茶を一口すすると、悪戯っぽい笑みを浮かべた。彼女は今日の日のためにわざわざ馬車を飛ばしてやってきたのだ。
「でも、本当に良かったわ、ベレス先生。あなたとこうして、またのんびりお茶ができる日が来るなんて、夢のよう」
「うん。私も、嬉しい」
三人はガルグ=マク時代に戻ったかのように、他愛ないおしゃべりに花を咲かせた。やがてドロテアがふと思い出したように、ハンドバッグから数枚の美しい装丁のチケットを取り出した。
「そうだわ、二人とも。これを渡しておかなくっちゃ」
彼女はベレスとベルナデッタに、それぞれ一枚ずつチケットを手渡した。
「来月、帝都の王立劇場で、私の主演舞台の初公演があるの。貴賓席を用意しておいたからぜひ観に来てちょうだい」
「わあ!ありがとうございます、ドロテアさん!」
ベルナデッタは皆の憧れの歌姫からの招待に、顔を輝かせてチケットを受け取った。ベレスもまた「ありがとう、ドロテア。必ず行く」と、静かな喜びを込めて言った。
「それで、ドロテア。演目は何なの?」ベレスが尋ねる。
するとドロテアはくすくすと、楽しそうに笑い出した。
「ふふっ、それはね…あなたたちが主役の、とびきりロマンチックな物語よ」
彼女は芝居がかった口調で、その演目を告げた。
「タイトルは、『デアドラの誓い、女神の愛は悪魔をも溶かす』よ」
その瞬間、ベルナデッタが飲んでいた紅茶を盛大に噴き出した。
「げほっ、ごほっ! そ、それって、もしかして…あの…!」
「ええ、そのまさかよ」ドロテアは、悪戯っぽく片目をつぶって見せた。
「ベレス先生が、あのデアドラの戦勝式典で、カシアン先生に、皆の前で愛を告白した、あの劇的な瞬間を元にした物語。もちろん、わたくしたち劇団の脚本家が、たっぷりと脚色とロマンを加えて(特にカシアンへ)、最高のラブストーリーに仕上げてあるわ」
ベルナデッタは顔を真っ赤にして、ベレスの顔をちらちらと盗み見た。あの衝撃的な光景が、まさか演劇になるなんて。当事者であるベレス先生は一体どんな顔をしているのだろうか。
だが当のベレスは全く動じる様子はなかった。彼女はドロテアから受け取ったチケットを興味深そうに眺め、どこか誇らしげにきっぱりと言った。
「そう。楽しみ。カシアンと一緒に、一番前の席で観させてもらう」
その堂々とした態度に、ベルナデッタはもはや何も言えず、ただただ感心するしかなかった。
なおこの初公演のチケットは別途、皇帝エーデルガルトにも渡されたのだが、既に最前線で見たからと遠い目をしながら断られていた。彼女にとっても一生忘れられない思い出なのだろう。可哀想に。
しばらくの間、三人の歓談は続いた。だがやがてドロテアが、ふと真剣な表情になると、テーブルに身を乗り出すようにして、ベレスに尋ねた。
「それでベレス先生。実際のところ、どうなの? カシアン先生との新しい生活は」
その声には友人としての純粋な興味と、そして少しばかりの心配が滲んでいた。彼女は歌姫で貴族の悪い遊びを知るだけにどうしても不安になるのだ。
ベレスはその問いに一瞬だけ遠い目をして、心の底から幸せそうな柔らかな笑みを浮かべた。
「うん。とても、幸せ」
その短い言葉には彼女の全ての想いが凝縮されているかのようだった。
「それは良かったわ」
ドロテアは安堵の息をついた。だが彼女の探求心は、それだけでは終わらない。
「…それで、その…夜の方はどうなのかしら? ほら、男の人って最初は優しいけど、慣れてくると自分勝手だったり雑になったりするじゃない? あのカシアン先生なんて、特にそういう機微には疎そうですし…」
ベルナデッタはそのあまりにも直接的な質問に、顔を真っ赤にして俯き、両手で耳を塞いでしまった。だがその指の隙間は、しっかりと会話が聞こえるように絶妙な角度で開かれている。
ベレスはドロテアのその踏み込んだ質問に、きょとんとした顔で少しだけ首を傾げた。そしてまるで今日の天気の話でもするかのようにあっさりと自信満々に答えた。
「大丈夫」
彼女の大きな緑の瞳には一点の曇りもなかった。
「カシアンが読んで勉強する「教本」は、私が好きな本だけだから。カシアンが買った「教本」は処分したもの。」
「あははははっ! さすがだわ、ベレス先生! 本当に隅に置けないんだから! なるほど、それなら心配ないわね! カシアン先生、完全にあなたの手のひらの上で転がされているってわけね!」
ドロテアはもはや我慢の限界といった様子で、腹を抱えて笑い出した。
ベルナデッタは二人の会話の意味が一部分からなかったが、ドロテアのその楽しそうな笑い声と、ベレスの穏やかで幸せそうな笑顔を見てつられるように、おずおずと嬉しそうに微笑むのだった。
テラスには三人の女性の明るい笑い声と、カシアンが淹れたハーブティーの優しい香りが、いつまでも、いつまでも響き渡っていた。
アイスナー領の夜は驚くほど静かで穏やかだった。領主の館、その執務室の暖炉ではパチパチと心地よい音を立てて炎が揺らめいている。だがその暖かな光に照らされる男――カシアン=アイスナーの表情は、フォドラ全土を相手に策を巡らせていた頃よりも遥かに険しく深刻だった。
彼は分厚い戦術書を読んでいたはずの手を止めこめかみを強く押さえながら、本日何度目とも知れない深いため息をついた。
(……なぜだ。なぜ、こうなった…)
彼の悩みの種は、帝国の再建でも王国の残党でもない。もっと身近で何よりも根源的で、彼の存在意義そのものを揺るがしかねない、極めて個人的な問題だった。
原因は寝室で、今も待っているであろう、愛する妻――ベレスにあった。
戦いが終わり二人が夫婦として本当の意味で結ばれた最初の夜。それはお互いにとって初めての経験であり、どこかぎこちなく不器用で、しかし探り合うような初々しさに満ちていた。カシアンはその未知の領域ですら自らの知性とリードで支配できると、心のどこかで高を括っていたのかもしれない。
だがその傲慢な予測は、一ヶ月も経たぬうちに木っ端微塵に打ち砕かれた。
ベレスの上達速度はカシアンの数倍早く、常軌を逸していた。
まるで剣の稽古で新しい型を覚えるかのように、彼女は夜の営みの全てを驚異的な速度で吸収し習熟し、そして発展させていった。最初はカシアンのリードに従うだけだった彼女が、いつしか巧みに主導権を握り、彼が想像もしなかったような領域へといとも容易く導くようになっていたのだ。
カシアンの脳裏に昨夜の記憶が蘇る。ベレスのペースに押され、なすすべもなく快楽の波に溺れさせられ、そして最終的にはまるで戦い抜いた後の兵士のようにぐったりと意識を失うように眠りについた、己の無様な姿が。
(…才能の差というものか…)
カシアンはかつてベレスの剣の才能を分析した時と同じ、冷徹な思考で現状を分析し絶望した。そうだ、これは紛れもなく才能の差だ。そしてこの戦場において、私は彼女に完全に、決定的に劣っている。
その事実は数多の戦場で勝利を重ね、その知略でフォドラの歴史すら動かしてきた彼の男としてのプライドを根元からへし折るには十分すぎた。このままではいけない。領主として、夫として、そして何よりも一人の男として、この状況は断じて許容できるものではない。何とかしなければ。
カシアンは残された合理的な思考を必死でかき集め、この絶望的な戦況を打開するための策を、何度も脳内でシミュレーションした。
案1:男友達や部下に性について聞く。
カシアンの脳裏に頼りにはなるアビスの仲間たちの顔が浮かんだ。
例えばユーリスやバルタザール。おそらく経験豊富で的確なアドバイスをくれる可能性が高い。だが彼らに相談した瞬間の光景が、あまりにも容易に想像できてしまった。
『へっ、旦那も隅に置けねえな。で? 具体的に、嬢ちゃんの何がそんなに「すごい」ってんだ? まあ、座って詳しく聞かせろや』
間違いなく面白おかしく根掘り葉掘り聞かれた挙句、その一部始終は、翌日にはアビス特製のゴシップ新聞『週刊アビス』のトップ記事を飾ることになるだろう。『女神に従う悪魔、夜の戦いでは女神に完敗か!?』などという不名誉極まりない見出しと共に。そしてその後半年は、領内の男どもから酒の肴にされ続けるに違いない。却下だ。
案2:専門書(エロ本)による自己学習。
これは既に試み、失敗していた。
数週間前、彼は帝都の裏ルートを駆使し秘密裏に数冊の「指南書」を手に入れていた。それを誰にも見つからぬよう、執務室の隠し棚の、さらに奥深くへと隠匿したはずだった。だがその夜。
『カシアン、それは何?』
背後に音もなく、ベレスが立っていた。彼女の瞳はいつもと同じように静かだったが、その奥には絶対零度の光が宿っていた。カシアンが弁解の言葉を探すよりも早く彼女は隠されていた本を全て取り出すと、何のためらいもなく、暖炉の燃え盛る炎の中へと、一冊、また一冊と投げ入れていったのだ。
『私以外の女性の裸が載っている本は、カシアンには必要ない』
その静かな有無を言わせぬ宣告。
ちなみにガルグ=マクの書庫に、この種の本は一冊もなかった。レアの奴、自分がママプレイを画策していたくせに、こういう方面の禁書政策だけは徹底していたらしい。全くもって、忌々しい。
案3:信用できる人(ジェラルト)に聞く。
この選択肢が脳裏をよぎった瞬間、カシアンの背筋を本物の死の予感が走り抜けた。
義父であり、この世で最も頼れる男の一人。だが同時に、この世で最もこの相談をしてはならない相手でもある。
『ジェラルト殿、少々ご相談が…。その、貴殿の娘御との、夜の…その、抱き方についてなのですが…』
そこまで言った瞬間にジェラルトの顔から全ての表情が消え静かに立ち上がり、壁に立てかけてある愛用の槍を手に取る姿が、鮮明に幻視できた。
『…なるほどな、カシアン=アイスナー。貴様、少しばかり稽古が足りていないようだ。夜が明けるまで、文字通り、俺が手取り足取り、俺がみっちりと鍛え直してやる』
そう言って槍の穂先をこちらに向ける義父の姿。冗談ではない。本当に殺されかねない。というか、その後しばらくは夜も本当に眠るだけになるまで槍か剣の特訓をさせられるだろう。絶対に、絶対に却下だ。
「………………」
全ての策が完璧なまでに打ち砕かれていた。
カシアンは再び深いため息をつくとがっくりと項垂れた。彼の類稀なる知性も悪魔的とまで言われた策略も、このあまりにも人間的で、非合理的な問題の前では全くの無力だった。
彼は静まり返った執務室で寝室へと続く扉を、まるで断頭台へ向かう罪人のような目で見つめた。
(…どうにかしなければ…)
その夜、アイスナー領の領主の館では、一人の男の誰にも知られることのない孤独で、あまりにも絶望的な戦いが静かに繰り広げられるのだった。
その夜、アイスナー領の領主の館、その一番奥にある主寝室は、月明かりと暖炉で静かにはぜる残り火の柔らかな光に満たされていた。シーツの微かな乱れと部屋に漂う甘く親密な空気が、先ほどまでここで繰り広げられていたであろう、夫婦の営みの熱を物語っている。
カシアンはベッドの上でぐったりと仰向けになり、荒い呼吸を繰り返しながら満足感と、それ以上の凄まじい疲労感に包まれていた。彼の隣ではベレスが穏やかな寝息を立てている…かのように見えたが、その緑の瞳は爛々と輝き、その表情は充実感に満ち溢れている。
(…勝った?…)
カシアンは朦朧とする意識の中で、かろうじてそう結論付けた。6:4程度に優勢だった気がする。自分が主導権を握れた時間帯があった。そうだ、今日の私は決して悪くはなかったはずだ。先日のような敗北ではない。互角の、実に濃密な戦いだった。
彼の脳裏にこの数日間寝る間も惜しんで読んだベレスから渡された本や、書庫の片隅から探しだした医術所を必死で読み解き、実践応用した成果が浮かび上がる。
(ふふ…やはり、知識こそが力。私の知略は、この戦場においても通用するのだ…!)
残り体力がカシアンは0、ベレスはまだ余裕という紛れもない事実には、今は敢えて目をつぶろう。重要なのは精神的な勝利だ。カシアンは久しぶりに取り戻した夫として、男として尊厳を取り戻したことに満足していた。
「カシアン、もう寝ようか。明日も早いから」
ベレスがカシアンの胸にそっと頭を預け、甘えるように囁いた。
「…ええ、そうですね。おやすみなさい、ベレス」
カシアンは愛する妻の髪を優しく撫で、満ち足りた気持ちでゆっくりと目を閉じた。心地よい疲労感が彼らを深い眠りの世界へと誘っていく。
…はずだった。
ベレスはカシアンが完全に眠りに落ちたのを、その穏やかな寝息で確認するとそっと目を開けた。その瞳の奥に淡い光が宿る。
(うん、さっきのカシアン、すごく良かったな。あの新しい動き、もう一回やって欲しい)
彼女は何の躊躇もなく、その身に宿した女神の力――天刻の拍動を発動させた。
ベレスの意識の中で世界が逆再生を始める。暖炉の炎が勢いを増し、消えかけた蝋燭が再び輝きを取り戻し、そして隣で眠っていたはずのカシアンの体が、ベッドからゆっくりと起き上がっていく。まるで、壊れた砂時計の砂が、下から上へと流れ出すかのように。
そしてベレスの意識は約2時間前の世界へと完璧に戻っていた。
ギィ…と、寝室の扉が、重々しい音を立てて開かれた。そこにはこれから始まるであろう夜の戦いに、並々ならぬ覚悟を固めた表情で、深呼吸を一つするカシアンの姿があった。彼は一生知らない。この戦いに向けて彼が用意してきた手札が既に知られていることを。
ベッドの上でベレスはゆっくりと体を起こした。そしてこれから起こる全てのことを知っているかのように、あるいは待ち望んだ好敵手の登場を喜ぶかのように、その美しい顔に悪戯っぽい、極めて蠱惑的な笑みを浮かべた。
「待ってたよ、カシアン」
「……!」
カシアンは全ての知略と覚悟を固めてきた。なのになぜ彼女は、まるで全てをお見通しであるかのように、私を待ち構えている…?
彼の背筋を戦略的な敗北を遥かに超える、もっと根源的で理解不能な恐怖が走り抜けた。
カシアンが己のプライドを賭けて挑む、夜の戦い。
彼はそれを自らの知略と経験、そして新たに得た知識で乗り越えようとしていた。
だが彼が対峙していたのは、ただの天才ではなかった。
毎晩、毎晩、天刻の拍動によって、似た戦いを何度も何度も繰り返し、最高の快感を得るための経験値を、文字通り「周回プレイ」で稼ぎ続けていた、恐るべき女神だったのである。
彼が想定していた才能の差などという生易しいものではない。それは圧倒的なまでの試行回数の差。
今後も彼の絶望的な戦いは続くだろう。
頑張れ、カシアン=アイスナー。君の本当の戦いは、まだ始まったばかりだ。