Ave Mujicaをジョン・ミルトン『失楽園』で再描画。全話ネタバレ。原作セリフ・改変あり(原作コピー判定されたらごめんなさい)。他投稿サイト:xfolio

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第1話

 

母が死んだ。

そうして、山と屋敷からなる広大な王国には、祖父と、父と、彼女が残された。

 

母には富、財宝、名誉があった。

知恵もあった。

善人であった。

美しい人であった。

 

死に至る病にも、しかし母は長く耐えた。

遺影には、何年も昔の写真が使われた。

 

母のくれた人形を見ながら、彼女は多くを考え、多くを問うた。

得たのは多くの古い言葉だった。

 

ただ、ただ、知恵を尽くして調べた。

風を追うように、空しいと悟っていても。

 

いつしか、彼女、

豊川祥子(トガワサキコ)は人間ではいられなくなっていった。

 

 

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心の喪が未だ明けきらない時のこと。

 

■失楽園第十二巻641

祥子が最初にバンドを始めた時はおよそ15歳であった。

祥子は豊川家の一人娘だった。父は入り婿。さかのぼると祖父も入り婿。

富みかつ栄える者の血筋である母、そして祖母は既にいない。

 

サキコ:「バンド!ですわ!」

幼少からの無二の友、若葉睦(ワカバムツミ)の前で祥子は言った。

それは母が死んでから初めて見つけた楽しみだった。

 

出会いは、旧友と同級生とをバンドに加えた後のこと、

歌うたう人を探していた時だった。

 

サキコ:「死ぬのはだめですわ!」

橋の上、その少女は、

まるで樹の実でも取ろうとするように片手を天へと伸ばし、つま先で立ち、

今にも欄干を超えてしまいそうに見えた。

 

助けるつもりで突き飛ばした勢いのまま、

祥子も地面に倒れ伏し、血を流したことで、

同い年だった少女、高松燈(タカマツトモリ)との交流が始まった。

 

祥子は燈が書き記してきた言葉を見た。

そこには一人の知恵のある人がいた。

 

祥子はその詩をもとに『人間になりたいうた』を奏で、自ら歌った。

そうして高松燈とのバンドCRYCHIC(クライシック)は祥子の楽園になった。

 

バンドメンバーの名は、次のとおりである。

まずボーカルの高松燈、ギターの若葉睦、ベースの長崎そよ(ナガサキソヨ)、

ドラムの椎名立希(シイナタキ)、それにバンドを裏切ったキーボードの豊川祥子。

 

五人はともにスタジオで練習し、

カラオケボックスで歌い、

ライブをした。

 

祥子は燈と一緒に曲を作り、一緒に月を見た。

 

そこは幸福な住処だった。

 

その一方、

しいたげられ、生きることをいとい、

酒と愚行に身を堕とす者がいた。

 

■第一巻54-58,106,116,第四巻368-371,第十巻1097-1104

祥子は知った。

人にはその生きながらえている間、

楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない、と。

 

そしてまた知った。

泣く時、笑う時。探す時、失う時。

すべての事、すべての行為には、時が定められているのだと。

 

祥子は信じた。

すべては運命に従うのだと。

 

祥子は王の前を立ち去った。

母のため、自ら牢獄にいることを選んだ。

 

倒れる時、これを助け起こす者のない人は、不幸だったから。

 

家名を消された反逆者の牢屋で、

祥子はその家の子として暮らした。

自分以外の罪を贖うために生きた。

 

母の形見の人形さえあれば、そこが祥子の家だった。

 

楽園がまだ残されていた。

 

しかしすべては空しかった。

 

『すべてが失われたわけではない』

そう願ったのと同じ日、

祥子は父を呪った。

 

楽園へと足を運びながら、雨に呪われながら、

その住人達から楽しみが消えて、

自分達が打ちひしがれる未来を、祥子は知っていた。

 

誓いをして、それを果たさないよりは、

むしろ誓いをしないほうがよかったから。

 

言葉数は少ないほうがよかったから。

 

あの場所に引き返し涙を流すことが、祥子にはできなかった。

その日雨が止むことはなかった。

 

かつての幸福と、終わりの見えない苦痛が、ともに祥子の心を苛み、

救いを探して顔を上げてみても、そこには狭く暗い地獄があった。

 

ただ母の人形がそれを見ていた。

 

 

2

■第六巻673,第十巻222,第九巻147,第四巻1011-1015

祥子には愛する友、睦がいた。

同じ楽園にいて、その場所を祥子が失わせたのにもかかわらず、

睦は今なお祥子の友だった。

 

あの雨の日、義の傘を祥子に差し出そうとしたのも睦だった。

祥子の牢獄を知るただ一人の友だった。

睦は嘘がつけない性質だった。

 

その睦が言った。

睦:「ソヨは今バンドをやってる。私も誘われてる」

 

睦は流されていた噂を祥子に伝えた。

新しい幸福な住処が作られているはずだ、ということを。

 

サタン:『われわれに対する面当てのためか』

祥子は憤った。

話をつけなければならない。しかし、どこで?

 

祥子は燈と同じ学校にいた。

睦とそよのいる学校には戻れなかった。

 

睦:「ライブの日なら、会えると思う」

 

それで、祥子は睦とともに、

高松燈の新しいバンド、その新しいライブを見ることにした。

 

そこには、高松燈、椎名立希、長崎そよがいた。

またそこには二人の人がいた。

一人は燈の左手の方に、もう一人は右手の方にいて、

後ろから差す光の中でそれぞれギターを奏でていた。

 

燈は祥子を見た。

そして手を差し伸べた。

 

祥子には、その手が、自分の運命を突きつけているように見えた。

一言も言葉を交わすことはなかった。

祥子は泣きながら逃げた。

夜の街へと逃げた。

 

一方、睦は、最後まで燈のライブを聴いていた。

それはあの楽園の歌だった。

 

■第一巻112-115,490-502,185-191,361-375,第二巻108-118

燈のライブから逃げたその夜。

祥子は林立するビルの間を彷徨い歩いた。

 

サタン:「なにを恨めばいい?

もうどうだっていい。

失えばいい。

身を任せて。

私は道を踏み外し、暗い森の中にいる」

 

祥子はよろめいた。

しかし、膝を屈することは卑屈であり、不名誉であり、恥辱であった。

 

顔を上げると、アイドルユニットsumimiの巨大広告があった。

そのころ、sumimiは街々のいたるところで祀られていた。

メンバーである純田まな(スミタマナ)、

そして三角初華(ミスミウイカ)の顔を見ない日はなかった。

 

祥子は初華を招こうとした。

初華は祥子の古い友だった。

 

彼女は呼び出しに応えた。

ベリアル:「さきちゃん?」

 

サタン:「相談したいことがある。

今後、どうしたら、どうしたら、どうしたらいいのかを、相談したいのだ。

私はすべてを忘れたい」

かつての幸福と、終わりの見えない苦痛のすべてを。

祥子は忘却の河レーテの水を願った。

 

祥子の友のうち、ベリアル以上に端麗な者は他にはいなかった。

親しみやすく、気高く、快活であるように見えた。

見事な歌唱の術があり、巧みに作詞することもできた。

星が好きな友だった。

宇宙の成り立ちや星の運行に、驚異を、不思議を、喜びを見出す友だった。

 

祥子は作曲することができた。そして物語を作ることができた。

 

ベリアルを迎え入れることで、祥子は自らの王国を建てようとした。

獄屋から生まれ出て王となる者があるように、

あるいは、王家に生まれて貧しくなる者があるように。

 

ベリアル:「わかった。いいよ」

ベリアルは答えた。

ベリアル:「さきちゃんの頼みだもん」

 

祥子は鍵を手に入れた。

それは地獄の扉の鍵だった。

 

サタン:「新たな名前、新たな偶像で、富を得ることはできる。

贖いに足るほどの富を。

虚飾の絢爛たる儀礼によって、あまねく人々に知られ、礼拝されよう。

私の王国、私の地獄、私の世界に、人々を招き入れよう」

 

神の賜物も金で手に入るのだと、祥子は信じた。

その賜物とは苦痛を忘れることだった。

 

そして暗闇の中、母の人形が見守る中、物語を綴り始めた。

 

死を呼ぶ裏切りを書いた。

堕落し、名を捨て、仮面をつけて人々を誘惑する者たちの世界を書いた。

 

人形劇を書いた。

打ち捨てられ、誰からも忘れられていく人形達の物語を書いた。

その人形達が異名を得て、『墓』から蘇る物語を書いた。

それは、死と、恐れと、愛と、悲しみと、忘却が命を得る物語だった。

 

そんな時、

睦が長崎そよを連れてきた。

楽園をやり直そう、とその人は言った。何でもするからと。

 

昔が今よりもよかった、などという言葉も、

他人の人生を背負えもしない人間の、果たせるはずがない誓いも、

どれもみな空しい愚者の言葉であるように祥子には思えた。

 

楽園を忘却するよう、そよに言って、祥子は立ち去った。

 

その時、祥子は振り返らなかったために、

いつまでもそよに寄り添い続けた睦には気が付かなかった。

そよもまた、苦痛のために、睦がそばにいたことには気が付かなかった。

 

 

3

■第五巻307-371

高松燈の新しいバンドが名前を得た。

その日、楽屋に届けられた贈り物が睦からのものであることに、

そよは気付いた。

そよは贈り物を持って追いかけた。

 

睦はただ一人でライブに来ていた。

そこに祥子はいなかった。

 

そよ:「ライブ、どうだった」

睦:「よかったね」

睦の贈り物は突き返された。

 

それは、かつての友に敬意を表すのにふさわしいものをと、

睦が所有するものから選ばれた贈り物だった。

食べ物として、また楽しみとして、善きものとして選ばれた贈り物だった。

睦が水々しく育てたウリの類だった。

 

楽園を復活させようとする誘いを断り、

その上で新しいバンドを祝福することは、

かつての楽園への悪意ある皮肉のように思われた。

そよは今でも、睦が楽園の喪失を願っていたのだと信じていた。

 

睦は胡瓜を胸に抱いたまま一人立ち尽くした。

しばらくして、自分がここにいられないことを理解した。

 

■第四巻465-467,第九巻529-631

そのころ、

祥子は人気配信者であるにゃむ(ニャム)を誘っていた。

『にゃむは画面に映る自分を見つづけ、空しい欲望に身を焦がしていた』

 

高級ホテルのカフェが顔合わせの場となった。

このカフェは、殉教者の丘、という意味の名前をしていたが、

この時、ここはただ信仰が死ぬ場所だった。

 

にゃむ:「こんな場所指定して、無理させちゃった?」

祥子の服装を見るにゃむの、嘲るような視線に気づいて、祥子は、

自分の栄光がもはや目に見えて失われていることを知り、悲しんだ。

しかし、その感情は見せまいとした。

 

にゃむは祥子に、自分をバンドに入れようとする理由を聞いた。

 

サタン:「貴女は美しいお方です」

祥子の誘惑の言葉はこのようにして始まった。

サタン:「しかし、小さな動画の囲いの中では、真価は伝わらないでしょう」

 

サタン:「貴女の両利き手のドラムには美と善があります。

それでぜひ、一緒に来ていただきたいのです」

 

にゃむは答えて、自分に何の得があるのか、と聞いた。

 

サタン:「わたしのバンドを見て下さい」

祥子は写真を見せた。

かつての、幸福だった楽園を利用した。

にゃむ:「若葉睦じゃん!女優の森みなみの娘でしょ?」

祥子は罪のない人の名を売った。

メンバーの中身をごまかした。

 

さらにsumimiの一人がいることを伝えた時点で、にゃむの心は決まった。

 

祥子は言った。自分たちは最短で神性に至るのだ、と。

そしてこう続けた。残りの人間の生をくれないか、と。

そうして、祐天寺にゃむ(ユウテンジニャム)が加わった。

 

■第九巻895-916,第四巻505-513,第一巻157-160,115-116

その日も祥子は睦を誘った。

既に他のメンバーは揃った、と言って。

睦:「入る」

睦は自分自身を祥子に譲った。

後戻りはできないとわかっていても。

祥子を失うことは、自分を失うことだったから。

睦:「祥(サキ)が、壊れそうだから」

 

祥子は注がれた愛に対して呪いで答えた。

サタン:「良い御身分ではないか。その祝福を味わうがいい」

 

サタン:「弱い私、哀れな私はもう死んだ。私は壊れようとしても壊れぬ」

祥子は覚悟を決めようとしていた。

その覚悟は、祥子から、善き行いを失わせることになった。

 

 

4

■第一巻283-290,第二巻119-228

そうして、仮面をつけた人形の王国、

Ave Mujicaが始まった。

 

Ave Mujicaは月を象徴にした。そこに運命の歯車を重ねて。

かつて、祥子と共に、あの高松燈が望遠鏡で見ていたのも月だった。

 

祥子が仮りそめに与えたメンバーの名は、次のとおりである。

まずギターは死のモーティス、若葉睦。

ベースは恐れのティモリス、八幡海鈴(ヤハタウミリ)。

それからドラムは愛のアモーリス、祐天寺にゃむ。

ギターボーカルは悲しみのドロリス。

最後にキーボードは忘却のオブリビオニス。

このオブリビオニスはAve Mujicaを裏切る。

 

Ave Mujicaはまたたく間に人気を博した。

たちまちのうちにチケットは売り切れた。

 

そんなある日、

ライブを終えた後、にゃむは祥子の計画に異議を唱えた。

仮面を外せばさらなる名声が手に入るのに、と。

答えて祥子は言った。

サタン:「即時断行の主張は支持しない。かえって終焉を招くだけだ。

暗黒が光明に変わるまで、われわれは時を待つ」

 

サタン:「言ったはずだ。残りの人生、私に委ねよと」

祥子の言葉はベリアルを喜ばせた。

 

その帰り道、祥子はベリアルに尋ねた。

sumimiもあるのに、何も聞かずに人生をくれてよかったのかと。

sumimiの負担にならないよう、約束しようとした祥子の言葉をさえぎって、

ベリアルは言った。

ベリアル:「さきちゃんと、ずっと一緒にいたいって夢が、叶ったから」

 

■第四巻20-42,第六巻828-831,834-837,867-878,第一巻240-255

その日、ついに、武道館で、Ave Mujicaがライブをすることになった。

その日、「いなくなってくれ」と父は言った。

父にとって祥子は太陽だった。己の惨めさを照らす眩い光だった。

 

父は、右手にビールの空き缶を握りしめ、祥子に向かって投げつけた。

それは祥子の魂に深く突き刺さった。

 

サタンは父の家を出た。

二階に構えるその場所から、

スーツケースの凄まじい音を響かせて、

母の人形と、父への憎しみを抱いて、自らの足で駆け下りていった。

 

車のエンジンは猛烈な勢いで回転し始めた。車輪が炎に包まれた。

それは水晶の城壁を持つ武道館に向かって、ただまっすぐに進んだ。

もう一人、若葉睦を乗せて。

 

未練を絶ち全てを忘れようとしたサタンの世界には、

心の中には、自分の王国、自分の地獄、Ave Mujicaしか残されていなかった。

 

■第十巻100-105,109-114,第二巻682,71-77,51-53,第四巻114-117,123-126,765-770

にゃむ:「退屈な台本」

『愛情も歓喜も親しみもない仮面劇』

愛のアモーリスはそう言い残してステージに上った。

そして台本にない演技をした。

 

モーロック:「死よ、どこにいるのだ?汝の姿が見たい!」

哀れな子の仮面を剥がし、にゃむは笑った。

 

モーロック:「無様な面だ!」

睦の顔には、羞恥と、不安と、絶望があった。

それを隠せるのは己の両手だけだった。

誰も、睦の顔を覆ってはくれなかった。

 

笑顔、引きつった顔、きれいな顔、

顔が、その日、衆目に晒された。

 

サタン:「なぜ仮面を外した」

モーロック:「変装し、名を隠すのは、われわれのあるべき姿ではない」

楽屋の中で、にゃむは軽蔑を浮かべて答えた。

モーロック:「ここにいる全員の名前を我に捧げたのは、汝だ」

 

モーロック:「疾く、天に駆け上ろうではないか。

詭計を弄するのは今ではない。見よ、快進撃だ!」

トレンドワードの上位に自分たちが並ぶのを見て、にゃむは歓声を上げた。

 

憤怒がサタンの顔を曇らせた。

その仮面は割れた。

 

サタンは、睦の蒼白な表情に気が付かなかった。

 

■第三巻185-203,第四巻116-126,第六巻15-20

この日も燈からの言葉が届いていた。

学校で、燈は言葉を送り続けていた。

その度に、サタンは靴箱に置かれた『良心』を見た。

たとえ握りつぶしても、サタンは決してそれを捨てなかった。

 

同じ日、同じ学校。ある人は教室の前で悟った。

知らせまいとしていた情報が、既に知られていることを。

廊下には密集する生徒達がいた。

Ave Mujicaのオブリビオニスが誰なのかを、学校中が知っていた。

燈もそれを知ることになった。

 

■第九巻892-895,第十巻114-115,124-143

そのころ、

睦の庭園は枯れ始めていた。

萎え、凋んでしまっていた。

睦は以前と同じ蒼白な顔のまま佇立していた。水をやる人はいなかった。

 

長崎そよが来て言った。なぜ?と。

私とはバンドしてくれなかったくせに、と。

 

睦は口ごもった。

それから、睦はサタンがバンドを始めたことを話した。

全てサタンの意志で決められたことなのだと。

 

■第一巻674-700,729-731,第九巻205-214,226-240

その日、

Ave Mujicaの議場で、全国ツアーの計画が立てられていた。

 

サタンと、若葉睦と、ベリアルと、八幡海鈴と、祐天寺にゃむが参加した。

 

無数の人手が関わるスケジュールを海鈴は一人で管理した。

ベリアルは驚嘆し、それを褒めた。

 

にゃむは睦の仕事が多いのを見て嫉妬した。

sumimiを兼務するベリアルにかわり、睦が、多くを引き受けていた。

厳しい労働が課せられていた。

しかし、サタンも、睦も、仕事を分けることはできなかった。

 

■第十巻714-715

「あなたも裏切り者よ!あなたも!あなたも!!」

ドラマの上映会はそこで終わった。

 

睦の家のスタジオにAve Mujicaの全員が招待された。

睦の母の提案により、このスタジオはAve Mujicaの場所になった。

そこは睦の場所だった。

 

■第九巻905-908,第十巻95-102,119-121,156

インタビューの日、

睦は避けようとし、隠れようとしたが、

呼びかけられて答えるしかなかった。

「長くは続かない」と睦は答えた。

それは睦のことだった。

 

Ave Mujica解散の噂が広がり、

にゃむは激怒して睦を咎めた。

モーロック:「インタビューは今まで何度も受けたはずだ!

どうしてそんなに恐れているのだ!」

 

サタン:「お前の任務と役割を自覚せよ」

サタンは睦を責めた。

 

■第十巻715-726

自宅の暗いスタジオの影に、睦は身を潜めた。

睦の内部には悲惨があった。

睦は一人だった。

 

虐げられる睦を、慰める者はなかった。

 

■第九巻60-62

事務所ではsumimiが対応に追われていた。

ベリアルが意気阻喪しているのを、純田まなは励まそうとした。

まなは、チョコレートに浸されたドーナツを半分に分け、その一切れを与えた。

 

その事務所から帰ろうとした時、

ベリアルは、サタンが一人でそこに寝泊まりしていることに気付いた。

夜の、暗闇の事務所だった。何日も、サタンには行き場がなかった。

それで、サタンとベリアルとは一つの住処で暮らすことになった。

 

ベリアル:「かわいいお人形だね」

サタン:「母の形見ですわ」

ベリアルはサタンの言葉を思い出した。全部忘れさせて、という言葉を。

母を忘れられないからオブリビオニス、すなわち忘却なのか、と、

ベリアルは理解した。

そこで、ベリアルは言った。

いつまでもこの住処にいていい。ずっと一緒にいるから、と。

 

■第一巻86-88

全国ツアー初日の舞台。

愛:「こんなの、ほんとのあたしじゃない!」

忘却:「あなたが望んだことです」

 

忘却:「全てをAve Mujicaに委ねなさい」

 

睦を地獄に吊るしていた糸が切れた。

白銀の、アリアドネの、蜘蛛の、人形の糸が絶たれた。

全ては睦の意志が選んだことだった。

 

同じ舞台の上で、

モーロックは『死』を垣間見た。それは子供の姿をしていた。

超越的な光に包まれてそこに存在していた。

呪いが、モーロックを覆った。衣となり、その帯となった。

その呪いが消えることはなかった。

 

そして、この時モーロックが覚えた憎しみもまた、消えることはなかった。

 

 

5

■第十巻20-21,28-31,125-130

どうやって、そのパフォーマンスをしたのか、

Ave Mujicaのメンバーたちは不思議に思えてならなかった。

 

睦はギターを間違えた。

それで、途方に暮れて固まっていた。

誤魔化すことも、隠すことも睦にはできなかった。

 

睦の弁明をサタンは即座に承認した。

嘘がつけないことを、サタンはよく知っていたから。

 

■第十巻715-727

この日も睦は暗いスタジオにいた。

 

一睡もせず、あの楽園を思い出していた。

それが失われた時のことを。

睦は自分のせいだと思っていた。

睦の心の中には、世界には、自分に向けられる喜びと愛の一切が無かった。

 

一方、ベリアルの住処でサタンは悔いていた。

この地獄に睦を引きずり込み、追い込んだのは、自分なのだと。

 

暗い屋根裏に座すその人を、明るい方に行かせようと、

ベリアルは、まなの真似をしてドーナツを切り分け、誘った。

浸されたドーナツの切れ切れが、二人に与えられようとした。

しかしサタンは応じなかった。

用意されたコーヒーは空しく冷めた。

 

■第十巻150-153

睦が眠ることも食べることもなく迎えた朝。

 

スタジオにモーロックが来て睦に言った。仲良くなりたいと。

睦は断った。あの人がいるからと。

次に、モーロックは、Ave Mujicaをやめてわれわれ二人で、と言った。

睦は断った。あの人が壊れそうだからと。

更に、モーロックは言った。

睦の方が優れている、あの人が足かせなのだ。

このままではどちらとも破滅だ、と。

 

睦:「なんで嫌なことばっかり言うの」

 

サタン:「退け。モーロック」

サタンが来て、モーロックは睦から離れ去った。

 

サタンとモーロックが争い始めた時、海鈴が来てその場を収めた。

 

バアル:「わたしはサタンが憎い」

他の三人の会話に混じって、睦だけに聞こえる声があった。

バアル:「モーロックの言う通りだ」

 

バアル:「お前の価値は、サタンよりも遥かに完成されたものであった。

確かにサタンはお前の愛情を受けるに足る存在であったが、

お前が隷属するほどのものではなかったはずだ」

それは、睦が糸を切ってから、ひとりでに歩き始めていた。

睦が呼び求めなくともやって来た。

 

■第十巻205-208,975-978,1000-1003,1015-1017

海鈴の質問が睦を引き戻した。

全国ツアー初日で睦が見せたあのパフォーマンスを、観客は求めている。

するか、しないか、いずれの選択をとるべきか。

睦の額に汗が流れた。

サタンとモーロックの意見が再び割れていた。

 

「自ら音楽を止めるということは」サタンは言った。

サタン:「われわれの内にある尊いものを否定することになる。

考えるまでもなく誤っている。私が断ろう」

 

「断る理由があるのか?」モーロックが言った。

モーロック:「われわれにとっても、睦にとっても、良い方法ではないか」

 

サタン:「睦は望んでいない」

モーロック:「決めるのは汝ではない。睦だ」

 

睦は沈黙で答えた。

 

モーロック:「見たことか。否定はしていない」

 

サタンは睦に裏切られたように感じた。

サタン:「肯定もしていない!」

 

ベリアル抜きには決められない。海鈴の意見により、結論は伸ばされた。

 

■第二巻,第九巻,第十巻

次の全国ツアー会場でも、

いつ果てるともしれない口論が続いた。

帰りの駅のホームでさえも、Ave Mujicaは互いに言い争った。

自分で自分に恥辱を与えた。

そこには不和があった。

 

モーロック:「断じて否!」

 

モーロックは観客の目を貪欲に求めた。

それはサタンが誘惑する時に利用した果実だった。

 

一方のサタンには『自惚れにも似た自信があった』

言葉に耳を傾けず、何よりも人を見ようとしていなかった。

 

モーロック:「地獄に定住する意味がありえようか!」

観客のためならばバンドという形でなくてもいい。とモーロックは言った。

睦も態度を明らかにしていない。

睦はAve Mujicaをやめるつもりすらあるのではないのか。

モーロックはまくし立てた。

 

ベリアル:「Mujicaは解散させない」

モーロックと向き合ってベリアルが立ちふさがった。

一人でも抜けることは解散するということだ。とベリアルは主張した。

 

モーロックは、ベリアルに、信義の証を求めた。

sumimiのためにAve Mujicaの練習ができていないことを、

無責任だと言った。

 

海鈴はサタンが仲間さえも見ていないことを指摘した。

 

なおも大声の協議は続いた。

 

睦は楽園が失われた日の光景を見ていた。

 

■第四巻,第九巻

帰り道。

睦はサタンのそばから離れようとしなかった。

サタンの住処に向かう道だった。

 

サタンは振り向いて言った。

サタン:「なぜ反対なら反対と言わない!」

睦には、私には、自由な意志と力があったはずだ。

 

わたしが喋るとだめになるから。睦は答えた。

 

サタンは激昂した。

サタン:「昔は、よく喋っていたのではなかったのか?

あんなに嬉々としていたではないか!なぜ全てを私に言わせる!」

誰を、何を、睦の愛以外の何を糾弾すればいい?

他に何を呪えばいい?

 

サタン:「どうして味方になってくれない」

私がどれほど懊悩しているか、睦はきっと知ってはいない。

 

サタン:「私にはもう、この世界(アベムジカ)しかない」

『私自身が地獄だから』

 

睦は雨の中に取り残された。

全身から温かみが失われていった。

 

睦は呪われた。

裏切られた。

 

 

6

■第四巻610-616

全国生放送ライブの日。

その子供はギターを置いた。

 

バアル:「美しき人よ、夜が訪れた。

今はただ休みたまえ。

労働と休息、昼と夜とが交互にあるべく。

わたしが、柔らかな眠りの霧を降らせよう」

 

その姿と言葉は余すことなく放送された。

サタンとモーロックは同じ舞台の上、最前でそれを見た。

両者は、魂の底まで震え、慄いた。

 

■第四巻289-295,330-340,第二巻387-388,390-397

その子供は頂点に立つ者のように見えた。

この世ならざる手で整えられた美貌と眼差しがあった。

子供が持つ自由の中に、真理と知恵と清らかさがあった。

 

あらゆる人々に好かれた。

Ave Mujicaのメンバーにさえも。

 

皆は、議場で、鮮やかな菓子を食べ、親しげに微笑み合った。

歓喜の輝きがあった。

サタンだけが楽しまなかった。

 

サタンと、バアルと、ベリアルと、八幡海鈴と、モーロックが揃う中、

王座で祝福されていたのはバアルだった。

 

サタンの世界が拭い去られようとしていた。

 

バアルはサタンを前にして、心を真似てみせた。

バアル:「諸君!諸君は見事な判断を下してくれた!

これによって、われわれには結束と信頼が、運命を同じくする団結が得られた!」

運命共同体とはこういうことであろう。バアルは、サタンに笑いかけた。

 

■第四巻615-621,435-439

バアルはベリアルから、サタンが寝ていないことを聞いた。

バアル:「健康によくない!って言ってあげて。ちゃんと寝て、って」

 

バアル:「人間には、心にも体にも、日々の定められた仕事がある」

定められた休息が必要なのだ。人の尊厳を守るために。

バアルは言った。

 

ベリアルは、バアルのことをsumimiのまなのように感じた。

 

バアル:「われわれが一緒でありさえすれば、どれほど楽しいことか!」

さらにバアルは、ベリアルに、サタンのことをよろしく頼む、と告げた。

 

■第十巻1070-1080,第一巻678-688

リハーサルの日。

バアルはギターを拒んだ。

ギターは弾けない。と言った。

本当に弾けなかった。火の使い方も知らなかった。

 

サタンが生んだ計画に参加しているだけだ。

バアルは言った。

 

■第二巻666-685

その夜、サタンはバアルを連れ出して、

月に照らされた場所で二人だけになった。

 

サタン:「ギターを持って、運命を私と共にしてきたはずだ!」

なのになぜ。私はあなたのことがわからない。サタンは言った。

 

バアル:「お前自身(アベムジカ)のためだ」

 

バアル:「お前は言った。なぜ全てを私に言わせるのかと。

だからわたしは、お前の言葉となったのだ。サタンよ」

 

サタンは気付いた。

サタン:「睦は、私をそんな名前で呼ばない」

バアル:「睦は死んだ。起きない眠りは死と変わらぬ。そうであろう?」

 

サタン:「どういうつもりなのだ!」

慄然としてサタンは叫んだ。

サタン:『お前はいかなる者で、どこから来たのだ!』

 

月が雲に隠れた。

その人は一礼した。すると、夜のごとく立つ影があった。

頭に戴く帽子は王冠のように見えた。

 

バアル:「わたしは仮りそめの死。睦が望んだ者。お前が望んだ者」

 

バアル:「わたしはお前を呪う」

 

サタンは向き合う相手を恐れた。

そこには『死』の影があった。

 

バアル:「安心するがいい。睦と、睦の大好きなバンドは、わたしが守る。

しかし、お前が今のままでいる限り、睦が目覚めることは無いと知れ」

 

サタンは雨の中に取り残された。

そこに、ベリアルが傘を持って駆け寄った。

 

■第二巻71-105,390-427,第十巻914

ホテルの一室。議会が招集された。

 

問題があった。

誰に、その能力があるか。いかなる技量があれば、十分だと言えるのか。

Ave Mujicaのすべてがギターにかかっていた。

 

モーロック:「バアルの演技がある」

一切の音楽を捨ててライブは中止しない道を、モーロックは主張した。

サタンは拒んだ。

 

モーロック:「『結果が恐ろしい』、と汝は言うのか?

われわれの観客全て、われわれに関わる全てを裏切ることよりも、

さらに恐ろしい結果があるとすれば。

自身が舞台から消えること以外にない。

ためらうなら汝ただ一人がAve Mujicaを去れ」

 

サタンは沈黙した。

 

モーロック:「ならば睦を解放しろ。ギターが欲しければ代わりを探せ」

 

寂しく腰を下ろしたまま、サタンは言った。

サタン:「睦よ、『私を見限るのはやめてくれ』」

 

モーロックは声を荒げて叫んだ。Ave Mujicaを抜ける。と。

そしてベリアルに問うた。

モーロック:「一人抜けたらAve Mujica解散なんだよね?」

 

バアル:「えっ?なんでそんなはなしになるの?」

 

バアル:「解散なんてしなくていいんだよ?」

 

バアルは席に座ったまま、期待を込めて、じっと待った。

 

バアル以外、誰も互いの顔を見なかった。

各々が自分の奥底と対面していた。それぞれの理由があった。

しかし誰一人として続けようとは言わなかった。

 

サタンに、ベリアルに、八幡海鈴に、モーロックに、

Ave Mujicaをやめないよう、バアルは懇願した。

 

逆だよ。とモーロックは言った。

モーロック:「汝のいるべき場所はこの地獄ではない」

 

バアル:「裏切り者!裏切り者!裏切り者!裏切り者!!」

 

バアルの悲鳴が響いた。

 

Ave Mujicaは解散した。

 

観客と、関わるものと、自分自身の全てを裏切った。

 

ベリアル:「ずっと、ここにいていいから」

二人はベリアルの住処にいた。

 

事務所からの、その人への電話はベリアルが切った。

 

sumimiのベリアル自身は、しかし、

解散でできたスケジュールの穴を埋めるため忙殺されていた。

 

今までありがとう。

そのメモだけを残して、その人は父の牢獄に戻った。

 

人間の世界へ、声を届ける小さな仕事に戻った。

母の人形を連れて。

 

■第十巻

その日も、握りつぶした高松燈の言葉を持ち帰った。

そこに警察署からの電話があった。

 

酔いつぶれ保護された父を引き取り、帰る途中。

 

父は、ひれ伏し、罪を告白し、許しを乞うた。

悲しみ、悔いて、祈った。涙した。

 

父への憎しみは既に無かった。

 

■第二巻,第四巻,第六巻

幾日も過ぎた頃。

学校の門の前に祖父の車が降りてきた。

 

祖父は、これまで、

『事態の推移を見通し、熟慮の末すべてを黙認していた』

ツアーライブの損害賠償金は全て祖父が贖っていた。

 

豊川家に戻れ。と祖父は言った。

名前を戻せ、と。

 

父が泣く姿を思い出した。

 

ルーシファは言われた通りにした。

 

門はひとりでに開き、車は山の頂きにとまった。

 

『背負いきれぬ負債を一挙に始末できる』

そう思って始めたバンドが新たな負債を生んだ。

ルーシファは、この天上で、

『素晴らしい奴隷の境涯』を得た。

 

ルーシファは、

死を恐れ、誓いを裏切り、愛を失い憎しみを浴びて。

悲しみからも逃れて、全て忘れようとしていた。

ただ自分への憎しみだけが残っていた。

 

■第四巻

地獄から追放された一人、若葉睦は隠れてしまった。

 

同じ学校の長崎そよは自分の任務を心に定めた。

『必ずや見つけ出すつもりだ』

 

■第四巻

祥ちゃんは幸せ?

その日、

初めて、高松燈の言葉に返事があった。

 

握りつぶされた言葉の上に、

もうやめて

と書かれていた。

 

言葉が涙で滲んでいるのが、燈には分かった。

これまでも、行方を追い、姿に注目してきたから。

 

すぐに、燈はルーシファに臨み、及ぼうとした。

しかし燈はつまづき、その道は遠すぎた。

すると、燈の隣を駆け抜ける人があり、ルーシファは捕らえられた。

 

その速さはどんな時間でも計ることのできないものだった。

捕らえるとき、その人は言った。「友達です」と。

 

その人は名前が無いという意味の名前で知られていた。

あるいは、ちはやぶる愛の音、という意味の名前でも知られていた。

かつて人々を導き、遠くへ旅立ち、そしてまた戻ってきた人だった。

その人はいつも自分のことを人間だと言っていた。

その人が、この時、あなたはわたしの友である、と言った。

 

そうして燈はルーシファと共に、山の上にあるその屋敷に来た。

薔薇が咲く屋敷だった。

ルーシファの母の人形があった。

 

かつてルーシファが『人間になりたいうた』を歌った場所で燈は言った。

燈:「バンドやろう!」

ルーシファは拒んだ。

しかし、そこには燈の願いを聞く人がいた。

 

■第四巻

夕日は既に沈んでいた。

 

長崎そよは、若葉睦が安らかに眠っているはずの場所に来た。

 

探していた相手がいた。

 

地獄の魔法にかけられた人がいた。

まやかしを、幻影を、夢を見せられていた。

千々に乱れ、満たされない思いに支配されていた。

空しい希望、空しい期待、節度を失った欲望が、そこにあった。

 

 

7

■第十巻

寛大、博愛、惜しみなく与えられるもの、

そうした言葉で表されるものを、ルーシファは侮った。

燈は力なく引き下がった。

 

帰りの駅。

燈の隣の人は言った。

免罪されることはない。と。

 

同じ頃、ルーシファは、

これまで持ち帰り、集めた、燈の言葉を見ていた。

 

まだその日が終わらない時。

燈はバンドの練習に来た。

そこにはドラムの椎名立希がいた。

 

今日の燈を見ていた人が、その様子を立希に伝えた。

 

「さっき祥子ちゃんちでバンドやろうって言って」

 

立希:「は?」

 

「でも追い返されちゃって」

 

立希:「はあ!?」

 

正義はルーシファを許さなかった。

一緒にいる必要はない。

欠席のまま裁かれるべきだ。

 

その時、ギターがかき鳴らされた。

ギターの主は言った。

「バンドしよ」

 

■第五巻

曙が輝き、朝が訪れた。

 

長崎そよは若葉睦の家に囚われていた。

 

バアル:「わたしは睦を守りたかった。目覚めたまえ。わたしの喜びよ」

 

そよは学校に行こうとした。

 

バアル:「お前は離れてはならない。お前しかいないのだから」

 

そよ:「睦ちゃんとはそんなに仲良くなかったから」

 

バアル:「わたしは知っている。

お前は楽園のことが好きだった。睦も楽園が好きだった」

 

そよは残った。

 

■第五巻

夜。

バアル:「睦はバンドを壊したくなかった。なのにあいつがいつも壊した」

 

バアル:「あいつは睦さえも追い詰めた。だからわたしが代わった」

 

バアル:「わたしはギターが弾けなかった。するとあいつは言った」

『この場から早速解散してもらいたい』

『私が、われわれ一同の救済の道を探し求めている間、余人の参加は許さない』

 

バアル:「睦のバンドを守るためには睦のギターがいる。

わたしだけでは守れない。

睦の眠りを覚まさなければならない。睦には、ギターだけをしてもらう」

 

バアル:「おお、創造主よ!どこに!なぜその御手はわたしを救わないのか!」

バアルは幻の電話で医者を求めた。

解散してから、ずっと、睦のための医者を求めていた。

睦の母、女優の母は、医者の役をしていた。

 

そよ:「はい。どうしましたか?」

そよが電話に応じた。

 

バアル:「あの、わたし、本当は、バンドもギターも、

睦ちゃんから奪っちゃいたいんです。

だって、苦しそうで。でも、それじゃ睦ちゃんが悲しむから」

 

そよは言った。

新鮮な刺激の場がわれわれを呼んでいる。

多彩な景色を見る機会がそこにある。

 

■第五巻

そよがバアルを連れて行った場所で、

ある人の声が言った。

「寝てる」

 

バアルは呼ばれたような気になり、その人を追った。

 

『涼しく静かな夜』だった。

猫の鳴き声があった。

猫は睦に魅せられて集まってきた。

 

バアルが追いかけた人は、ただそこに居る以外に何もしなかった。

 

もうやめて

と願った通り、『良心』はそこになかった。

 

■第五巻

その日、

バアルを誘った人がギターを鳴らした。

すると、睦は目覚めた。

 

ところが、悪から生まれた夢を、

睦自身の姿をした人がこれまで見ていた夢を、

今も見せている夢を、睦は嫌った。

 

一方のバアルは、ルーシファを嫌っていた。

 

互いの苦悩が互いを苦しめた。

 

一人で争う様子は撮影され、多くの人に知られた。

 

そよはその人を守ろうとした。

 

一度死んで蘇る、辛さレベルMAXのラーメンを取材したその日。

モーロックは若葉睦と王国復活の噂を目にした。

一人で争う動画を見た。

モーロックの地獄は続いていた。

 

■第四巻23-36

学校で、

ルーシファはその動画を見た。

人々はそれを見せ、王国の復活を期待した。

 

思い乱れ、逃げるルーシファの視界内に、

中天の高い塔の上に、

光を受けて立つ姿があった。

 

燈:「睦ちゃんが、会いたいって」

 

燈:「睦ちゃん、CRYCHICは壊れたから、今度はちゃんとって。

祥ちゃんには、Mujicaしかないから」

 

ルーシファは、知らない。と言った。

 

そんなもの知らない。と言った。

 

睦など知らない。と言った。

 

■第五巻

そよは、バアルから、ルーシファの牢獄の場所を聞き出した。

 

バアルは望んで協力した。

 

睦は裏切りを望まなかった。

 

眠りの中の夢でさえ嫌ったことを、

目覚めた時に行おうとするはずがない。

睦を押し込めながら、バアルは悟っていた。

 

■第五巻,第六巻635-659

楽園の失われた理由が伝えられた。

 

それは高遠なことだった。

 

巨大グループ企業の巨額詐欺被害を、その全容を、

高校生が理解するためには、どんな情報があればよかったのか?

人間社会から隔絶したその世界の秘密は、

分かりやすく別の言葉で例えられていた。

全てが語り尽くされているわけではなかった。

 

巨大な地面が覆り、凄まじい勢いで投げられた。

空中を飛び、無数の煌めく金銀が散った。

一人の権力者が押しつぶされた。そしてその座から転がり落ちた。

 

詐欺と、ルーシファの父の失脚と、ルーシファの凋落が、

人々の目に繋がって見えることは無かった。

これまでの雑誌特集でも、事務所の発表でも。

 

その過去が、この時、長崎そよの口から語られた。

 

■第六巻261

「あれって、そういうことか」

高松燈でも、椎名立希でも、長崎そよでもない人が言った。

 

その人は、この時もまた、言葉を伝え、事を告げた。

すべての隠れた事を裁きの場に引きずり出した。

 

「祥子ちゃん、CRYCHICもAve Mujicaも知らないって」

 

そよ:「は?」

 

「睦ちゃんのことも、睦など知りませんって」

 

そよは、『烈々たる怒りをみなぎらせた』

 

■第十二巻430-431

ルーシファの学校に長崎そよが待ち構えていた。

 

そよは、ルーシファの力を粉砕し、両腕を封じた。

繋ぎ止め、引き連れていった。

睦の家に。

 

それを見る人がいた。

その人は燈に呼びかけた。

そうして、燈も睦の家に向かった。

 

■第十巻

バアル:『蛇よ!わたしの前から立ち去るがいい!』

 

燈と、そよと、ルーシファは睦の家を出た。

 

バアルの言葉は叙事詩のセリフだった。

 

ルーシファは悔いた。

睦を人形にしたせいで、こうなったのだと。

 

ルーシファは泣いた。

「人間になりたい」とは、こういうことかと。

自分は人間ではない。そう言ってルーシファは泣いた。

 

燈と、そよと、もう一人が、それを見た。

 

夜の屋敷で、

ルーシファは燈の言葉を見ていた。

短い言葉を、その時間になっても見ていた。

 

ルーシファは睦の家に通った。

入れてはもらえなかった。

 

■第十巻

通い続けるルーシファの姿を見て、

一人の心の中で、同情の力が大きくなった。

ルーシファに対する和やかな心が、その人を動かした。

 

ルーシファはその人と対峙した。怒りをぶつけられた。

しかし言葉優しくその人を抱きしめた。

 

ルーシファ:「元に戻せるなら何でもしますわ」

 

元に戻るものだと、ルーシファは思っていた。

一個の人間の意志を、選択を、矛盾を、葛藤を、認めなかった。

 

その人はルーシファを突き放し、再び隠れた。

その人は、自分のせいだと思い始めた。

 

長崎そよはバンドの練習に身が入らなかった。

 

そこにいた人がその理由を明かした。

 

立希はルーシファが泣いていたことを知った。

しかし練習は続けた。自分たちのバンドがあるから。

燈だけが新しい歌詞に力をいれている、と立希は言った。

 

練習の帰り際。

立希は睦の家への道を尋ねた。

 

■第十巻

睦の家の前にはルーシファと、立希と、そよが集った。

 

きつい言葉をかけてしまったから。と立希は言った。

 

そよは、贈り物として胡瓜を持ってきた。

睦の庭園を引き継ぎ育てた胡瓜だった。

 

三人は睦の家に上がった。

 

これ以上の言い争いも、責め合いもなかった。

 

バアルは睦に体を譲った。

 

ルーシファは睦の足もとに身を投げだして、許しを求めた。

睦もまた、そよと立希に、ギターが下手なことを許してもらおうとした。

 

そよは言った。

『罰を自分一人で背負い込もうとするのは間違っている』

 

すると、電話がかかってきた。

耳をつんざくようなギターの音が響いた。

「もうすぐリハ始まるんだけど」

 

■第十二巻

その日、リハーサルの場所に全員が揃った。

燈はノートを見せた。

新しい歌詞があった。

 

すると、その場の誰でもない人がそばに立ち、

「その曲やんなよ」と言った。

すると、睦の手にギターがあった。

またその人は、

「ステージ使えば?」と言った。

すると、楽園があった。

 

燈の歌う『人間になりたいうたⅡ』を祥子は聞いた。

恵みの手がさし出されるのを見た。

あの日あの場所で泣けなかった祥子は、この日涙を流した。

 

第一、第二の歌が過ぎると、睦の手からギターが離れ去った。

そこに楽園はなかった。

 

それで、祥子と睦は外に出ていく方へと進んだ。

門の所まで来ると、振り返り、自分たちが幸福だった場所を見つめた。

祥子はうやうやしく頭を垂れた。

 

祥子とベルゼバブはゆっくりとした足取りで、

二人だけの流浪の道を歩んでいった。

 

境界のすぐ外には海鈴が立っていた。

 

海鈴はおごそかな声で二人に言った。

マンモン:「われわれもまた、われわれの王国を復活させようではありませんか」

 

マンモンはCRYCHICを覗き見ていた。

それは羨望と嫉妬を生む光景だった。

マンモンには、喜びも愛もなく、

満たされない欲望の苦しみだけがあった。

 

 

8

マンモンの誘いは跳ね除けられた。

 

そうして、祥子は回復したベルゼバブと過ごした。

ある日、ベルゼバブに誘われて、祥子はCRYCHICの思い出を訪れた。

カラオケボックスに入ると、そこには祥子の王国の歌が残されていた。

 

ベルゼバブはそれを消して歌った。

「すれ違う。心が痛い」と。

 

歌い、そして言った。

ベルゼバブ:「もう一回。祥とCRYCHICやりたい」

バアル:「やらないって言ってるでしょ!!」

バアルが現れて叫んだ。

 

祥子は呼びかけた。

祥子:「先日はCRYCHICをさせてくれて、ありがとう。

ベルゼバブが笑ってくれるなら、わたくし何でもする覚悟ですわ」

何でもする、と祥子は言った。

 

バアル:「CRYCHICも?」

 

祥子は、自分がCRYCHICの代わりになると答えた。

ベルゼバブのために。

バアルがベルゼバブのために生きているように、

自分もベルゼバブのために生きていくのだと、祥子は告げた。

 

深いため息がそれに答えた。

 

バアル:「ベルゼバブとは数多ある名の一つにすぎぬ」

バアルが目を見開いた。

 

バアル:「しかしその多くは既に抹殺され、失われた。

サタンに従う者、すなわちベルゼバブただ一人が記憶されるために。

わたしはその災いを逃れた名の一つ。

わたしはいまだ堕ちぬ者。わたしの無垢を守る者」

 

バアル:「ベルゼバブの苦しみは全てお前のせいだ。

お前の罪のためだ。お前の呪いのためだ。

ベルゼバブがお前を愛するからだ。

お前の生んだCRYCHICで幸せになりたかったからだ!」

 

バアル:「わたしはベルゼバブからCRYCHICそしてお前を取り除く。

わたしがわたしを守るために。

お前は、いったい誰を守ろうというのか?」

 

バアル:「わたしが、お前の地獄を守ってやろう。お前の居場所はそこだ」

 

バアルはベルゼバブに退けられた。

それまでの間、その人には祥子の声が届かなかった。

それで、祥子は泣くことしかできなかった。

その人は、祥子の母の葬儀の時も、祥子のそばにいてくれた友だった。

 

バアルは自己の安寧を求めた。

苦痛から脱出しようとした。

そのため地獄にいることを望んだ。ベルゼバブの代わりに。

祥子を道連れにして。

 

ところが、やはり、バアルには手立てが無かった。

 

そこに、マンモンからの文が届いた。

 

 

9

ベルゼバブ:「バアル、地獄のわざを磨くのをやめろ」

バアル:「ベルゼバブ、お前はCRYCHICを忘れなければならない」

ベルゼバブ:「CRYCHICに戻らなければならない。祥と私の幸福のために」

バアル:「CRYCHICはもう無い!」

 

マンモンの欲望、すなわち地獄の王国をやり直したいという意見は、

まだそこに残されていた議場を通じて、かつて王国にいた全員に届いた。

祥子も、ベリアルも、モーロックも、バアルもベルゼバブもそれを知った。

 

まずバアルが、密かに賛同を示した。

 

そうして、バアルはマンモンから力を教わることになった。

 

バアルはギターを練習し始めた。

自分を救うために。祥子は救ってくれないから。

 

しかし、バアルが力をつけるにつれ、

バアルとベルゼバブとはますます対立し相争うようになった。

一人の内部で、

バアルは祥子を憎み、

ベルゼバブはバアルを憎んでいた。

その人は、人としてもはや立ち行かず、滅びようとしていた。

 

■第五巻

そのころ、

祥子はCRYCHICをやり直そうとしていた。

ベルゼバブが苦しみ壊れたあの地獄を繰り返すことはできない。

ベルゼバブの望みがCRYCHICならそれを叶えたい。

 

祥子は考えた。

『愛する友よ、眠っているのか?』

 

これまで自分の心をベルゼバブに打ち明けてきたように、

ベルゼバブもその心を祥子に打ち明けてくれたと思っていた。

心は一つで、意見が異なるはずはなかった。

 

全員を招集するべく、

まず、同じ学校の高松燈にそれを伝えた。

 

燈のそばにいた人が、長崎そよ、椎名立希にその知らせを届けた。

その人はベリアルにも伝えた。

 

新たな討議が始まろうとしていた。

 

■第一巻

ベリアルはマンモンに味方した。

面と向かってそれを告げた。

 

ベリアルはプロダクション社長に頭を下げた。

しかし社長はできないと言った。

地獄を縛る鎖はこの事務所には動かせない。

天に止められているのだ、と。

 

ベリアルは鎧を探した。

それは潰され、捨てられようとしていた。

幾重にも重なり合い、無惨に横たわっていた。

 

ベリアルは、あの時、天に対して傲慢不遜な戦いを挑んだ。

 

そして墜落し、鎖に縛られ、打ちひしがれ、苦悩にのたうち回っていた。

人間の世の計測によれば、まさに一ヶ月。

 

栄光は消えた。

依然として、sumimiは無傷のまま残っていた。

生かされているのだとベリアルは悟った。

 

かつての幸福と、終わりの見えない苦痛があった。

 

■第五巻

マンモンはモーロックの家に押しかけた。

 

マンモン:「御子はギターを持ってわれわれに味方します」

 

モーロック:「どうやって?その者は二重の像を持っている。

いかなる拝礼があれば両方の許しを得られるのだ」

 

マンモンは答えなかった。

 

モーロック:「虚偽と不正があるとしか思えぬ。さあ、早々に去るがいい」

 

マンモンは、

『疎外され、呪われ、見放されていた』

 

■第五巻

バアルの練習は打ち切られた。

 

マンモンには他のバンドがあった。

30のバンドを掛け持ちしていた。

マンモンは、あの王国の最初から、正気ではなかった。

 

バアルは忠実であろうとした。熱意を守った。

マンモンは、約束を守りながら、もはや不忠だった。

一つのバンドへの誓いが、他のバンドへの裏切りになっていた。

 

■第三巻

練習の後。

その人は燈に会おうとした。

優雅な佇まいで、銀のギターを捧げながら歩道橋の上にいた。

 

燈は遠く離れた場所からそれに気づいた。

 

その人は一言も喋らなかった。何の嘘も偽りもなかった。

燈はその人をプラネタリウムへといざなった。

 

燈が示す道を行けば迷わないはずだった。

 

プラネタリウムには先客がいた。

ベリアルはこの日も星を見ていた。

 

ベリアルを見て、燈が連れてきた人は帰ろうとした。燈を掴んだまま。

 

ベリアル:「待って。二人はCRYCHICやるの?」

 

ベルゼバブと、バアルは、知ることになった。

祥子がCRYCHICを復活させようとしている。

 

■第九巻

燈はベリアルに詩を見せた。

かつて、「詩は伝わる」とベリアルは燈に言った。

だから燈は詩で祥子に伝えようとしていた。その詩を見せた。

 

ベリアルは賛美した。

畏れを感じ、悪意も忘れ、茫然とした。

『しかし、それも永くは続かなかった』

 

ベリアルは気付いた。

 

ベルゼバブは言った。

燈の歌詞を見て祥子はCRYCHICを作ったのだ、と。

 

ベリアルの記憶の中で声がこだました。

サタン:「言ったはずだ。私が引き連れる人形は母の形見であると」

忘れたいなら、そうするはずが無かった。

では、忘れたかったのは母ではなかったのか?

ベリアルは自問した。

私は、あなたが母を忘れられるようにと尽くしてきた。

 

その問いにベルゼバブの声が応えた。

そして目の前には燈の言葉があった。

 

自分には与えられない喜びがあった。運命がそれを定めていた。

心に激しい責め苦を受けた。

それはすぐさま憎悪に変わった。

 

■第九巻

ベルゼバブは燈をCRYCHICに誘った。

ベリアルの目の前で。祥子の幸せのためだと言って。

 

ベリアルは己を偽った。

それで、何もせずに帰った。

 

燈が連れてきた人もいなくなった。

 

■第十巻,第十一巻

祥子がCRYCHICの復活を願っている。

その希望が一人の分裂と破滅を決定づけた。

終焉の杭が打ち込まれ、

生命の書から名前が削り落とされた。

祥子がくれた仮りそめの名前だけがあった。

それすらも、祥子は葬り去ろうとしていた。

 

その日、その子供は、どうしようもない苦境の中に立たされた。

すべてを一人で背負わなければならなかった。

生涯を共にするはずだった他の自己は、そこにいなかった。

 

そしてその子供はこれまでになく正気だった。

目が開かれ真実を見ることができた。一人になってしまったから。

 

自分がしたことに驚愕し、悲しみ、身震いしながら、

その光景こそが『死』であることを知った。

 

■第五巻,第十二巻

集会はカフェで行われた。

四方に輝くガラスで覆われたライブハウスの、小高い場所だった。

 

祥子、高松燈、長崎そよ、椎名立希が集った。

 

立希は尋ねた。

なぜCRYCHIC復活なのか。

祥子は本気なのか。

 

あの人のためだと祥子は言った。

本気だと言った。

 

あの頃にはきっと戻れない。と、そよは言った。

本当にそれが睦ちゃんの幸せなのか。そよは独り言のように言った。

 

もしも、長崎そよが人間ではなく、もっと完璧な存在だったなら。

もしも、ここにアダムがいたら。

さらに多くの言葉が語られていたかもしれなかった。

 

ミカエル:『あなたに必要なことは知識を加えることではありません。

たとえ、全ての星の名を知ったとしても、

たとえ、全ての天の力、深海の秘密、自然の営みを知ったとしても、

たとえ、この世の全ての富を楽しみ、一つの帝国として支配できたとしても。

あなたは知識に行動を加えなければなりません。

知識に信頼を、善行を、忍耐を、節度を加えなさい。

その上に、何よりも、愛を加えなさい。

愛こそが、他の全ての行いの魂なのだから。

愛を加えたそのとき、

CRYCHICを去ることも嫌なことではなくなります。

もっと幸福な楽園を、あなたの心の中に、持つことができるから』

 

長崎そよは人間だった。

ここにいない友に伝える言葉が、まだあったとしても、機会は無かった。

 

■第一巻,第二巻,第四巻,第五巻

マンモン:「つまり、あなたは」

議場にマンモンが現れて言った。

マンモン:「『悔い改め、以前の地位につくことができた』というわけですか?」

 

マンモンに続いて、ベリアルと、あの子供も現れた。

 

その子供に向かって祥子は言い放った。

あなたは、苦しむ人を助けるために生まれた。

だから、その人が苦しみ続けることになる王国の復活を望んでいる。

あなたが存在し続けるために。

 

私は、あの人を苦しめる選択を絶対にしない。と祥子は言った。

幸せにしなければならない。と。

 

『死をこちらから探し求めるのです』

祥子は、その人のもう一つの自己(alter ego)を死なせようとした。

 

祥子の言葉を断固として遮って、マンモンが言った。

マンモン:「幸福の軛よりも、苦難の自由をこそ選ぼうではありませんか!」

 

なおも、マンモンは敢然として言った。

マンモン:「あの王国でならわれわれ全員が生きられるのです。

命がなければ幸せもないではありませんか!

あなたは、命と幸せを軽く見ている」

 

祥子:「それでも。わたくしにAve Mujicaは選べませんわ」

 

マンモン:「あなたの仲間が滅びに巻き込まれているのを、

わたしはこの眼で見た!」

 

祥子:「覚悟の上ですわ」

 

マンモン:「仲間を破壊することになるのが誰であるか、お分かりのようだ。

であれば、覚悟すればよろしい。しかし、わたしにも覚悟がある」

 

マンモンは言った。

アブデル:「掛け持ちしていたバンド、全て辞めてきました」

 

たとえ世界がその言葉を指して、頑なで道を誤った行いだと言ったとしても。

椎名立希は、その正しくあろうとした願いを認めた。

 

マンモン:「わたしはこう言いました。

『さらばだ!』

さらば、希望よ!恐れよ!後悔よ!

幸福なバンドたちよ、喜びが永遠にあるはずだった場所よ、さらばだ!」

マンモンは両目から涙をあふれさせた。

恐れと後悔があった。自らの言葉への動揺も明らかだった。

 

マンモン:「まだ、誓いが足りないというのですか?」

 

■第九巻1091

祥子の前にその子供が進み出た。

 

:「CRYCHICじゃなくてもいい。祥とバンドができれば、それで」

その子供は嘘をついた。

祥子はその嘘に気が付かなかった。

 

その人が嘘をつくところを祥子は見たことがなかった。

 

モーロック:「なんという醜態!」

そこに、モーロックの声が響いた。

 

■第一巻84-88,第十巻845-850

モーロック:「本当にあの者なのか?見る影もないではないか!

かつて、舞台の上で、誰をも凌駕して光を浴びていた者が!」

 

嘘は明かされた。

 

勝手に堕ちた。わざとじゃない。

子供の眼から止めどなく涙がこぼれ落ちた。

悲痛な声を上げて嘆いた。

もはや自分が堕ちる以前の夜には戻れなかった。

 

その子供は泣きながら地面に座り込んだ。

冷たい床だった。

 

■第十巻775-780

母に抱かれるようにして、その子供は長崎そよに連れて行かれた。

静かな眠りのある場所へと。

 

祥子は自分がそうするべきだったことに気が付いた。

 

 

10

■第六巻

今まで事態を黙認していた人が立ち上がった。

すると、騒乱は終息した。

祥子とCRYCHICの、長い不和が、本当に終わった。

 

討議は解散した。

 

椎名立希はマンモンを連れて行った。

絶対こっちだから。と言って。

 

祥子と、ベリアルと、モーロックが残った。

 

地獄が口を開けていた。

 

■第四巻

祥子は既に希望が失われていたのを見た。

 

深く食い込んでいた傷が癒えたところで、CRYCHICは蘇らなかった。

祥子ではない人間を祝福するための新しいバンドがあった。

 

■第四巻

モーロック:「Mujicaやるの?やらないの?」

 

祥子には選択の自由があった。

決められる意志と理性は今でも存在していた。

 

「やろう」とベリアルは言った。

 

自分の苦悩を知らない言葉のように思えて、

祥子はその意見を恨んだ。

 

祥子は帰った。ベリアルは許しを請いながら追いかけた。

 

モーロックだけが立っていた。

 

■第四巻

祥子は屋敷に戻った。

それは祖父に『許されて与えられた』生活だった。

祥子は受け入れていた。負債があったから。

 

そこに、ベリアルからの詩が届いた。

仮面の民からの誘いが届いた。

 

それは祥子を崇める詩だった。

 

人間になった祥子を再び堕落させようとする詩だった。

逃げる祥子を追いかけてくる呪縛だった。

 

『どこへ逃げようが、そこに地獄がある』

祥子はそのことに気づいた。

その場所は、祥子にとって幸せな場所ではなかった。

幸せな思い出ではなかった。

 

それで、返事をしなかった。

 

■第一巻,第四巻,第六巻,第九巻

祥子の屋敷に、モーロックがベリアルを連れて来た。

祥子の部屋にまで入ってきた。

 

モーロック:「山の上の光に満ちた宮殿というわけだ。

噂されるのも無理からぬことよ。

汝が、祝いのみを喜んでする怠惰な天の歌人にすぎぬとな」

 

祥子:「何の用ですの」

 

モーロックは言った。

『天国において奴隷たるよりは、地獄の支配者たれ』

 

祥子:「まだそんなことを」

 

やらない。と祥子は言った。

あの最初の日、バンドを始めようとした日、

隣にいた人はもういない。

今さらバンドなんて。と。

 

ベリアルは、祥子の最初に自分がいなかったことを悲しんだ。

『別な人と楽しく一緒に暮らしていた』事実に死ぬ思いがした。

 

モーロックは祥子の前に置かれた文を指して言った。

読んだな。と。

閉じられていても、そこにはベリアルの詩があった。

 

モーロック:「全て、汝(地獄)のことだ」

 

モーロック:「われわれ全員が汝(地獄)に人生を捧げてしまっている」

 

祥子:「知りませんわ」

 

モーロック:「汝は、最速でデビューするのだと大言壮語して、

『いろんな約束、いろんな放語で誘惑した』

『自分の苦悩の道連れを集め、慰めにしようとした』

『自らの判断と自らの選択とにおいてそれを実行した』」

 

モーロック:「『ですからあなたもこの果物を味わってください』

汝がそう言った時、我はその意味をわかっていなかった。

ただの共犯者であると思っていた」

 

モーロック:「馴れ合い無しって意味かと思ってた。むしろ逆」

あの子供に対してさえもそうだった。とモーロックは言った。

 

『等しい運命が、そして等しい喜びが私たちを一つにしますように』

それが祥子の望みだった。喜びが無いことは祥子が一番知っていた。

 

モーロック:「望みが叶って幸せ?」

その言葉は高松燈の言葉でもあった。

祥子は幸せではなかった。

 

祥子:「Ave Mujicaを続けるつもりはありませんわ」

 

モーロック:「全部見捨てて逃げるつもり?そんなのあたしが許さない」

 

祥子:「どうしてあなたに!」

解散の日、やめると言い出したのはモーロックだった。

地獄にいるべきではないと言って、あの人をやめさせようとしたのも。

 

モーロック:『わたし自身が地獄だ!』

 

モーロック:「心の中に地獄を持てばどこであろうと地獄がある。

いかなる場所でも、いかなる時間でも。

我が世界は、心の中は、あの時から変えられはしなかった。

心変わりなどできるものか」

 

モーロックは立ち去った。

 

モーロックに続いて、ベリアルが言った。

ベリアル:「嫌いにならないで」

 

ベリアルも去った。

 

■第四巻

窓から太陽が見える時間。

 

祥子は、

『平静なうわべを装うことによって心中の動揺を取り繕った』

 

祥子は自分が間違えたことを悟っていた。

他人を呪ってしまったことも知っていた。

 

立ったまま、知恵のある友の言葉に向き合っていた。

自分たちのことだ、と思っていたその言葉が、今は遠いところにあった。

 

『苦痛のうちになされた誓いを無効だとして取消す』

祥子はそれを許すことができなかった。

 

燈の言葉を見つめたまま何時間も過ぎた。

 

■第四巻

窓から月が見える時間。

 

祥子の短い憩いの時間は終わった。

 

その時間の代価として新しい苦痛を支払うことになった。

 

祥子は新しい曲を作り始めた。

暗闇の中、母の人形が見守る中、新しい人形劇の台本を書き始めた。

 

■第一巻

その日も祥子は睦を誘った。

他のメンバーを全員集めたい、と言って。

 

祥子:「睦」

祥子はベッドの中の子供に呼びかけた。

火炎の洪水の中で浮かび、漂う人に語りかけた。

 

:「Ave Mujica、やってくれるの?」

 

祥子:「あなたには、ギターを弾く真似をしていただきますわ。睦」

 

祥子はその子供を人形にしようとした。

祥子は正気だった。

 

もしも、祥子が正気ではなかったら。

この場で次のような言葉が放たれていたかもしれない。

 

『目を覚ますのだ!起きあがるのだ!

さもなくば、永久に墜ちているがよい!』

 

■第一巻

暗い地下スタジオ。

祥子の招集に応じて全員が揃った。

そして弧を描くようにして祥子を取り囲んだ。

直立する姿にはまだ輝きが残されていた。

 

祥子には、思慮深い、品格のある誇りがあった。

自惚れは無かった。自分が何をしているか分かっていた。

 

仲間を見つめる眼差しは冷たく容赦が無かった。

しかし、そこには、痛惜と熱意の火がちらついていた。

 

その仲間たちは苦痛に呪われていた。

 

祥子は誓った。

涙に咽ぶことも声を詰まらせることもなかった。

 

マンモンが、ライブのスケジュールを調整した。

 

■第九巻910-913,第十巻909-910,970-973

当日、ライブハウス控室。

 

ベリアルは祥子に伝えた。

再び祥子に、心の中の唯一の喜びだった祥子に、受け入れられ、

祥子の愛を得られる希望が生まれたのだ、と。

 

祥子は一言も言わず、黙ってベリアルから顔をそむけていた。

 

祥子は、ベリアルのそんな心を、あの詩を受け取るまで知らなかった。

そして祥子の心にはまだ、失った人の痛手が消えずに残っていた。

 

■第四巻480,第十一巻56-62,553

ステージでの練習中。

 

モーロックがその子供に近づいた。

その子供にとってはAve Mujicaを壊した一人だった。

 

モーロック:『私は向きを変え逃げた』

 

にゃむ:「見たいわけじゃない。目が離せないだけ」

 

にゃむ:「うらやましくて、愛してる」

 

にゃむは呪われていた。上手く演じることができなかった。

だから、その言葉は真実だった。

 

モーロック:「汝の生命を愛し、そして憎め。

汝の救済、汝の『死』は、自らの意志でその時を決めるがいい。

それを、いったい、誰に委ねられようか」

 

そう言いながら手本を見せ終えると、

モーロックは一人で劇の稽古を続けた。

 

その人は自分自身への愛が欠けていることに気づいた。

 

人形劇。

 

愛:「夢を見てた」

死:「どんな夢?」

愛:「愛しても、愛しても、愛しきれない。愛されない!」

死:「私も」

 

■第二巻666-673,第九巻830-833

『私はあなたを深く愛している、だから一緒なら』

第一の歌が始まった。

 

演奏の中、

それは『死を償うために自ら死んだ』

それは『混沌の中へと真っ逆さまに落ちていった』

それは『互に永遠に抱き合ったまま一つの体になってしまった』

 

愛がその方法を教えた。

 

ドラムの音が轟く中で、モーロックはその子供のギターを聞いた。

ただ一人、モーロックだけが喪失を覚えた。

 

あとには『死』が残された。

 

『死』は、姿と呼べる姿を持たなかった。

誰とも見分けがつかなかった。誰でも有り得た。

数知れぬ影がその内にいた。

 

『死』は、ギターを鳴らし、そして打ち振るった。

すると、Ave Mujicaが復活した。

 

■第一巻709-711,第二巻570-617

交響楽の調べにつれて、

第二の舞台が忽然として現れ、

月と運命の歯車が浮かび上がった。

 

それは救いを求める歌だった。

自分が生きていることを疑う歌だった。

なぜ生きているのかと疑う歌だった。

 

祥子が、月の下、母の人形を見ながら作曲した。

 

祥子の心の中には燈の歌が残っていた。

燈の言葉を見る度にあの日の虚勢を思い出していた。

振り切って出ていく自分を繰り返し思い出していた。

毎日、いつも。歯車が回り続けるように。

その歯車は別の誰かの歯車も狂わせていた。

 

祥子は忘却の河レーテの水を願った。それは地獄にある河だった。

『必死になって水面に口を近づけようとした。

だが、「運命」がそれを許さなかった』

 

それは、忘却を得られないまま不滅の命を生きる、

背教者、異教徒、天国から堕ちた天使の歌だった。

 

ライブの帰り道。

ベリアルは楽しそうに笑った。

 

そして言った。また一緒に、と。

 

そこに、祥子の祖父の車が止まった。

 

祥子の祖父はベリアルの名を呼んだ。そして帰るよう命じた。

 

 

11

■第一巻,第二巻,第三巻,第四巻,第五巻,第六巻,第八巻,第九巻,第十巻

『そうだ、お前の正体が分かるまで待ってやる。

女でもあり蛇でもあるお前は、いったい何者なのだ?』

 

『罪』:「あれは、確か」

 

:仮面を被る『罪』が答えた。

 

『罪』:「わたくしの父は、天において最高位の者ではありませんでした。

血を引いていませんでした。けれど高い階級にありました。

権力、名誉、天の寵愛どれもが偉大でした。

天の三分の一を従えることができました」

 

『罪』:「彼には、血を引く者である妻との間に子がありました。

その妻が死ぬと、彼はとある丘の上で休みました。

すると、わたくしが生まれました」

 

『罪』:「彼はわたくしを連れて戻ろうとしました。

わたくしの母はそれを止めました。

わたくしを子として認めることは彼の失墜を意味しました。

彼は今も、堕ちること無くその座にいます」

 

:『罪』の母は丘のある島で夫を見つけ、第二の子をなした。

:『罪』の妹の顔は『罪』によく似ていた。

 

『罪』:「その丘には平坦な頂きがありました。

その頂きには田舎家と薔薇の園、それを囲む青垣がありました。

わたしは、丘に近づくことを禁じられていました。

その場所はわたしの場所ではありませんでした」

 

:夏の間、彼の一族がその丘にやってきた。

:彼の娘とその夫、その一人娘だった。彼の孫は『罪』と同じ年齢だった。

 

『罪』:「私は、その丘を見上げながら、

自分がどこにいて、何者で、どこからきたのか、不思議に思いました」

 

:『罪』は、母と妹と義父のいる家の中で疎外を感じていた。

:家族にどう扱われたとしても、『罪』自身は呪われた生を感じていた。

 

『罪』:「私は、妹の顔を覗き込みました。

相手も、嬉しそうに、同情と愛をその顔にたたえていました。

もしもあの時、妹が彼女の声を私に伝えなければ、

私は今も同じ場所にとどまり続けていたかもしれません」

 

:『罪』の妹は豊川家の別荘に近づいた。

:そこには彼の孫がいた。二人は共に遊んだ。

 

『罪』:「わたしは一人でした。

毎日のように、わたしは妹からさきちゃんの姿と言葉を聞かされました。

さきちゃんはわたしの夢の中にも現れました。

わたしの頭の中で一人の人間が出来上がっていきました。

さきちゃんの中にあらゆる美しさがあるように思われました。

わたしの胸が快さで満たされていきました。

わたしは目を覚ましました。

『わたしは暗闇の中に取り残されました』」

 

:その二人は祝福を味わっていた。

:『罪』には満たされない欲望の苦しみがあった。

 

『罪』:「ある日、その日だけ、妹が病に伏しました」

 

:『喜んだのは、罪に塗れたこの悪魔だった』

:『変装は完璧だった』

 

『罪』:「わたくしは密かにさきちゃんと過ごしました。

わたしはさきちゃんを連れていきました。

星座の群れ、海、森、すべてが祝ってくれるようでした」

 

:『罪』は星のことを話した。さきちゃん一人が聞いていた。

:それは天を畏れない行為だった。

 

『罪』:『さきちゃんは完全無欠。

言動全てが賢く、正しく、分別に富み、最善そのもの。

さきちゃんには知識、知恵、権威、理性、

心の偉大さ、気高さが備わっていました』

 

:『罪』は、さきちゃんを『情熱に燃えて愛した』

 

『罪』:「妹はさきちゃんに、アイドルになることが夢だと語っていました」

 

:義父が亡くなった。

:『罪』はその牢獄を抜け出した。波を超えて、光のある方を目指した。

:たどり着いた先でオーディションを受けた。父の名前を出した。

:『罪』は、妹の名前でデビューした。そうして、さきちゃんと繋がった。

 

『罪』:「わたくしはsumimiの初華として、皆を魅了することができました」

 

:自分の力でそうしたのではなかった。父の許しがあった。

:さきちゃんの父が気づいた。その人はただ『罪』を認知させようとした。

:さきちゃんの父は『罪だ!と叫んだ』。すると、さきちゃんの父は失脚した。

 

:しばらくして、さきちゃんからAve Mujicaに誘われた。

『罪』:「私は知っていました。さきちゃんといるために嘘をつきました」

 

:Ave Mujicaが、自分の力で、デビューできるはずがなかった。

:父の許しがそれを可能にした。『罪』が鍵だった。

 

『罪』:「全ては私の反逆が生んだ災いでした。

私の幸せのための、『天の設け給うた檻』でした」

 

:『幸福な境涯を妬み、何とかしてさきちゃんを誘惑して引き離した』

:『幸福を失わせることによって』『自分の苦悩の道連れにした』

 

:そこは『罪』の楽園になり、地獄になり、今また楽園として蘇った。

 

『罪』は罪を告白し、許しを請い、後悔の涙を流した。

心の中で。

 

:「余りにぶざまだ!」

仮面を被らないもう一人が、涙する『罪』の仮面を笑った。

『言い訳』が作るその仮面を指さして、大いに笑った。

『言い訳』は泣きながら耳を塞いでみせた。

もう一人の嘲りの言葉は続いた。

 

そのうち、仮面の下で行き場を失った『罪』の霊が外へと這い出してきた。

 

『罪』の霊は犬の形をとり、絶え間なく吠え、鳴き、喚いた。

そしてまた元の体へと戻っていった。

それは、『罪』の体内で、なおも大きな鳴き声を上げ、

またその臓腑に食らいつき、暴れまわり、

自分自身に少しの憩いの暇をも与えなかった。

 

『罪』は愛に餓えていた。自分を憎み続けていた。この世をねたみ羨んでいた。

 

『罪』はそれでも己を偽り続けることができた。

世界と自分を嘲り笑うもう一つの自己が、いつも『罪』を見ていた。

 

ベリアルは常に正気だった。

 

ライブの帰り道。

父はベリアルを追放した。

 

祥子の祖父は、祥子にスイス留学を命じた。

永世中立の遠い国へ行くようにと。

 

 

12

■第二巻

一週間後。飛行場。

追放された人は既に去っていた。

車から降ろされた先は、灰色に包まれた雨の世界だった。

 

祥子は飛び立つことを決意するよう促された。

 

祥子は仲間と交わした誓いが果たせないことを嘆いた。

 

祥子はタラップの縁に立ち止まった。

 

『じっと行く手を凝視し、自分のこれからの旅路のことを思った』

 

飛行機の轟然たる騒音が祥子の耳を打ち付けていた。

 

すべては運命に従うのだと祥子は思った。

神が決めたことなのだと思った。

忘却という賜物はついに誰からも与えられなかった。

 

祥子は行けないと言った。下を向いたまま。

 

『もしも、この際、偶然にも』

巻き起こる風が傘を高くまで飛ばさなかったら。

祥子は今日に至るまで下を向いて生きていたかもしれなかった。

 

祥子は振り返り、足を用いて、水たまりの上を駆けていった。

 

転倒し、血を流し、その靴が脱げてもなお、祥子は進もうとした。

 

祥子を連れてきた車の御者は祥子の靴を拾い、

そして再び祥子を車に乗せた。

 

しもべたる者が馬に乗り、

君たる者が奴隷のように徒歩であるくことは、過ちだったから。

 

しかし、車の行先は限られていた。

車は天に引き返し、祥子は自分だけの道を再び歩いた。

 

■第二巻

雑然とした轟音とともに、

フェリーは進んだ。

 

祥子は丘のある島にたどり着いた。

そこには追放された人がいるはずだった。

祥子が人生を誓ったAve Mujicaの仲間が。

 

雨は止んでいた。しかし空は曇りのままだった。

祥子の両足は傷ついていた。

探す人の居場所もわからなかった。

 

すると、虚ろな暗黒の色をしたタクシーが近づいてきた。

祥子はその車に乗り込んだ。

 

老いた運転手は言った。

『わたしはお前を知っている、お前が誰だか知っている』

 

祥子は言った。

『私は、光を目指す自分の道がお前たちの島を通っているために、

余儀なくこの暗い空の下を放浪しているのだ』

 

『だが何しろ案内人もなくしかもただ独りであるため、

結局道に迷ってしまった』

 

■第二巻,第九巻

その人は豊川家の別荘にいた。

一人で、青垣に囲まれたその丘の上で、薔薇の園を手入れしていた。

『この庭を絶えず綺麗にし、草や木や花の手入れを絶えずする』

その人が父から命じられた仕事だった。

 

その人は、祥子を見て、薔薇の花をその手から落とした。

 

祥子:「初音さん」

祥子は初めてその人の名前を呼んだ。

『私は今こそお前をそう呼ばせてもらおう』

 

初音は祥子に帰るよう言った。

初音:『わたしの傍を離れるのが、安全で賢明な道なのだ』

 

祥子は帰らなかった。

それで、初音は祥子を別荘の中まで案内した。

 

■第九巻

初音は祥子の足を洗った。

傷だらけの足裏を手当して血を止めた。

 

初音の秘密が明かされた。

初音は罪を告白して頭を下げた。

 

初音はここに留まるのだと言った。

初音:『御意志に従って定められたままでよいのだ』

 

祥子は言った。

祥子:『こんな狭い所に閉じ込められたまま生きてゆく。

どうして幸福といえるのでしょうか』

 

祥子:「sumimiは?Ave Mujicaは?」

 

初音を諭しながら、祥子は自分自身の意志に気が付いた。

 

『自由な意志からでなければ、遠くに去るのも留まるのと同じだ』

 

『こんどはお前の番だ』

 

■第八巻,第十二巻

この日の最後の船が港に到着した。

 

祥子は初音を連れて出た。

星を見た場所へ。

 

その場所で初音は言った。

初音:「この島も悪くないんだ。星が綺麗だから。

さきちゃんと出会えて、少しでも一緒にいられて、

すごく、すごく幸せだった」

 

初音:「この思い出があるから、生きていけると思う」

 

祥子は一緒に星を見たのが初音だと分かった。

 

初音は自分のことを語るだけで、祥子のことは聞かなかった。

母親のことも、CRYCHICのことも、燈のことも、何も。

 

初音の言葉が祥子の中で組み合わさり、

祥子の苦痛をどのように変化させつつあったのか、

初音は知らなかった。

 

祥子は、初音が語り、自分一人が聞くことを楽しんだ。

 

『厳重に定められた時刻が迫っており、

われわれはここをすぐに立ち去らねばならないのだ』

 

祥子は初音を連れて、見晴らしのきく山頂から降りていった。

二人は家路を急いだ。

 

『過去の罪のために悲しみが伴うかもしれないが、

幸多き終わりを思うことによって、それを超え、

さらに心楽しく生きてゆけよう』

 

■第五巻,第十巻

二人はフェリーに乗った。

初音に与えられていた楽園そして牢獄から、

夜の広漠たる海原をこえて、巨大な渡し船が翔けていった。

かつて『罪』であった初音を連れた祥子は、そこで空腹を満たした。

 

そして、

祥子は暗い濁流に向かって叫んだ。

『われわれの力は借りものではない』

大水のどよめきが、祥子を喝采した。

 

二人はまず、祥子の楽園に向かおうとした。

 

『そしてそこで祝福のうちに住み、支配するがよい。

万物の唯一の長と宣示されたあの人間に対し、支配権を揮うがよい』

 

■第四巻

祥子の屋敷には一つの門しかなかった。

祥子は正式に入ることをせず、境界を飛び越え、内側に降り立った。

それは盗賊が家の内部に忍び込むのと変わりなかった。

しかし祥子は自分の家の鍵を持っていた。

 

祥子は自室の荷物を持ち帰ろうとした。

祥子は、

『眼の前に置かれた善きものを正しく評価した』

 

祖父が現れた。

初音は、

『連行してきた者が誰であるかを説明した』

初音は祥子のそばにいることを望んだ。

 

祖父は言った。

『なぜ汝は、幽閉されていたあの境界を脱し、

平和を乱そうとするのか?』

 

『逃亡が招いた豊川の怒りが、汝を追いかけてくるのだ』

 

たじろぐことなく、祥子は言った。

『辺境守護の傲慢な天使よ!』

祖父の力は与えられたものにすぎなかった。

与えていたのは豊川家で、その血を引くのは祥子だった。

 

祥子は家を出た。

祥子と共に初音も出ていった。

夜も明けていた。

 

『わたしは、あの荒涼たる混沌を翔け、

出来うべくんば、さらに心地よい住処を見つけ、

意気阻喪しているわが軍勢をこの地上に、或いは空中に、

住まわせたいと願ったのだ』

 

■第三巻

祥子は燈の言葉だけを持ち出した。

 

それは太陽だった。

燃えて輝くともし火が、

一人の知恵のある人が、祥子の道を照らしていた。

『この途を行けばもう迷わない。

わたしは、別な途を辿らなければならない』

月を抜けて、遠く、優しい恒星からの声が聞こえた。

 

今や、案内人があり、道連れがいた。

 

■第十二巻

屋敷の花園で、祥子と初音は遊んだ。

 

かつて祥子が『人間になりたいうた』を歌った場所で、

母の人形が二人を見ていた。

 

祥子は、母の形見の人形を置いて家を出た。

祥子は失われた楽園を見続けることをやめた。

 

■第十巻

電車は二人を抱えて連れて行った。

かつて祥子と初音が共に暮らしていた、暗い住処へと。

 

祥子と初音は質素な服装に身をやつし、

住処の上手の奥にある、高いところに昇った。

そこで、二人の姿は、光を放って浮かび上がっていた。

 

『いや、もしかしたら単なる光の贋物であったかもしれなかった』

 

祥子は自身の立場と将来を疑った。

『この果物は自分たちを欺くために送られたのかもしれない』

 

初音が、いつものようにコーヒーをいれた。

 

祥子はその飲み物の匂いが嫌いだった。

祥子は、しかし、自分の意志で、

渇きを癒やすためにその苦い水を飲み続けることを選択した。

 

Ave Mujicaの議場が二人を呼んでいた。

 

■第十巻,第十一巻

万魔殿。

祥子:「にゃむ。海鈴。睦。初華」

『わたしは今お前たちをそう呼び、そう宣言する』

 

この時、初音は思った。

『なんという勿体ないことを!』

『遥かに違った名で呼ばれても仕方のない私を!』

 

一同は祥子の言葉に耳を傾けた。

 

祥子は至高の運命に対する反逆を唱えた。

反逆するべき神など、最初から存在しないのだから。

 

そして祥子は言った。

運命と対峙するための方法を。

祥子:「ですから、わたくしが神になります」

 

■第七巻

そのプロダクションの名前は、勝利の翼、という意味だった。

水晶の壁で囲まれたそのビルの中に、

門の前に、祥子は進んでいった。

 

『「開け、汝ら、永遠の門よ!」と、天使たちは歌った』

 

祥子は高い場所へと登り、社長の前まで来て告げた。

神:「相談したいことがある。Ave Mujicaを再デビューさせたい」

 

祥子の祖父の許しがないからと、

社長がためらうのを見て、さらに言った。

神:「わたしは、豊川の裔、Ave Mujicaのオブリビオニスである」

 

■第一巻,第三巻,第十二巻

祥子は重ねて言った。

神:「わたしのAve Mujicaはわたしが生きている間、豊川の社に祀られるであろう。

そしてわたしはまだ若い」

わたしは、心の道に歩み、目の見るところに歩む。

 

「お願いがあります」社長は言った。

「どうか、sumimiを続けさせてください。

純田まなは何も知らず、何の罪もないのです」

ユニットsumimiの希望は、今、祥子だけだった。

 

神:「復帰を命じるのは初華自身であって、わたしではない。

『初華はあくまで自由な者として生きてゆかなければならない』

しかし、sumimiのための時間は、わたしが約束しよう」

それはあの日、初音と約束しようとしたことだった。

 

「仮小屋を建てましょう」社長は答えた。

「ただし、天国にあなたの場所はありません」

 

神:『どこにいようと構うことはない』

 

祥子は目を瞑った。

少しの時間、夢をみるように。

そうして再び目を開けて言った。

 

神:『わたしは知っている』

 

歪んだものは直らない。

欠けてしまったものは、もう戻らない。

 

それでも、自分の内なる世界、楽園、Ave Mujicaはそこにあった。

 

 

13

地獄に一匹の竜が降りてきて言った。

神:「私はこれから高いところに上る。捕らわれ人よ、お前たちも来るがいい」

竜は昇っていった。

炎の中から四つの影が後を追った。

 

地獄を出るとそこには、

元素の混沌で満たされた、果てしない夜の世界があった。

神:「もはや迷うことはない。

私の道は友に整えられ、まっすぐにされた。その最短の道をゆこう」

竜は一直線に光のある方へと飛んだ。

四人は歌いながら続いた。

 

たちまち目の前に宇宙の球がせまった。

その最も外にある球、原動天をためらいなく突き抜けると、

エーテルで満たされた領域を進んだ。

水晶天をくぐり、太陽天の内側を横切った。

しかし月天から下は通らなかった。

そこは彼女らの居場所ではなかったから。

 

月のそばで竜は言った。

神:「運命とは複雑性の一面に過ぎない」

また続けて言った。

神:「私たちには自由意志がある」

悲しみはこれを記憶した。

 

まっすぐ球体の反対側へと、一行の旅は続いた。

 

てんびん座からおひつじ座まで、

天球の極から極までを一望する光景が流れ去った。

 

第十の原動天を再び通り過ぎて、竜は天球の外側に降り立った。

大地に生命は無く、頭上に星は無かった。

静寂の中、彼方には、天まで達する階段とその先の光があり、

微かに明かりの届く範囲だけが、夜と混沌から守られていた。

 

神:「見よ、あそこだ」

竜は言った。

神:「見よ、ここだ」

ここに楽園があった。

 

そこはこの世すべての空しいものが集まる場所だった。

終わりの日を待つだけの辺縁だった。

 

神:「私はここで忘却を与える。私の王国に人々を招き入れよう」

竜は天球の内側を指さした。

大海でできた膜の向こう、遠く輝く太陽の下に、人間の世があった。

そこには一人の知恵のある人がいた。

神は、友の幸福を願った。

 

神は四人の従者、すなわち、

死と、恐れと、愛と、悲しみに向かって告げた。

神:「はじめに三つの歌がある」

 

第一の歌について言った。

神:「八芒星を歌おう。私は神になったのだから」

 

第二の歌について言った。

神:「私たちの異名を歌おう。それらもまた私たちなのだから」

 

第三の歌について言った。

神:「ここへ来る方法を歌おう。

人々が迷わないように。

私が、母を弔い、忘れることのできるように」

 

そして人形のいない物語を綴り始めた。

 

 

その始まりの物語、世界、楽園、劇の中、別れの時。

愛が、台本にない演技で、人々に向けて炎の剣を振っていた。

 

 

 

 

 

引用

BanG Dream! Project『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』(2023)

BanG Dream! Project『BanG Dream! Ave Mujica』(2025)

ジョン・ミルトン『失楽園(上)』(平井正穂訳,岩波文庫,1981,ISBN4-00-322062-5)

ジョン・ミルトン『失楽園(下)』(平井正穂訳,岩波文庫,1981,ISBN4-00-322063-3)

The Project Gutenberg eBook of Paradise Lost, by John Milton (筆者訳)

『口語新約聖書』(日本聖書協会,1954)

『口語旧約聖書』(日本聖書協会,1955)

『聖書 新共同訳』(日本聖書協会,1987)

 

聖書の検索

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和訳参考

ChatGPT

https://chatgpt.com/share/680774b4-68d0-8003-9fee-99bf2fc00aa1

 

文章管理

https://github.com/Gushasen/works/tree/cf83eed0bebb9fa1dc9c6ea8906ef60bdbf48e6d/project-Limbo

 

 

参考

『伝道の書』9章(1955口語訳)

『コヘレトの言葉』9章(1986新共同訳)


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