過ぎる日々の中で、記憶は少しずつ薄れていく。
恋人と友人が失踪して、何か言うとしたら、つらい。それ以外なら、悲しい。あとは、どうして?だろうか。死んだのか、生きているのか、それすらわからないのだからよりたちが悪い。失踪の前、なにか変わったことはなかったかと事件の調査員から質問を受けたが、何も、と言う他なかった。あの日は一度も、彼と会っていない。
「…そうか。時間を取らせてすまなかったね。」
当時の話を聞きたい、と私を訪ねてきた藍染隊長が席を立った。彼の、柔らかな印象を受ける下がり気味の目尻に影が浮いていた。心なしか普段より頬の色が抜けて見える。副隊長から急に隊長格へ担ぎ上げられて、疲労が溜まっているのだろう。そんな中でも上司の罪を晴らそうと、仕事の合間をぬって関係者に話を聞いているらしい。つい先日、技術開発局の涅マユリが私と同じように問われていたのを見たことがある。涅は大変面倒そうに答えていた。
「…あの、藍染隊長」
「うん?」
出口へ向かう藍染隊長へ声をかける。退勤時間を過ぎた休憩室には誰もいない。日が傾き始めた外で烏の鳴き声がした。休憩室に差し込む西日が彼の影を私の足元まで伸ばしていた。日を背にして立つその輪郭は、彼の人柄の良さを滲ませたような温かい色を持っている。
「この件についての調査は済んでいます。…これ以上は」
これ以上は、時間の無駄だ。
続けようとした言葉が鼻根を突く。突然のことに強い動揺を受けた私の目に涙が滲み、下瞼の縁をなぞった。落とすまいと視線を彷徨わせるも、涙は目尻を溶かして頬へ流れてしまう。
「…古舎君」
戸惑う藍染隊長が私の名を呼んだ。涙は止まらず、次から次へと私の瞳から逃げ出していく。
四十六室が終止符を打ったにも関わらずその決定を疑っていると思われれば、藍染隊長の立場が危うくなる。中央の決定に不信感を抱いても、それを詮索するのは護廷隊士がすべきことではない、それが正しいのだと自分に言い聞かせていたが、自分と同じく消えた彼を案じる人がいると知った安心感と同時に、恋人の不在が急に現実味を帯びて私の肩にのしかかった。
「…すまない。つらいことを思い出させてしまった」
涙の跡を辿って、藍染隊長の指が頬を撫でた。私は羞恥と驚きを取り繕わず藍染隊長から顔を背ける。彼の指に触れた涙が乾くより早く、私は謝罪を告げて足早に休憩室を後にした。
自室へ戻るなり布団に入ってそのまま眠った。翌日の瞼は赤く腫れあがって見れたものではなかった。一方的に話を切り上げたことに多少の罪悪感はあったが、私は藍染隊長ともう一度話をする気にはならなかった。
泣き明かした翌日から、仕事ばかりの日々が続いた。この事件では恋人のみならず、私が所属する九番隊の隊長、六車拳西も失踪していた。
幸いなことに新たな隊長はすぐさま指名された。東仙要。同時期に起きた事件で深手を追った彼だが一命を取り留め、緊急措置として隊長に任命された。そして私は繰り上がりに繰り上がり、臨時の同隊副隊長として腕章をつけることとなった。就任当初から慣れない業務に圧殺され仕事以外のことを考える余裕がなく、部下に余計な気を使わせてしまったこともある。何とか適任者が見つかるまで堪えたが、東仙隊長がいなければ今日までは保たなかっただろう。
「古舎副隊長、これまでの働きに感謝する」
東仙隊長はあれからあっという間に卍解を習得し、見事正式な九番隊隊長に就任した。同時に私は副隊長代理の任を解かれ、後輩に副官章を譲る時が来た。副官章の返却に訪れた執務室で、隊長羽織に慣れた東仙隊長に礼を言われた。まるで除隊するような丁重さに苦笑いする。
「大げさですよ隊長、辞めるんじゃないんですから」
副官章がなくなり軽くなった腕に少しばかり寂しさを感じるが、それをつけている間は東仙隊長も私も親しい人々との別れに浸る間もない怒涛の日々だった。いい加減に落ち着いても良いだろう。私の降格は、その忙しさから解放される節目とも言える。
「はは、そうだな。これからも宜しく頼むよ」
「もちろん、いつまでもお支えしますよ」
頼もしいな、と笑顔を浮かべる東仙隊長の顔色は以前よりずいぶん明るくなった。五席から異例の昇進となったにも関わらず、実力で隊長の座を掴んだ彼の努力を今になって実感する。一方の私は後任を見つけて早々にこの職位を手放そうとあれこれ手引したものだ。やはり私は副官という器ではない。
後任となる檜佐木修兵は勤勉で人当たりがよく、何より要領が良かった。入隊時から席官候補として厚遇される者は大抵隊士たちから煙たがられるが、檜佐木君はものの数日で打ち解け、今では彼を僻む隊士はいない。
「近いうちに檜佐木君の昇進祝いでもしましょうか。このあいだ、松本副隊長から流魂街で人気のお店を教えてもらったんです」
「それは良いな。松本君の紹介ならいいお酒が飲めそうだ」
そして昇進祝いの席にたまたま現れた乱菊さんの無慈悲な色香により、檜佐木君は一瞬のうちにノックアウトされた。その新たな一面によって彼の親しみやすさは隊士たちに知れ渡ることとなり、彼の副隊長就任は非常に和やかなスタートを切った。以降、任を降りてからの私の日常は至極平穏に続いた。
何百年ぶりかに現れた旅禍の一団が瀞霊廷をかき乱し、三人の隊長格が護廷十三隊から離反するまでは。五番隊隊長であった藍染惣右介を筆頭に、三番隊隊長の市丸ギン、九番隊隊長の東仙要が尸魂界を去った。中央四十六室の全滅と隊長格三名の裏切りというこれまでにない異常事態は、百十年前に起きた魂魄消失事件を彷彿とさせる。
「…檜佐木副隊長」
東仙要が姿を消したあと、私と合流した檜佐木君は拳を強く握りしめたまま立ち尽くしていた。その拳からは裏切りに対する怒りでも、別離への悲しみでもない、大きすぎる後悔が滴っていた。
「俺…何も気づいてませんでした。誰よりも隊長の近くにいたのに、誰よりもあの人と剣を交えたのに…俺は、何も…!」
東仙隊長は、いつから私たちを騙していたのだろう。それとも、騙しているつもりなどなかったのだろうか。ただ正義のために、自身がすべきことをしていただけとでも言うのだろうか。だとしたらそれは、隊を率いる者としてあまりに身勝手だと言わざるを得ない。肩を、拳を震わせながら師の苦しみに気づけなかった自分の情けなさを悔いる真っ直ぐな彼が、あまりにも不憫ではないか。私は檜佐木君の前に立ち、自分の両手で彼の頬を力いっぱい叩いて挟んだ。
「っ!?」
肉のついていない頬が檜佐木君の下瞼を押し上げ、唇が中央に寄る。細い目が更に細くなったが、幸いにもその目に涙はなかった。泣いていたら抱きしめてしまうところだ。
「自分の後悔はあとにしなさい、檜佐木副隊長」
今は彼が隊を仕切らなければならない。絶望や悲嘆は足を引っ張るだけだ。私はできるだけ腹に力を込めて訴える。ここで私が情けない声を出してしまえば、彼は今度こそ本当に泣いてしまいそうな気がした。
「私は隊の被害状況を確認します。副隊長は隊舎に戻って、…東仙要の執務室と隊首室を施錠してください。後ほど調査が入るはずです。それまで誰も立ち入らないように…いいですね?」
まさか、自隊の隊長を呼び捨てにするときが来るとは。彼の顔から手を離すと、叩いた部分はしっかりと赤く色づいていた。やりすぎたと思ったが、揺れていた彼の瞳から迷いが消えたのを見て、私も急ぎ隊の再編に向けその場を離れる。五番隊三席の石和と三番隊三席の戸隠に状況を報告し、檜佐木君に言ったように執務室と隊首室の施錠をするよう提案した。三席として長く隊長と関わっていた彼らは動揺していたが、すぐさま承諾した。さすがの判断力である。
旅禍の少年たちが現世へ帰り数日後、私は十二番隊三席の阿近から今回の被害状況のデータを貰いに技術開発局を訪ねた。瀞霊廷通信はどんな状況でも休刊にならない。むしろこんな時だからこそ、正しい情報を世間へ届けなければならなかった。
阿近から書類を受け取り、これで今月の納入にぎりぎり間に合う、と眠い目をこする。だが阿近はお構いなしに、私が頭の隅に追いやって沈めていた話を軽々と引き上げた。
「百十年前の魂魄消失事件、おそらくは藍染が首謀者だ」
「んっ?そ…う、…だろうね?」
寝不足の脳に烏の嘴が突き刺さるような、常温の心臓に熱湯と冷水を注がれたような、わかってはいたがやってはいけないことをしたような。淡々と告げる阿近の言葉は、見事に私の眉間を撃ち抜いた。睡眠と栄養の足りていない乾ききった脳みそで受け止めるには、少しばかり荷が重い。
「お前、藍染と寝たのか」
遠慮も配慮もない問いかけに、私は珈琲豆とカカオ豆を一緒に噛み砕いたような今日一番の苦い顔をした。興味本位の質問にしては不躾すぎる。突拍子もない質問をした当の本人は座ったまま、画面から目を離さずに追加依頼した情報を手際よく書面に落とし込んでいる。
「何だ急に…やめてよ。本当に図々しいな君」
藍染とは、あの日から仕事以外で関わることを避けていた。あの日以来あちらからも接触はなく、そのまま藍染はどこぞへと消え去った。
「お前にとっちゃ、藍染は互いに共感できる唯一の人間だっただろ。寝ててもおかしくねぇと思ってよ」
彼の言うことも一理ある。それにあの日、藍染から恋人について聞かれた時は同じ気持ちの人がいることに安堵したものだ。それが彼の本心でなく、私が犯行につながる情報を持っていないかを確かめる演技に過ぎなかったとしても。
「恋人が消えた寂しさを埋めるのに好きでもない相手と寝るなんて、官能小説の読みすぎ。まぁ、君にはそういうとこがあった方が健全に見えるけどね」
「俺はただ寝るより改造する方が性に合ってる」
「やだなんかエロい。セクハラ」
「試してみるか?」
差し出された追加の書類を掴むと、阿近が軽く腰を浮かせて私の顔をのぞき込んだ。その顔はいつも通り無愛想で、その仕事ぶりも相まって機械仕掛けの人形なのではないかと疑いそうになる。機械が冗談を言うはずはないが、あの涅隊長なら造作もなく作ってしまいそうだ。
「お断りします。とにかくありがと。おかげで納品に間に合うわ。」
書類の束を持って隊舎に帰ると、編集長代理の檜佐木君は即身仏のような目で原稿と向き合っていた。彼から原稿を取り上げて仮眠を取るよう促し、ようやく終わりの見えてきた仕事に取り掛かる。これを乗り越えたら、隊士たちと飲みにでも行こう。そんなことを考えて、久々に思い出した恋人の事は再び胸の底に沈めた。
ーーーーーーーーーーー
空座町での戦闘に、三席である私は参加しなかった。戻った檜佐木君の顔から、またしても多くのものを失ってしまったのだと察する他なかった。東仙隊長は、戻っては来なかったから。
「…復隊?」
「そ。緊急事態だからね〜、四十六室も異論ナシだったよ」
東仙要の死亡後、不在のままだった三番隊、五番隊、九番隊に新たな隊長があてがわれた。それは百十年前に失踪したかつての隊長格、つまり、三番隊に鳳橋楼十郎、五番隊に平子真子、九番隊に六車拳西ということだ。まだ正式な発表には至っていないが、たまたま居酒屋で出会った八番隊の京楽隊長がお猪口を片手に話してくれた。本当は言っちゃだめなんだけどね、だそうだ。
「…はぁ、左様で。」
「反応薄いなぁ、もっと喜んでもいいんじゃない?キミたち付き合ってたんでしょ?」
付き合っていた、と他人すら過去形にするほど昔のことだ。それに喜ぶも何も、実際の姿を見ていないからまだ何とも言えない。空になった京楽隊長のお猪口に酒をついで、枝豆を自分の皿に取りながら、やけに冷静な自分を笑った。
「それは、まぁ…そうですが。でも百年以上も前のことですし。お互い、整理はできてると思いますよ」
枝豆を一粒口に入れて酒を飲む。彼が尸魂界に、元の場所に戻ってくることができる。今の私にはそれだけで十分だ。
「でもフミちゃん、今まで誰ともどうにもならなかったんでしょ?阿近クンがぼやいてたよぉ、見向きもされない…って、おっと。オフレコね、これ」
しー、と京楽隊長が唇に人差し指を当てる。せっかくの高い酒をこぼすところだった。あの阿近が?そしてなぜ京楽隊長にそんな話を、と一気に疑問が湧き出るが、これ以上を人伝に詮索するのは憚られた。どうせ聞くなら本人から言われるまで知らない方がいい。
「…京楽隊長の口が思いの外軽いことはわかりました」
「信頼してるからだよ、古舎三席をね。君が卍解を習得してたら、隊長に推薦しようと思ったんだけどなぁ」
カウンター席の隣から、大きな手のひらでわしわしと頭を撫でられる。この人の距離感の近さには慣れたものだが、酒が入るとすぐこれだ。一升瓶が空く前に伊勢副隊長の名前を上げ、渋る京楽隊長と居酒屋を後にした。結構な量を飲んでいたはずだが、彼の足取りには乱れも隙もない。もしここで襲われるような事があっても、京楽隊長に傷一つ負わせることはできないだろう。酒癖については見習いたくないが、こんな人に評価されている自分を少し褒めたくなった。
部屋まで送る、というお言葉に甘えて夜道を歩いていると、京楽隊長が突然、店に忘れ物をした、と言って瞬歩でその場から姿を消した。瞬歩で戻るほど大事なものなのか、と残りの道を一人で帰ると、私の部屋の前に人影があった。
月の細い夜だった。だが彼の目立つ金色の髪は、どんなに暗くともすぐにわかった。
全身に、恐怖にも似た震えが奔る。何を話すべきだろうか。いや、何と言われるだろうか。私の霊圧が揺れたのを察知して、彼はこちらを見た。そして躊躇うように首をかいた。急に訪ねて来ておいて何も考えていなかったのかと、珍しい姿に少しばかり頬が緩む。
彼に近づくと、懐かしい顔がそこにあった。短くなった金髪はやはり綺麗に切りそろえられている。現世の服がよく似合っていた。私の知る彼とは、まるで違う人のように見える。雲も風もない、熱くも寒くもない夜の空気は時間を感じさせないのに、彼だけがどこか遠くへ進んでいる、そんな錯覚を起こす。
「久しぶり」
不思議なことに、言葉はするりと滑り出た。穏やかな夜のおかげだろうか、それとも、目の前の彼がばつの悪そうな顔でこちらを伺うからだろうか。やけに弱気なその姿は、百年前も見たことがない。
「…おん、久しぶりやな。…元気しとったか」
その声には不安が乗っていた。高くも低くもない、耳に馴染む声で、あぁこんな声だったと、記憶が一息に呼び戻される。
「…そう見える?」
意図せず震えた答えと同時に、私は涙を流した。堪えられるわけがない。彼の声なんて、昨日まで思い出せもしなかったのに。嬉しいのか悲しいのか腹が立つのか、おそらく全部だろうが、これまでにないほど乱れた感情は言葉にならず涙になる。止める術はない。たとえ彼が、私を力いっぱい抱きしめたとしても。
「すまんかった」
私を包んだ彼の香りは、昔のものと違っていた。知らない匂いだったが、私の好きな匂いだった。少し甘い、早朝に咲く花を連想させる香り。それが鼻を通って肺を満たす。百年間も何をしていたのかとか、どこにいたのか、生きているならなぜ連絡をくれなかったのか。聞きたいことは山程あったが、彼の存在がそんな思考を全て取り払ってしまう。
「…ずっと、会いたかった…」
彼の背に両腕を回した。触れられる。少し早い心音が伝わってくる。もう一人で涙を堪える必要も、虚勢を張る必要もない。整理ができている、なんて真っ赤な嘘だった。彼に縋り付いて泣いたこの夜を、再び抱きしめることができたこの夜を、私はきっと忘れない。
その後の夜はご想像にお任せします(屍)