伊地知虹夏はやり直す 作:BB
後藤ひとりもやり直す。
目が覚めたとき、部屋に広がっていたのは懐かしい匂いだった。
古い畳のにおい、窓の外から聞こえるカラスの声。
引っ越してからはしばらく目に入れなかった襖の押し入れ。
それがどこか懐かしくて――胸がきゅっとなった。
あれ……? ここ……実家、だ。
壁のポスターは色あせてるし、押入れの中は“はじめてのコードブック”を始め、音楽理論の本がずらりと並んでいる。相当読み込んでいた、すっかり頭の中に入ってる本たちぁ。
昔はずっと使っていたレスポールも、私が知るより綺麗な状態で丁寧に置かれている。
「……ゆ、夢……じゃ、ない?」
スマホを手に取る。見慣れた機種じゃない。
画面に浮かぶ日付は、十年以上も前。
2017年。高校一年。
27歳の私は、あの夜、確かに――死んだはずだった。
イヤホンで聴いていた音楽。
まぶたの裏に焼きついた強い光。
全身を襲う強い衝撃。
そのすべてが、確かに“終わり”の記憶だった。
なのに、いま、息をしている。
時計の秒針が進む音がやけにうるさい。
空気が軽い。
時間が、巻き戻っている。
「ど、どうして……」
でも、考えるより先に、心の底から思った。
――これで、もう、あんな思いはしなくていいんだ。
あの解散も、あの沈黙も、もう来ない。
今度は、最初から間違えなければいい。
最初から、バンドなんて――組まなければ。
◇
放課後の教室。
夕方の光が黒板の端を金色に染めていた。
人気のない空間に、弦の音だけが静かに響く。
何百回も指板をなぞってきた手は、勝手に動く。
十年以上、プロとしてギターを弾き続けてきた感覚は、
もう体の一部みたいに染みついていた。
でも、この音だけは、懐かしい。
中学の頃は毎日何時間もただ無心で弾いていた。
そしてあのバンドでも解散するまではずっと。
あの頃の記憶が溢れてくる。4人で楽しくやっていた記憶が。
段ボールに包まれて出た初めてのライブ。
陽の者であるあの子に連れられて行った江ノ島。
そしてみんなから告げられた解散の言葉。
――どうせ捨てられるのなら。
“虹夏ちゃんに拾われなければいい”
今度は、結束バンドを作らなければいいんだ。
拾われなければ捨てられない。願わなければ傷つくこともない。望まなければ失望だってない。
そんなふうに思って、私はただ、
“音を鳴らす”という行為だけに没頭していた。
そのときだった。
「すご……! えっと……2組の後藤さん、だよね? ギター上手なのねーっ!」
反射的に体が硬直する。
声の主は、教室の入り口に立っていた。
赤い髪の、明るい女の子。
キターンとしたまぶしい笑顔が、夕日と重なって……いや、夕日すら超える勢いで私の目を焼く。
「あ、あの……え、えっと……」
「……あの、ね。その、よければギターを教えてもらえないかしら!? ギター弾けるって言ってバンドに入ったけど全然弾けなくて……!」
「うぇっ、わ、わた、私がですか……?」
言葉が詰まる。
けど、頭の中では冷静に思考が巡っていた。
前の世界では、喜多ちゃんは最初のライブ前に逃げた。
そのおかげで虹夏ちゃんが「代わりのギター」を探して、私は拾われた。
つまり――この子が逃げなければ、私は拾われない。
それなら、教えればいい。
ちゃんと弾けるようになれば、逃げる理由もなくなる。
それで、私を除いた三人でバンドは結成される。
結束バンドも、解散もしない。
誰も、傷つかない。
……それが正しいはず。
「……わ、わかりました……!」
そう決意をして、力強く返事をする。
「ほんと!? やったー! じゃあ、明日も放課後ここで!」
喜多さんは、まぶしいほどの笑顔で手を振った。
その笑顔が、あまりに無邪気で、
うまく喋れない自分が少し情けなかった。
けど、久しぶりだな、この感じ。喜多ちゃんちゃ振り回されてたあの頃は楽しかった。
今回はそんなに仲良くは慣れないだろう。けれどそれでいい、それで私は――。
指先がわずかに震える。
びり、と弦が鳴った。
空気の中にその音が溶けて、
私は、静かに目を閉じる。
――それで、いい。
◇
家に帰る途中、駅で座って電車を待っていた。
反対側のホームから笑い声が聞こえる。
楽しそうに話す高校生たち。
その中に自分から混ざれたら、私も少しは違う人生を歩めたのかな。
あんなふうに話せる友達がいたら、普通になれたのかな。
でも、それは叶わない。
私は、“音楽を選んだ”人間だから。それはきっと、今回も変わらない。
たとえこの世界で誰にも拾われなくても――
ギターさえあれば、生きていける。私には、ギターがある。ギターしかない。
……ほんとは、そう言い聞かせてるだけなんだけど。
後ろ手にギターケースを撫でると、冷たい夜気が頬を撫でた。
懐かしくて、優しくて、
どこか、泣きたくなるようなにおい。
――ああ、ここから2時間、電車に乗らないといけないんだ……
車に慣れた私には、やっぱりその時間は苦痛だった。
◇
翌日、同じ教室で集まった私と喜多ちゃん。そして喜多ちゃんが出してきた『それ』に、思わず頭を抱えそうになる。
「……あの、喜多さん。それベースじゃないですか……?」
「私そこまで無知じゃないわよ!? ベースって弦が4本とかのやつでしょ?」
ああ、そういえば喜多ちゃんって多弦ベースとギター間違えて買ってたんだった……
胸を張って自慢げにそう言う喜多ちゃん。うう……すごい言いにくい、けど言え、言うんだ後藤ひとりっ!
「げ、弦が6本のとかもあります……そ、それは多弦ベースです……」
私の声を聞いた瞬間、喜多ちゃんは笑顔のまま固まった。
「ローンあと30回も残ってるのに……あひゅう……」
「と、とりあえず私の貸しますからそれで練習しましょう!?」
「ご、後藤さん……!」
何だかすごいキラキラした目を向けられた。
ライブハウスってギターの貸し出しとかやってるかな……?
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