別世界の元神がオラリオに来たのは間違ってるだろうか IFシリーズ 作:さすらいの旅人
シャクティの暴走に困惑する隆誠だったが、それは本当に一瞬で幕を閉じた。怒りに任せた連撃を紙一重で躱し続ける最中、背後から軽く響いた男神の声が、荒れ狂う空気を切り裂くように場を静めたのだ。
声の主はヘルメス。【ヘルメス・ファミリア】の主神であり、橙黄色の髪を無造作に揺らす旅人風の優男。飄々とした笑みを絶やさず、誰に対しても柔らかく接するため、表面上は親しみやすい神として知られている。
しかし、その笑顔の裏には、底の見えない計算高さと狡猾さが潜んでいる。軽やかな足取りとは裏腹に、常に周囲の思惑を読み、必要とあらば他者を駒として扱うことも厭わない神物だった。
隆誠は元の世界での伝承を知っていたこともあり、初めから距離を置きたい相手だった。更にこの神は、フレイヤを巧みに焚きつけて【イシュタル・ファミリア】を潰すよう仕向けた張本人でもある。ベルに対しても度々余計なちょっかいを掛け、街に騒動を起こしてきた過去がある。そのため、シャクティを止めてくれたことに感謝すべき状況でありながら、隆誠の胸中には面倒事の予感が重く沈んでいた。
ヘルメスは暴走が収まった直後の混乱を楽しむかのように、隆誠へと視線を向けた。その目は柔らかい笑みとは対照的に、獲物の力量を測る狩人のように鋭く、隆誠の動きを一つ残らず観察していた。そして、まるで散歩の途中で立ち寄ったかのような気軽さで、隆誠に話があると告げた。
隆誠は即座に断りたい衝動に駆られたが、アストレアも同席すると言われたことで、渋々従うしかなかった。ヘルメスの意図は読めない。だが、アストレアがいるならば、少なくとも不快な駆け引きだけで終わることはないだろうと判断した。
場所を移動しようとアリーゼ達と別れようとしたその瞬間、アーディが急に隆誠の手を掴んだ。子供のような不安を隠しきれない仕草で、行ってほしくないという気持ちを必死に伝えてくる。隆誠はその小さな手の震えを感じ取り、短く息を吐きながら、必ず戻ると静かに宥めた。
その様子を見ていたシャクティは、面白くなさそうに眉を顰め、露骨な不快感を隠そうともしなかった。暴走が収まった後も、彼女の胸中にはまだ燻るものが残っているらしく、隆誠とアーディの距離感がさらにそれを刺激しているようだった。
こうして、場の空気に微妙な緊張を残したまま、隆誠はヘルメスとアストレアに同行する事となった。
【ヘルメス・ファミリア】の
執務室の空気は、外の喧騒とは無縁の静けさに満ちていた。
「改めてリューセー君、もとい――『仮面の狩人』。君のお陰で民衆だけでなく、冒険者の命も多く救われた。心から感謝するよ」
帽子を取り、珍しく真剣な声音で頭を下げるヘルメス。隆誠はその仕草に一瞬だけ驚いたが、やや間を置いてから淡々と返した。
「……どういたしまして」
この男神は胡散臭い
だからこそ、今の感謝が嘘ではないと分かる一方で、なぜ自分の正体を知っているのかという疑問が胸をよぎった。その答えは、すぐ隣から聞こえてくる。
「ごめんなさい。本当は誰にも明かすつもりはなかったの。でも……今の状況は、私一人で抱えられる問題じゃなくなってしまったの」
「まぁ、それは確かに……」
申し訳なさそうに目を伏せるアストレアに、隆誠は非難することなく頷いた。
昨夜の襲撃は、彼自身も予想していなかった。不安を抱えつつ
急ぎ『仮面の狩人』として救援に走ったものの、多くの命が失われた。彼が本気を出せば
「それで神ヘルメス。正体を知った俺をどうするつもりだ? 先に言っておくが、貴方の駒になる気はないぞ」
ヘルメスがわざわざ場所を変えてまで話をしたいと言った以上、隆誠は察していた。自分を
それ自体は吝かではない。だが、この胡散臭い男神に都合よく使われるのは不愉快極まりない。七年後のオラリオで、彼がベル・クラネルを英雄として仕立て上げようと画策していたのを知っているからこそ、隆誠は強い警戒心を抱いていた。
「まさか。君には今後も単独行動に徹してほしい」
「……理由を聞いても良いか?」
予想外の返答に、隆誠は訝しげに眉を寄せた。
ヘルメスが自分にとって都合の良いことを言う時は、必ず裏がある。そう思わせるほど、この神は油断ならない。
「この三ヵ月の間、オレは存分に対策を取ることができたんだ。『
「ほう……」
「ただし、あまり派手にやり過ぎないでほしい。オラリオで活躍している冒険者達が、自らの力で
その言葉には、珍しく神としての矜持が滲んでいた。それは隆誠も理解している。
別世界から来た自分が
だからこそ、ヘルメスは『単独で動いてほしい』と言ったのだ。利用する為ではなく、冒険者達の戦いを奪わないために。
だが、それでも隆誠は油断しない。この男神は正しいことを言いながら、その裏で別の策を同時に進めるタイプなのだから。
「……取り敢えず其方の言い分は理解した。元々俺は【アストレア・ファミリア】の負担を減らすために動いているだけに過ぎないから、な」
「ああ。是非ともその方針で彼女達を支えて欲しい」
ヘルメスは軽く微笑んだ。だがその笑みは、いつもの軽薄さとは違う。どこか計算の匂いが混じっていると、隆誠はそう感じ取った。
「だが神々とは別に、他の連中はどうすれば良い? 特にギルドや【ロキ・ファミリア】が、俺を冒険者側に引き込もうとしてるみたいだが」
「そこは俺の方で何とかしておく。君も彼等と遭遇した場合、何一つ情報を与えず即退散してくれ」
「分かった。そうしよう」
ヘルメスは軽く言ったが、その声音には妙な圧があった。まるで隆誠が余計なことを言わないよう、釘を刺しているかのように。
何か遭ってもフォローすると言うヘルメスの姿勢。それは一見すると頼もしいが、隆誠は全く警戒心を解いていなかった。
むしろ。警戒は強まっていた。こうまで自分にとって都合のいい展開にさせるなど、絶対に裏がある。
この男神は、善意と悪意の境界を曖昧にしたまま行動する。だからこそ、隆誠は油断しない。
アストレアが隣で静かに見守っているのを感じながら、隆誠は心の奥で小さく息を吐いた。
この神は信用できる。だが、同時に信用してはならない。そんな矛盾した評価が、隆誠の胸に重く沈んでいた。
「――とまあ、こんなところかな。他に何か確認する事はあるかい?」
その声音は柔らかいが、どこか探るような響きが混じっている。執務室の静けさが、逆にその探りを際立たせていた。
「特に無いが、俺から警告しておく」
「警告?」
ヘルメスはわざとらしく首を傾げた。自分がまだ信用されていないことは理解している。
だが、男神は敢えて気付かないふりをして鸚鵡返しをする。その仕草は、彼なりの距離の取り方でもあった。
「俺が『仮面の狩人』だと分かったのを良い事に、アストレアを脅す真似をしたら……分かってるよな?」
その瞬間、執務室の空気が一段階重く沈んだ。隆誠の声は淡々としているのに、言葉の奥に潜む殺気が鋭く、冷たく、神であるヘルメスの皮膚にまで突き刺さる。
「も、勿論だとも! このヘルメスの名に誓って悪用しない事を約束する!」
ヘルメスは慌てて両手を上げ、椅子ごとわずかに身を引いた。冷や汗がこめかみを伝い、背筋にぞくりとした感覚が走る。
神である自分が、下界の人間から殺気を向けられて怯えるなど、本来ならあり得ない構図だ。
だが、隆誠の殺気は明らかに人間の域を超えていた。理性で制御された静かな怒りが、逆に神の本能を刺激する。
ヘルメスの脳裏では警鐘が鳴り響き、決して逆らってはいけないという警告が、何度も何度も反復されていた。
「リューセー……」
アストレアが小さく息を呑む。自分を守ろうとしてくれる隆誠の言葉に、胸がトクンと跳ねた。
普段から彼は、女神である自分を神としてではなく、一人の女性として扱ってくれる。その自然体の優しさが、今はさらに強く、温かく感じられた。
頬がわずかに熱を帯びる。彼の横顔を見つめる視線が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
その温もりとは裏腹に、執務室の空気はまだ重いままだった。隆誠の警告は、ただの脅しではない。『本気で守る意思』と『本気で殺す覚悟』が同居している。
ヘルメスはそれを理解し、背筋を正した。軽薄な笑みを浮かべる余裕は、もうどこにもなかった。
「もうついでに言っておこう。
「お、俺の過去って一体……?」
ヘルメスは物凄く気になった。
自分が下界に降りて以降、確かに色々やったが、それでも吹聴されたところで周囲に知っても『まぁ、ヘルメスだから』と呆れられるだけと高を括っている。
しかし隆誠の表情は、どこか確信めいたものを含んでいる。その気配を感じたのか、ヘルメスは喉がひゅっと鳴るほど緊張した。
知りたい表情になっている男神に、隆誠はアストレアに聞かれないよう近付いて、小声でこう言った。
「貴方が赤ん坊だった頃、神アポロンが大切に飼っていた五十頭の牛を盗みながら、自分はやっていないと嘯き、挙げ句の果てには――盗んだ牛を材料に竪琴を作って神アポロンの怒りを宥め、許しを得たみたいですね」
「ッ!」
ヘルメスの顔が一瞬で強張った。
神々の間でさえ半ば伝説と化した逸話を、下界の人間が知るはずがない。
目の前の隆誠は、一体どこまで知っているのかを思いっきり問い詰めたい衝動に駆られている。
無論、そんなことをすればアストレアが黙っていない。ヘルメスは必死に自制し、喉奥で震える声を飲み込んだ。
だが、隆誠の追撃は止まらない。
「それともう一つ……女神ヘラの母乳を飲みたいがために、赤ん坊だった頃の軍神アレスと入れ替わり、女神ヘラの胸元にしがみついて強引に乳を吸っていたという話もありましたね」
「――――――ッッッ!!!」
ヘルメスの顔が、この世の終わりと言わんばかりに真っ青になった。
女神ヘラ――神々から「
その女神の母乳を欲しがって赤ん坊の頃に強引に吸い付いたなど周囲に知られれば、特に神々の間での評価は一気に変わる。無論、それは悪い意味で。
ヘルメスは心底震えた。自分の神話である最悪な黒歴史を、下界の人間がここまで正確に把握しているなど、想像すらしていなかった。
隆誠は静かに言葉を続ける。その声音は淡々としててもヘルメスには、死刑宣告にも等しい重みを感じられた。
(……一体何を話しているのかしら?)
アストレアは二人の様子を見つめながら、胸の内でそっと疑問を抱いた。隆誠がヘルメスへと身を寄せ、声を潜めて何かを囁いている。その内容はまったく聞こえない。
ただヘルメスの顔が、みるみる青ざめていく。普段の軽薄さが跡形もなく消え、まるで顔芸と言っても差し支えないほどの狼狽ぶりを見せている。
(リューセーが怒っている様子はないけれど……)
アストレアは静かに瞬きをした。隆誠の横顔は落ち着いていて、殺気も怒りもない。ただ淡々と、しかしヘルメスにとっては致命的な何かを告げているような雰囲気があった。
聞こえないはずなのに、空気の重さだけは肌で感じる。その重さが、余計に彼女の好奇心を刺激していた。
(気になるわね。本当に、何を話しているのかしら)
隆誠が自分に聞かせないように声を潜めている以上、決して踏み込むべきではない。女神としての理性がそう告げていた。
リューセーが言ったヘルメスの黒歴史については、ギリシャ神話の実話として語られています。
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