お姉さんと僕   作:埴輪庭

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第54話「早川 俊介⓵」

 ◆

 

「はあ……面倒くせぇことになったな」

 

 早川は小さくボヤきながら、周囲をぐるりと見まわした。視界に入るのは白、白、白──無機質な壁に囲まれた、どこにでもある病室だ。看護師に案内されてからすでに数時間が経過していた。私物は没収されずに済んだものの、気の利いた娯楽品など持ち合わせているはずもなく、完全に手持ち無沙汰だった。

 

 何気なく視線を向けた窓の外では、毒々しい紫色の空が広がっている。見ているだけで気が滅入る光景に早川は早々に目を逸らした。

 

「雑誌か何か……」

 

 独り言を呟いたところで、待合スペースの存在を思い出す。大抵の病院なら、あの手の場所に退屈しのぎの雑誌くらいは置いてあるものだ。置いていなければその時だ。

 

「飯を食ったら、ちょっと行ってみるか。……そう言えば、飯の時間っていつなんだ?」

 

 腹具合を気にしながら、何とはなしに廊下へ顔をのぞかせてみる。

 

 すると、いつの間にか廊下の明かりは消え、薄暗い闇が落ちていた。人の気配すらまったくない静寂に急に心細さが込み上げてくる。

 

 そんな怯(・)え(・)を誤魔化すように、早川は自分の腹を手のひらでさすった。

 

 ──そう言えば。

 

 そこでふと、妙な違和感に指が止まった。

 

 最後に何かを腹に入れたのはいつだったか。確か、朝方に乾パンか何かを齧ったきりのはずだ。それなのに、腹が減っていない。 減っていないどころか、昼から一度たりとも「腹が減った」という感覚自体が湧いてきていなかった。

 

「……喉も、か?」

 

 唾を飲み込んでみる。口の中が乾いている様子もない。何時間も水分を摂っていないはずなのに、喉の渇きすらまるで感じられなかった。まるで胃袋や食道といった内臓そのものが、眠りこくって活動を放棄してしまったかのような、気味の悪い平穏さだった。

 

 だが、早川は頭を振って小さく鼻を鳴らした。

 

「……まあ、食わなくて済むならいいか」

 

 この状況だ、食料なんていくらあっても足りない。腹が減らない体質にでもなったのなら、ある意味では願ったり叶ったりじゃないか──。

 

 そう嘯いて笑おうとしたが、その呑気な考えは長続きしなかった。人間が腹も減らず喉も渇かない状態で平気でいられるわけがない。内臓の感覚が抜け落ちているという事実は、考えれば考えるほどじわりと背筋を冷たくさせた。

 

 ベッドの端に腰を下ろし、早川は無機質な壁に掛けられた時計を見上げた。

 

 ・

 ・

 ・

 

 それから、さらに数時間が経った。秒針の淡々とした音だけが部屋に響き、長針は何周も回っていた。窓の外の紫の空は、時間の経過に伴ってより濃く、澱んだ色へと沈み込んでいる。

 

 ──いくらなんでも、おかしくねえか!? 

 

 早川の胸中に、拭い去れない不審感が渦を巻き始めていた。案内されたきり、看護師が様子を見に来るでもない。問診の類いがあるわけでも、飯が運ばれてくるわけでもない。他の病室から漏れ聞こえてくるはずの生活音も、医療機器のアラーム音も、遠くで交わされる話し声すら一切聞こえてこないのだ。

 

 まるで、このフロアどころか病院全体に自分一人しか取り残されていないかのような完全な無音。

 

「……おい、誰かいねえのかよ」

 

 早川は喉の奥から絞り出すように呟き、ベッドからゆっくりと立ち上がった。流石にこの放置ぶりは異常だ。何のアクションも起こらない静寂に耐えかね、早川の足は自然と、あの薄暗い廊下へと向かっていた。

 

 ◆

 

 薄暗い廊下に踏み出すと、スリッパをはいているはずなのに、足裏からしんと冷たい感触が伝わってきた。非常灯の緑色の明かりすら灯っていない。居心地悪さを覚えながらも、すり足で進み、昼間に通ったはずの待合スペースへと向かう。

 

 辿り着いたそこは、がらんとしていた。

 

「……誰もいねえな」

 

 整然と並べられた青いプラスチックの長椅子。その上には人影ひとつなく、埃っぽく濁った空気がただ沈殿しているだけだった。壁際の雑誌ラックに目を留め、早足で近づいてみたが、ラックの棚には薄汚れた埃が積もっているだけで、雑誌の一冊どころか古びた広報誌すら差し込まれていなかった。

 

「チッ……気利かねえな、マジで」

 

 早川は舌打ちを一つ落とし、誰もいない長椅子にどしんと座り込んだ。

 

「……そういや、御堂のやつは人が沢山いたっていってたな」

 

 昼間の光景を思い出す。あのオカルト小僧は、この椅子に何十人も霊が座っていると言っていた。青っぽいのや黒っぽいの、危なそうな連中がびっしりと腰掛けて順番を待っているのだと。

 

「……確かに気配はするんだが……」

 

 言われてみれば、完全な無音のはずなのに、空気の肌触りが妙に重い。まるで満員電車の中にいるような、他人の体温に触れそうで触れない時特有の、嫌な圧迫感がある。

 

 早川は息を殺し、じっと耳を澄ませてみた。

 

 ──……さわ……ざわ……。

 

 ──……す……。

 

 何か、さざめきのようなものが聴こえてくるような気がした。布と布が擦れ合う微かな音か、あるいは誰かが喉の奥で息を吐き出す音か。耳の奥を撫でていくような、ひどく曖昧なざわめき。

 

「おい……?」

 

 思わず声をかけてみる。だが、声を出した瞬間にその音はふっと途絶えた。本当に何かがいたのか? それとも、この異様な静寂に当てられて自分の鼓膜が鳴らした耳鳴りだったのか。勘違いかもしれない。いや、おそらく気のせいだろう。そう自分に言い聞かせてみても、全く自信が持てなかった。

 

 腕に鳥肌が立つのを感じ、早川は逃げるようにその場を離れて病室へと戻った。

 

 ・

 ・

 ・

 

 それから、さらにどれほどの時間が経過しただろうか。

 

 やはり腹は減らない。喉も渇かない。眠気すら一向にやってこない。生きている人間なら当然感じるはずの欲求が、綺麗さっぱり削ぎ落とされている。その異常な平穏さが、かえって早川の神経をヤスリで削るように苛立たせていた。

 

 じっとしていると、自分の身体が自分のものでなくなっていくような錯覚に襲われる。手足を動かし、念動で小銭を宙に浮かせてみても、満たされたダムのような力は確かにそこにあるのに、その力を宿している器──自分自身の肉体が、まるで中身のない抜け殻になっていくような、得体の知れない恐怖。

 

「……やってられるかよ」

 

 もう我慢の限界だった。飯が出ないのも、誰も様子を見に来ないのも、この放置そのものがふざけすぎている。

 

 ──あの医者だ。あの鷲尾とかいう白髪の野郎に、直接文句を言ってやる。

 

 経過観察はどうなったのか。入院手続きってのは何日間なのか。そして何より──この腹も減らず喉も渇かない気味の悪い身体を、どうしてくれるつもりなのか。聞きたいことは山ほどあった。

 

 廊下に飛び出し昼間に案内された診察室の並ぶエリアへと大股で向かい、目的の部屋の前へとたどり着く。

 

 そして──

 

「おい! 先生よォ!」

 

 と、まるで阿弥陀羅の下っ端構成員のように乱暴にドアを開くと、そこには。

 

空白行について。現在、句点「。」で終わる文章一つにつき空白行が一つありますが、これは読みづらいですか?

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