「ふぁ……」
アンリエッタ姫は、小さくあくびを漏らした。口元を上品に隠しながら、窓の外へ視線を向ける。
二つの月は、今日も寄り添うように夜空を泳いでいた。
その淡い月光を浴びながら、アンリエッタは静かに物思いへ沈んでいく。
思えば、長い道のりだった。
王族として生まれた以上、女として生まれた以上。想う相手と結ばれるとは限らない。そんな覚悟は、幼い頃から嫌というほど理解していた。
だが、それでも自分はこうして、三年もの間逢瀬を重ねてきた大切な人と、結婚式を挙げようとしている。
これ以上の幸福など、きっと存在しないだろう。
運命に『もしも』が無意味なのは分かっているが、それでも、もし少し歯車が違っていたなら、好色で名高いゲルマニア皇帝、アルブレヒト三世へ嫁ぐ未来だって十分あり得たのだから。
(ウェールズ様、今頃あなたは、何を思っているのかしら?)
遥か遠く、この空の向こうにいるであろう愛しい人へ、そっと想いを馳せる。
三年前、彼と初めて出会ったのは、ラグドリアン湖で開かれた、母マリアンヌの誕生日祝賀会だった。
ラグドリアン湖には、古くより『水の精霊』が棲まうと伝えられている。
かつてはモンモランシ家が管理していたその湖は、今なお『水の国トリステイン』を象徴する場所として知られていた。
神が自ら細部まで作り上げたとも称されるほど、美しい湖畔。その湖には古くから一つの伝承が残されている。
『ラグドリアン湖の前で交わされた誓いは、決して破られない』というものだ。
最初にウェールズと出会ったあの日、アンリエッタは、水の精霊が宿るというラグドリアン湖のほとりで誓った。彼との永遠の愛を。
けれどウェールズは、その誓いを返してくれなかった。
どうしてなのか。それだけが、ずっと心のどこかに引っかかっていた。
(こうして結婚するのだから……あの時、誓ってほしかったですわ)
思い返すと、少しだけ頬を膨らませたくなる。
……とはいえこれから先、時間はいくらでもあるのだ。
順番こそ逆になってしまうけれど、結婚した後に改めて、水の精霊の前で誓えばいい。今度こそ、ウェールズもちゃんと言葉を返してくれるはず。
(そういえばルイズは、どうしているかしら……)
今度は、大事な詔を任せた幼馴染のことが気になり始める。
ちゃんと詔が書けているのだろうか、一度気になり始めると、もう落ち着かなかった。
結婚すれば、自分はアルビオンへ移り住む。そうなれば、ルイズとも今までのようには会えなくなるだろう。だから、最後に少しくらい、遊びに行ったっていいはずだ。
マザリーニの小言だって、これで最後になるかもしれないのだから。
アンリエッタはいそいそと、昨夜と同じように支度を始める。
実は以前にも、『視察』という名目でトリステイン魔法学院を訪れたことがあった。もっとも、その時はまだルイズが入学する前で、会うことはできなかったのだが。
学院の授業水準はどうか。食事は貴族でも満足できるものか。教材や設備に不備はないか。そういった視察が本来の目的だった。
だが、学院生活を送ったことのないアンリエッタにとっては、ほとんど『学校体験』のようなものだったが、あの時は本当に楽しかった。
そしてその際、マザリーニへ半ば無理を言って用意させた学生服も、まだ手元に残っている。
実は今回、この制服をこっそり持ってきていたのだ。
アンリエッタは純白のドレスをそっと脱ぎ、代わりに学生服へ袖を通していく。
本来なら侍女たちに着付けを任せるところだが、お忍びでそんなことをさせるわけにはいかない。
慣れない手つきで、一人きりの着替えを進めていく。
こういう珍しさも結婚してしまえば、もう滅多にできなくなるのだろう。
だからこそ今は、この少しだけ自由な時間を楽しみたかった。
(あとは、適当に髪を結んで、お化粧をして……)
当時より少し胸も成長してしまった。
学生服のボタンを上まで留めると苦しかったため、上を二つほど外して整える。スカート丈は問題ない。むしろ、こんな短いスカートなど普段は絶対に履かないからこそ、少しだけ気分が浮き立っていた。
こうなると、とてもトリステイン王女には見えない。
どこにでもいる、ただの女学生だ。
昨夜も、こうしてルイズのもとへ忍び込んだのである。
「さて……」
準備は整った。最後の小さな冒険へ出かけるとしよう。
そんなことを考えていた、その時だった。
コン、コンと、背後の窓が、静かに叩かれる。
「だ、誰!?」
一瞬、アンリエッタの肩がびくりと跳ねた。
ラ・ポルト?
それともマザリーニ?
まさか、聞き耳でも立てられていたのだろうか。
そんな風に身構えていたアンリエッタだったが……。
「ぼくだ」
その声を聞いた瞬間。アンリエッタの身体が、別の意味で震える。
あと数日もすれば、毎日のように耳にすることになるであろう、美しい声。
「ウェールズ……様?」
「そう、だよ……。久しぶり……だね、アンリエッタ」
やがて窓を覆うように、一つの影が浮かび上がる。
逆光のせいで顔立ちはよく見えない。
だが、その輪郭は間違いなくアルビオン皇太子、ウェールズだった。
「な、なぜここに……?」
当然の疑問を口にするアンリエッタ。もうすぐ、自分がアルビオンへ向かうのだ。あと数日もすれば、挙式で再会できるというのに。
(それとも……わたくしに会いに来てくださったの……?)
待ちきれずに来てくれたのだろうか、自分と同じように『最後の独り身』を惜しんで。そう考えると、胸が熱くなる。
だが同時に今の自分の格好を思い出し、アンリエッタは急に恥ずかしくなった。
学生服。しかもボタンを少し外したまま。王女としては、あまりにもはしたない。
どうしましょうと慌てかけた時、ふと、もっと根本的な疑念が脳裏をよぎる。
本当に、この人はウェールズなのだろうか?
一応、試してみよう。
「ウェールズ様。風吹く夜に――」
それは三年前、ラグドリアン湖で逢瀬を重ねる中、二人だけで決めた合言葉だった。
それを聞いたウェールズは、しばらく沈黙した。
(……まさか)
疑念が、じわじわと膨らみ始める。誰かを呼ぶべきか。
そんな考えまで浮かび始めた頃。
「――水の誓いを」
返ってきたのは、正しい答えだった。それだけで、アンリエッタの疑念は霧散する。
彼女は安心したように窓を開けた。どうやらウェールズは、『
警備の目を縫って、ここまで来たのだろう。
「もう……こんな風に忍んで来なくとも、あと数日もすれば、わたくしがそちらへ参りましたのに」
「……会うのが、待ちきれ、なく……てね。いや……だ、たったかな……?」
ほんのわずか。ウェールズの言葉が途切れる。
だが、アンリエッタは気にしなかった。
「別に、嫌とは申しておりませんわ。相変わらず意地悪なのですね」
くすり、と。アンリエッタは微笑む。
一度疑い、それが晴れてしまった以上。もう彼女は、『ウェールズ本人である』ことを疑っていなかった。
だからこそ時折生じる、微かな違和感にも気付けない。
「それより……どうしてこちらへ?」
「最後の夜を……きみと、一緒に……過ごし、たくてね」
「え……わざわざ、そのために?」
その言葉だけで、アンリエッタの頬は熱を帯びる。
期待と幸福で、胸の鼓動が速くなっていく。
「だから……少しだけ、付き合ぅて、て……くれ、ないか、い? アンリエッタ」
「は、はい……!」
緊張しているのは、自分だけではないのだろう。アンリエッタはそう思った。
だからこそ、彼の微妙な言葉の間も、どこか上擦った口調も、「照れているせい」だと自然に受け入れてしまう。
アンリエッタは一度奥へ引っ込もうとする。
だが……。
「……その姿も、とて、も綺麗だよ」
その一言にアンリエッタは、思わず嬉しそうに振り返ってしまった。
「だからそ、のまま……、来て、くれないか?」
「……はい」
疑うことなくアンリエッタは、差し出された彼の手を取った。
さて、同時刻。
「で、どうすんのよアレぇぇぇ!!」
キュルケ、モンモランシー、ギーシュの三人は、〝飛行魔法〟で夜空を逃げ回っていた。
その背後から、火竜が猛烈な勢いで迫ってくる。
「もっと街から離れるわよ!」
キュルケは叫ぶと同時に、さらに速度を上げた。
やがて進行方向の先に、左右を切り立った崖に挟まれた渓谷地帯が見えてくる。
人気もないし、戦うならここしかない。
「ギーシュ! モンモランシー! あんたたちは下がって!」
「はぁ!? 正気なの!?」
突然の宣言に、モンモランシーは素っ頓狂な声を上げる。
いや、戦わずに済むなら本音ではありがたい。ありがたいのだが……。
「ぼ、ぼくも戦うぞ! トリステイン貴族の勇敢さを見せてやる! ぼぁっ!?」
ギーシュは薔薇の杖を掲げて勇ましく叫ぶ。その次の瞬間、火竜の吐いた極大の火炎が、彼の真横を掠め飛んでいった。
先ほどまでの威勢など、一瞬で吹き飛ぶほどの圧倒的熱量。
しかも不運なことに、爆散した岩片の一つが後頭部へ直撃した。
「ちょっ、ギーシュ! 大丈夫!?」
気絶して落下していくギーシュを、モンモランシーが慌てて『
幸い、でかいタンコブができた程度で済んだようだ。
それに安堵しつつも「何やってんのよ、もう……!」という愚痴は忘れない。
そんな二人の頭上から、まだ『飛翔』しているキュルケの怒声が響いた。
「だから引っ込んでなさいって言ってるでしょ! 別に無策で挑むわけじゃないわ!」
「じゃ、じゃあどうするっていうのよ!」
本来なら、狙われていたのはギーシュたちだった。
だがキュルケが何度も『炎球』を撃ち込み、無理やり敵意を引き寄せていたのだ。
「……そんなの、決まってるじゃない」
キュルケは独り言のように呟く。
「限界を超えるしかないでしょ」
脳裏に浮かぶのは、二人の少女。
一か月前の修行。
二人の背中を追いかけるばかりだった、あの歯痒さ。
置いていかれる感覚。それはもう、御免だった。
「いつまでも、あの二人に置いていかれるなんて嫌なのよ……!」
左右を切り立った崖に囲まれた渓谷。
その片側で、モンモランシーが不安げに見守る中。
キュルケは、五メイル先で業火を口内に宿し咆哮する存在と対峙する。
ハルケギニアにおいて、最も怒らせてはならない種族、『火竜』。
その怪物を前にしてなお、キュルケは一歩も退かなかった。
キュルケの脳裏に過る、二人の少女。
一か月前の修行では二人の後姿を追いかけるような、そんな歯がゆさを覚えていたが、いい加減自分だって、彼女たちに追い付きたい。その気持ちは強く持っていたのだ。
両側に切り立った崖。その左側でギーシュとモンモランシーが、心配そうに見下ろす中。
キュルケは五メイル先、業火を口に宿らせ激昂する……ハルケギニアで最も怒らせてはならない種族、火竜と対峙した。
「―――くっ!」
火竜の爪が、薙ぎ払うように迫る。キュルケは『飛翔』で紙一重に回避した。
直後、竜の喉奥が赤熱する。ブレスだ。
キュルケは即座に『炎球』を叩き込み、その意識を逸らす。
一瞬だけ生まれた隙。その間に射線から離脱する。
次の瞬間、先ほどまでキュルケがいた空間を、灼熱の業火が薙ぎ払った。
「――――ぐっ!」
直撃こそ避けた。
だが、熱波と衝撃だけで飛行姿勢が崩れる。キュルケはそのまま地面へ叩き落され、泥の上を無様に転がった。
自慢の赤髪は泥にまみれ、服の中まで土が入り込む。
だがそんなことを気にする余裕などない。
一方、火竜は止まらない。爪、尾、巨体そのものによる圧殺。
次々と襲い掛かる攻撃を、キュルケは再び『飛翔』で回避する。
だが、見下ろしていたモンモランシーには、はっきり分かっていた。
勝ち目なんて、どこにもないと。
「なによアイツ……! 全然無策じゃないのよ……!」
当然だ。
火を操る生物として、火竜は生まれながらの完成形。火のメイジであるキュルケが、真正面から炎で挑むこと自体が無謀だった。
勝てるはずがない。
「キュルケ! 逃げなさいよ! こんなところで意地張ったって意味ないわよ!」
モンモランシーの叫び。その通りだった。
いつもの自分なら逃げている。
こんな命懸けの戦い、いつもなら馬鹿らしいと笑って終わっていた。いつもなら……。
「生憎と……こっちにも意地があるのよ……!」
泥まみれのまま、キュルケは立ち上がる。
雨の中、花を咲かせ続けたルイズ。
死線の中で魔法を掴み取ったタバサ。
ゴーレムの群れへ飛び込んだマチルダ。
みんな、ボロボロになりながら前へ進んでいた。
『キュルケって、そこまで私の魔法を習得しようって意気が無いでしょ』
フリーレンの言葉が脳裏を過る。
そうだ。自分は今まで、『必死』になったことがなかった。
だから今。生まれて初めて、自分を極限まで追い込む。『必死になる』。
「あたしだって……!」
強風に吹き飛ばされる。転がる。叩きつけられる。
それでも、立つ。
「あたしだって、追いつきたいのよ……!!」
火竜が咆哮した。喉奥に、灼熱が収束していく。
次で終わらせるつもりだ。
「ブレスが来るわ! 逃げなさい!!」
モンモランシーの悲鳴。だがキュルケは、静かに目を閉じた。
精神力は限界、もう魔法など撃てない?
(そんな固定観念、ぶち壊してやるわよ……!)
極限まで削られた精神。死の恐怖。
その全てを、無理やり魔力へ変えていく。
研ぎ澄ませ、集中して。
そして、自分の中に生まれ始めた『新しい感覚』へ、全てを賭ける。
(失敗したら――あたしはそれまでってだけよ!)
杖を掲げる。脳裏に浮かぶのは、自分だけの『放出のイメージ』。
ルイズは爆発。タバサは槍。マチルダは鍵状。
なら、自分は。当然、『炎球』だ。
キュルケは杖を向ける。
今ここで使うべきは〝
もっと単純で、もっと純粋で。もっと、自分らしい魔法。
全ては、あの二人が立つ高みへ、辿り着くために。
先に放たれたのは、火竜の業火だった。
キュルケ一人を丸ごと呑み込めるほどの、圧倒的な熱量と範囲。
もう逃げられない。
「キュルケ!!」
モンモランシーの悲鳴が飛ぶ。だが、死を目前にしたキュルケの表情は、不思議なほど静かだった。
ゆっくりと杖を掲げる。三枚花弁の魔法陣が、杖先に浮かび上がった。
そしていつものように、ただ『炎球』を放つ時と同じ感覚で、魔法を撃つ。
「――――〝
杖先から放たれたのは、青白い炎球。それは真正面から火竜のブレスへ突っ込み次の瞬間。灼熱の奔流そのものを、真正面から貫いた。
勢いは止まらない。青白い光弾はそのまま火竜の頭部へ直撃し、炸裂した。
轟音、衝撃。
そして、火竜の頭が、吹き飛んだ。
「……うそ」
モンモランシーが、呆然と呟く。
その頃になって、気絶していたギーシュもようやく目を覚ました。
「ふぁ……な、何が起きたんだい?」
「……キュルケが、一人で火竜を倒したのよ」
「へぇ……すご――って、えぇぇぇぇっ!?」
それを聞いたギーシュは両手をあげて驚いた。
ドラゴン。それはエルフと並び、恐怖の象徴として語られる存在。
それを、同級生がたった一人で討ち取ったのだ。
普通ならあり得ないだろう。
だが現実として、頭部を失った火竜の巨体が、目の前で崩れ落ちていく。
それだけで十分だった。
「もしかして……〝一般攻撃魔法〟でやっつけたのかい? それなら納得かなって思うけど」
「え? なによそれ?」
「ほら、モンモランシーも知っているだろう?『民間魔法学』の最優秀者だけが使えるって噂の魔法さ!」
「あぁ……なんか言ってたわね……」
モンモランシーは曖昧に頷く。正直、そんな話は半分与太話だと思っていた。
だがもし、もし本当に、今の魔法がそれなのだとしたら、とんでもない魔法よね……。と、モンモランシーでさえ、そう思ってしまった。
一方、当のキュルケはというと。
「はぁっ……はぁっ……」
肩で息をしながら、ゆっくり深呼吸を繰り返していた。
失敗していれば死んでいた。本当に、紙一重だった。
だが、それでも……。
(やった……!)
胸の奥で、確かな手応えが燃えていた。
(越えた……! 壁を越えたのよ、あたしは!!)
キュルケは思わず、杖を持った手を空に上げる。
次の瞬間、頭を失った火竜の巨体が、再び動き出した。
「――――は?」
キュルケの笑顔が凍りついた。
「えっ!?」
「な、なんだぁぁぁ!?」
ギーシュとモンモランシーも絶叫した。
頭を失ったはずの火竜が、平然と立ち上がっていく。
(うそでしょ……! こいつも同じなの……!?)
脳裏を過るのは、先ほどの光景。
首を失ってなお動き続けていた、あの兵士たち。
寒気が背筋を駆け抜ける。これはもはや生物ではないではないか。
人間や幻獣の皮を被った、別種の怪物のような、そんな悍ましさだけがあった。
驚くキュルケをよそに、火竜の首の断面が、ぼこりと脈動した。
次いで断面から、噴水のように炎が噴き上がる。そのまま火炎放射を放ってきたのだ。
「やばっ――!」
キュルケは咄嗟に身を翻す。
だが、さっき放った〝一般攻撃魔法〟の反動で、精神力が大きく乱れていた。
もう魔法が間に合わない。
「キュルケ!!」
モンモランシーが悲鳴を上げる。だが助けに飛び込む勇気は出ない。
ギーシュも、拳を握り締めたまま立ち尽くしていた。
そして、キュルケの姿は、炎の濁流に呑み込まれた。
「うそ……でしょ……キュルケ……」
モンモランシーは震える声で、炎の中へ消えた同級生の名を呼ぶ。
だが、悲しみに暮れる暇すら与えられなかった。
首なし竜は「獲物を仕留めた」と判断した瞬間、新たな魔力反応へと狙いを変えていたのだ。
ずしん、ずしんと。
巨体を揺らしながら、今度はモンモランシーたちへ迫ってくる。どうやら近くの魔力を自動感知し、襲撃するように動いているらしい。
「きゃああああああああああ!!」
モンモランシーは半泣きで悲鳴を上げた。ギーシュも震える手で杖を構える。
だが相手は、首を失ってなお動き続ける化け物竜だ。『ドット』の自分たちが、勝てるわけがない。
(け、けれど……! 恋人の前で逃げるわけにはいかない……!)
せめてモンモランシーが逃げる時間だけでも稼がなくては!
「ワルキューレ!!」
薔薇の杖から、青銅の乙女騎士たちが生成される。
だが、火竜はただ爪を一振りしただけだった。
それだけで、ワルキューレたちはまとめて粉砕される。二秒持たなかった。
「いやぁぁぁぁ!! いやぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「逃げろ! 逃げてくれモンモランシー!!」
恐怖で完全に硬直したモンモランシーを、ギーシュが必死に叫んで促す。
だがもう遅い。首なし竜の断面が赤熱する。
再び、火炎放射が放たれようとしていた。
その瞬間――。
「――――〝
突如。火竜の眼前に、小さな魔力光が生まれる。
次の瞬間、それは一気に膨張し、大爆発。
轟音と共に、首なし竜の巨体が吹き飛んだ。
「――――へ?」
モンモランシーは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔のまま、呆然と声のした方を見る。
ギーシュも同じく、信じられないものを見る顔を向けた。
「大丈夫? 助けに来てあげたわよ!」
そこには、いつの間にか停車していたジープの後部座席から、杖を突きつけるルイズの姿があった。
「る、ルイズ……」
「なによその顔。普段すましたあんたでも、そんな顔するのね」
ルイズは余裕たっぷりに鼻を鳴らす。実際、彼女の放った魔法によって、火竜は崖下へ叩き落されていた。
だが――。
「あ、安心するな! あの竜、首が吹き飛んでも動き続けるんだ!」
ギーシュが慌てて叫ぶ。
「だろうね。『あれ』は身体が完全に朽ちるまで止まらない」
冷静に答えたのは、運転席のフリーレンだった。
ハンドルを握ったまま、その視線だけは崖下へ落ちた火竜を見据えている。
「そ、そうなのよ! しかもキュルケが……!」
モンモランシーは、炎の中へ消えたキュルケのことを叫ぶ。
だが、それを聞いてもなお、フリーレンの表情は変わらなかった。
「ミス・フリーレン。ここは私が」
助手席に座っていたコルベールは、静かにそう告げると、〝飛行魔法〟で崖下へ降下していった。
キュルケが呑み込まれた地点には、大穴が穿たれている。
火竜が体勢を戻すより早く、コルベールはその穴を覗き込んだ。
「……良かった。無事のようですな、ミス・ツェルプストー」
果たして、キュルケは生きていた。
火炎放射が迫った瞬間、偶然この落とし穴へ転落したことで、焼死を免れたのだ。
「よ、よかったぁ! 間に合ったんだね、ぼくのウェルダンテ!!」
そう、この穴を掘ったのは、ギーシュの使い魔――ジャイアントモールのウェルダンテだった。
穴の底では、大きなモグラが鼻をひくひく動かしている。
「ほんっと、死ぬかと思ったわ……」
泥まみれになったキュルケは、コルベールに手を引かれながら立ち上がる。
「ありがと、ギーシュ。あんたに借りを作る日が来るなんてね」
「キュルケ! あんた本当に大丈夫なの!?」
「ええ、なんとかね!」
モンモランシーの叫びに、キュルケも大声で返した。
「本当によく頑張った。後は任せたまえ」
コルベールはそう言うと、キュルケの泥だらけの頭を優しく撫でる。
キュルケは少しだけ面食らったように目を瞬かせ、年相応に頬を赤くした。
だが、その間にも。
首なし竜は再び立ち上がる。
断面から、先ほどと同じように灼熱が溜まり始めていた。
「ねえ、大丈夫なのフリーレン? コルベール先生一人で……」
「コルベールなら問題ないでしょ」
援護に向かおうとしていたルイズへ、フリーレンはあっさりと言い切る。
一方、コルベールはキュルケから視線を外し、背後の竜を振り返った。
その瞳は、いつもの温厚な教師のものではない。
凶悪な爬虫類を思わせる、獰猛な光。
『炎蛇』、その異名に相応しい表情だった。
「そうか……死してなお、操られているのか」
頭を失っても動き続ける。生態系を完全に逸脱した異常。
ならばやるべきことは一つ。
コルベールは〝飛行魔法〟と『
一瞬で火竜の懐へ潜り込み、その首の断面へ杖を突きつけた。
「――〝
次の瞬間。獄炎が炸裂した。
火竜のブレスすら呑み込み、体内から体外まで一瞬で焼き尽くしていく。
耐火性を誇る鱗も甲殻も、彼の炎の前では『薪』に過ぎない。
赤と白と黒と、禍々しく色を変える炎が、竜の全身を包み込んだ。
「よく見て覚えておきたまえ、ミス・ツェルプストー。『焼き尽くす』という意味とは、どういうことなのかを……」
燃え盛る炎を背に、コルベールは静かに語る。逆光で、眼鏡は白く染まっている。
その奥に浮かぶであろう懊悩が、キュルケには妙に寂しく見えていた。
やがて、火竜は完全に灰燼へと変わった。脅威が消えたことで、一同はようやく息を吐く。
全員、フリーレンたちのジープへ集まった。
「とりあえず、みんな無事で良かった」
コルベールは安堵したように肩を下ろす。
キュルケは消耗しているし、ギーシュも頭に大きなタンコブを作っているが、あの怪物相手にこの程度で済んだなら奇跡だった。
「もうっ! 本当に怖かったんだからぁぁ!!」
ほぼ無傷のモンモランシーだけは、涙目で絶叫していた。
一方、ギーシュとキュルケはウェルダンテを撫で回している。
「ほんっと良い使い魔ね! ちゃんと可愛がってあげなさいよ!」
「もちろんさ! ぼくの愛しのウェルダンテ!」
そんなやり取りを横目に、フリーレンたちは、燃え尽きた火竜の死骸を見つめていた。
「あれ、結局なんだったの?」
「そうよ! 首が無いのに動いてたのよ!?」
モンモランシーが半泣きで訴える。キュルケも真顔で続けた。
「それだけじゃないわ。ベアトリス姫を攫った奴らも、首を飛ばされても普通に動いてたのよ。『先住魔法』かなにかかしら?」
「……何があったの?」
フリーレンの質問に、巻き込まれた三人は事情を説明した。
不穏な魔力の気配を探知したから向かってみれば、ちょうどベアトリス姫が攫われかけていたこと。
彼女をさらった連中は、首を平然と飛ばされたにもかかわらず動き回っていたこと。
そいつらがけしかけてきた火竜があの、首をなくしても動き回る化け物であるということ。
それらをかいつまんで説明した。
「首を飛ばされても、動き回る……ですか?」
話を聞いていたシエスタは、なんとも恐ろしいとばかりに顔を青ざめさせた。
「でも、あのドラゴンを見た以上、間違いないのは確かね……」
ルイズも、冷や汗を少し流して呟く。
なんとも恐ろしい魔法だと、死者が動き出すなんて……。
(そういえば、あの洞窟内で沸いた死者と、何か関係があるのかしら?)
未踏の洞窟内で出会った、あの死者の群れ。
フリーレンやアニエスが言うには、あいつらは元々動き回って生者に襲い掛かっていたと言っていた。ジャネットも戦ったとか言ってたっけ。
あれと何か関係があるのだろうか?
「ねえ、フリーレン、何か知って……」
ここでルイズは、己の使い魔を見て……息をのむ。
フリーレンは、ずっと神妙な顔で聞いていたのだが、多分、今までにないくらいに冷たい色の目を宿していたからだ。
それと同時に、すごく「面倒くさい」といったような、苦虫を嚙み潰したような顔を浮かべていた。
「……やっぱりいるのか」
やがて、フリーレンはぽつりと呟く。
「ねえ、知ってるんでしょ!? 教えて、あれはいったい何なの?」
最初に食ってかかったのはモンモランシーだ。だが、周囲も彼女と同じ感情で、フリーレンを見つめている。
やがて、周囲の視線を受けて、フリーレンも答えを返す。
「あの竜はおそらく、〝
「あぜ、りゅーぜ?」
聞いたことのない魔法名に、首をかしげるルイズ達。
「ルイズやキュルケには前に話したことがあると思うけど、私の世界には『魔王軍』と呼ばれる勢力があった。勇者ヒンメルによって魔王が討たれたことで、勢いは弱まったけど」
いきなりの飛躍した話に、ギーシュとモンモランシーは呆気にとられる。
コルベールも初見だったが、別世界やヒンメルについては前もって聞いていたため、特に疑問に思うことなく静聴する。
「この魔法を扱う奴は、かつてその魔王軍に属していた魔族……その中でも魔法の高みに至っていると謳われた軍直下の幹部級、〝
そして、かつて自分がこの手で葬ったはずの魔族だった。
「〝