夜の帳が幻想郷の空を覆い尽くす。気温はさらに落ち、夜の重い湿度が肌にまとわりつくころ。妖怪の山の一角に、ぽつんと灯る明かりがひとつ。夜の闇に紛れ、電波がふわりと立ち上がる。
幻想郷の夜を流れる電波が、一つの声を運んでいた。湿気に溶け込むようにして、気だるさと怪しさを滲んでいた。
「……ちゃーっす。ぬえの、正体不明電波局、ぬえぬえナイト、第1回です」
封獣ぬえの声は、やけに静かだった。その口調は感情の起伏を感じさせない、淡々とした、どこか寝起きのような声だった。
「本当はね、今日は二人で始めるはずだったんだけど……なんか、いないんだよね。隣にいたはずの子がさ。……なんだっけ、名前。えーと……傘……?」
不穏な空白が数秒。スタジオの空気が、すっと冷える。しん、と音が吸い込まれる。
機材の電源音すら遠ざかって感じるほど、沈黙だけがマイクに乗った。
誰も、何も、そこにいないような──そんな数秒だった。
──バァン!
スタジオのドアが音を立てて開いた。
「はーい! お待たせしましたーっ! 唐傘妖怪の多々良小傘、正体不明に参上しましたー!」
ぬえが盛大に椅子から転げ落ちる。
「お前! せっかくホラーっぽい導入したのに! もうちょっと雰囲気作ってでてきてよ!」
「えっ、もう始まってるの!? 嘘!?」
「昨日話したじゃん! 初回だからインパクト強めに行こうって!」
小傘は「ああ! すっかり忘れてた!」と悪びれることなく、舌を出してふざける。たちまち、さきほどまでの空気を、笑い声のぬくもりが吹き払っていった。
ぬえはあきれた顔で半目になり、小傘の頭に軽く一発お見舞いした。「ああん」と、ぬえに倣ったかのような調子で頭を抑える小傘は、ちょっと顔を赤らめ、くすくすと笑いながら席につく。
マイク越しに、ため息と何かをつつく音が入った。トントンと低く、くぐもった破裂音。
それに続いて、ぬえの声がゆっくりとこぼれる。
「……で、これってどういう番組なんだっけ?」
小傘が隣で台本らしき紙をめくりながら、即答する。
「えっとね、“ぬえと小傘の、正体不明な夜にまどろむ、どこにも届かない深夜ラジオ”って書いてある!」
「なにそのポエム!? そんな番組だっけ」
「いや、これぬえちゃんが言ってたやつだよ!? “ぬえぬえナイト”って名前に合う感じでって……」
「あー……うん、そんな気もする。たぶん昨日の夜にテンションで言ったやつだ……」
「えー番組の方向性は正体不明です!」
「……というわけで、初回はテスト放送的に、ふわっと始まっていきます~!」
よし、とぬえは一言呟く。
「……じゃあさ、まずはなんか番組っぽいことしよっか」
ぐっとマイクに近づいたのか、その声はぐぐもったように、耳を撫でる。
小傘はぴょんと背筋を伸ばした。
「自己紹介とか! 多分ラジオってそういうことやるんだよね!」
「そうそう、じゃあテンプレコーナー行ってみよう。”ぬえと小傘の、いまさら聞けないプロフィール!”」
「やったー!」
その声は本当に楽しげで、無邪気に拍手をしている。
「はい、じゃあまずはこの番組のナビゲーター、幻想郷随一の正体不明、封獣ぬえです。種族は……人は食べない方の妖怪」
「えええ!? ざっくりすぎるよ!」
「性格は陰気で捻くれてて、でも笑いのセンスは割とあると思っています。あ、大妖怪なので気軽に近づかないでください」
「この溢れる自信はなんなの……」
「趣味は人をびっくりさせることと、人前にでないこと。えっ、ラジオ向いてないって? そのとおり」
「自覚あるんだね!?」
小傘の反応に、ぬえは満足そうに喉を鳴らした。
ケラケラと笑いながら、マイクの前でいたずらっ子のように片目をつぶる。
「じゃ、次。お前のターンね、小傘」
「えっ、私!? えっと、えっと……」
言葉の代わりに、ぐるぐると頭の中で何かがまわっている音が、ラジオを通して伝わってきた。
「えっと、わたし、多々良小傘です! 種族はからかさお化け、傘を忘れた人間の恨みから生まれた妖怪です!」
「うんうん、いいねいいね~」
「性格は元気で……ちょっとおっちょこちょい?」
「うーん、小傘は頑張ってもいつもなんか失敗するからなあ」
「えへへ、あとね、趣味は人を驚かせることと、ぬえちゃんとラジオやることです!」
「おい、最後のやつ、今作っただろ」
「こいつめー」とぬえは小傘のほっぺたを容赦なく引っ張って遊ぶ。小傘は「むーっ!」と声にならない抗議の声を漏らしながら、じたばたと足を動かす。マイクには、机の軋む音とぬえの笑い声がばっちり入っていた。
「さてとじゃあ気を取り直して、次のコーナー行ってみようか。今夜は特集! “正体不明ってウケるらしい”でお送りしまーす」
「えっ、初回から特集なんてアリなの?」
「正体不明のラジオだぞ。そんな細かいこと気にしなくていいんだよ」
しかも、とぬえが続ける。
「番組名もそうだし、リスナーが“こいつ何者? ”って思ってる今がチャンス! 自分たちの“正体不明っぷり”を徹底検証していくよー!」
「いや私、傘なんだけど? めっちゃ正体わかりやすいよ!」
「いや小傘は傘立てに忘れさられた上に、処分されてそうだし、正体不明みたいなもんでしょ」
「ひ、ひどい。私、割と伝統ある妖怪なんですけど! 存在をちゃんと主張したいんですけど!?」
ぬえはマイク越しにくすくす笑いながら、軽く肩をすくめた。
「はいはい、主張したいからかさちゃんね。けどそれ、傘の時点で不利なんだよねー。だって使う時だけ頼られて、晴れたらすぐ存在感ゼロ。まるで──」
間を置いて、わざとらしく囁いた。
「……都合のいい女みたいじゃん?」
「言い方ぁ! その例え生々しいからやめてよお!」
小傘が半泣きになりながら机をばんばん叩く。その目尻は本当に少し潤んでいた。悔しさと照れと、ちょっとだけ傷ついた気持ち。
ぬえはその様子を見て満足げに頷き、手元の紙をぺらりとめくった。
「さて、そんな“小傘の正体はだいたい分かった”ところで!」
「分かってないし! むしろ風評被害でぐちゃぐちゃだし!」
「私たちがどれだけ“正体不明”なのか、街の声を集めて検証してみました! 題して──」
どこからともなく効果音がなる。誰が鳴らしたのかも、もちろん不明。
「『街角アンケート・ぬえと小傘って何者?』!」
「え、アンケート!? いつそんなのやってたの? 私、聞いてないよ!」
「うん、まあ、実施はしてない」
「してないのかよ!!」
「でも、アンケート結果っぽい雰囲気でいけば、それっぽくなるって、ね?」
「いやね? じゃないよ!? 捏造だよねそれ!? ラジオでやっていいの!?」
小傘は思わず立ち上がりそうな勢いで身を乗り出した。こんなラジオに倫理があるのかどうか、そんな議論は今更だと一蹴して、ぬえはポケットから紙を取り出し、涼しい顔で即席の“集計シート(っぽい紙)”を読み上げ始めた。
「人里の人間と妖怪30人に聞きました。封獣ぬえって何者? さてさて、
第3位! 『人里うろつくよくわからない何か』。
第2位! 『見るたびに姿が変わっているやつ』。
そして第1位はぁー?」
ドゥルルルルルル……
「そこは口なんだ……」
「でん! 『誰?』でした!」
ぬえは誇らしげにマイクの前でポーズをとった。視聴者の見えないところでも無意味なパフォーマンスをするのは、彼女なりのこだわりなのかもしれない。
「そりゃそうだよね! だって正体不明なんだもん! でもこれなら私の方が知名度あるかも……」
「ちなみに小傘のほうは断トツで『店先で忘れられてるのを見た』だったよ」
「『誰?』よりもひどい! しかもそれ私じゃないし!」
小傘は“うがーっ! ”とでも叫びそうな勢いで、両手を天に突き上げて抗議している。
そもそもこのアンケートが完全に捏造であることは、もう忘れているようだった。
「こうなったら、忘れ去られた私達の恨みを……」などと言い始めた小傘を、ぬえはニヤニヤしながら見守っていたが──
ふとマイクに向き直り、手をパンと打った。
「よし、じゃあここで気を取り直して! “正体不明”といえばこの私、封獣ぬえの──」
「話の流れでそうなっただけじゃん」
「──魅力を徹底検証しようのコーナー、いってみようか!」
「わ、話が早すぎる! しかも自己申告! 誰も検証してって言ってないよ!?」
「だってほら、アンケートの結果、“誰? ”って言われるくらいには正体不明なんだよ? これはもう……“謎のままでも魅力的”ってことでしょ!」
「ポジティブすぎる! それもう、ただの開き直りじゃない!?」
小傘のツッコミもどこ吹く風、ぬえはマイクの前で得意げに資料(っぽいもの)を手に取る。どこまでも自作自演を貫くつもりらしい。
「というわけで始まりました、“正体不明のここがすごい! ”プレゼンタイム! 本日のプレゼン担当は~、はい、私でーす!」
「司会も出演も自分!? セルフ持ち上げコーナー!? 大妖怪になるにはここまでしなくちゃいけないのね……」
ぬえはそれを横目に、まるでスポットライトに当たっているかのように謎の決めポーズを決める。もちろんその姿は電波に乗るはずはないので、全く意味がない。
「じゃあ正体不明の妖怪たる私がどれだけ魅力的かじゃんじゃん紹介していくよ!」
ぬえは謎の資料を手を突き出して掲げる。
「あのーぬえちゃん、なにも書かれてないけど……」
「それが正体不明ってことだよ小傘……ほら、“内容のない資料”って、逆に深いでしょ?」
「メタ妖怪ぬえ……」
呆れた様子の小傘をぬえは受け流し、さっそく最初のアピールに移る。
「はい、まず第一に人によって姿が変わること! 例えばあるときは女の子、あるときは甲殻類、あるいは……レッサーパンダ? これはもう見え方のマルチプラットフォーム妖怪ってこと。あなたの見たいぬえを見てね?」
「えっと、じゃあこの前見たそら飛ぶ魚ってもしかして?」
「いやそれは知らない」
「えっ」
間髪いれずにぬえは白紙の資料をめくる。
「じゃあ2つ目! 誰にも知られていないので、噂話になりにくい! つまりトラブルに巻き込まれにくい社会的ステルス妖怪なのさ。……ね、現代的でしょ?」
「……それほんとに現代的なの? なんかちょっと寂しくない?」
「……でも、今はお前が隣にいるから──それで十分」
「……えっ」
呆ける小傘を視線を避けるようにして、ぬえは資料を丸めてぽいと投げ捨てた。
「そして極めつけはこれ──
正体が知られていないからこそ、魅力もまだ手つかずってこと! これからこのラジオを聴いて、わたしの魅力、見つけていかないかい?」
自信満々にウィンクを決めるぬえ。
小傘はその様子を見て、ほんの少し頬を赤らめながら、そっぽを向く。
「……なんかいいこと言うじゃん」
「でしょ! 正体不明だけど、話のまとめ方は完璧!」
ぬえは得意げに胸を張りつつ、小傘にびしっと指を向けた。
「おっと、次は小傘の番だよ?」
「えっ、今の流れでわたしにも来るの?」
「当たり前じゃん! 二人の番組なんだから、聞いてる人には二人の魅力を知ってもらわなきゃ。というわけで、からかさ妖怪・多々良小傘の、”ここが魅力的!”はじまりまーす! もちろん、私に倣って自己申告制だよん」
「えええ、準備もできてないのに」
「そこを乗り越えてこそ、忘れられない存在になるんだよ!」
「うう」と小傘は頭を抱えている。しばらく固まったのち、意を決したように勢いよく立ち上がった。
「はい! わちきの特技は人を驚かせることです! 人里でよく人を驚かせています!」
「いや、小傘いつも失敗してるじゃん。この前も一緒に驚かせようとしたら、あまりに古典的な驚かせ方で人間も反応に困ってたじゃん」
「で、でも誰かが”わっ”ってなってくれたら、それで私は……!」
「まあ言ってなかったけど、言ったことにしておこうか」
「うう……」
小傘はもじもじしながらも、それでもどこか誇らしげに声を張った。
「わ、わちきは鍛冶が得意です! 人里で壊れた傘とか、こっそり直したりしてます!」
「……あっ、そういえばそういう設定あったね!?」
「あと霊夢さんの妖怪退治の道具を直したりしてます!」
「おおい! 異変のたびに多くの妖怪は傷づいているぞ! この裏切り者! てかそれラジオで言っちゃって大丈夫? いろんな妖怪から恨み買いそうだけど」
「あっ! ど、どうしようぬえちゃん。これ言わないようにしてたのに!」
ぬえはすかさず、マイクに顔をよせると、わざとらしくノイズが乗るくらい声を張った。
「全国の妖怪の皆さーん! こちらが霊夢の秘密メカを整備してる裏切り鍛冶屋でーす!」
「やめてえええええ!! 妖怪同盟から追放されちゃうぅぅ!!」
「大丈夫大丈夫、どうせ妖怪なんてすぐ忘れるやつらばっかりだから」
「それが一番つらいやつ!」
一通りぬえが煽る切ると、小傘はすでに息も絶え絶え。肩を落として、目元をうるませながら、机に突っ伏す勢いだった。ぬえはその様子をケラケラと笑って見ていたが、しばらくして笑いが落ち着くと、ふっとマイクに向き直った。
「でもさ、そうやって真面目に人を驚かせようとしたり、鍛冶とか、地味なことをちゃんと頑張ってたり──お前のそういうところは気に入ってるよ。そこが、お前の一番の魅力なんじゃない?」
小傘が顔を上げる。
声のトーンは変わらなかったけれど、ぬえの言葉には確かに優しさがあった。小傘は、笑うでも泣くでもない顔で、確かにそれを受け取る。
「最近の妖怪って、そういうこと忘れてるじゃん? だから真面目にやってるのが目を引いたんだよ」
「ぬえちゃん……わたし、ぬえちゃんのこと見直したよ! ただの性悪妖怪かと思ってたけど、ちゃんと見ててくれたんだね!」
「おい! 失礼なやつだな!」
あからさまに声を荒げたが、顔には怒気のかけらもない。むしろその口者には、楽しげな笑みが滲んでいた。
小傘にじっとした視線に気づいたぬえは、わざとらしく咳払いをして、椅子に座り直す。
「……まったく。というわけで、ぬえと小傘の魅力プレゼンタイム、どうだったかな~? 聴いてるお前ら、気に入ったらまた来週もよろしく」
「……あれ? ラジオって今日限りじゃないの!?」
「さあ? 正体不明のラジオなんて、そういうもんでしょ」
「それもそっか」
小傘は今日を通して、このラジオの適当っぷりにすっかり慣れたようで、うんうん、と納得している。
「改めて、じゃあなお前ら、次回はリスナーからのお便りも読むから、準備しておいてな」
「えっ、どうやって受信するの?」
「さあね、河童がなんとかしてくれるでしょ」
なにそれーと、二人の笑い声と話し声が遠ざかっていく。
マイクのランプが、ひとつ、またひとつ消える。ぬえの声も、小傘の笑い声も、幻想郷の宵闇が静かに飲み込んでいく。
あとに残るのは空電音と──どこかの誰かが、確かに耳を済ませていた気配だけ。
そして幻想郷の夜に再び、正体不明の電波が漂っていた。誰にも気づかれないまま、誰かの心にだけ届く声として。
たぶん続きません。