狐は鳴く─金眼妃の迷い道─   作:水平線上の味玉

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〇〇四:大河 凪

 芙蓉(フヨウ)が出奔して暫く。夏の終わりの頃。嬌仙(キョウセン)は大河を下る舟の二階に乗っていた。

 むくれる下頬を手で支えて、小窓から外を覗く。

 

「お加減が優れませんか?」

 

 不機嫌な嬌仙に良雪(リョウセツ)が声を掛ける。

 良雪は気の強そうな顔立ちの中年の女性で、何を隠そう、良駿(リョウシュン)の母である。

 良雪は嬌仙の母の侍女だが、政敵ばかりの翡翠の園で若い青鈴(セイリン)が侍女頭では荷が重いだろうと、同行することになった。

 

「そんなまさか。海でもあるまいし」

 

 嬌仙は今、辿(テン)国を横断する大河を舟に乗って移動していた。海と比べると川は非常に穏やかである。この程度の揺れで酔っていたら体質を恨むしかない。

 この大河は龍の髯という別名があり、国の発展に大きくかかわっている。この大河無しに今の繁栄は無いが、時折大きな氾濫を起こすから、恐れを込めて龍の髯と呼ばれるようになったとか。

 嬌仙の生まれた地、河昇(カショウ)大河(龍の髯)に面している。辿において、大都市となる条件は大河に面しているかである。ということは、政を行う都も大河に隣接しているわけで、大河を下れば都に勝手に着く。さらに流されていけば交易の核である港町と海に出る。

 

「そういえば嬌仙さまは海を見られたことがありましたね」

「二度とごめんだけどね」

 

 河昇から海に出る分にはそれほど苦労しない。流れに従えばよいだけだからだ。しかし問題は帰りである。大河を上るということは水の流れに逆らうということであり、風をつかむか人力でどうにかするか、若しくはそのどちらかが必要で、(ヨウ)家ほどになれば気にしないが、とにかく金がかかる。

 それに川登りには突発的な困難(トラブル)がつきものだ。だから人だけは馬車で帰るのだが、まぁこの馬車が酷い。船が目ではないくらい揺れるのだ。懸架装置(サスペンション)の未発達な車体に凹凸ばかりの道で快適な旅など期待できるはずもない。

 

(あの時は尻が千切れるかと思った……)

 

 滅多に無い遠出で都を見て回り、最後は海の広さに感動した嬌仙の思い出は、帰りの馬車での苦痛にすべて上書きされてしまってあまり良い記憶とは言えないのだ。

 

「体調が大丈夫でしたら窓を閉じてくださいませ。あまり姿を晒すと矢に撃たれます」

「そんなに?」

 

 辿は十数年前、大規模な飢饉に見舞われた。幸い河昇は軽微な被害で済んだが、あらゆるところで大きな不幸を生み、その二次被害を受けたのが都である。難民が押し寄せ、酷い食料不足と治安の悪化を招いた。明日は我が身と、河昇が惜しみない援助をしても焼け石に水だったようである。

 

「この辺りは大分復興したようにみえるけれど」

「それが、反皇族を掲げる集団が潜むそうです。どうにも復興には少なからずその悪党が関わっていたみたいで。ですので嬌仙さまは特にお気を付けください」

 

 良雪が小窓を閉めてしまう。景色が変わる様が楽しくて気を紛らわせていたのに、それを取り上げられてしまうと、逃避したい現実が嬌仙を押しつぶそうとしてくる。

 船に乗って都に向かう理由は翡翠の園に入内するため。后候補という呼び方は后に選ばれなければ家に帰されるように考えられるかもしないが、それは違って、入内した時点で妃に収まることは決まっている。つまり、男に嫁ぐことは逃れられない定めとして確定していた。

 

「側室ってなんなんだよ……一人に絞れよな……」

「確実に御子を残すためです。旦那様も嬌仙さまに期待されておりますよ」

 

 後宮から翡翠の園に名前を変えても、その本質は変わらない。次代の子を産み育てる場所であり、そこの女たちにはその使命がある。あけすけなく言うなら子作りであった。

 嬌仙になってからおよそ十六年。女の身体特有のあれこれには順応してきたつもりである。己の身体を見慣れて他の女性に興奮することが無くなり、自己同一性に頭を抱えることはあるが、それでも嬌仙の根底には京介として生きた二十年があるので、女として男と番えといわれると強烈な嫌悪感が湧き出てくる。

 

「どうにかできないか……そうだ、悪女として嫌われれば」

 

 己の派手な見た目は悪女にピッタリだろう。当て馬として演出して、最終的に嫌われて追い出されば嬌仙の望む未来に近い。

 

「幽閉されるか、一線を越えて島流しの二択でしょうね」

「そうだよなぁ……」

 

 良雪に冷静に諭される。嬌仙だって分かっていた。己の身に流れる血が恨めしい。

 もっとも、もし、楊家の娘に生まれなければ、飢饉真っ只中のどこかに生まれていた可能性が高いわけで、血に守られている部分が大きいものだから口には出せない。為政者の娘として、民を蔑ろにする言葉は発してはならないと、嬌仙はそう決めていた。

 

「嬌仙さまそろそろお支度を」

 

 青鈴が衣を畳んで入れられている篭を手に持って部屋に入ってきた。

 

「もう?」

「昼過ぎには着くかと」

 

 早朝に最後の宿に泊まって今、都を目前にしていた。

 三年前の旅行(父と兄に無理矢理付いて行った遠出のこと)ではあんなにも興奮して、高鳴る胸に喜びを感じたものだが、今の胸の震えは全く嬉しくない震えであった。

 

「げ、何これ。目が痛いんだけど」

「誰よりも目立つようにと旦那様が」

「悪趣味にもほどがあるだろ」

「大変浮足立っておられましたから」

 

 着替えの衣は目に焼き付くような金だった。飾って観る分には嫌いではない。こういう調度品があってもよいだろう。けれど、己が着るとなると話が違う。

 この場の皆も、考えは一致していて、誰もこの金の衣を直視しようとしない。

 

「もう一つ候補がございますか」

「よかった……」

 

 この舟には嬌仙が翡翠の園に移り住むに合わせて、諸々を乗せてある。衣類もそのうちだ。入内当日という、行事でも着れる衣はこれの他にも山ほどあるはずである。

 

「青鈴……私は貴女に何かしたかな」

 

 しかし、一度下がった青鈴が再び持ってきた衣はまさかの、鮮やかな地のような赤であり、嬌仙は目を疑った。青鈴の嫌がらせかと思ったが、心外だと否定される。

 その衣は随分と高い所で締める作りで、露出は少ないが嬌仙の豊かな胸部をこれでもかと強調するようになっている。

 ただし、これでも金の衣よりはまだ常識的だった。いや、そう見えるだけかもしれないが、先ほどのよりは……と思わせるものだった。

 

「こうなると分かっていたから、嬌仙さまが自らお選びくださいとあれほど申しましたのに」

 

 ぐうの音も出ないとはこのことである。

 入内したくないからといって、どうにかこうにか画策していて、都生きの準備を疎かにしたのが全てである。

 衣類に関しては侍女らに丸投げしていたが、父が衣選びに何枚も噛んだらしい。屋敷の主人に侍女らが口出しするには父の勢いが凄まじく、その父を諌めることができそうな母は療養地に、二人の兄は都に居て、父の暴走を止める者はいなかったということだった。

 

「よくお似合いですよ」

 

 時間かけて髪を結い上げ、その赤の衣を着た嬌仙は美しかった。満開の薔薇もかくやという華やかさで、(あか)く艶やかな唇が魂を所望すれば喜んで捧げてしまいそうな、支配的なまである美貌に誰もが畏怖を覚えるだろう。

 

「似合うから嫌なんだ……」

 

 十六年以上付き合った己の身体である。姿見で見慣れているし、芙蓉(フヨウ)と母の着せ替え人形にされた経験から、どういう衣装が己を光らせるか分かっていた。けれど、心と体が一致しない嬌仙には長所を伸ばした己の着飾った姿は劇物も同然で、好みからも遠く離れるものだから忌避していた。

 ただでさえ近寄りがたいと言われるのに、孤高の女王のような姿になったらどうなるかなんて想像に難くない。それどころか大抵、あることないことを好き勝手言われる始末である。

 

「大体こんなに目立って、殴りこみに行くわけじゃないんだぞ。他家(よそ)のお嬢様たちになんて思われるか」

「舐められるよりはよくありませんか」

「良駿……お前は意外と喧嘩早いよな」

 

 嬌仙は外行きの服の新調を心に決めた。母に言えばお抱えの針子を翡翠の園に貸し出してくれるはずである。

 文句を言っているうちに、既に外は活気で騒々しくなっている。検閲を特権で越えて、都の中へと足を踏み入れていた。

 翡翠の園がある宮廷は大河の下流方向を向いて左側の、少し離れた場所にある。

 嬌仙が今、外行きの重たい衣をまとっておめかしをしているのは、船着き場に付いたら都の別邸で休むこともせず翡翠の園へ直行するからである。

 前もって知らされた内容によると、身の安全を確かにするためらしい。

 

「お嬢様準備が出来ました」

「はぁ、気が重い。頭が物理的に重い」

 

 椅子に座っていた嬌仙が立ち上がり、簪がしゃらんと鳴る。

 前に良駿、後ろを青鈴と良雪に挟まれて嬌仙は舟から降りた。

 都の地に姿を晒した嬌仙を出迎えたのは人々の騒音だった。野次馬らの視線の全てが最も絢爛な装いの嬌仙に向いた。嬌仙の顔が見えたのだろう、比較的近い所から歓声が上がり、揶揄うような口笛が鳴り響いた。

 

「これは……」

 

 青鈴が息をのんでいると、どこから持ち出したのか、良駿が素早く傘を差して嬌仙を隠す。深い傘ですっぽりと隠れて、前が見えなくなったところを、良雪が手を引いて宮廷が用意した馬車へと案内する。

 

「よろしく頼みます」

「は、はい!」

 

 御者の男に声を掛けて乗り込む。

 さすが、宮廷が遣わしたというべきか、箱の内部は過ごしやすくなっている。外が一切見えない作りなのが心残りだが、この人混みだと落ち着かないか、と納得して腰を落ち着けた。

 外で話し声がして、青鈴が乗り込んでくる。そして馬車が動き始めた。翡翠の園へと向かう最後の道程に入ったのだ。

 舟に乗っていた時は真っ白に萎れていた嬌仙。入内まで秒読みとなってさらに縮こまっていると思いきや、どこか落ち着かない様子でしきりに鼻を鳴らしていた。

 

「この匂いは……いや、でも何か違う?」

「においですか? 庶民が沢山生活していますから、その営みのにおいでしょうか」

 

 嬌仙を真似して、青鈴も鼻を鳴らすが、小さく首をかしげている。

 その匂いは時間と共に段々と甘ったるく、強く変化していった。

 

 

* * *

 

 

 薄暗い安酒場に騒がしい男が入ってきた。

 

「旦那! 酒を三杯くれ!」

「何だお前、気前がいいじゃないか」

「へへ、そりゃあ肴になるええもん見ちまったからな」

 

 男はなみなみと注がれた杯を一思いに呷ると、握りこぶしを作りながら勢いよく酒臭い息を吐いた。

 

「それで? なにを見たんだ?」

「聞いて驚くなよ? 俺、天女を見ちまった」

「天女ォ?」

 

 店主が片眉を上げる。

 

「信じてねぇな? ほら、さっきの騒ぎだよ!」

「あぁ、なにかお偉いさんが来るってやつか」

「そのお偉いさんっつーのが天女さまだったのさ!」

 

 大きく手を広げて言う。一気飲みしたせいか、興奮しているせいか、もう顔が赤い。

 

「へぇ、どんな女だったんだい? ……いやいい、もう喋らなくてもいいぞ」

「なんだよぅ、語らせろォ」

 

 男は胸元で二つの玉を支えるような仕草をしながら、鼻下を伸ばしていた。緩み切った顔は下品そのものであり、下世話な話が集まる安酒場の店主でも続きを聞くのは憚られた。

 

「あんな女、花街にもいねぇや」

「貴族様ってのは産まれた時から違うもんだ」

「そりゃあそうだけどさ。いやあどうしようかな。俺だけの宝物にしちまおうかな」

「何だ、勿体ぶるなよ」

 

 目を見開いて、一際興奮した様子で男は店主に耳打ちした。

 

「金色の目だったんだよ!」

「はーそら天女さまだ」

「その金の瞳に見つめられて、(おりゃあ)魂が抜けちまうかと思ったぜ」

「何もお前を見たわけじゃないと思うがな」

 

 その時、店内にガタン!と大きな音がした。

 そっちを見てみると、髭を伸ばした男が勢い良く立っていた。そしてその二人の方へと歩いてくる。

 

「ア、アニキ動けたんスね」

 

 その髭の男はえも言えぬ雰囲気を纏う男だった。この酒場に入り浸り、酒を呑む以外は微動だにもしない男。その髭の男が立ち上がると、座っていては分からなかった大きな体で、妙に迫力があって酔いも醒めた。

 そして、誰も見たことのないその口が開いた。

 

「金の眼の女について教えろ」

 

 先ほどまで調子のよかった男がぱちくりぱちくり、せわしなく瞬く。

 いつもなら情報の対価を強請る所だが、背中にはびっしょりと汗を掻いており、本能が警鐘を鳴らす。髭の男には逆らえないと悟った。

 

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