長い間ご愛読ありがとうございます。
その街並みは、近代化が急速に進むリディアン周辺とは対照的に、どこか“時間”が取り残されたような穏やかさを湛えていた。
中心街まで行けば巨大なショッピングモールや複合施設が立ち並ぶ。
だが、そこから少し離れただけで、途端に景色は変わる。
整然と区画された住宅街が広がり、どの家屋も無闇に新しさを主張せず、長く暮らしの積み重ねを刻んできた姿のままでそこに立っていた。
クリスが歩いているのは、そんな街区だ。
「……」
静けさの中で、彼女は足を止める。
まるでこの一帯だけ、都市開発という大波から切り離された小島のようだ、とふと思った。
冷静に考えれば当たり前だ。
ここに住む人々はずっと昔からこの土地を守り続けてきた住人で、わざわざ最新鋭の外観に作り変える必要などなかったのだろう。
流行にも技術革新にも惑わされず、ただ自分たちの時間だけを丁寧に積み重ねてきた場所――
その空気が、どこか落ち着かないはずの胸を、ひどく穏やかにしていった。
住宅街の外れ――そこに、ひときわ大きな教会が建っている。
教会と聞くだけで胃の奥が冷たくなるような記憶が、今でも背後からそっと手を伸ばしてくる。
だが、この教会は別だ。
たしか、今の神父は聖堂教会とは無関係のはずだった。
「……」
フィーネとの戦いのあと、彼女が崩れ落ちた灰の中から聖杯の欠片は見つからなかった。
元より“死体から引き抜かれた”不完全な器。耐久も安定も望める代物ではなく、最期はフィーネと共に運命を終えたのだろう。
胸の奥に、小さく刺さるような気まずさが残る。
けれど――それでも、クリスは足を向けずにはいられなかった。
どうしても、今の自分のままではいられない理由が、この場所にはある。
十字架があった。地面に静かに突き刺さった、古びた十字架。
日本では多くの遺体が仏式で火葬され、骨として墓に収められる。けれど当然、すべてがそうではない。
教会に弔われた者なら、その最期は日本の風習ではなく、遥か海外の祈りに則って送られる。
念仏ではなく聖句で。
骨壺ではなく棺で。
土に還るのは、焼かれた骨ではなく“遺体そのもの”だ。
だから──あたしは聖杯を引き抜けた。
骨ではなく、“彼女”がそのまま眠っていたから。
今になって思えば、胸の奥が冷たくなる。
墓を暴き、心臓を奪うなんて行為、正気の沙汰ではなかった。
どこからどう見ても、あの時のあたしは壊れていたのだと思う。
それでも──どうにかして彼の死を無駄にしないために、必死だった。
そのままでは、何でもなかった彼の死を、世界を救った自分の命を助けたとすることで「意味あるもの」に変えられる。
そんな都合の良い理屈で自分を縛り、追い詰めていたのだと、今なら分かる。
だがあの時のあたしは、その間違いにすら気づけなかった。
「────」
ゆっくりと足を運ぶ。
まるで踏みしめるたびに過去の記憶が指先へ滲むような、そんな重たい歩みだった。
墓標の前にしゃがみ込み、クリスはそっと花を供える。
両手を合わせると、静寂がより濃く、肌に張りつくように纏わりついた。
もちろん、返事などあるはずもない。
死人に口なし──
その言葉が意味する通り、死者は沈黙することしか選ばない。
彼女を責めることも、許すこともしない。
ただ淡々と、永遠の沈黙だけがそこにある。
死体を損なった罪を問えるのは遺族か、あるいは生者が積み重ねてきた倫理だけだ。
死者自身が何かを告げることなど、決してない。
衛宮士郎が救えなかった“義姉”。
かつて魔術師が作り、そして使い潰した存在──イリヤスフィール。
雪音クリスは、その墓前に静かに手を合わせた。
それ以外、出来ることなどなかった。
彼女の死を悼む遺族は、この世界に誰ひとりいない。
ホムンクルスとは、そういう存在だからだ。
尊厳も、人権も、名前すら“役割”に塗り潰される。
ただの素材として生まれ、ただの道具として扱われる。
そこへ罪悪感を抱き、花を手向けるクリスの行動が──意味を持つのか、持たないのか。
それはもう、誰にも分からない。
ただ、彼女の胸に残る痛みだけが、その答えの代わりになっていた。
*
時が少し流れ、太陽はすでに頭上に差し掛かっていた。
要するに──昼だ。
人間というものは、一度“決まった生活のリズム”に馴染んでしまえば、空腹という当たり前の感覚にも正直になる。
毎日三食を欠かさず食べる生活に慣れてしまえば、そこから外れるだけで妙に身体が訴えてくる。
雪音クリスも例外ではなかった。
戦場にいた頃──死んでも問題ない道具として扱われていた頃は、食事らしい食事など無かった。
空腹で倒れようが、味覚が失われようが構わない扱いをされた日々だった。
だが今は違う。
平和な日本で、仲間と同じ“生活”を送っている。
だからこそ、穏やかな昼の時間に食べる“昼飯”というものは、ひどく愛おしく思えるのだ。
胃の奥が、きゅう、と鳴いた。
「……腹、減ったな」
戦場では決して口に出来なかった、ごく当たり前の言葉が、自然と漏れた。
昼飯にしようか──
そんな考えが、ふと頭をよぎる。
この辺りは住宅街だから、チェーン店のような分かりやすい店は期待できない。
だが、古い街並みに溶け込むようにぽつりと佇む、小さな“良い感じ”の店なら、探せば見つかるかもしれない。
「……」
だが、クリスはすぐにその考えを胸の奥へ押し戻した。
一瞬の思案ののち、彼女は歩みを止めないことに決めた。
もうすぐ、目的地に着く。
今だけは寄り道するわけにはいかない。
だから、空腹の訴えを小さく無視して──彼女はただ、前を見て歩き続けた。
長い石段を、ひとつ、またひとつと踏みしめて登る。
寺や神社というものは、どうしてこうも容赦のない段数を用意してくるのか──そんな愚痴が、胸の内で自然と転がった。
高所に本殿を置くことで俗世と切り離すためだとか、参拝者に“登る”という行為そのものを修行として課すためだとか、理由はいくつか聞いたことがある。
だが、今のクリスにとってはどれも本質ではない。
彼女は参拝客としてここに来たわけではない。
この先にある寺──“柳洞寺”……そこに併設された墓に用がある。ただそれだけだ。
ゆえに、この果てしない石段が意味する宗教的な格式も精神的な修行も、今の彼女にはどうでもよかった。
よく手入れされた山門をくぐると、視界の奥に、堂々たる伽藍が姿を現した。
「──へえ。」
思わず、短い感嘆が漏れた。
彼から聞いていた話では、この柳洞寺は聖杯戦争の余波で甚大な損壊を受けたとされていた。
だからどこかにその爪痕が残っているものだと、勝手に想像していたのだ。
だが、そこにあったのは、破壊の痕跡など微塵も感じさせない、整然と美しく甦った寺院だった。
よく考えれば、あの戦いが起きたのはもう数十年も前の出来事で。
時間がすべてを埋め戻してしまっていても、不思議ではない。
──だけど、それでも。
静かに佇む本堂を前にすると、まるでここだけが戦いの歴史を呑み込み、何食わぬ顔で立っているようで、どこか不思議な感覚が胸に残った。
この巨大な場所は、多くの人間から愛されたからこそこれほどまでに巨大になれたのだろう。
そう思えた。
だから、これから自分が向かう場所にも、きっと意味がある。
クリスはそう信じていた。
*
墓というものは、つくづく恐ろしい。
そこは、お茶会をするにはあまりにも狭く、石に刻まれているのも、せいぜい数十文字。
もっと短ければ、“永遠”だの“安息”だの、その程度の単語がぽつりと置かれているだけだ。
──それなのに。
ひとたび目にすると、胸の奥に重いものが沈む。
この下に眠るひとが、どれほど多くの苦難を越えてきたのか。
どれほどの悲しみを抱き、どれほど小さな幸福を拾い集め、その果てとして、ようやくここへ辿り着いたのか。
ほんの石板一枚に刻まれた、名前や年数では到底収まりきらない“生の重み”がある。
その想像が静かに胸を締めつけ、名のつかない感情がじわりと滲み上がってくる。
……まあ、こういう感情を抱かせる“形”、若しくは概念は、そもそも人間が長い年月をかけて作り上げてきたのだから。人間であるクリスがそれを抱くのは当然なのだが。
そういえば──
先ほど立ち寄った教会の墓地でも、似たような胸の痛みに襲われた。
誰かを思い、誰かを悼む。
その価値観や祈りの形は、言葉の通じない異国の人間であっても変わらないのだろう。
間違えて、失敗して、それでも前を向こうとする人間が辿りつく場所は、いつだって似ている。
統一された言葉なんてなくてもいい。
誰かのために頑張る──
誰かのために祈る──
その行為だけは、世界のどこにあっても変わらず、美しいものなのだから。
「……つーかよ。お前も随分と“良いとこ”に落ち着いたじゃねえか」
ぽつりと、クリスは肩をすくめて笑った。
「拙者、友達いないでござる──みたいな面してたくせによ。
こんな場所に、ちゃんと墓なんて立ててもらっちまってさ」
からかうような声音なのに、そこに滲むのは妙に柔らかな温度だった。
そう言いながら、彼女は周囲を見渡す。
石畳の上に一定のリズムで並ぶ墓標。
その一つ一つは、まるで彼女がかつて“別の世界”で見た無数の剣のように、静かに地に突き立っていた。
そして──その中の一つを見つけて足が止まる。
衛宮士郎之墓
刻まれている文字は、それだけだった。
称号も、経歴も、派手な飾りもない。
ただ名前だけが、まるでそこにあることを許された最低限の証のように彫られている。
「……らしいじゃねえか。お前らしいよ、ほんと」
クリスの口元に、小さく苦い笑みが浮かんだ。
ゆっくりとその墓に花を添えると、前と同じように手を合わせる。
その疑問の答えは、結局いまだ完全には出ていない。
そもそも今の政府は──世界に隠され続けた“神秘”の、ごく僅かな断片にようやく触れた程度だ。
聖遺物の存在が明るみに出ただけで、魔術協会は蜂の巣を突いたような大騒ぎになっているらしいが……まあ、それは自業自得だろう。
だがそれでも、聖遺物という神秘の露呈によって、更に魔術協会が深く隠れるようになったからこそ。
固有結界を展開していた彼女の消失現象も、政府の報告書では、彼女の体から見つかった“もう一つの聖遺物”による影響と結論づけられている。
……まあ、それは全くの的外れってわけでもない。
あの聖遺物── 死にかけだった自分の身体を歌を通じて救い上げた──それは、結果として彼女の中に眠っていた“別の可能性”へ通路を開いた。
自分の心象風景の顕現。
ほんの短い間だけ、その聖遺物を通じて彼女の世界と“彼の世界”は地続きになった。
だからこそ──
あの瞬間、彼は現れた。
まだ未熟で、形になりきらない彼女の世界を、“ひとつの物語として確立させるために”。
未完成のままでは壊れてしまうその結界を切り離し、彼女自身を“こちら側”に留めておくために。
それが、彼という存在の最後の役割であり、たぶん──最後の優しさだったのだろう。
「もう行くぞ。」
そう、決して返事が返ってくることはないと分かりきっている墓石に話しかける。
返事を期待したわけでは無く、ただ単に無意識で出た言葉。
その言葉が出たことにほんの少しだけ驚きこそすれ、動揺することはない。
そうして歩き出そうとした瞬間、一人の女性が目に入った。
今まさに墓場に花を持って入ってきた女性。
ここからなら顔立ちまで分かるが、向こうからはこちらが見えているかどうかも怪しい距離だ。
茶色の髪が、昼下がりの光を受けて柔らかく揺れていた。
人当たりの良さそうな顔立ち。けれど、それ以上を判断する材料も、推し量る理由もない。
ただ花束を抱え、静かに墓地へ歩を進める──それだけの、名も知らぬ誰か。
季節外れの墓参りに一瞬だけ胸の奥がざわついたが、その感情はすぐに霧散した。
他人の祈りには、他人の時間がある。
そして自分には、自分が抱えてきた時間がある。
詮索する理由もないし、踏み込む権利もない。
人の影に触れるほど、今の自分は余裕があるわけでもない。
だから、クリスはただ一度だけその姿を見送り、ゆっくりと息を吐くと──静かな寺の空気を背に、出口へと歩き出した。
*
「────んん〜?」
その日、自分の……弟のような関係だった人間の墓参りに向かった時、彼女は、見慣れぬものに気づいた。
花だ。
まだ墓参りの時期からは少し早い墓地に、ひときわ鮮やかに咲いたような生花。
誰かが“今しがた”置いたばかり──そう思わせるほどに瑞々しく、ほんの少し触れれば水滴が落ちそうなほど新しい。
涼しい風に揺れるその花は、まるで自分の知らない誰かの気配を、静かに告げているようだった。
不思議だった。
この墓に足を向ける者など、ほとんどいないはずなのに。
けれど、胸の奥に浮かんだ疑問はすぐに薄れていった。
——『僕の夢は正義の味方になることです!』
あの日、胸を張ってそう言い放った幼い声が蘇る。
馬鹿げていて、叶いっこなくて、だけど本人だけは真剣で。
その夢を追って、遠い国へ行って……そして二度と帰ってこなかった少年。
無論、当時はそのことを受け入れられる人間は居なかった。
突然、まだ生い先も長いのに原因不明で死体が見つかりました。
こちらは遺骨です。
そんな風にされたって、受け入れられる人間はいない。
きっと、それがニュースで報じられてもモヤモヤした感情が残るだろう。
それが大切な家族なのなら尚更。
あの時、納得できた人間なんて、きっと誰もいなかった。
ただ──
墓前の花を見つめていると、少しだけ胸が軽くなった。
理解ではない。納得でもない。ただ、どこかで腑に落ちるような感覚。
そういえば、と彼女は思い返す。
入口ですれ違った、一人の少女。
白い髪が雪のようで素敵な、少なくとも成人はしていないと断言できる可愛い子。
なのに、不思議とその少女の姿と、目の前の花がきれいに一本の線で繋がって見えた。
理由なんてない。
面識もない。
彼にそんな知り合いがいた話すら聞いたことがない。
……それでも、なんとなく悟った。
「そっか。士郎は海外でも、ちゃんと“正義の味方”してたんだね」
返事が返ってこないのは分かっている。
それでも彼女は、墓石へ少しだけ誇らしげに語りかけた。
見上げれば、今日の空は雲ひとつない青。
風も心地よく、まるで誰かに背中をそっと押されるみたいだった。
彼女はそっと目を細め、墓前に穏やかな笑みを残した。
と言うわけで、本作は完結とさせていただきます。
先の話をしない理由としては、クリスの活躍を盛った結果としてルナアタック(ルナアタックじゃない)になってしまったので、これ以上物語を続けると完全オリジナル話になってしまうのが一つ。
投影魔術が強すぎて、どんな危険とか脅威を出したとしても、なんだかんだ上手く行って緊迫感も無くなっちゃうのが一つ。
衛宮士郎に拾われた雪音クリスというキャラクターの書ける部分が、もう無くなっちゃったのが一つ。
的な感じで、もうこれ以上は話を作っても持て余してしまうので、ちょうど良い感じのところで完結とさせていただきました。
大分、オリチャー、ガバチャー、その場のノリで話をぶん回してきたので、それでも着いてきてくれた皆様には感謝してもし切れません。
ここから先、何か別の話のアイディアは浮かんでいないので、新作を作る気は無いのですが、浮かべばまた出てきます。
その時は、また付き合ってくれると嬉しいです