肌を撫でるシルクのシーツは、驚くほど滑らかで、冷ややかだ。深い眠りの底から意識が浮上したとき、最初に鼻腔を突いたのは、甘ったるい香水の匂い。そして、濃厚な肌の温もり。
俺は全裸のままベッドの上で上体を起こす。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、煤に汚れた戦場ではなく、豪奢な調度品で満たされた部屋を白々と照らし出していく。
壁に掛けられた一幅の絵画、重厚なマホガニーのチェスト、そして足元に広がる毛足の高価な絨毯。安物の娼館にありがちな、カビと体臭が混ざり合った不快な湿気はどこにもない。ここは一晩過ごすだけで、一兵卒の月給が何年分も吹き飛ぶような、選ばれた者だけが立ち入る高級娼館だった。
視線を落とせば、見事な金髪をシーツの上に散らせた女が、ベッドに深く突っ伏したまま眠りこけている。昨夜、俺が容赦なくぶつけたせいで疲れ果てたのだろう。呼吸に合わせて、白皙の背中がかすかに上下していた。名前も聞いていない。
ただ、金を払って、貪り、それだけだ。ふと、最後にこうして女を抱いたのはいつだったか、と考えた。
――4年ぶり、か。
まともな人間の暮らしをしていた記憶は、とうの昔に擦り切れている。数年前、あのセイレーンのカスどもに全てを奪われたあの日から、俺の時計は止まったままだ。故郷も、家族も、平穏な未来も、奴らはそのすべてを蹂躙し、灰に変えた。
生き残った俺に残されたのは、胸を焼き焦がすような憎悪だけだった。俺はなりふり構わず学び続けた。復讐というただ一つの目的のために、ありとあらゆる戦術、兵器の特性、歴史、地政学、そして敵を陥れるための泥汚い謀略に至るまで、全てを脳髄に叩き込んできた。
「少しは気晴らしになることでもしたらどうだ」
いつだったか、ジャンの奴にそんな風に吐き捨てられたことを思い出す。戦いと復讐のことしか頭にない俺の様子を見かねて、奴なりに指摘してきたのだろう。
だが、結果から言えば、俺なりに試したあらゆる娯楽はすべて無駄に終わった。
高級な酒を煽っても、質のいいタバコを吸っても、ただ喉が焼けるだけでちっとも美味いとは思えない。賭け事にも手を出してみたが、戦術を組み立てる時のように脳内で計算してしまうせいで、大勝ちはしたものの少しも楽しくなかった。
一流の料理人が作ったという美食もただの燃料にしか感じられず、煌びやかな演劇やスポーツも、紙にインクが乗っているだけの読書も、どれもこれもくだらなくて、つまらない。何一つとして響かない。
そこで最後に行き着いたのが、女だった。一五歳になり、年齢的に娼館の利用が可能となった時、俺はほんの少しだけ期待していた。胸の奥底で、酷く惨めな期待を抱いていたんだ。
日々のすべてを戦いと憎悪の炎に塗り潰され、誰かを欲するような生々しい性欲や情動など、とうの昔に枯れ果てている。
だが、それでも――生身の女の体温に触れれば、この乾ききった心が少しはマシになるんじゃないかと思った。人間らしい感覚を、ほんの少しでも思い出せるんじゃないかと、そんな微かな望みがあったんだ。
溜まったままの使い道のない給料を叩いて、あの時の俺は数人の女を代わる代わるベッドに引き込んだ。貪るように、必死に肌を重ね合わせた。
だが、結局はそれすらも無駄だった。結局は俺は女の体に溺れることすらできなかったのだ。
生物としての本能がある以上、男としての肉体的な快楽は確かにあった。柔らかい肌に触れ、声を聴けば、身体はそれなりに反応する。だが、どれだけ強く抱き合っても、絶頂の瞬間にすら頭のどこかが酷く冷え切ったまま、まるで他人の情事でも眺めているかのように冷めていた。
身体が快感を覚えようとすればするほど、精神がそれを完全に拒絶し、ブレーキをかける。
クソ共への憎悪や、失ったものの重さで凝り固まった俺の心は、他人の温もりを受け入れる隙間など一ミリも残っていなかった。ただ肉体が義務のように動き、事が終わった瞬間に押し寄せてくるのは、やる前よりも深く、重い虚しさだけだった。
結局、あの頃は預金が底をつくほどガムシャラに女を抱き潰したが、得られたものは何もなかった。それ以来、昨日を迎えるまでの数年間、俺が娼館の門をくぐることは二度となかった。知識と訓練に命をかけ、復讐の為の刃を磨き続ける方が遥かにマシだと理解したからだ。
なのに、昨夜は違った。気づければ娼館の前で金を払い、あの時のようにガムシャラな女を抱いている自分がいたんだ。
床に散らばっていた衣服を拾い上げ、淡々と私服に着替えていく。身支度を整えると、昨夜あれほど激しく貪ったはずのベッドの女にはもう、興味の欠片も湧いてこなかった。一瞥もくれないまま、俺はさっさと部屋を立ち去る。
受付で淡々と料金の精算を済ませながら、ふと数年前の記憶が脳裏をよぎる。極秘裏のセイレーン討伐戦において、作戦会議の際に体に染み付いた女の匂いに気づいたのだろう。あの日のジャンが露骨に舌打ちをして、睨みつけてきた時の記憶だ。
アイツからすれば、復讐のためにすべてを捨てたはずの相棒が、急に娼館狂いにでもなったかのように見えて、さぞかし苦々しかったに違いない。そんな昔のことを思い出しながら、店を出て朝の通りを歩く。
それにしても、なぜ数年も遠ざかっていた娼館に、昨夜に限って足が向いたのか。自分で自分に問いかけるまでもない。答えはとうに出ている。
間違いなく、モナークのせいだ。
残酷に裏切られ、ただの捨て駒にされながらも、最期まであの眼の輝きだけは失わなかったあの女。理解も納得もできない、反吐が出るほど真っ直ぐで眩しかったあの在り方が、俺の胸の奥底を激しく掻き乱した。その歪な衝撃から逃れたくて、俺は他人の体温で無理やりにでも心を麻痺させようとしたのだろう。
アイツを殺したのは、俺だ。
直接手を下したのはジャンだが、それを命令したのは他でもない、俺だ。ただでさえ余裕のない今のヴィシアに、最初から非友好的な捕虜を抱え込むリスクなど背負えるはずがなかった。それに、仮に無理やり生け捕りにしようとしたところで、あの女騎士のことだ、確実に自ら命を絶っていただろう。だから殺した。生かす選択肢なんて、最初からどこにもなかった。
だというのに、あの最期の目がどうしても頭から離れない。
これが、初めて「人」を殺したということなのか?
最期までその気高さを失わず、どれほど不遇な扱いを受けようとも祖国に忠を尽くして散っていったモナークの姿。それを見つめていると、ただクソ共への憎悪だけを糧に戦い続けてきた自分が、酷く薄汚く、穢れて見えた。
今更、自分の選んだ生き方に後悔なんてない。あの日から、どんな手段を使ってでも生き残り、復讐を果たすと心に決めていたというのに。
それなのに、胸の奥から湧き上がってくるこの訳のわからない苛立ちや、行き場のない感情の正体が何なのか、今の俺にはどうしても分からなかった。
……いや、今はそんな感傷に浸っている場合じゃない。目の前には、片付けなければならない現実――戦後処理が山積している。
戦後処理について話そう。
まず、捕縛されたリシュリュー一派についてだ。連中は全ての艤装を取り上げられた上で、要職から正式に引退させられた。今は厳重な監視付きの施設に幽閉されている。おそらく、これからの数十年は自由に外へ出ることすら叶わないだろう。だが、処刑を免れただけマシだと思ってもらわねば困る。
国民を見捨て、祖国防衛のための防衛線に大穴を開け、ロイヤルを頼って数万人以上の国民を連れて脱出を図った売国奴どもだ。個人的には、今すぐにでも八つ裂きにしてやりたいほどに憎い連中である。例えジャンの姉であろうがクズ共が胸の内で何を考え、どんな高尚な大義名分を掲げていようが、俺には一切関係のないことだ。
ただ、そこに厳然としてある事実として、最早アイリスは単独での国土防衛が不可能となった。それほどまでに、あのクズ共が亡命したせいで国家から抜けた穴は、あまりにも大きすぎた。
その結果が、ローンの残留だ。
あいつの艤装は、自身が持ち込んだ予備パーツによってすでに修復されていた。そして、モナークの処刑後、俺の前に現れたあの女は、はっきりとこう言い放った。
「監視役、は継続だそうですよ?…まあ何かあるなら私を通すつもりなんでしょうね~」
表向きは外交のパイプであり、特別計画艦としてアイリス防衛に参加する心強い友軍。だが裏を返せば、自国から裏切り者を出した俺たちが下手なことを行わないようにするための、鉄血からの文字通りの監視役だ。
それを最初からはっきりと口にしたのは、あの女なりにこちらに近づくための懐柔策なのだろう。包み隠さず本音を見せることで、こちらの警戒を解こうという腹積もりに違いない。
だが、だからといって俺が乗せられるわけがない。俺はローンを、そして鉄血という存在を、心底ではこれっぽっちも信頼も信用もしていなかった。
政治家の中には、現在のアイリスは親レッドアクシズ、あるいは親鉄血の思想に染まっていると口にする者もいる。
当然だ。リシュリューのあの蛮行が正式に国内外へと触れ回られた今、ロイヤルに対する憎悪は国内で爆発的に膨れ上がっている。連中をPerfide Albion(嘘つきのライミー野郎)と罵り、敵視する空気が国中を覆っているのが現状だ。
だが、政府の政治家どもがどれほど連中を信用していようが、リシュリューが実質的に枢機卿を引退した今、事実上この国のトップとなったジャンや俺は、鉄血を毛ほども信用していない。
そもそも、連中が鉄血を中心としたレッドアクシズを名乗り、アズールレーンと敵対関係に及んだからこそ、このアイリス国内がどれほど荒れ果て、引き裂かれたか。その大前提を綺麗さっぱり忘れて、目先の利害に踊らされている連中が、この国にはあまりにも多すぎるのだ。
メルセルケビール海戦での援護には、事実として感謝している。向こうが望むのであれば、こちらも対価として出来る限りの協力は行うつもりだ。
だが、信頼も信用もしない。いや、そんなことは絶対に出来ない。
どれほど恥知らずと罵られようが、国家の間に友情などという美しいものは存在しないのだ。連中だって、状況次第では俺たちの戦力だけを都合よく回収し、アイリスの国民など平気で見捨てる可能性がある。
それでも、今の俺たちにはもう、レッドアクシズ陣営として戦うしか道はない。あのクソどもを……俺のすべてを奪ったセイレーンを鹵獲し、自国の戦力として平然と使いこなしているような連中だ。
いくら援軍に来てくれたとはいえ、そんな奴らと手を組まなければ生き残れない現実に、胸の奥がどす黒いもので満たされていく。
鉄血のおかげで民は守れた。だが今後も俺は自身の全てを奪ったセイレーンの力を借りなければ、最早祖国の防衛は果たせないという事実。行き場のない憎悪ややるせなさから、思わず拳を強く握りしめる。そのまま自室に向かって廊下を歩いていると、背後から声がかけられた。
「おい、少し時間を貸せ」
振り返らなくても分かった。ジャンだ。
「今日は休暇のはずだぞ」
俺が口にしても、ジャンはそれをまともに聞き流した。
「先日のアレでな、一気にデータが埋まった、と報告があった」
その言葉に、俺は思わず足を止めて振り返る。そこに立つジャンの顔には、様々な感情が入り混じった複雑な陰が落とされている。
言うまでもなかった。その報告の内容が意味するのは、新たな「特別計画艦」の完成だ。かつてアイリス初の特別計画艦として建造されたサン・ルイは、リシュリューの一派とともにロイヤルへと亡命してしまった。つまり今回の完成は、俺たちヴィシア海軍にとって、初めて独自の最高戦力が手に入ったということを示している。
特別計画艦。それは誕生の瞬間から、遺伝子レベルに至るまで対セイレーン用に改修された、国家レベルの最強兵器だ。あのモナークやローンが戦場で見せつけた圧倒的な活躍を思えば、その実力がどれほどのものかは疑う余地もない。
だが、俺たちが開発を主導したのは、ただの特別計画艦というだけではなかった。現在のヴィシアにおいて決定的に不足している、主力戦艦級のKANSEN。しかもその設計データの多くは、目の前にいるジャン・バールと、その妹であるクレマンソーのものを元にして形成されていた。
つまりジャンは、己の「妹」にあたる存在を、特別計画艦として新たにこの世に生み出したことになる。現在のアイリスにおいて、ジャンは宗教的にも国家指導者的にも、名実ともにトップと言い切れるほどの権力を得ており、もう一人の妹であるクレマンソーは、アイリスの暗部組織『審判廷』の代表であり、諜報や宗教関連の調査、防衛を裏から徹底してきた実力者だ。
さらに言えば、強制的に引退させたとはいえ、未だ国内に強い影響力を残すリシュリューの妹でもある。
リシュリュー、ジャン・バール、クレマンソー。その三人の妹として誕生する特別計画艦――ガスコーニュの存在は、単なる戦力の拡充という意味に留まらなかった。それは今後の外交的、政治的なパワーバランスをも左右しかねない、極めてデリケートな火種でもあった。
さらに、ガスコーニュの脳には「感情抑制モジュール」という機能が組み込まれている。どんな凄惨な戦場にあっても恐怖や焦燥に精神を揺らすことなく、常に100%の出力を発揮することを期待されての措置だった。だが、その代償はあまりにも大きい。産み落とされたばかりのガスコーニュには、感情と呼ばれるものが極めて希薄になるよう設計段階から運命づけられていた。
己の妹を作り出しただけでなく、その心に無理やり枷を嵌め、ただの兵器として運用する。
覚悟はとうに決めたはずだった。俺とジャン、そしてクレマンソーの三人によって生み出された彼女の存在は、完成したとしても表舞台には出さず、徹底して秘匿されることになる。
その牙を剥くのは――この国が、真に蹂躙された時だ。
セイレーン、アズールレーン、あるいはレッドアクシズ。いずれの勢力であれ、万が一にもこのアイリスの地が再び踏みにじられ、リシュリューたちの命すら脅かされる最悪の事態に陥った時。
すべての泥を被り、すべての責を負って祖国を守り抜き、民を先導することを期待され、創り出された『導き手』。それこそが、彼女に与えられた裏の役目なのだ。
生まれた瞬間から、兵器としても、政治の道具としても、その運命は呪いのように縛られている。存在すら世界から隠され、その上、俺たちはガスコーニュから「心」さえも奪い去ったのだ。
「これから、ガスコーニュのところに向かう」
俺はそう告げて、「お前も来るか」とジャンに視線を向けた。いつもならどんな窮地でも冷徹な鉄面皮を崩さないあのジャンが、今ばかりは隠しきれない苦渋を顔に滲ませていた。
眉間に深い皺を刻み、きつく結ばれた唇はかすかに震えている。己の手で実の妹を歪な兵器に改造してしまったという厳然たる事実が、その胸を内側から激しく抉っているのだろう。鋭い眼光はどこか行き場をなくしたように泳ぎ、向けられた俺の視線から逃れるように、わずかに顔を背けた。
「……元からその為にお前を呼んだんだ。あいつが目覚める瞬間を、この目で確かめる必要があるからな」
俺は己の覚悟をなぞるように言葉を重ね、なおも葛藤に囚われているジャンの目を真っ直ぐに見据えた。そして、アイツの胸の最も深い傷口を抉るように、言葉を突きつける。
「お前はリシュリューとは違う。あのカスは、妹もお前も、祖国も民もすべてを見捨ててロイヤルへ逃げ出した。……だがジャン、お前はここで、ガスコーニュを見捨てるのか?」
「――ふざけるな!!」
ジャンの怒号が、静まり返った廊下に爆発した。俺の言葉を遮るように、胸ぐらでも掴みかからんばかりの勢いでジャンが激昂する。その瞳には、激しい怒りと、それ以上に生々しい感情の色が燃え盛っていた。
「見捨てるわけないだろ……!!! あいつは、オレたちが、己の都合でこの世に生み出したんだ。戦力として、切り札として、オレたちの勝手なエゴでな!」
荒い息を吐き出しながら、ジャンはギリ、と奥歯を鳴らした。強く握りしめられた拳は怒りと悔恨で激しく震え、剥き出しになった爪が手のひらに深く食い込んで白い皮膚を赤く染めていく。
国を護るため、復讐を果たすためという大義名分のもと、産まれる前から心を奪われ、ただの冷徹な兵器として調整された哀れな『妹』。その呪わしい誕生に加担した自責の念が、ジャンの五臓六腑を狂おしいほどに焼き焦くしているのは明白だった。
だが、その絶望の底から、地這うような、しかし断固とした凄まじい響きを孕んだ声が絞り出される。
「世界を欺き、感情を奪い、都合のいい操り人形として仕立て上げた……。それがオレたちの犯した罪だ。だがな、だからこそオレは、どんな手を使ってでも……あいつを幸せにしてみせる。ただの道具として消費されて終わるなんて結末、オレが絶対に許さん…!」
感情を抑制された究極の兵器を、一体どうやって幸せにするというのか。自由を奪われ、感情も奪われ、交友関係にも制限させられたガスコーニュにどの面下げて俺達は彼女を幸せにすると言えるのか。最早それはただの矛盾であり、破綻した絵空事でしかなかった。
俺は一歩も引かず、あえてその甘さを叩き潰すように、声音から一切の温度を排して問いかける。
「……それは何故だ?」
問いかけだった。周囲の空気が一瞬で氷結したかのように張り詰める。ジャンには、相棒にはリシュリューと同じ道を辿ってほしくはない。
ずっと復讐の為に生きてきた俺にとってジャン・バールという存在は唯一無二の相棒であり契約者だ。俺自身の復讐を遂げるために、そして復讐という名の道を俺に与えた女が迷わない為に。わざとらしく俺は口を開く。
「ガスコーニュは国を、民を護る盾として創り出した存在だ。存在すら秘匿され、万が一の時にすべての泥を被る役目を背負わされた兵器に、今更そんな感傷が通用すると思うのか。お前がそこまで固執する理由はなんだ」
突きつけられた現実の重みに、普通の人間なら言葉を詰まらせ、己の矛盾に打ちのめされるはずだった。だが、ジャンは違った。その切れ長の瞳に宿る烈火のような光は、微塵も揺らぐことはなかった。迷いも、惑いも、一滴の躊躇いすらそこにはない。
ジャンは俺の胸ぐらを掴みながら距離を詰め、その鋭い眼光で真っ直ぐに俺を射抜いた。
「決まってんだろ……あいつは、オレの妹だからだ」
廊下の壁に反響したその声は、驚くほど静かだ。胸ぐらを掴むジャンの指先に、これ以上ないほどの力がこもる。ミリミリと衣服が悲鳴を上げ、互いの吐息が触れ合うほどの至近距離で、彼女の瞳の奥に燻る圧倒的な熱量が俺の視界を埋め尽くすした。
怒り。悔恨。そして、それを全てねじ伏せるほどの苛烈な決意。
震える拳とは裏腹に、その眼差しはどこまでも据わっていた。リシュリューのように理想の光に目を眩ませることもなく、ただ目の前の血の滲むような現実と、己の犯した罪の重さを完全に引き受ける覚悟が、そこにはあった。
「……責任は、オレが取る」
ジャンは低く、地鳴りのような声で言葉を紡ぎ出す。
「今はただの冷徹な人形かもしれない。戦うことしか頭にない、心を縛られた欠陥品かもしれない。だがな……いつか、あいつの頭に埋め込まれた感情抑制モジュールが壊れたとき、あるいはあいつが自らの意志でそれを跳ね除けたその時だ」
掴んでいた俺の胸ぐらを、ジャンは引きちぎらんばかりにさらに強く握り締めた。
「この世界に生まれてよかったと。都合のいい兵器としてじゃなく、一人の生き物として、産まれてきて本当によかったって……あいつがいつか、心の底からそう笑える日が来るように、オレがこの手で導いてやる。そのために必要な戦いなら、オレは喜んで地獄にだって片足を突っ込んでやる!」
それは、国家の指導者としてはあまりにも致命的な、しかし一人の「姉」としてはこれ以上なく気高い誓いだった。
「ガスコーニュをただの捨て駒で終わらせてたまるか。オレが今この国で握りつぶしているすべての権威、権力――そのすべてを注ぎ込んででも、オレはあいつを、ガスコーニュを守り抜いてみせる……ガスコーニュだけじゃない。ヴィシアの暗部を支え続けている、クレマンソーだって同じだ。あいつらの背負う呪いも、痛みも、全部オレが引き受ける。オレは、あのリシュリューの様に綺麗事で家族を切り捨てたりはしない!絶対だ!!」
ジャンの放った烈火のごとき言葉が、張り詰めた廊下の空気を激しく震わせる。俺の胸ぐらを掴むその手には、自らのエゴを全て引き受ける覚悟が、これ以上ないほどに込められていた。
その歪で、けれど何よりも強固な誓いを見届け――俺は視線を、ジャンの背後の薄暗がりへと向ける。
「……だとよ、クレマンソー」
俺がそう呟いた瞬間、ジャンがハッとして息を呑み、弾かれたように後ろを振り返った。静まり返った廊下の奥、いつからそこに居たのか、二人の女性の影が佇んでいた。そのうちの一人――歩を進めて照明の光の下へと現れたのは、他でもないクレマンソーだった。
その身にまとっているのは、夜の闇をそのまま紡ぎ出したかのような漆黒と、流麗な輝きを放つ純金の刺繍が緻密に施された豪奢なロングドレスだ。翻るマントの内側に仕込まれた鮮烈な赤の格子模様が、彼女の持つ底知れなさを象徴しているかのようだった。
その細い右手に握られているのは、彼女の意思を代弁するかのような精緻な黒き杖。金属質の冷たい光沢を放つ杖の先端には、信仰と断罪の天秤を思わせる装飾が施され、その中心で黄金のオーブが妖しく、しかし静かに燃えるような光を湛えている。
淡いピンクがかった髪を優雅に波立たせ、頭上に小さな黒い王冠を戴いた彼女は、形の良い唇にいつもの深い笑みを浮かべていた。だが、その眼差しは決して温和なものではない。ヴィシアの暗部組織『審判廷』の代表として、数多の陰謀を巡らせ、冷酷な決断を下してきた者特有の気配――徹底的に洗練され、一ミリの隙すらも排除された、威圧感が彼女の周囲には揺らめいている。
クレマンソーは手にした杖を静かに床へ突き、全てを見通すかの様な赤い瞳をジャンへと向けた。
「悩みは晴れた様ね、ジャン・バール」
歌うような、しかし全てを見通したかのような怜悧な声音が、静かな廊下に染み渡っていった。
「……いつからだ」
ジャンは苦虫を噛み潰したような顔になり、俺の胸ぐらを掴んでいた手をバッと離した。自身の激情に駆られていたとはいえ、完全に背後を立ち塞がれるまで気配に気づけなかった不覚、そして何より、「クレマンソーだって同じだ」「家族を絶対に死なせない」という身内への青臭い本音を特等席で聞かれていた気まずさが、その横顔にありありと浮かんでいる。
「ふふ、貴女が指揮官とそれほど熱烈にお話しされていた時には、既にね」
クレマンソーは、からかうような、しかしどこか涼やかな微笑を深くした。
彼女がこうして本国の中枢に姿を現すこと自体、本来であれば極めて異例なことだ。ヴィシアの影を統べる彼女は、普段は各地に点在する宗教的・戦略的要所――いわゆる『聖域』と呼ばれる施設の防衛や調査を最優先に動いており、本国に顔を出すことは滅多にない。
だが、先のメルセルケビール海戦における本国周辺の防衛指揮、そしてリシュリューが去った今、今後のヴィシアが生き残るための新たな防衛計画を策定するという重大な局面だからこそ、彼女は今、この場所に立っていた。
「周囲の警戒を片時も怠らない貴女が、私の接近にすら気づかないなんて。それだけ精神的に、色々と抱え込んで悩んでいたようね、ジャン・バール」
クレマンソーは小さく首を傾げ、波打つ髪を揺らしながら、ジャンを労るように、あるいはその動揺を楽しむように言葉を紡ぐ。そして、視線をゆっくりと俺の方へと転じさせた。
「これほど見事に貴女の心を抉り、発破をかけてくれた指揮官には、後でよく感謝しなさい?」
そう言って、彼女は手にした杖をもう一度、今度は音もなく床に添えた。黄金のオーブが妖しく光を放ち、彼女の赤い瞳が俺の輪郭を値踏みするように、じっと見つめてくる。
「それにしても……こうして貴方と直接相まみえるのも、随分と久しぶりね、指揮官? 相変わらず、貴方という存在は興味深いわ。レッドアクシズとアズールレーン、あるいは憎悪と救済……どちらの皿に何を載せればどちらへ傾くのか。危うい均衡を保ちながら、その実、どちらにも容易に傾かない。まるで、天秤の支柱のようだわ」
「黙れ」
俺は低く、拒絶の意を隠そうともせずに呟く。そもそも、俺は、この女が昔からどうしようもなく苦手だった。
物事のすべてをまわりくどい比喩表現で曲解し、さもそれが世界の真理であるかのように語る悪癖。そして、こちらの魂の最奥にある泥濘までを指先でなぞり、すべてを見透かしているかのようなあの冷徹な眼差し。
愚直なまでに己の信念に真っ直ぐで、裏表のないル・マルスのような分かりやすい奴に比べれば、クレマンソーという存在は、ただただ不愉快に思えてくる。
己のすべてを奪ったセイレーンへの復讐。そのためだけに生きると決め、とっくの昔に人としての幸福などすべて捨て去った俺に対して、この女はこれまで、度々アドバイスめいた言葉を口にしてきた。だが、そのどれもが俺にとっては見当違いであり、不躾で余計なお世話でしかなかった。
だというのに――。
昨夜、モナークの最期に胸を激しく掻き乱され、歪な衝撃から逃れるために、数年も遠ざかっていた娼館へと衝動的に足を向けてしまったあの醜悪な事実。
いくら審判廷の長であり、ヴィシアの諜報網を掌握しているクレマンソーといえど、俺のそんな突発的で、私的な逃避行動までを正確に把握しているはずがなかった。
それなのに、彼女のあの赤い瞳は、まるで俺の昨夜の迷いも、心の摩痺させ方も、すべてを「思った通りだ」と言わんばかりに愉しげに見つめてきている。
「チッ……」
押し殺した舌打ちが、無意識に俺の唇から漏れた。本当に、心底苦手な女だ。ヴィシアという国家を裏から支えるその優秀さだけは認めざるを得ないが、それ以外のすべてが俺の神経を逆撫でする。
「あら、残念……。私としては、貴方のその融通の利かない頑固さも含めて、とても高く評価しているというのに。ねえ、ア――」
「その名前を口にするのはやめろ、と何度も言ったはずだ」
クレマンソーがその唇から、俺の『本名』の頭文字を零しかけた瞬間、俺はそれを鋭く遮った。声音には、自分でも驚くほどの憎悪と、隠しきれない殺意が混じり合っていた。
――本名なんぞ、あの日に故郷が炎に包まれ、全てが灰に帰した時にとうの昔に捨て去った。
かつて自分が持っていた、人間らしい響きを持ったその名前が、俺は嫌いで嫌いで仕方がなかったのだ。その名を呼ばれるたびに、何も出来ずにただ蹂躙されるがままだった無力な過去を、守れなかった者たちの悲鳴を、生々しく突きつけられるような気がして反吐が出る。
もうこの世界から綺麗さっぱり消え失せた、あの温和で平和だった故郷への望郷なんて、余計な感情は今の俺には一滴たりとも不要だ。そんな生温い未練を抱えたまま、この戦場を生き抜けるはずがない。
俺に必要なのは、美しく優しい過去の記憶ではない。
俺のすべてを奪ったあの化物ども――セイレーンを地獄の底まで追い詰めてぶっ殺し、今度こそこの手で、ヴィシアの、アイリスの民を守り抜くという絶対の鉄意だけだ。
後ろを振り返るつもりなんて、毛頭ない。どれほど両足が血に塗れようが、己の魂がどれほど薄汚く穢れようが、俺はただ復讐という名の道を前だけを見て突き進むと、あの日から心に決めているのだから。
「あら……ふふ、不愉快にさせてしまったかしら? それは悪かったわ。ごめんなさいね」
大して反省もしていなさそうな、ひどく芝居がかった仕草で肩をすくめると、クレマンソーは流れるような動作で体の向きを変えた。そして、これまでずっと彼女の背後の薄暗がりに紛れ、微動だにせず沈黙を保っていたもう一人の女性へと、慈しむように視線を注ぐ。
「ねっガスコーニュ。貴女の指揮官は色々と抱えている人だけど、悪い人では決してないから――しっかり支えてあげてね?」
クレマンソーが話を振ったその瞬間、俺とジャンの視線は、否応なしにその少女へと釘付けになった。照明の光の中へと静かに一歩踏み出した彼女の姿は、隣に立つジャンやクレマンソーといった姉たちと比べると頭一つ分ほど小柄で、どこかガラス細工のような危うい儚さを漂わせる少女だった。
涼しげな青紫色の短い髪が、張り詰めた廊下の空気の中で静かに揺れる。身に纏うのは、純白の生地に大胆な黒のラインが走る、アシンメトリーで洗練されたミニドレス。 そして何より――その顔には、一切の喜怒哀楽が存在しなかった。
怜悧な光を宿す金色の瞳は、まばたきすらも無機質で、人間らしい体温や精神の揺らぎが微塵も感じられない。端正で美しい顔立ちは、彫刻のように完璧だからこそ、生き物としての生々しさを完全に排除していた。
事前にジャンから聞かされていた「感情抑制モジュール」の冷酷な成果が、今、目の前に厳然たる事実として突きつけられている。産み落とされたばかりの彼女の胸の内には、俺たちが設計段階で無理やり奪い去ったせいで、感情と呼ばれるものが致命的なまでに希薄なのだ。
少女は、一切の感情が乗らない無機質な視線を真っ直ぐに俺へと向けた。
そして、人間味のすべてを削ぎ落とした、平坦で精密な機械そのものの聲音で淡々と告げる。
「了解。検証完了――情報プロトコル更新。これより貴方を主(maître=メートル)と定義。奉仕活動を開始します」
その声には、未知の存在に対する戸惑いも、兵器として生み出されたことへの恐怖も、あるいは新たな主と対面した歓喜も、何一つとして含まれていなかった。ただ冷徹に、プログラムされた命令を遂行するためだけの、無駄のない音声シグナル。
「お前が……」
喉の奥から、乾いた声が漏れ出た。これが、俺とジャン、そしてクレマンソーの歪なエゴによって生み出されたヴィシア独自の最高戦力。誕生の瞬間から心を縛られ、国が蹂躙された時にすべての泥を被る運命を背負わされた、悲しき『導き手』――ガスコーニュの、それが世界への産声であった。
・指揮官
今回は初の指揮官視点。19歳という年齢ながらもセイレーンへの憎悪の為に自身の牙を研ぎ続けた彼は色々と内面を拗らせており、別作品である『鉄血の旗の元に』の主人公と比べても、無口無表情無愛想。それに加えて非童貞などありとあらゆる意味で対照的。とはいえ冷徹な彼もモナークを実質自分が殺した事によって色々と思う所がある様で。今後は指揮官視点のお話も少しずつ描いていきたいですね。
・クレマンソー
今作では諜報部門や宗教的な暗部を中心に活動する女性。NARUTOで言えばダンゾウポジといえば分かりやすいかも。とはいえ本質的には善人寄りであり、指揮官とジャン・バールの説得を得て審判廷はヴィシア寄りの『自国の民の防衛を最優先とする』という方針で固めつつあり、モガドールやラ・ガリソニエールなども動員された。同時にガスコーニュを直接連れてきて指揮官とジャン・バールに会わせるなど、ガスコーニュの事は完全に可愛い妹として見ている節があり、感性が捻り曲がった指揮官からはその性格故に割と嫌われています。
・ガスコーニュ
対ロイヤルとの激闘によって産まれたガスコーニュ。ゲームに例えるなら現在は知り合い状態。ですが現状の指揮官の性格ではガスコーニュが感情抑制モジュールを破壊する様な情動を与える事も難しく、恋愛的な意味でも極めて厳しいと言えるでしょう。そりゃそうですよ、男と出会って早々一目惚れで感情抑制モジュールが壊れるわけないじゃないですか。
・ジャン・バール
実は指揮官が娼館に行ってる事は何となく察しがついており、内心苦々しく思ってる陣営代表。ガスコーニュに関しては姉として幸せにせねばと思っていますが、ガスコーニュにその立場的に背負わせることしかできない立場に苦悩しています。同時に捕縛されたリシュリューの事も含めて常にメンタルがガリガリ削られるジャン君に安寧はいつ来るのやら。
指揮官のAIイラストの感想はどうでしょうか?
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イメージ通り
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なんかイメージと違う
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その他(こっちの方がいいよ!と提供など)