シャッターを切る度、考える。
僕が切り取ったワンシーンは、はたして本当を映し出しているのかと。
作為的に切り取られた二人の男女が、古びたホテルの入り口で傘を差している。分かりやすいくらいに悪辣で陳腐で醜い一枚絵。ジメジメとした水滴が頬を濡らす。
僕がこうして作為的に瞬間を切り取るように、また、群衆も人間という存在を作為的に切り取るのだろう。
僕は、人間を多面的な生き物だと思っている。僕自身でさえも、友人と過ごす時の和やかな顔と、家族と団欒する時のゆったりとした顔、ひとりだけの夜にため息をつく自分だけの顔があって、
こうして何気ない瞬間を作為的に切り取って、悪辣に仕立てあげる時の顔がある。
──あの人気俳優が若手アイドルとホテル密会! 雨の日はお籠もりデート!?
見るに耐えない下衆な記事。くだらない本文。気味の悪い写真。これを全部僕が作ったのかと考えると、内臓の全てをその場に吐き戻しそうになる。
僕は昔から文章を書くのが好きだった。頭の中の空想を、幸福を、キレイゴトを、テキストデータに起こす作業が好きだった。
僕は昔から写真を撮るのが好きだった。僕の目に映るきれいな一瞬をたくさん切り取って、たからばこにしまうみたいに集めるのが好きだった。
この仕事を選んだ理由も、最初はそんな淡い希望に満ちた理由だった気がする。でも、あの日思い描いた空想みたいな日々はそこにはなかった。現実は、僕が思うほど綺麗なものではなかった。
作為的に切り取られた一枚の写真と、あることもないことも好き勝手書かれたデタラメみたいな文章。それが電子の海を伝って、百四十字で綴られた悪意たちが尾鰭のように纏わりついていく。
きもちわるい。この仕事を始めてから、必要な時を除いてSNSはぱったり見なくなった。嘘だ。醜いほどにSNS中毒になってしまった。結局、僕はこの泥沼から抜け出せないのだ。抜け出さないのだ。
とはいえ。
別に年齢差もほとんどない。僕の目は芸能人という肩書きを忘れて幸せそうに笑い合う男女二人を捉えていた。それなのに、ただアイドルと俳優というだけで、プライベートを掘り出され、作為的に切り取られた事実によって、イエスのように磔にされる。それは果たして、善いことなのだろうか。
そう考えてしまうのが僕の悪い癖なのだろう。この仕事において、そんな性善説など塵の役にも立たないのに。
……はやくやめたいのに。誰かを傷つけるための文章なんて、僕は書きたくないのに。でも。僕の文章を、写真を、何百万の人が読んで、見て、感情を揺さぶられているという高揚感も、同じくらいあって。称賛と批判で伸びていく数字を見ながら眠るのが好きだった。
人間は醜い。僕はもっと醜い。昔はもっと、変数で測れないようなうつくしさについて考えていたはずなのにな。いつの間にか、僕は後戻りが出来ないほど化け物になってしまった。
「……持ってくればよかったな、傘」
この雨が僕の穢れを全部洗い流してくれればいいのに。僕という穢れを覆い隠そうとばかりに降りしきるばかりで、何ひとつ綺麗になりやしない。
このまま、溶けて仕舞えばいいな。東京の水たまりに、流されて仕舞えばいいな。二つの足は、しっかりと水浸しの地面に突き刺さっていて、僕がどうしようもなく人間であることを教えてくれる。
「どうぞ、子猫ちゃん」
声が聴こえた。僕を濡らしていたたくさんの水滴が、何か、ポリエステル製のものに当たる音がする。
視線を少し下げると、優しい顔で笑うひとがいた。どこか不思議なオーラをまとうそのひとは、手に持っていた傘を僕に手渡し、「風邪をひかないように気をつけるんだよ」とぱちんとウインクすると。
雨の街を猛ダッシュで駆け抜けていった。
「……えっ、あ、あの! 傘、あの……」
あまりにも咄嗟な出来事に、気が動転する。僕が気づいた頃には、そのひとはもうここにはいなかった。まるで幻のように消えていって、さっきのやり取りは夢だったのかと思ってしまうほど。手渡されたこの傘だけが、あのひとがいたことを証明していた。
それにしても……この傘、すごく高そうだな。明らかに……使っている金属が僕のものとは違うし、至る所に薔薇があしらわれたデザインは、絶対に職人が作ったものだ。
──返さないと。でも、どうやって?
僕は恐る恐る傘を調べた。持ち手のところに、小さなネームタグがついているのが見えた。そこには、綺麗な字で「瀬田薫」と書いてあった。
また、会えるだろうか。会えた時は、駅前の洋菓子屋のお菓子の詰め合わせを渡そう。それと、簡潔に真摯に感謝を。あとは……
突然だったから、まだ頭がまとまらない。一度、家に帰って考えよう。あと……普段やらないけど、インターネットでも調べてみよう。いや、一個人名をわざわざ検索するのは流石に気持ちが悪いだろうか。もし彼女が一般の人だったら、いや、脚光を浴びているような人でも……
そんなことを考えて、時計の針が四時を指した。夜は、早く寝た方がいい。
〜
数日後。あの日僕に傘をくれた例の瀬田さんと再会するきっかけは、案外簡単にできた。
……考えうる限り最悪な形で。
「……あの時は傘、ありがとうございました。密着取材、よろしくお願いします」
「ああ、君と再び会えて嬉しいよ! 今日からよろしくね、子猫ちゃん」
綺麗に畳まれた傘と洋菓子の詰め合わせを渡すと、瀬田さんは優雅に微笑む。きっと、この人は何も知らない。知らないままでいいのだけれど。
……何気ないその横顔を、僕が淀んだ目で見ていると分かったら貴女はどんな顔をするのだろうか。
「巷で話題のイケメン王子様、瀬田薫の仮面の下に潜む素顔を暴く!」
気味の悪い記事の下書きを、指で上にスワイプする。どこまでも僕は性善とは程遠い存在だということを再認識した。
……まずは、密着取材らしくインタビューから始めることにした。普段の生活、演じる作品への向き合い方、バンド活動のこと、応援してくれるファンへの言葉。僕が問いかけるたびに、瀬田さんはその整った唇を動かして真摯に言葉を紡ぐ。
毎日散歩は欠かさずやっている、とか、演じるキャラクターの感情を追いかけて、役に深く入り込めるように心がけている、だとか。ギターはバンド加入と同時に始めて今年で三年目、とか、いつも応援してくれる子猫ちゃんたちがいるからこうやって輝けるんだ、とか。様々なことを、僕に教えてくれた。
全部ネタにならないのでメモをするフリでやり過ごした。
彼女の言葉は綺麗だった。綺麗すぎた。だからダメだ。僕たちのような醜い人間は、貴女の紡ぐ綺麗な言葉など、ひとつも求めていないのだから。
もっと下品で、下劣で、下賤な言葉しか、みんなは望まない。そういう分かりやすい定義しか、分かりやすい正解しか、わからないから。理解できないから。複雑で曖昧な美学など、到底わかるはずもないんだよ。
そうだ。僕や、僕の記事を読む人は、貴女の持つうつくしさなんか一切見てやいないんだ。
──ああ、つまらないな。
うつくしい言葉だけで飾られたこの一時間が、世界で一番長く感じた。
一週間が経った。貴女は梅雨にも関わらずキラキラと輝いている。本来雲間に隠されている太陽が下界に降りてきたら、こんな姿をしているのだろうなと思った。
貴女を太陽に例えるのなら、僕はきっとざあざあと降りしきる雨でしょうね。貴女が晴らした綺麗なあぜ道を、ぐちゃぐちゃの泥まみれにするのが僕だろう。
柄にもなく、詩的な一文が思い浮かんで、消えた。わざわざ書き留めるほどでもないから、そのまま思考の海に溶かした。
貴女は相変わらず性善説をそのまま人間にしたようなひとだ。話す言葉の全てが、まるで童話の一ページを切り取ったようにうつくしくて、眩暈がしそうになる。
僕も、こうなりたかったんだろうか。ああ、今日は本当に柄にもない日だ。自分が善良な人間になれないことなど、もうとっくの昔にわかっているだろうに。
ビニール傘を差して、雨の街を歩く。今日はロードワークをしながら記事を書いてみるのはどうだろう、という瀬田さんからの提案だった。
「そうだ子猫ちゃん。私の呼び方は瀬田さん、ではなく薫で構わないよ。なに、君は瀬田薫の儚さを子猫ちゃんに伝えるためのキーパーソン、なのだからね!」
「わかりました。ありがとうございます、瀬田さん。……ああ、薫さん」
「ああ、そうだ! 君とより絆を深めた記念として昨日完成した新作の詩集をプレゼントしよう。その名も『儚さは永遠に Rainy Days』……さ」
「は、はあ……」
……晴れ、時々嵐かもしれない。このひとは。
じゃあ略称はRDなんですか、と、ふざけた質問をしてしまった。これは僕がSNSのよくない影響を受けているせいだ。短い単語の方が百四十字以内に収めやすくて、トレンドに乗りやすいから、こうして略称を考えて。企業の涙ぐましい努力を思い出した。
瀬田さん、もとい薫さんは背が高いから瀬田薫の背高、の部分とか、セブンスターを吸う薫さんはセッター薫なのかなとか……ああもう! 自分が嫌になる。何より、薫さんはまだ未成年だろうに。僕も去年二十歳になったばかりだけどさ。
「略称……考えたことがなかったよ!」
当の薫さんはあんまり気にしていなさそうだ。むしろ、好意的に捉えてくれていることがわかる。嬉しそうにRD……RD……と呟く様子を見て、教えられた言葉を反芻するインコを思い出した。
僕はなんで取材対象をインコに喩えてるんだろうな。それもきっと、薫さんが僕が記事にしてきた中でもトップクラスで善良なひとだからだろう。だからこそ、調子が狂う。
この性善なひとの中に潜む綻びを、澱みを、早く。そう考えて、やめた。これが僕の悪いところだ。
「そうだ、君は何か好きな食べ物はあるのかい? 少し気になってしまってね」
「え、ああ……」
言い淀む。なぜなら、僕の好物はあまり健康的なものとされていない。特に、薫さんのようなひとからしたらウケは最悪だろう。
薫さんはキラキラした目で僕を見つめてくる。嘘がつけなくなるようで、怖い。噛み締めた唇を動かして、小さな声でこう言った。
「……じ、二郎系……ラーメンを……少々……」
「……すまない、二郎系ラーメンとはなんだろうか?」
……終わった。
「……あ、えっと……もやしがすごく乗ってて、脂もすごく乗ってる、大盛りの……ラーメン、です……こういうやつ、なんですけど……」
「おや……すごくたくさんのもやしが器に……よく見ると器もかなり大きいね。も、もしかして、君がこれを全部ひとりで食べているのかい!?」
「あ、はは……おかしいですよね……僕みたいなのが、こんな……」
「山盛りのラーメンをたくさん食べる君……ああっ、なんて儚いんだ……! このラーメンも君に美味しく食べてもらえて、きっと喜んでいるはずだよ」
……褒められた?
出会った時から、なんとなく不思議なひとだとは思っていたが二郎系ラーメンに対してこんな反応をするひとを僕は初めて見た。謎に肯定されたのも初めてだった。
「すみません、こんな話して……」
「構わないよ。君の話が聞けてよかった」
薫さんは嬉しそうに笑っていた。今度私も連れて行って欲しい、と口にする横顔が、眩しかった。
最初は、少ない量から少しずつ始めるといいですよ。そうだね、せっかくのラーメンを残してしまったら悲しいからね。
ニンニク入れますかって聞かれたら、コールするんですよ。あっ……えっと……ヤサイマシマシ……みたいな。マシマシ! すごく面白い呼び方だね。
君はどんな時にラーメン屋さんに行くんだい? 落ち込んだ……時ですかね。いいね! 美味しい食べ物は、食べるだけで元気をくれるからね。
薫さんは、落ち込んだ時はどうしてるんですか? そうだね……私は、子猫ちゃんたちからもらったファンレターを読み返して元気をもらっているよ。たくさんの想いが詰まった手紙を見ていると、私も頑張ろうと思えるんだ。
雲間から光が差していることに気づいた。傘を叩く音がなくなっていることも。ふと頭上を見ると、太陽の光を反射して、五百円のビニールが虹色に輝いていた。
「……虹、見えましたね」
「そうだね」
キラキラと光を集めるそれが、ひどくうつくしく見えた。普段ならどうでもいい、くだらないと吐き捨てるそれに、強く惹かれてしまった。
手に持っていたカメラを出して、シャッターを切る。切り抜かれたワンシーンには、虹を纏う薫さんが写っていた。
「……この写真、自分用に貰ってもいいですか」
「ああ、構わないよ」
──ああ、きれいだな。
〜
薫さんを取材する……という口実の元、彼女と過ごす日々は、続いていた。バンドのライブに招待してもらったり、出演した舞台に招待してもらったり。まるで本物の密着取材かのように、僕は瀬田薫という人間を追いかけていた。
そんな彼女も、舞台から降りれば僕に笑って手を振ってくれる。この前は、一緒に二郎を食べにいった。僕と同じトッピングをしようとした彼女を止める時、今まで出したことがない大きな声が出たことを覚えている。
「君の紡ぐ言葉は、いつも儚いね」
「そ、そうですか……?」
「ああ、もちろん」
今日もあいにくの雨。喫茶店でコーヒーを飲んでいたら、薫さんは急にこんなことを口にした。自分自身が使う言葉をあまり意識していなかったものだから、急にそう言われると不安になる。
「君は私が贈った詩集の感想をよくメッセージで送ってくれるだろう? そこに使われている言葉がどれも美しく儚いと思ってね」
「そう、ですか?」
「そうだね……例えば『儚さは永遠に フォーエバー』を読んでくれた時の『この詩は薫さんの温かい人柄がよく出ていてすごく好きです! 個人的に薔薇という花は棘だらけでシャイな印象を僕は抱いているのですが、薫さんの詩に出てくる薔薇はすごく嬉しそうに生き生きと愛を伝えていて、薫さんらしく素敵な観点だな! と思ってます。とっても素敵で……えっと……儚い表現方法だと思います。それから」
「あのッ! ここ喫茶店です! わざわざ読み上げないでください!」
僕が大きな声を出すと、薫さんはキョトンとした顔で僕を見つめてくる。何か悪いことでもしてしまったかい? と申し訳なさそうに見つめてくる視線が痛い。これは僕がカッコ悪いだけだから。
好きな作品を見つけたら長文をくどくど書いてしまうオタクのよくないところを再確認した。僕なんだけど。実はこの後にも七行くらい続いている。一つの詩にこんな長文感想を送りつけるのはよくよく考えてかなりキモいだろうと送信した後思ったがその時には取り消し機能が使えなくなっていた。
「……長文、キモいですよね」
「君の感想は、長ければ長いほど嬉しいよ! その分、君からの温かい愛を感じるからね」
薫さんが肯定的な人でよかった。薫さんは、良くも悪くも僕という人間を肯定してくれる。怖いくらいに。
その優しさは、どこからやってくるのだろう。貴女の奥底には、なにが眠っているのだろう。それが知りたくて、それを知りたくなくて、僕は目を伏せる。
「君に感想をもらえるのが嬉しくて、最近は詩を書くのが楽しいんだ。君の感想から新しいインスピレーションが得られるからね」
「いえ、僕が人の作品を読んで感想を送るのが趣味なだけなので、別に大したことでは……」
「大したことさ! 誰かに見てもらえて、その上フィードバックまでもらえるのはすごく嬉しいことだからね」
「……そう、ですね」
言葉が、喉に詰まった。
ああ、薫さんは、やっぱりきれいだ。
「……やはり……君の使う言葉が綺麗なのはライターさんだからなのかな? 今目の前にある光景を言葉だけで伝えるなんて、とても儚い仕事だね」
違うんだ。
「いつか、君の書いた記事を読んでみたいな。君の紡ぐ言葉がどうやってみんなに届けられるのか、見てみたいんだ」
やめてくれよ。
「ああ、そうだ! 私の記事があるじゃないか! 記事はそろそろ完成しそうかい? 君の目に映る私をどんなふうに表現してくれるのか、すごく楽しみだよ。君の紡ぐ言葉が、私は大好きだからね!」
そんなきれいな目で、僕を見ないで。
「……すみません、ちょっと、ここ冷房強くて。お腹、壊しちゃったみたいで」
「先、帰りますね」
僕はただ、逃げるように家に帰った。あの優しいまなざしを僕の文字で穢すのが怖くて、あの優しい言葉を僕のシャッターで切り取るのが怖くて、ただ、逃げた。
自室に着く。つけっぱなしのパソコンのモニターに禍々しく映る「本当に書くべき記事」の本文は、今でもまっさらだ。
ああ、どうか。こんな日々が、ずっとゆるやかに続けばよかったのに。終わりから目を背けて、優しい夕暮れを貴女と過ごしていたかったのに。
二、三日ほど、布団でうずくまった。こうなったのは、あの時以来だった。
帰ってきてからずっと、タイムリミットの鐘が鳴っている。それはまだ出来上がらない記事を催促するダイレクトメールの通知だった。身体中から汗が噴き上がって、内臓がグルグルと回り出して、吐きそうになる。
ああ、書かなくては。書かないと。書かない僕に価値はない。僕の本質を思い出せ。僕の正体を思い出せ。お前は誰かの幸せを切り取って、捻じ曲げて、自分の腹を満たしていた化け物だろう。お前のせいで、何人もの人が不幸になったんだ。
そうだ、思い出すんだ。自分の罪を。
「新生アイドルバンド、まさかの大失敗! 口パク、アテフリがデビュー当日バレて大ピンチ!」
これが、僕の初仕事。十八になって、自分の夢を追いたくて入った出版社で書かされた最初の記事。
最初は、なんでこんな誰が見ても不快になる話を書かなきゃいけないんだろうと思った。でも、仕事だから投げ出すわけにはいかなかった。
記事のために、マナーの悪いファンが動画投稿サイトに上げていた動画を見た。ステージの上のアイドルたちが、怯えるように辺りを見回していた。
ざわざわとした空気、じめじめとした話し声。画面越しに見ただけでも息が詰まりそうな、そんな光景が広がっていた。
そんな中。
「みなさん、ごめんなさい! トラブルで演奏できなくなってしまいました!」
「私たちは今後もライブを行なっていきます。また遊びに来てくださいね」
金髪の子が、どよめく会場の中でお客さんに言葉を届けていた。深々と頭を下げていた。その姿が、ひどく眩しくて、ひどく痛々しく見えた。
きっと……彼女たちも悔しかったはず。何かしらの事情があったはず。それを知りもしないで、こんな記事を書くなんて、僕にはできなかった。だから僕は、彼女たちにエールを送りたかった。無断転載で見ておいて、と思いながらも、少しでも味方になりたくて、必死に言葉を紡いだ。
原稿は、全てボツになった。
震える指で、書き直した。彼女たちの未来が、少しでも善いものになりますように。そんな祈りを込めた文章を、バックスペースで全て消した。
三回ほど、感情をトイレに流した。それで、ようやく、中身のない、感情のない、何も詰まっていない記事が完成した。
上司は僕の記事を褒めていた。どうでも良かった。こんな文章に、何の意味もないから。
記事が本格的に公開された。この記事は、彼女たちの耳に入っただろうか。入っていないといいな。どうか、こんな言葉が届かない温かい場所で幸せでいてほしい。
食事が喉を通らない日が一週間ほど続いた。ふと、好きなゲームの新作情報が出ることを思い出した。その日、久しぶりにSNSを見たら。
やっぱりみんなは本当を見ようとしなかった。みんなが都合のいい本当に踊らされていた。みんなが同じ記事を引用して言葉を紡いでいた。
その記事は、僕の記事だった。
みんなが僕の記事を読んでいた。
みんなが僕の記事を読んでいた。
みんなが僕の記事を読んでいた。
みんなが僕の記事を読んでいた。
みんなが僕の記事を読んでいた。
みんなが僕の記事を読んでいた。
みんなが僕の記事を読んでいた。
みんなが僕の記事を読んでいた。
みんなが僕の記事を読んでいた。
みんなが僕の記事を読んでいた。
みんなが僕の記事を読んでいた。
みんなが僕の記事を読んでいた。
みんなが、僕を、読んでいた。
気持ちが良かった。僕の書いた文章で、僕の撮った写真で、大衆の感情が書き換えられていくのが。僕が惰性で書いた記事で、世論がぐにゃりと捻じ曲がるのが。
その時、僕の本当の名前が悪魔だということを知った。もう、戻れないことを、ようやく悟った。
あーあ、僕はなんで性善者のフリをしていたんだろう。そうだ。知らず知らずのうちに自分の罪を覆い隠していたんだろう。僕はやめたいのに、なんて嘘をついて、自分の罪から目を背けていた。
「この前は大丈夫だったかい? 身体を冷やして風邪をひいてしまわないようにね」
「君が元気になったら、また君の話を聞かせておくれ。君の話を聞くのが私の最近の楽しみなんだ」
薫さんからのメッセージが目に入った。ちがう、僕は、決して貴女の隣に立つべき、善良な人間ではない。僕の本質はもっと、きたなくて、醜いんだ。
だって、ほら。僕はもうダメなんだ。化け物なんだ。どこを見たって非の打ちどころののない貴女だって、僕の手にかかれば。
そうだ! 瀬田薫の中には本当の瀬田薫がいるって与太話はどうですか? 今存在してる瀬田薫は全部ウソで、瀬田薫が無理して演じてる道化だってこと!
そうだ、それっぽく鉤括弧もつけてしまいましょうか。でも、僕が書いたこの記事では群衆向けの「瀬田薫」でない、本当の、本物の瀬田薫が見れるんですよ! なぜなら、僕が瀬田薫を暴くから。瀬田薫という魔法が解けた姿の貴女を暴くから。その姿を誌面を通じて届けるんですよ。世界中に。
きっとみんな、気に入ってくれると思いますよ。だってさあ、薫さんみたいに底抜けに眩しくて優しい人が底知れない闇(笑)を抱えてると、馬鹿な民衆は手ェ叩いて喜ぶんですよ。これからもっと人気出るんじゃないですかね、闇深王子様として!
馬鹿も休み休み言えよ。
結局、記事は一文字も書けなかった。貴女の顔を思い浮かべただけで手が動かなくて、パソコンの文字が歪む。
ああ、おかしいなあ。僕には、どれも等身大の瀬田薫にしか見えないんだ。貴女を構成するすべてがどれもきれいだから、なにひとつとして穢したくないんだ。
もし僕が望めば、貴女は僕の言う通りに姿を変えてくれるのだろうか。僕が望む「本当の瀬田薫」を演じてくれるのだろうか。
でも、それははたして真実と言える? きっとそれは、僕の、民衆の望んだ「本当の瀬田薫」にしかなり得ない。そもそも、本当なんて、真実なんて、僕たちのようなただの他人にわかるはずがないんだ。
「夜遅くにすみません。いつもの公園で待ってます」
「僕の話を、聞いてくれますか」
だからかな、貴女に会いたくなった。どうか僕が化け物になる前に優しいその手で裁いてほしいと思ったから。
また、雨が強くなった。
〜
いつもの公園は、しんと静まり返っていた。ただ、雨の音だけが響いて、それ以外を全てかき消している。
薫さんは変わらずキラキラと笑っていた。今の僕だったら、そのまま消し飛んでしまいそうなくらい、眩しい。
「……夜遅くに、すみません」
「構わないよ。体調は大丈夫そうかい?」
「はい、おかげさまで」
当たり障りのない日常会話は、問題なかった。まだ、僕の綻びは薫さんにバレていない。いや、これから明かすのだけれど。
薫さんはこんな僕を見て、どんな顔をするかな。どんな顔もしないでほしいな。僕の思考が、いつにも増してぐちゃぐちゃにかき混ぜられる。
「……雨、だね」
「そう、ですね」
少し、間が空く。ただ、そこに雨の音だけが響いた。
「……君の話したいタイミングで、大丈夫だからね」
その言葉に込められた確かな温度に触れるだけで、泣き出してしまいそうだった。この感情全てが涙となって、雨と混ざる前に、どうにか吐き出してしまおう。
「……薫さん。僕は、貴女に嘘をついていました」
「僕が書いているのは瀬田薫の魅力に迫る密着レポート、って言ってましたよね。こうやって話しているのも、そのための密着取材だって。これら全部が、嘘なんです」
「僕が本当に書いているのは、瀬田薫の醜いところを暴いて、晒し上げるためのゴシップ記事。そのために僕は貴女に近づいた」
「知ってますか? SNSでたまに取り上げられるしょうもないゴシップ記事のこと」
「下品で、下衆で、下賤で。誰かの不幸を嘲笑うためにしか存在しない、世の中の汚いところだけを掃き溜めにしたみたいなニュース記事」
「僕は、その記事のライターなんです。そんな掃き溜めみたいな記事を書いて、みんなに見られて、数字が伸びていく様子を見るのが好きな、化け物なんです。存在しちゃいけない、社会のクズなんです」
「確か……パスパレの白鷺さん、大和さんとご友人でしたよね。なら、ご存知だと思います。アテフリの記事のこと」
「あれを書いたのも、僕」
「貴女の大切な友人を、大切な仲間を、くだらない記事で傷つけた。なのに、僕はそれで喜んでいた。自分が見られてるって、喜んでた」
「ごめんなさい。これが、僕の正体です」
「……僕は、貴女のように綺麗なひとじゃない」
「だから、貴女と一緒にいると、申し訳なさで死んでしまいそうになる。僕というクズに優しく微笑みかけてくれる貴女を見ると、苦しくなるんです。僕を肯定してくれる度に、僕の醜さが浮き彫りになっていく気がするんです」
「僕は、貴女を世界で一番きれいな人だと思っている」
「どうやったって貴女を貶しめる記事なんて書けないですから、貴女の名前に傷がつくことは絶対にありません。ただ、これは僕の気持ちの清算のための独り言みたいなものです。ごめんなさい、全部が一方的で」
「大好きです」
「あの大雨の中、傘を差してくれた時から」
あの日、僕は貴女を世界で一番きれいなひとだと思った。嘘も偽りもない、本当に優しいひとだと思った。それは、貴女と話すたび、過ごすたびに大きくなっていった。そんな貴女の優しさを誰かに笑わせるものか。これが僕なりの、僕に残った最期の正義の残滓だった。
雨音が大きくなる。全部がかき消されて、ゼロになった。
「……ありがとう、君の気持ちを教えてくれて」
「でもね」
「それだけが、君の全てじゃないと思うんだ」
薫さんは、優しく笑った。
「私も、役を演じる時よく考えるんだ。一見気難しい会社の課長さんが、家では家族想いな優しいお父さんだったり。臆病で照れ屋な女の子が、裏では不良番長としてみんなを導いていたり。物語のキャラクターだって、いろんな一面を持っている。それが生きている本物の人間だったら、もっとたくさんの一面があるんじゃないかな?」
「もちろん、君だってそうさ。確かに、君はゴシップ記事を書いているライターさんかもしれない。けれど、山盛りのラーメンが好きな君も、私の詩にたくさんの感想をくれる君も、本当の君ではない、というわけではないだろう?」
「君の中にいるたくさんの君が合わさって、君は君たり得るのだと、私は思っているんだ。つまり、どんな君だって、君であることに変わりはないんだよ」
ああ、やさしいな。痛いくらい、やさしいな。僕は、貴女に裁かれたかったのに、これじゃあ。
どうしようもなく温かい手のひらで、またすくわれている。
きっと、少し前の僕だったら、瀬田薫という偶像の何気ない部分をシャッターで切り取って、ありもしない尾鰭をつけて、貴女の優しさに胡散臭い理由をつけて、SNSという十字架を使って貴女を磔にしていただろう。ただ何も考えず僕の望む本当の瀬田薫を貴女に押し付けられたら、どれだけ楽だっただろうか。
そんな簡単なことができないほど、僕は瀬田薫という人間を好きになりすぎてしまったんだろうな。
「ゴシップ記事のこともそうさ。きっと、君の中で答えは決まっているんだろう?」
「……え」
「過去は変えられなくても、未来は変えられるはずさ」
ありし日の、全部書き換えられたゴシップ記事の初稿を思い出した。そこに込められた、ささやかな善性を思い出した。
そうだよ。本当に僕が書きたい文章は、書きたかった記事は、撮りたかった一瞬は。
「もし、全ボツ食らったら、その時は薫さんが全部読んでください」
「どこの誰に見つからなくてもいいから、貴女だけには、読んでほしいです」
こういう、優しくてあたたかい、雨の中に差し込む陽だまりみたいなものだった。
〜
時計が深夜三時を回った。ピカピカと光るモニターの中には、たくさんの薫さんの写真がファイリングされている。あ、この写真目瞑ってるな。これはこれできれいなの、反則だよなあ。たくさんの瞬間を切り取ったからか、SDカードがそろそろ埋まってしまいそうだ。まあ、また新しいやつを買えばいいかと思って、作業に戻る。記事も終盤に差し掛かってきた。
薫さんとのメッセージ履歴を眺めながら、ふと考える。
誰かを理解したい、ほど利己的で身勝手でグロテスクな言葉はないと思う。僕自身でさえ僕を理解できないのに、他人を理解するなんて絶対にできないだろうから。
理解できないからこそ、人間は傷つけ合って争い合って、手を取り合える。そんな性善説を信じていたことを、薫さんに出会ってから思い出した。
僕は薫さんの理解者になれないし、薫さんだって僕の理解者にはなれない。僕はどこまでも貴女のように清廉潔白にはなれないし、逆も然りだろうから。僕が記事を書いているうちに染みついたくだらない感性がどうにも抜けきらないことを、薫さんの前ではひた隠しにしているように、薫さんだって、僕に言いたくないことのひとつやふたつあるだろうし。悲しいけど。でも、人間なんて、みんなそういう生き物だと思うから。
でも、それを無理に暴こうとするのは、今ここにいる貴女を、瀬田薫を否定すると同義だと、僕は思う。たとえ何気ない仕草でも、気取ったポーズでも、確かに薫さんはそこにいてくれる。本当の薫さんが、嬉しそうに笑ってるんだ。きっと、薫さんの中でもたくさんの瀬田薫が目の前の瀬田薫を構成して、その全部が瀬田薫たりえるのだろうと僕は思……ああ、ここの部分瀬田薫ばっかで文章がごちゃごちゃしてるな。あとで書き換えよう。
貴女も僕も、等身大のひとだ。よく笑って、よく食べて、たまに悲しんで、怒る時だってある。毎日の天気に一喜一憂したり、雨の中でたまにスキップしたくなるような、なんら変わらない、等身大の、ふつうのひと。
そこに意味なんてなくて、意味がないからこそ意味があって。つまり……そういうこと……これじゃあ薫さんのモノマネになっちゃうな。最近、薫さんからいろいろ影響を受けすぎな気がする。
こういう時、自分の語彙力のなさを恨む。この記事は、どうやって締めようか。このままだと、一生パソコンと睨めっこする羽目になる。頭を三回ほど捻って、テキストエディタに向き合った。
あなたがたとえ氷のように潔癖で雪のように潔白であろうとも、世の悪口はまぬがれまい。シェイクスピアの言葉です。
みんな、知らず知らずのうちにフィルターをかけてしまうんです。瀬田薫という人間の一面を作為的に切り取って、誇張して、世間一般が望む瀬田薫を作り上げている。それはきっと、この記事を書いている僕もなのかもしれませんね。
でも、貴女を、瀬田薫という御伽噺を、僕は信じたい。たとえ僕らを取り巻くすべてが悪辣で下賤で醜くあろうと、僕だけは貴女のうつくしさを信じていたい。
そんな風に思えたのは、貴女が初めてだ。
そう書いて、急に恥ずかしくなって、後からその部分だけを切り取った。僕の新しい一面が、そろりと顔を出す音がした。