「魔法薬を作ってみたい」──その言葉を、リドルがようやく口にするまで三日かかった。
言い出すまでのあいだ、彼は何度も言葉を飲み込み、何かを訴えるような視線だけをアースキンに投げていた。
アースキンはそういった沈黙の駆け引きに慣れている。人の心が欲しているものを読み取るのは得意で、リドルが何を言いたいかも、初日の時点で「この子は何かを欲しているな」とは察していたが、一度お膳立てして伺うのではなく、待ってみようと考えた。
待つこともまた、ひとつの術だ。相手の思いをじわじわと引き出し、自分から差し出させる。そのほうが、言葉はより強い実感を伴う。
もっとも、今までその相手は乙女であり、少年に仕掛けるのは初めてだったのだが。
一日目。
リドルは何気ない口ぶりで「魔法薬学のどんなところが面白いのか」と尋ねてきた。どの本がわかりやすいか、どの教授が優れているか。小さな問いかけの断片の中に、「自分もやってみたい」という欲が透けていた。
この段階でアースキンは「そういえば作ってみるかと誘ったな」とすぐに思い出したが──リドルの「魔法薬作りを教えて欲しい」という言葉を引き出してみたい、と思いのらりくらりと明言を避け、察しの悪いふりをした。勿論、リドルの気を損ねない程度にさりげなく。
二日目。
リドルは魔法薬学の入門書を開き、ページをめくりながら、ちらちらとアースキンの方を見ていた。活字よりも、その横顔の動きを確かめるのに熱心であることは明らかだった。
だがアースキンは視線に気づかぬふりをして、書き物に没頭しているように振る舞った。リドルの喉まで上がってきた言葉が、結局、声にならないまま消えていくのを見届けながら。
三日目。
朝食を片付けたアースキンが書斎へ向かおうとしたとき、背後から小さな声が追いかけてきた。
「父さん」
階段を登っていた足が止まる。アースキンは、「勝った」というような企み顔でふっと口の端を引き上げたが──振り返る時には、いつものような柔和な笑みに変わっていただろう。
「どうした?」
「……書斎? それとも、調合室?」
リドルはリビングの肘掛け椅子に座ったままだった。それでも、視線はアースキンの方を見ていて、肘置きを掴む手に、力がこもっている。それは、心の奥で揺れる緊張を表しているようだった。
「どちらもだな。待っていた素材が手に入ったから、書斎で少し論理を整理してから、調合しようと思ってね」
「……、……」
リドルの黒い目が真っ直ぐアースキンに向けられる。何かを言い出す寸前の、迷いと焦燥の入り混じった視線。かすかに開いた唇はすぐに閉じられ、視線は炎のゆらめく暖炉へと逸らされた。
──おや、そろそろ痺れを切らし、拗ねつつ頼みにくるかと思ったが、まだ素直になれないか。
アースキンがそろそろ“負けて”あげようかと──リドルは駆け引きの勝負に引き込まれている事に気づいていないだろうが──考えた時、リドルは暖炉の中で小さく燃える炎を見ながら口を開いた。
「魔法薬、作ってみたい。……その、教えて欲しい──んだけど」
言葉を吐き出す瞬間、リドルの喉仏が小さく上下した。
それは、薪が爆ぜるよりも小さな声だったが、アースキンの耳にはしっかりと届いた。
「もちろんだとも。おいで」
優しく告げれた言葉に、リドルは数秒置いてゆっくりと立ち上がると、いつものようなツンとすました表情で近づいてきた。しかし、その表情も──どこか口元が不自然に歪んでいるように見えて、アースキンは内心で笑う。
自分から何かを求める事に対する恥ずかしさと、他者に教えを乞う事への葛藤。それでいて『この人は自分の父なのだから、遠慮することはないんだ』と分かりながらも、素直になれない気持ち。自分の願いを、すぐに受け入れられた喜び。
色々な感情がせめぎ合い、上がりそうになる口元をばれないように必死になって結んでいるのだろう。
階段を登り、アースキンと目があったリドルは、ふっと目を伏せ視線を逸らした。
調合室に足を踏み入れた瞬間、リドルは薬草独特の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。湿った苔、乾いた草、果実の甘さ……複雑に混じり合ったその香りは決して心地よいものではないのに、リドルには不思議と落ち着く匂いに思えた。
「さて、何を作ろうか。……そうだな──」
アースキンは顎をさすりながら棚にある材料を流し見る。この中にあり、かつ簡単な薬といえば限られてしまう。──なぜなら、アースキンが作る魔法薬は高度なものがほとんどで、材料の値も相当なものだ。中には取り扱いが危険なものもある。
「よし、色変え薬にしようか」
棚の前を行き来し、いくつかの葉や瓶を掴み調合台の上に置く。本棚から数年開いていなかった初級魔法薬書を取り出し、数ページ開いてとん、と杖先で叩く。すると本はふわりと浮かび、読みやすく、かつ調合の邪魔にならない場所で留まった。
「色変え薬。どんなものか知っているかな?」
「三時間、髪や目の色を一時的に変える薬」
リドルは浮かぶ本を見る事なく告げた。アースキンは柔らかく「そうだね」と言いながら、材料一つ一つを丁寧に指差した。
「百葉クローバーの花。これは乾燥させたものだ。必要なのは十枚。水銀蛇の牙四本。黒ベリーの種六粒……作り方はここに載っているよ。道具はこっち。……さ、作ってごらん」
リドルは黙って頷き、すり鉢を引き寄せた。見慣れない草花を指で摘むと、乾いた感触が指先に伝わる。石で砕くたび、ぱりぱりと小さな音が鳴った。見たこともない材料で作る、初めての魔法薬──自然と胸が高鳴り、気分が弾んだ。
元々器用なのだろう、初めての魔法薬作りにしては──簡単だとはいえ──手際が良く、丁寧に作られていた。
時々アースキンが「もう少し細かく砕いた方がいい」や「混ぜるのはゆっくりと、優しく」と助言を挟むことはあれ、大きな間違いはないまま滞りなく進んでいた。
「杖は持ってるかな?」
「うん」
リドルはポケットから杖を取り出した。白い、持ち手に独特の特徴のある杖。まだ新しいそれは、傷もなく綺麗なものだった。
「最後に杖を振るんだ。成功なら虹色の煙が上がる」
低い言葉に促されるまま、リドルは息を詰めたまま杖を振った。すると、黒色だった薬が急に波打ち、ぽふんと弾けたと思うと虹色の煙が一筋上がった。
リドルの目が大きく見開かれる。自分の手が確かに魔法を生み出した、その実感。
「……できた」
小さな呟きは驚きと歓喜で震えていて、アースキンは優しく目を細め、微笑んだ。
「成功だ! おめでとう、初めての魔法薬作りにしては、まさにパーフェクトだった」
素直な賞賛に、リドルはほっとしたように肩を落とし、少しだけ表情を緩めた。──ほんの一瞬、彼の唇が形だけの笑みに近いものを結ぶ。
「少し冷ましてから瓶に移そう。──ラベルは自分で書いてみるといい」
「……もっと作ってみたい。他の薬も」
「そうだな。なら、書斎にある『改訂版・初級魔法薬書』を探しておいで。青い背表紙の厚い本だ。今ここにあるのは古い版だから」
「わかった」
返事は素っ気なく短い。それでもリドルの足取りは、弾む気配を隠しきれていなかった。アースキンはくすりと笑ってその背中を見送り、ひとりで片付けを始めた。
書斎は調合室よりも静かで、光がよく入る分だけ空気が澄んでいた。壁一面の高い本棚にびっしりと並んだ革装の本はどれも手入れが行き届いており、背表紙に走る金の文字が窓からの光を柔らかく反射している。
リドルはためらわず、アースキンが告げた棚の前に立った。指先で背表紙をなぞりながら、青い革装を探す。すぐに見つけたが、それは一番上の段にあった。
そうだ、いつも届かない本はアースキンが杖を振り取ってくれていた。今、ここにそれをしてくれる人はいない。
「……高い」
小さく呟き、リドルは背伸びをした。指先がかすめるが、掴めない。背が高い方とはいえ、リドルはまだ十一歳になったばかりであり、天井近くまで聳える本棚の上段には届かない。
それでももう一度挑戦する。かかとを浮かせ、肩に力を込めて伸ばす。だがやはり、届かない。
息を吐き、周囲を見回す。脚立も台なく、頼れるものはない。仕方なく視線を奥へ巡らせたとき、古びた木箱が置かれているのに気づいた。
リドルは迷わずそれを引き寄せ、上に乗った。箱はぎしりと軋んだが、彼の体重を支えた。再び手を伸ばすと、今度はしっかりと青い本の背を掴めた。思いのほか重いが、腕に力を込めて引き抜く。
抱え込んだ『改訂版・初級魔法薬書』を胸に下ろしたとき──ふと視界の端に異物が映った。
本棚の上。本来なら何もないだろう場所に──隠すように──埃に覆われた薄い本が横たわっていた。時間の流れから取り残されたように、灰色の膜がその表紙を覆っている。
リドルはしばらく見つめていた。
何かの拍子に上に乗って、そのまま放置されているだけなのだろうか。それでも、物を丁寧に扱い、掃除もきちんとしている男のことを考えれば些か違和感がある。
胸の奥に、理由の分からないざわめきが生まれた。
──見つけてはいけないものを、見つけてしまった。
そんな予感すら漂う。
だがその感覚は、リドルを遠ざけるどころか逆に手を伸ばさせた。
慎重に埃を払うと、空気中に灰色の粒子が舞った。窓から差す光に照らされて、きらきらと細かな星屑のように散っていく。その中から現れた表紙には、かすれながらも読める文字があった。
「……アースキン家の記録──?」
思わず声に出す。
それは立派な革装本ではなく、厚紙を綴じただけの簡素なノートのように見えた。
リドルはしばらくその本を見つめ、手の中の重さを確かめるように握り直した。書斎は静まり返り、彼の心臓の鼓動だけがやけに大きく響いている。
胸の奥に奇妙な感覚が広がっていった。好奇心か、不安か。あるいは──その両方か。
アースキン家とは、なんだろうか。たしか、魔法界には古くから続く純血一族があると父は言っていた。その中の一つだろうか?
それがなぜ、こんなところにあるのだろうか。
リドルは表紙を捲り──息を呑んだ。
「……父さん……?」
一ページ目に貼られていたのは写真だった。
セピア色をした、色褪せた写真。そこに映る人たちは皆硬い表情をして写っている。何の変哲もない家族写真、だろう。
その中に、父に、トム・リドル。と名乗る父に似ている男が写っていた。隣には女、妻だろうか。その前には自分よりも大きな子どもが三人。
リドルは無言でそれを裏返す。そこに走り書きされていた撮影年は今から三十数年前を示していた。
違う。この男が父さんなんじゃない。
この子どもが、父さんなんだ。
柔和な笑顔はなく、暗い表情をしている少年。魔法界の写真は動くはずだが、この写真に写る人たちは不自然なほど動かなかった。
父に見せるべきか、それとも自分だけで読むべきか。答えはまだ出なかった。ただ、その写真から目を離せないまま、そっと本を胸に抱える。
窓辺に漂う埃は、まだ宙を舞っていた。