トム・リドルが唯一友達になった子、口数が多すぎる。 作:八重歯
リドルがフィンレイと出会って、季節が三度巡った。 気付けば、ほとんど毎日のようにフィンレイの部屋に足を運び、長時間を過ごすのが当たり前になっていた。
孤児院の職員や子どもたちは、リドルがほぼ毎日姿を消していることに気付いていた。
だが、誰もそれを気に留めはしない。──幼いころから奇妙な現象を引き起こし、他の子どもたちを怯えさせ、時には傷つけてきたリドルは、いつも遠巻きにされていた。そのリドルが急に大人しくなり、姿を見せなくなったのだ。
それは、彼らにとって歓迎すべき変化だった。──一応、門限を大きく破ることもなく帰宅しているようだし。
この日もリドルはフィンレイの部屋にいた。
もはや定位置となった椅子に座り、すらりとした長い足を組み、机に頬杖をつきながら本に視線を落とす。フィンレイはベッドに寝転び、読み終えた本で山を作っていた。──これも、いつも通りだろう。
──こんこん。
乾いた音が、部屋の空気を小さく揺らした。
この部屋に入り浸るようになって二年以上。初めて聞くノックの音に、リドルは顔を上げ、扉を見た。それからフィンレイを見る──だが彼は本から目を上げない。
再び小さなノックが響く。リドルは「フィンレイ」と声をかけ──フィンレイが、眉根を寄せ、口をきゅっと結び見るからに不機嫌そうな顔を上げた。
「何」と、ぶっきらぼうに吐き捨てる。フィンレイの性格を嫌というほど知っているリドルは気分を害することなく「扉」と言いながら顎で指した。
フィンレイはめんどくさそうに扉を一瞥すると「どうぞ」と言い、またすぐに視線を本に向けた。
「フィンレイ坊ちゃん、失礼いたします。──トム様に面会を希望する方が、いらっしゃってます」
現れたのは、ウィンドルミア家の屋敷僕イーヴリンだった。
恭しく頭を下げ、落ち着いた声で告げる。思いがけない言葉に、リドルは「僕に?」と怪訝な表情を浮かべた。
これまで、自分を訪ねてくる者などいなかった。それも、この──魔法界に深く関わる場所で。
フィンレイは、わずかに驚きを帯びたリドルの横顔をちらりと見ると、めんどうくさそうにため息を吐き、ゆっくりと体を起こした。胡座をかいたまま首元を掻き、「通していいよ」と気のない声で告げる。
イーヴリンは深く頭を下げたまま、一度扉を静かに閉めた。
「きみ、今日誕生日だろ?十一歳の」
「……あぁ」
短く答え、リドルは眉をひそめた。
「……そうか、当日に来るのか」
今朝ここに来た時に、フィンレイから「誕生日おめでとう」の言葉とともに世界の毒薬図鑑をもらった事は記憶に新しい。
フィンレイは部屋をぐるりと見渡し、頭の硬い大人に知られたら少々厄介な物に向かって杖を振り、片付けた。
「場所は関係ないんだな」
「そうみたい。でも、よく本人の居場所がわかるよね。名前に魔法でもかけて探してるのかな? この家まあまあ隠れてるはずなんだけどな……」
フィンレイは首を傾げながら呟く。この屋敷にはマグル避けはもちろん、ある程度の魔法使いでなければ──もしくはウィンドルミア家の者からの招待がなければ──認知できないような魔法がかかっている。無理やり突破した者なのか、あるいは元々この家に関わりのある者なのか。
やや疑問に思い、その答えが出ないままに再び扉がノックされた。今度はすぐに「どうぞ」と返し、フィンレイはベッドの外に足を投げ出す。──流石にベッド上で脚を組んだまま客人を迎えるのは無礼だという常識はあった。
リドルは、どこか他人事のように感じながら開かれた扉を見ていた。
「フィンレイ坊ちゃん、トム様。──こちらホグワーツ魔法学校より、変身術教師のアルバス・ダンブルドア様です」
深々とお辞儀をしたイーヴリンが通したのは、背の高い男だった。鳶色の長い髪をシックな赤いリボンで緩くまとめ、同じ色の髭も整えられている。濃い紫色のローブはやや派手だが嫌味ではなく、温和な笑みと宝石のような青い瞳が印象的だった。
アルバス・ダンブルドア──その名を、魔法界で知らぬ者はいない。
今、海の向こうではグリンデルバルドという魔法使いが魔法使いの優位性を主張し、マグルを支配しようと目論んでいるらしい。賛同する人間を引き込み着々と仲間を増やしている。あちらでは、もう戦争の足音が聞こえるとも言われていた。
そのグリンデルバルドに唯一対抗できると言われている人物が、このダンブルドアだ。世界でも屈指の魔法使いであり、英雄であり──そして、ホグワーツで変身術を教える教師でもある。
フィンレイは世界情勢に興味は薄かったが、それでも無視できる名前ではなかった。
だからこそ、この場に立つ姿は妙に場違いに見えた。……いや、教師の仕事をしているのだから正しいのかもしれないが。
ダンブルドアは室内を一巡するように視線を動かし──リドルで止まった。
青い瞳が、まっすぐにリドルを射抜く。
言葉はない。ただ、何かを見透かすように静かに。
リドルはその視線を受けても動じず、同じく黙って見返した。
やがて、ダンブルドアはにこりと微笑み、何事もなかったかのようにフィンレイへと歩み寄る。
「初めまして、私はアルバス・ダンブルドア。ホグワーツからの使いだ。突然の訪問で驚かせてしまったね」
ダンブルドアはフィンレイの前で足を止め、右手を差し出した。
フィンレイは一瞬だけその手を見てから、立ち上がり握り返す。
「どうも、フィンレイ・ウィンドルミアです」
軽く握手を交わしながら、ふっと口元を緩める。
「──よくこの家の場所がわかりましたね」
その問いかけには半分驚き、半分探りを込めた響きがあった。ダンブルドアは微笑を崩さず、少しだけ懐かしそうな目を向ける。
「昔、きみのお父さんの研究を手伝ったことがあってね」
「ふぅん……そうなんですね」
フィンレイは首を傾げ、興味があるのかないのか分からない声で答える。だが、その目にはわずかに「もっと聞いてみたい」という色が宿っていた。
短いやり取りを終えると、ダンブルドアは握っていたフィンレイの手を静かに放し、ゆるやかに振り返った。
青い瞳が再びリドルを捉える。
「──そして、きみがトム・リドルくんだね。アルバス・ダンブルドアだ。よろしく」
名前を呼ばれた瞬間、空気がわずかに張り詰める。リドルは椅子から腰を上げることなく、その視線を受け止めた。
ダンブルドアは一歩近づくと、にっこりと笑ってリドルに手を出し、リドルは少し躊躇しつつもその手を取って握手をした。
手を離したダンブルドアが部屋の中を見回し、何かを探していることに気付いたフィンレイは、呪文を唱えて杖をひと振りした。
雑多に積み重なっていた本がふわりと宙に浮き、積み上がって簡易的な椅子へと変わる。
「おや。──ありがとう。ここで、少し彼と話をしてもいいかい?」
「どうぞ」
わざわざ応接間へ通す必要もないだろう、とフィンレイは判断し頷く。
ダンブルドアがその椅子に腰掛け、リドルと向き合う間に、フィンレイは「紅茶くらいはいれておこうかな」と呟き、杖を振って支度を始めた。
「さて、トム。きみに渡すものがある」
ダンブルドアは懐から封筒を取り出す。
分厚い羊皮紙に包まれたそれには、深い緑色のインクで『丘の上のウィンドルミア邸、西棟二階の奥の部屋 トム・マールヴォロ・リドル』と記され、封は赤い蝋で閉じられ、中央には大きな「H」の紋章が刻まれていた。
「ホグワーツ魔法学校からの入学許可証だ」
リドルは視線をダンブルドアから封筒へ落とし、奇妙な心地でそれを受け取った。
ホグワーツ魔法学校。入学許可証が届くことは予想していた。それでも──実物を目にすると、胸がわずかに高鳴った。
指先に蝋の固さが伝わる。部屋の静けさの中で、その感触が妙に鮮明だった。
「きみは、もう魔法の事をかなり知っているようだね。フィンレイから教わったのかな?」
リドルは一瞬フィンレイを見たが、彼は紅茶をカップに注いでいて背を向けていた。
教わっていることを明言してよいのか、ほんの少し迷い──それでも「はい」と小さく頷いた。
ダンブルドアはその頷きを見て、柔らかく微笑む。
「それなら話は早いね。──とはいえ、入学前に少しだけ話しておこう」
ダンブルドアはポケットから杖を抜き出すと、ふわりと柔らかく振った。銀色の光が広がり、晴れる頃にホグワーツ城が空に映し出された。
「ホグワーツは、魔法使いと魔女を育てるための学校だ。十一歳になった者には必ず入学の機会が与えられる。七年間で呪文、変身術、魔法薬……あらゆる基礎を学び、魔法界で生きる土台を築く」
リドルは封筒を見下ろし、静かに耳を傾けていた。
「だが、そこで学ぶのは魔法そのものだけじゃない。魔法界の歴史や法律──そして何より、自分の力をどう生かし、どう制御するか。それが本当の学びだ」
ダンブルドアの視線が一瞬だけフィンレイへ向かい、再びリドルに戻る。
「魔法界は広く、時に複雑だ。そこでは知識や技術だけでなく、周囲との関わり方も学ぶことになる。きみのように既に力を持っている者ほど、それが大事になる。──とはいえ、まずは新しい環境を楽しむことだ。城の中には授業以外にも面白いものがたくさんある。きっと退屈はしないよ」
その時、フィンレイが紅茶を淹れ終えて机に近づき、湯気を立てたカップを二人の前に置いた。
「ありがとう」
ダンブルドアは軽く一礼し、それからふとフィンレイを見上げる。
「──きみは、やっぱりホグワーツには来ないのかい?」
その問いに、リドルは一瞬息を止めた。
そういえば──フィンレイは行かないと言っていた。入学すれば、これまでのようにほぼ毎日顔を合わせることはできなくなる。
その事実が、胸の奥に小さく沈殿し、湯気の向こうでゆらめいた。
フィンレイもまた、自分の誕生日にホグワーツからの入学許可証を受け取っていた。だが、その返事はもう送ってある──辞退の手紙を。
問いかけに「はい」とだけ短く答える。
すると、ダンブルドアの視線がわずかに長く彼に留まった。
その「なぜ?」を含んだ沈黙に、フィンレイは肩を小さくすくめ、苦笑を浮かべた。
「ホグワーツで、僕の専属教師以上に聡明な教師がいるのなら行きたいですけどね──あ、いや。あなたのことは偉大な魔法使いだと思ってますよ」
とってつけたような言葉だったが、ダンブルドアは笑みを崩さず、「そうか……それでも、扉はいつでも開いているよ」と返した。
そのやり取りを、リドルは視線の端で追っていた。
フィンレイにとってホグワーツは、大半の魔法使いが目指す唯一の道ではなく、自分には必要のない選択肢の一つにすぎないのだ──そんな温度差を、改めて思い知らされる。
フィンレイはあくまで淡々と、そして少し冷めた目で、リドルとダンブルドアを見比べていた。
他の魔法使いにとっては喉から手が出るほどの学び舎であっても、自分にとってはわざわざ戻る必要のない教室のようなもの。
だからこそ、目の前の二人の会話も、どこか他人事に感じられた。
リドルは封筒の蝋を割りながら、低く呟く。
「……僕は、魔法界のお金をあまり持ってませんが」
「それはたやすく解決できる」
ダンブルドアはポケットから小さな革の巾着を取り出した。
「ホグワーツには、教科書や制服を買うのに援助の必要な者のための資金がある。きみは呪文の本など、いくつかは古本で買うことになるかもしれない。それでも──」
青い瞳がふっと細められる。
「アイスクリームを食べるくらいの余裕はあるだろう」
巾着を受け取ったリドルは、その中の重みを確かめる。革の香りと金属の冷たさが、思っていた以上にずっしりと手のひらに落ちた。
「二枚目に教科書と教材のリストがある。ダイアゴン横丁で全て揃えることができるが……私が同行してもいいし──」
そこで一拍置き、ダンブルドアはフィンレイを見た。
「もし行き慣れているようなら──友達と行くのも、いいかもしれないね」
ウインクを受け、フィンレイは片方の口角を上げる。
「じゃあ僕と行こうよ。冬のアイスも美味しいしね」
「……アイスを食べに行くわけじゃないだろ」
「用事のついでに、だよ」
軽口を交わす二人を、ダンブルドアは柔らかく細めた瞳でじっと見守っていた。
その視線は、この部屋ではなく、もっと先──数年後の景色を見透かしているようにも感じられた。
「封筒の中に、もう一つ入っているはずだ──ホグワーツ特急のチケットだよ。九月一日、ロンドンのキングズ・クロス駅から列車が出発する。そのチケットを使えば、問題なく乗れる」
そう言うと、カップに口をつけ、ゆっくりとひと口。青い瞳に、湯気が揺らめき影を落とす。チケットを珍しそうに見ているリドルを見ながら残りを飲み干すと、椅子から立ち上がった。
「さて。それでは──九月一日に待っているよ」
差し出された手を、リドルはしばし見つめた。握れば、今の生活から一歩遠ざかる──そんな予感があった。
それでも手を伸ばし、力強く握り返す。ダンブルドアの掌は温かく、意外なほどしっかりとしていた。
フィンレイはその様子を、湯気越しに静かに眺めていた。何も言わず、紅茶を口に運び、指を軽く鳴らす。
ぱちん、と澄んだ音が響き、部屋の隅の影が形を変える。
「お呼びでしょうか」
屋敷僕のイーヴリンが姿を現し、恭しく頭を下げた。
「お客様がおかえりだって」
「かしこまりました」
イーヴリンは静かに扉を開ける。ダンブルドアは一歩進み、手をかける前に振り返った。
「さようなら、トム。ホグワーツで会おう」
その声は穏やかだったが、言葉の芯には確かな約束があった。
扉が閉まると、部屋には紅茶の香りと、ゆっくり戻ってくる静けさだけが残った。
リドルは封筒から取り出した手紙に目を走らせていた。
白い羊皮紙の上を行き来する視線は真剣で、その横顔はいつもより幾分か硬い。机の上には、開きかけの封筒と、まだ熱を残す紅茶のカップ。
向かいの机に腰掛けていたフィンレイは、カップを指先でゆるく回しながら湯気越しに彼を眺めていた。紅茶の香りに混じって、紙と蝋の匂いが淡く漂う。
「行くの?」
何気ない口調だった。深い意味などない──ように聞こえる声。
リドルは視線を上げることなく、「ああ」と短く答える。声は素直で、迷いも躊躇もない。
「ふぅん」
その返事はあまりに軽く、他人の予定を聞き流すときのような響きがあった。
リドルは眉をわずかに寄せ、顔を上げた。フィンレイは大嵐を映し出している窓を見ていて、視線は合わなかった。
「……なんだ?」
「別に。──さて、続きを読もうかな」
フィンレイは肩を小さくすくめ、腰を浮かすとベッドへと戻った。
本当は、行ってほしくなかった。
それを口にするつもりはなかったし、そんなことを言えば子どもじみた我儘にしか聞こえないだろうとも分かっていた。
けれど──もしリドルが「お前も来てほしい」と言ったなら、その言葉を口実にしてもいい。今さら必要のない授業に通い、気の進まない集団生活をすることになってもかまわない。
それほどまでに、彼はフィンレイの日常に深く入り込み、空白を埋め、退屈を溶かし、気付けば欠けては困る存在になっていた。
彼がいない七年間は、酷くつまらないものになるだろう。
フィンレイはベッドに寝転び、本の山の隙間から何も知らない顔をしたリドルの横顔を見つめたが──すぐに視線を離した。
その胸の奥に生まれたわずかな重みに気づかないふりをして、フィンレイは読み掛けていた本を手に取り、ページを開いた。
リドルは丁寧に手紙を折り、封筒の中に戻す。丁度いい温度になった紅茶を飲み、湯気越しに何食わぬ顔で読書を再開させたフィンレイを見た。
リドルもまた、心のどこかでフィンレイと同じ空間に通う日々を望んでいた。
だが──それを口にするのは、プライドが許さなかった。
そんな弱さを見せれば、相手の中で自分が特別な重みを持つことを認めるようで、どうにも癪に障る。
そして何より、フィンレイに「お前がいなければ物足りない」と思われることはあっても、その逆を知られるのは、リドルの矜持に反した。
だから二人は互いに、言わないまま。
その沈黙は、同じ気持ちを抱えているがゆえに、ほんのわずかだけ探り合うような距離を生んでいた。
部屋の空気は、紙の匂いと紅茶の香りに包まれていた。
互いに喉まで上がってきた言葉は、そこで行き場をなくし、静かに沈んでいく。
フィンレイは寝転んだまま、本のページを一枚めくった。視線は文字を追っていても、意識の半分は別の場所にある。
「……そういえば、庭の温室に新しい植物が届いたんだ。後で見に行く?」
唐突な話題の転換に、リドルはカップの縁に口をつけたまま、一瞬だけ瞬きをしてから「ああ」と答える。
その声音は、先ほどの短い返事と同じくらい素直で、そして踏み込まない。
リドルは紅茶を飲み干し、静かにカップを置いた。ベッドの上では、フィンレイが何事もなかったかのようにページをめくっている。
結局、あの言葉はどちらの口からも出なかった。
ページを繰る音と、時計の針の音だけが、穏やかで遠い午後を刻んでいた。
──そして九月一日。
ロンドンのキングズ・クロス駅、九と四分の三番線。
白い蒸気を吐き出す真紅のホグワーツ特急が、ゆるやかにホームを支配している。
周囲には魔女や魔法使いがひしめき合い、そのほとんどは家族連れで、別れを惜しむ声がそこかしこに混じり合っていた。
リドルは、こんなにも同年代の魔法使いがいることに小さな驚きを覚えていた。
「で、なんでお前はここにいるんだ」
横に立つフィンレイへ、視線だけを向けて問う。
彼は人混みを眺めながら、軽く笑い、頬に落ちた髪を指で払って耳にかけた。
「え? そりゃ、見送りは必要でしょ」
リドルは一人でキングズ・クロス駅に来たはずだった。
昨日のうちに別れの挨拶は済ませている。軽く「またな」と手を振って──それで終わりのはずだった。
だが今朝、九と四分の三番線へと続く柱の前で、悪戯っぽい笑みを浮かべたフィンレイが待っていたのだ。
驚きと、少しの苛立ち。
それでも──胸の奥では、ひどく安堵している自分に気づく。
フィンレイもまた、この光景を興味深そうに見ていた。同年代の魔法使いたちをこれほど間近に見るのは、彼にとっても初めてだった。
汽車は出発の準備を整え、汽笛の音が低く響きはじめる。
ホームのざわめきが、時間を急かすように耳を打つ。
リドルはまだ汽車に乗らず、ただ立ち尽くしていた。
あの列車に乗れば──しばらくフィンレイとは会えなくなる。
二人の間に言葉はなく、時間だけがじわじわと削られていく。
やがて、フィンレイが柔らかい声で呼んだ。
「トム」
細長い箱を差し出す。黒檀のような艶を帯びた、贈り物らしい上質な箱だった。
「これ、入学祝い」
リドルはしばしそれを見つめ、「開けていいか」と低く尋ねる。
フィンレイは少し恥ずかしげに頷いた。
蓋を開ければ、中には一眼で高級と分かる羽ペンが静かに収まっている。光沢のある軸、柔らかな羽の縁取り──美しい道具だった。
「これで、頑張って勉強しておいで」
「……ありがとう。大切にする」
素直な返事に、フィンレイはわずかに目を見開いた。
「ははっ、上手にお礼が言えるようになったね」
リドルは箱を丁寧に閉じ、鞄の中へとそっとしまい込んだ。
リドルは、そのままじっとフィンレイを見つめていた。
初めて出会った日のことが、ふと脳裏をよぎる。
──あの時は、ただ癪に障るやつだと思った。口を開けば皮肉と毒ばかりで、掴みどころがなく、苛立たせる相手。
けれど気づけば、隣にいることが当たり前になっていた。
「フィンレイ」
名を呼び、リドルは手を差し出した。
フィンレイは口の端を上げ、少し茶化すような笑みを浮かべてその手を取る。
「元気で、トム」
「ああ」
二人の手がしっかりと結ばれる。
フィンレイはすぐに放すつもりだったが、リドルの握力は強く、繋いだ手を離そうとしなかった。
「トム?」と不思議そうに名を囁き、フィンレイはにんまりと悪戯っぽく笑った。
「何? 僕がいなくて寂しいの? そうだよねー、きみにとって僕は唯一の友人なわけだし」
軽口のつもりだった。どうせ「黙れ」や「馬鹿か」と、冷ややかに切り返されるだろう──そう思っていた。
だが、リドルは視線を落とし、繋がれた手をただじっと見つめるだけで何も言わない。
ホームの喧騒が一瞬遠のいたように感じた。蒸気の匂いと金属の軋む音が、やけに鮮明に耳へ届く。
「……なんだよ、何か、言いなよ」
フィンレイの小さな声を受けて、リドルがゆっくりと顔を上げた。
その表情は、ふざけも皮肉もなく、ひどく真剣で──フィンレイは思わず息を呑む。
「──そうだな。たぶん、これは寂しい、という気持ちだろう」
静かな声。それなのに、胸の奥を真っ直ぐに射抜くような響きだった。
間を置かず、リドルは視線を逸らさずに続けた。
「僕は、おまえとホグワーツに行きたかった」
今だからこそ、吐かれた本音だった。
唐突で、率直で、そして逃げ場のないもの。
それはフィンレイの胸に、それは鋭く沈み、脳が意味を理解するより先に、心臓が一拍遅れて強く跳ねる。
返す言葉は──出てこなかった。
リドルは握っていた手の力をふっと抜き、「じゃあ」とだけ残して背を向ける。
潔く歩き出すその背は、迷いを見せず、それでいてどこか無理やり断ち切ったようにも見えた。
フィンレイは呆然と立ち尽くす。頭の中では「なんで今言うんだよ」「どうして」という言葉が渦を巻く。衝動のまま手を伸ばし、一歩踏み出した──が、その指先はもう届かない。
汽笛が高く鳴り響き、重々しい車輪が動き出す。
吐き出された白い蒸気が視界を覆い、赤い車体はゆっくりと遠ざかっていく。
その背を、ただ見送るしかなかった。
リドルは車両の扉を閉め、そのまま近くのコンパートメントに乗り込んだ。窓を開けると、蒸気の向こうでフィンレイがこちらを見ていた。
その顔は、混乱と戸惑いが入り混じり──そして、泣き出しそうなほど揺れている。
初めて見る表情だった。
リドルは、困ったように顔をくしゃりと歪め、それでも笑った。
「……ははっ! 寂しいのはおまえもだったな、フィンレイ?」
「──っ! トム!」
汽笛が鳴り、車輪が軋み、列車がゆっくりと動き出す。
フィンレイはローブのポケットを探り、隠していた何かを掴むと、そのまま勢いよく投げた。
リドルは驚いで身を乗り出し、それを空中で受け取る。──手の中に落ちたのは、新しいレターセットだった。
蒸気に包まれ、それが晴れる──フィンレイはもう笑っていた。
さっきまで揺れていた瞳が、今はいつもの満面の笑みに変わっている。それを見たリドルは、胸の奥に張り付いていた何かがふっと緩むのを感じた。
「きっと、きみにはホグワーツは暇だろうから──手紙を僕に書く時間くらいあるよね?」
皮肉めいた声色に、リドルも口の端を上げて返した。
「……期待しすぎるな。だが、暇つぶしにはなるかもな」
その返事に、フィンレイは「それで十分」と言わんばかりに、数歩だけ駆け出す。
だがすぐに足を止め、両手を高く掲げて、「またね!」と笑顔で送り出した。
赤い車体がゆっくりと遠ざかる。リドルは頷き、「またな」と短く返すと、大きく手を振ることはせず、窓から身を乗り出して目を細めた。
ホームのフィンレイの姿は、列車の進みとともに小さくなり、蒸気と光の中へ溶けていく。その輪郭が揺らいで見えなくなるまで、リドルは視線を外さなかった。
やがて──完全に見えなくなった。
窓を閉めると、車内の空気が外よりもわずかに暖かいことに気づく。
座席に腰を下ろすと、列車の規則的な揺れが背中から伝わり、レールの音が低く響いた。
膝の上に置いたレターセットを指先でなぞる。軽くて、それでいて妙に存在感のある重みだった。汽車の振動に合わせて、その感触が指先に返ってくる。
──また会える。そう思うと、不思議と寂しさよりも、次に会うときの光景が先に浮かんだ。
窓の外では、街並みがあっという間に後ろへ流れていく。ホームで手を振っていた少年の笑顔も、確かにそこにあったはずなのに、もう目では捉えられない。
それでも、脳裏には鮮明に焼きついて離れず、リドルは窓枠に頬杖をつき、外の景色を見つめる。
ふと口元が、わずかに緩む。
それは、まるで自分でも気づかぬうちに滲み出たような、何よりも柔らかく優しい笑みだった。
それは紛れもなく、フィンレイにより育まれた笑顔だった。
これで一部完結です。
トム・リドルの初めての友達の話でした。
続きは気が向いたら……。