狐人と物狂いの帝 ~二人で一人の安倍晴明、仇を探す旅路にて空海と出会い、暴悪無双の上皇と相対する事~ 作:木下望太郎
純友が言った仕事とはつまり、海賊討伐ということか。貞明もおそらくは純友の部下なり郎党なりとして、ついていくことになるのだろう。
童子丸がそう思っていると、尾花丸が身を乗り出す。
「それハ……大丈夫なノか、そノ、二人とモ。今からデも、やめタり、とかハ……」
貞明はほほ笑んだ。
「そう言ってくれるのはありがたいがね。仕事でね……それに、他にやるべきこともある」
純友は首をかしげていたが。やがて大きくうなずいた。
「あー、何? そうかあ、尾花丸の方が? 何か心配して言ってくれたってえことか?」
笑って大きな身を乗り出す。尾花丸の頭でもなでてやろうとしたのか、分厚い手を宙に突き出し、さするように動かした。ただ、そこに尾花丸はいない。あさっての方に突き出しただけだった。
「
尾花丸が目を瞬かせていると、純友は耳に片手を添え、宙へ向けてみせる。
「え? 何、おれのこたあ死んでもいいってえ? 言ってくれるじゃねえか尾花よう!」
「言っテなイよそんナこと!」
「いいや言ったぜ、ぜえったい言ったって!」
「言っテなイ!」
「言ったね、言った、ぜええったい言った!」
尾花丸の声と返した純友の声が、奇跡的にぴったりと拍子を合わせる。純友の顔こそ、見当違いの方向を向いてはいたが。
おお、と思わず童子丸は声を洩らし。ほお、と貞明は息をこぼす。それから二人、顔を見合わせて笑い。尾花丸も笑い出し。いぶかしげに貞明らを見ていた純友も、つられたように笑い出した。
ひとしきり笑い合った後で、目の端ににじんだ涙を拭って貞明が言う。
「さて。先程も言ったように、我々は行かねばならないわけだが。君たちはこれからどうするね」
童子丸は顔をうつむけた。
自分たちがやろうとしていること――母の仇、賀茂忠行を討つこと――までは、貞明らには伝えていない。母の正体が化け狐だったこと、陰陽師に母を討たれたことは童子丸が話したが、仇を討とうとしていることや、賀茂忠行の名までは口に出していない。
世間は狭い。万一、貞明や純友と忠行の間に知人なり親類なり、何らかのつながりがあったなら、童子丸たちのことが忠行に洩れる。仇を討つどころか、向こうから殺しに来る。無論そうなれば、向こうはそれなりの手勢を引き連れてくるだろう。忠行一人に対してでさえ、その陰陽の力に対抗できるか分からないというのに。
貞明は身を乗り出す。
「もしも、君たちの母上を討った陰陽師を探しているなら。私が力になろう」
尾花丸が弾かれたように顔を上げた。童子丸も貞明を見上げ、何度か目を瞬かせる。
貞明は二人の目へ交互に、真っ直ぐに視線を向ける。
「言ったろう、私も陰陽師なぞ快くは思っていない。とはいえ昔関わった関係で、いくつか知った名もあってね。もしかしたら、力になれるかも知れない。しかしまあ」
ほほ笑んで続けた。
「優しいのだね、君たちは。私たちに万一の害が及ばないよう、仇の名を伏せていた。そうだろう」
違う。そう思って童子丸は顔をうつむけた。自分たちに害がないよう伏せただけだ、貞明らのことなど考えてはいなかった。
あるいは。普通の人間なら、そこにまで考えが及ぶのだろうか。そこが分からないということは、自分たちはやはり、悪の
「俺たちガ探しテるのは――」
尾花丸が口を開いたが、童子丸は手で制する。
「……無しにしましょう。わしら内々のことで、迷惑はかけれん」
貞明は首を横に振る。
「迷惑などと、むしろかけて欲しいぐらいだね。私だって陰陽師には貸しがあるんだ。……それに」
顔をうつむけ、二人から視線をそらせた。
「恥ずかしい話だが、正直。……君たちとはまだ、離れたくない」
童子丸が何か言う前に、貞明は続けて喋った。地面の方を向いたまま、吐き出すように。
「だって……そうだろう。初めて出会ったんだ、宙や地を遊ぶモノが、私と同じモノが見える者なんて。この齢、この齢になってだぞ! 誰にも分かってもらえなかった、物狂いのなんのと言われて……私だって、自分がおかしいのだと思ったことさえある。何度も、何度も! だからっ、私と――」
顔を上げ、童子丸と尾花丸へ手を伸ばしかけ。その手を力なく、下ろした。
「……いや。すまない、忘れてくれ。我ながら気持ちの良からぬことを言った。忘れてくれると、ありがたい」
童子丸は口を開けてその人を見ていた。瞬きもしなかった。
――ああ、この人は。わしなのかも知れない。
想像してみる。ずっと先、何十年も経って、ただの一人も自分のような者と出会えなかった童子丸。弟すらいなかった童子丸。たった一人の童子丸――そうなったのが、きっとこの人。
尾花丸も口を開けて、貞明をじっと見ていたが。やがて、その長い舌が動いた。
「……忠行。俺たちノ、仇は。賀茂忠行、そウ名乗っテた」
何拍か間を置いて、貞明が肩を揺らした。息を吹いた。吹き出していた。
「ふっ。ああ、ははは。そうか、忠行、あいつか! 忠行、か・も・の・た・だ・ゆ・き! あいつかあ~~! うくく……くふ、あっはははは!」
何度も膝を叩き、うつむいて肩を震わす。
横では純友が眉を寄せていた。珍しく黙って。
頭を上げた貞明はしかし、もう笑ってはいなかった。石で造ったような顔をしていた。表情の無い、体温の感じられない顔だった。
「奴のことはね。殺してやりたいと思っていたよ」
手を差し伸べる。童子丸と尾花丸へ、それぞれ。
「共に来たまえ。力にならせてくれ、必ず奴を殺させてあげよう。必ずだ」
童子丸の手が、ぴくり、と動いた。
殺せる。奴を、忠行を。母を目の前で殺した男を。――思うと同時、血の巡りが逆巻く。全身の毛が太く立ち、みし、と爪の伸びる感覚さえした。
それでも。童子丸は、手を伸ばさなかった。
忠行は殺す。必ず殺す。だが、それでも――悪いのは、母の方ではないか。
母の痛みを味わわせてやる、自分と弟の思いを分からせてやる――それでも、悪いのは母ではないか。父の妻に化けてその間に入り込んだ、化け狐の方ではないか? 理があるのは、忠行の方ではないか。
必ず討つと決めているのに。その思いが、
この引っかかりを抱えたまま、仇討ちに手助けなど求めてよいものか。貞明自身もまた、忠行に因縁がある様子ではあったが。ならばなおのこと、こんな半端な気持ちでいていいのか。
童子丸は息を吐いた。深く息を吸い、思う。
――いや、殺す、それは間違いない。……だがその前に、言い訳ぐらいは聞いてやろう、どういうつもりで母を討ったか。母はつまり何者だったか。
そうすることに了承を得た上で、貞明には助けを――
「行ク。俺は、一緒に行クよ。……一緒に奴を、殺シておクれ」
童子丸が考える間に。尾花丸は、貞明の手を取っていた。
童子丸は口を開けていた。
――尾花丸は。慕っている、母を。童子丸がそうする以上に。
あるいはむしろ、母を憎むべきであるかも知れないのに。母の血など引いていなければ狐の姿、誰の目にも見えない姿になど、ならなかっただろうに。
――いや。本当に母の血を引いているのは、自分の方かも知れない。人間の血を濃く引いているのがむしろ、尾花丸の方かも知れない。
母を慕う、母の仇の死を望む、それこそ人間らしい心ではないか。それより先に理を考えるなどと、自分の方がよほど人でなしなのではないか。
――それでも。
それでも、童子丸は顔を上げた。貞明の手を取った。
「よろしゅうに、お願いいたします。……わしも、行く」
仇を殺したいからではなかった。その気持ちは強くあるにせよ、もはや二の次だった。
尾花丸を守らなければならない。一番にあるのはそれだった。
仇を討つ者は常に、討たれるかも知れない者だ。そして、尾花丸を、弟を、そうさせるわけにはいかない。無論自分も、そうなるわけにはいかない。
こいつの姿を見られるのは、声を聞けるのは、声をかけてやれるのは――出会ったばかりの貞明を除けば――兄たる自分しかいないのだから。
もし童子丸が死ねば、弟は一人。――貞明を除けば――誰にも見えず、聞かれず、触られもせず一人。あるいはそれは、この世にいないも同じではないか。
そんなことにはさせられない。だから尾花丸から離れられない。
無論、本当にこの世からいなくなってはいけない、尾花丸を守るしかない。
だから、童子丸は。尾花丸のために、賀茂忠行を殺すと決めた。
貞明は二人の肩を抱いた。何も言わず、ただ強く抱いた。
やがて、尾花丸が肩を震わせていた。貞明も同じだった。二人は泣いていた。
純友が不満げに唇を尖らす。
「ちょ、待てよおい、なんか楽しそうじゃねえの、混ぜろよおい!」
そうして、無理やり外から太い腕を絡ませてきて。
童子丸は、苦笑した。