狐人と物狂いの帝 ~二人で一人の安倍晴明、仇を探す旅路にて空海と出会い、暴悪無双の上皇と相対する事~   作:木下望太郎

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十七話  物狂いの帝

 

 ――さて。

 ここで我々の知る歴史における陽成(ようぜい)天皇、陽成上皇について、幾らか語っておく必要があろう。

 『皇代年略記』にいわく、「物狂帝(ものぐるいのみかど)」。『神皇正統記』にいわく、「性悪にして人主の器に堪えず」。『玉葉』にいわく「暴悪無雙(ぼうあくむそう)」。『扶桑(ふそう)略記』にいわく「悪君之極(あくくんのきわみ)」。

 

 これほどまで悪しざまに言われたこの男が歴史上、何事を為したのか。いったい何をしでかせば、ここまでの悪評が上るのか。

 ――何もしていない。この男は、何もしていない。

 

 清和天皇の第一子として貞観十年、西暦にして868年に誕生。生後二ヶ月で皇太子となる。九歳の折に父より天皇位を譲られ即位、程なく父は崩御。そして十七歳にして、陽成天皇は退位した――あるいは、廃位された――。

 以後の長い人生を太上天皇、すなわち上皇として生き。今このとき承平六年、西暦にして936年、六十八歳。未だ命数尽きず。

 

 要は、この人物は。ほんの子供の折にこの国の主となり、無論飾り物に過ぎず。その青春の只中で、すでに過去の人となった。

 加えていえば、彼以降の天皇は彼に連なる血筋ではない。よって後の院政期のように、天皇の父や祖父として権力を振るうといったことも不可能であった。

 四十歳を過ぎれば老年とされる当時において異例の長寿を保ちながら、彼は常に過去の人であった。

 

 若くして天皇位を退くこととなった理由については(つまび)らかではない。彼自身の書状によれば病のためとのことであるが、その後長命を保ち、歌合せや仏教法要などの行事を複数主催している。大きな病があったとは考えにくい。

我々の知る史観においては、彼が宮中で殺人を犯したために皇位にふさわしくないと考えられ廃位された、とする考え方が支配的である。

 しかし、彼の在世中の史料として「陽成天皇が殺人を犯した」とした確たる記録は現在のところ発見されていない。

 『日本三大実録』元慶七年十一月十日条に〈源益(みなもとのまさる)が殿上にて仕えていた際、格殺された〉〈(まさる)は帝の乳母の子である〉との記述があるのみである。

 

 そして翌、元慶八年。西暦にして884年、二月八日。陽成天皇は退位している。

 一説によれば、陽成帝とその母である高子(たかいこ)による親政――天皇自身による政治――が行われることを怖れた摂政、藤原基経(もとつね)が、自身がより操作し易い者へ皇統を移行させるため廃位を画策した、ともいわれている。

 

 物狂いの帝、暴悪無雙(ぼうあくむそう)といわれた陽成天皇であるが、在位中の同時代史料として彼の素行を示すものは『日本三大実録』元慶七年十一月十六日条に〈帝が宮中で馬を飼育させ、乗り回らせた〉とする記述があるのみである。

 退位後の記録としては、徒党を率いて他人の屋敷に乱入し、山へ狩りに分け入ってはそこを上皇専用の狩場と定めて立ち入りを禁じた、といった振る舞いが『扶桑略記』に見られる。

 また、説話としては『今昔物語集』に〈幻術を習い覚えていた〉〈陽成上皇が住まわれていた冷泉院には水の精が住み着いていた〉、『富家語』『古事談』に〈開けてはならない神璽(しんじ)――三種の神器・八尺勾璁(やさかのまがたま)――の箱を開けようとした際、中から白雲が起こったため畏れて打ち捨てた。また、宝剣――熱田の(やしろ)で奉られているとされる草薙剣の、宮中における形代(かたしろ)たる剣か――を鞘から抜いたところ、光が放たれた。そのため畏れて打ち捨てたところ、剣はひとりでに鞘に納まった〉といったものがある。

 

 要は、貞明は、陽成天皇は。悪君の極みと謳われた物狂いの帝は。帝であったとき、何もしていない。

 我々の知る歴史において。この男は、暴君にすらなれなかった。――

 

 

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