狐人と物狂いの帝 ~二人で一人の安倍晴明、仇を探す旅路にて空海と出会い、暴悪無双の上皇と相対する事~   作:木下望太郎

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二十三話  狐の子別れ

 

 尾花丸は、動かなかった。左だけ残った耳を後ろへ縮こめ、尾は股の下に巻いていた。震えてはいなかった、瞬きもせず母を見ていた。その、血に濡れた牙を。

 

 童子丸は、逃げ出したかった。背を向けて、何もかもから目を背けて逃げ出したかった。信じたくなかった、理解したくなどなかった。母が自分たちを、喰らう気でいたなどと。正に今、弟を喰らおうとしているなどと。

 涙がにじんだ。もっと溢れ出て、何もかも見えなくなってしまえばいいと思った。足は後ずさった。早く、早く逃げ出したかった。

 

 けれど、足が後ろで何かに当たった。

 床の上を擦り、金属音を軽く響かせたのは剣。取り落とした、草薙剣だった。

 

 母が口を大きく広げた。牙の上に(よだれ)が光った。剣よりも鋭い牙だった。それが、尾花丸へと向かう。

 

「ああァ……あァァッッ!!」

 分からなかった、ただ童子は叫んでいた。手はいつの間にか、草薙剣をつかんでいた。振り回していた、弟を喰らおうとするもの目がけて。叩きつけるように。

 

 ぎゃん、と獣めいた悲鳴が上がった。かつて母が討たれたとき、聞こえたものと同じ鳴き声。

「おのれ……おのれ、刃向かうか!」

 鈍く額を割られ、血を流した母が、目を剥き出すように童子丸を(にら)んでいた。その目は妖しく金色に光っていた。流れるような黒髪の下からは、稲穂色の毛に覆われた肌がのぞいていた。討たれたときと同じ、狐の、(あやかし)の姿だった。

 

 それを見て、剣にぬめる血を見てから。ようやく、童子丸は自分のしたことを知った。

 

「おのれ……!」

 母の両手、獣の爪を(そな)えたそれに、青く狐火が灯る。

 

 尾花丸は二人を見回し、呆けたようにつぶやいた。

「母、サま……童子……」

 

 童子丸は。跳び込んだ。目をつむって跳び込んだ、二人を抱き止めるように。弟を護らなければならなかった、母を傷つけたくなどなかった。

 ただ。その手は、剣を握り締めたままだった。

 童子丸が勢いのまま二人を突き倒し、覆いかぶさる形で床に転がった後。母から身を離すと。

 

 あお向けに倒れた母の胸に、深々と剣が突き立っていた。切先は胸の内を通り喉の後ろへ突き抜け、縫い止めるように床へと刺さっていた。

 童子丸に言葉はなかった。尾花丸にも。母にも。母の目はすでに焦点を失い、ぴくりとも動かなかった。牙の伸びた口も狐火の消えた手も、喰いつこうとする、つかみかかろうとする形のまま止まっていた。

 

 誰も、何も言わなかった。無音の船蔵にわずか、母の胸から血がにじみ出る音が、くぐもったように聞こえた。

 誰も、何も言わなかった。童子丸も尾花丸も、身動きすらしなかった。時が止まってしまったかのように。そうしてさえいればずっと時が止まっていると、そのままでいられるとでもいうかのように。

 

 それでも時は動いていた。動いたのは草薙剣だった。あるいは船を揺らす波のせいだったかもしれない。ぎ、と刀身が小さく震えた。

 吹き上がった、剣全体から光るモノらが。それらは流れを作り、流れは八つに分かれ、その一つが身をたわめて、にじみ出ていた母の血へと向かい。舐め取るように、その流れの内に取り込んだ。

 他七つの流れが躍り狂うように身をたわめた。奔流のように母の頭に、腹に手足に向かい、その流れに包み込む。まるで八つの頭を持つ蛇が、喰らいつくかのように。

 母の体はモノらの流れの中で、朧げに薄れ、霞が引くようにかき消えていき。流れの中に混ざって区別がつかなくなり。

 その八つの流れも、やがて剣の内に吸い込まれ、消えた。

 

 長い間、無言でいた後。

「……殺し、タのか。母サまを」

 座り込んだままつぶやく尾花丸の声に。

 

 同じく座り込んだ童子丸は、返事ができなかった。

 草薙剣は静かに、床に突き立ったままでいた。

 

 

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