狐人と物狂いの帝 ~二人で一人の安倍晴明、仇を探す旅路にて空海と出会い、暴悪無双の上皇と相対する事~   作:木下望太郎

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二十七話  遠吠え

 

 それからのことは覚えていない。

 目を開けたときには、雲が見えた。空一面を覆う、綿埃(わたぼこり)のようなくすんだ雲。それが朝の日を空かして、曖昧(あいまい)な色の光を薄く帯びている。

 どことも知れぬ砂浜に打ち上げられ、あお向けに空を見ていた。

 

 体はひどく重かった。寝そべった砂浜の上で、体も髪も海水に濡れそぼっていた。浜辺に粘りついてしまったかのように、指の一つも動かなかった。いや、動かしたくもなかった。

 塩気に粘つくまぶたを瞬かせる。そうして、昨夜起こったことを思い出して、無理やり頭をもたげた。

 狩衣(かりぎぬ)の前を裂いて胸を横一文字に走る傷が、未だ血に濡れていた。牙にかじり取られたような粗い傷が、肩口にあった。

それらを見つめた後、音を立てて頭を砂浜に落とした。

 何かの思い違いであってくれれば良かったのに――たとえばうっかり足を滑らせて海に落ち、気を失っている間に見た悪夢であってくれれば――。

証のように、傷はあった。母に喰らわれた傷が。尾花丸が斬りつけた傷が、偶然足元が揺らがなければ、童子丸を両断していたであろう傷が。弟が、兄を殺そうとした傷が。

 

「ぁ……あ……」

 意味の無い言葉が喉の奥から漏れた後。あお向けのまま、身を反らせていた。

「くゥ……ォおおおォォ――」

 吠えていた。

「くゥゥ、ォおおおォォォ――ン……」

 胸の奥、腹の底から湧き上がる遠吠えを、どうすることもできなかった。

「ォォ、ォおおお――ォ……」

 目を開けたまま涙を流し、童子丸は吠えていた。この呼ぶ声が届くことはないと分かっていながら、止めることはできなかった。

 

 

 

讃岐国(さぬきのくに)北東部、当面の目的地としていた志度の津――港――に船を着け。部下らが荷を下ろすのを見ながら、貞明は口を開いた。

「本当にいいのかね? 兄君を、童子丸を探さなくとも?」

 

 剣のように真っ直ぐ背筋を伸ばし、尾花丸は応えた。その目は貞明と同じ方を向きながら、その向こうの海を見据えていた。兄が、母を殺した場所を。

「何度も言ワせルな。……奴は、母サまの仇だ」

 

 純友が頭をかく。

「もしかしてよう、探すなってまだ言ってんのかよう? たった二人の兄弟だぜえ、おれだって童子とは友達だぜえ? お前らにゃあ仲良くよう……」

 

 青い目だけを動かし、尾花丸は純友をにらむ。

「言っタはずだ、何度も言ワせルな。……もシ見つケれば、俺ハ……」

 握る拳の中で獣の爪が擦れ、音を立てる。

 

 貞明は小さく息をつく。

「……私も彼とは友のつもりだ、捜索の人手は出させてもらうよ。君がどう思おうと私の意思でね。ただ本来の目的もある、そう多くの人数は出せない。そうして見つかろうと、あるいは見つかるまいと。……その後のことは、君たちのことだ」

 

 尾花丸はうなずいた。その青い目は今も、海の上を見据えていた。

「あア。俺たち兄弟の――」

 そう言いかけて、口を開いたまま言葉を止める。やがて、言葉を継いだ。

「俺と、清明……二人のこトだ」

 

 不意に、その高い耳が――右耳は母に喰われてしまった。残った左耳が――震える。何かを聞きつけたように。

 

 瞬間、尾花丸は――晴明は――口を開けていた。呼ばれたように振り向いていた。息を吸い込んでいた、そして何か返事をするように声を上げかけ――

 

「どうしたね?」

 貞明の声に、動きが止まる。

 

「何デも……ナいさ」

 安倍晴明は耳を震わせ、かぶりを振った。耳の奥に絡まった遠い声、兄の呼ぶ声を振り払うように。

 

 

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