狐人と物狂いの帝 ~二人で一人の安倍晴明、仇を探す旅路にて空海と出会い、暴悪無双の上皇と相対する事~   作:木下望太郎

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二十八話  この血をこの体を吐き出してしまいたい

 

 潮にまみれた体を洗いもせず、引きずるように歩いた。いや、引きずられるように歩いた。何のために歩くのかも分からぬまま歩いた。

 何をするつもりでもなかった。どこへ行くつもりでもなかった。ただ、何もせずになどいられなかった。その場になどいられなかった。

 そうしなければ、頭の中へ胸の中へ、襲うように覆いかぶさってくる――あの光景が、母が自分にかぶりつき、弟を喰らおうとし。自分は母を殺し。弟は自分を殺そうとした。その光景が、今もまた起こっているかのように目の前に広がってくる。

 いや。歩き出しても、逃げ出してもなお、その光景は追ってきた。背にすがりつくように追ってきた。

 

 喉の渇きを覚える。小川を見つけ、水を手にすくい、飲む。母が飲み込んだ童子丸の肉が、床にこぼれる。

 空腹を覚える。地に這いつくばり、柔らかい春の野草をむしって口に入れる。母の牙が尾花丸の肉を裂き、美味そうに噛みしめる。

 野に遊ぶ紋白蝶を捕らえる、羽根をむしって口に入れる。童子丸の手にした剣が、母を刺し殺す。

 背を向けて吠える。顔を天に向け、背を反らし、高く遠く、吠える。弟が、尾花丸が、刃を振るう。兄を殺すべく振るう。

 その声を聞きつけ、姿を見とがめた者らが、怪訝(けげん)な顔で遠巻きに見る。

 駆けた。獣が逃げるように四つ足で駆けた。土が手を汚し、草が顔を打つのも構わず駆けた。

 

 夜もなく昼もなく駆けた、逃げた。それでもその光景は追ってきた。

 何ごとがあったかね、そもそもあんた、人かね狐かね。そう尋ねる小鬼があった。童子丸は火の息を吹きかけ、焼いて殺して肉を喰らった。母が飲み込んだ童子丸の肉が、床にこぼれる。

 よくも我らが縄張りを荒らしたな、そう言って烏天狗どもが襲いきた。童子丸は風の刃を放ち、裂いて殺して骨まで(かじ)った。母の牙が尾花丸の肉を裂き、美味そうに噛みしめる。

 我が神域を荒らすのは貴様か、そう(おごそ)かに言って、木の肌と枝の手を持つ老爺(ろうや)が立ち塞がった。地まで届く長い白髭には、飾り立てるように注連縄(しめなわ)が巻かれていた。童子丸は岩の牙を放って穿(うが)ち、水と風の刃を叩き込み、炎を放って焼き、焦がし。骨の(ずい)まで(すす)り上げた。童子丸の手にした剣が、母を刺し殺す。

 駆けた先の家へと押し込み、驚き叫ぶ家の者らを尻目に、蓄えの生米をつかんでは喰らい。叫ぶ者らへと目を向けた。震える夫婦者と、その向こうで互いの体を守るように抱く、兄弟。童子丸はそちらへ目を向け、(よだれ)の垂れる口を開け。尾花丸が、刃を振るう。兄を殺すべく振るう。

 

 吐いていた。吐いていた、喰らったもの全て。吐き散らしながら童子丸は逃げた。小便を洩らしながら逃げていた。

 逃げて逃げて、日も月も無い闇の中を逃げて。山の中木々の中、落ち葉の腐った土へと()()して。吐いた。もはや吐くだけのものも胃の()に無く、それでもただ胃液を吐いた。

 

 ――わしは。

 吐きながら思った。

 ――わしは、あれと同じか。子を、自分の腹を痛めて産んだ子を、喰らおうとしたあれと。

 ――あれを慕っとったんか、わしは。あれを慕っとんのか、尾花(ハナ)はまだ。

 

 自らの手を、じっと見る。泣きながら思った。

 ――あれの血ぃが、流れとんのか。この、体には。あれの血肉で半分できとんか、この、わしは。

 ――わしの血は、わしの肉は、わしの肌は髪は、わしの歯は骨は、わしの脳髄は。わしの、心は。同じか、あれと。かあ様。

 

 絞るような声をあげながら吐いた。遠吠えをしたいのか吐きたいのか、分からぬままに吐いた。

 

 

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