狐人と物狂いの帝 ~二人で一人の安倍晴明、仇を探す旅路にて空海と出会い、暴悪無双の上皇と相対する事~ 作:木下望太郎
潮にまみれた体を洗いもせず、引きずるように歩いた。いや、引きずられるように歩いた。何のために歩くのかも分からぬまま歩いた。
何をするつもりでもなかった。どこへ行くつもりでもなかった。ただ、何もせずになどいられなかった。その場になどいられなかった。
そうしなければ、頭の中へ胸の中へ、襲うように覆いかぶさってくる――あの光景が、母が自分にかぶりつき、弟を喰らおうとし。自分は母を殺し。弟は自分を殺そうとした。その光景が、今もまた起こっているかのように目の前に広がってくる。
いや。歩き出しても、逃げ出してもなお、その光景は追ってきた。背にすがりつくように追ってきた。
喉の渇きを覚える。小川を見つけ、水を手にすくい、飲む。母が飲み込んだ童子丸の肉が、床にこぼれる。
空腹を覚える。地に這いつくばり、柔らかい春の野草をむしって口に入れる。母の牙が尾花丸の肉を裂き、美味そうに噛みしめる。
野に遊ぶ紋白蝶を捕らえる、羽根をむしって口に入れる。童子丸の手にした剣が、母を刺し殺す。
背を向けて吠える。顔を天に向け、背を反らし、高く遠く、吠える。弟が、尾花丸が、刃を振るう。兄を殺すべく振るう。
その声を聞きつけ、姿を見とがめた者らが、
駆けた。獣が逃げるように四つ足で駆けた。土が手を汚し、草が顔を打つのも構わず駆けた。
夜もなく昼もなく駆けた、逃げた。それでもその光景は追ってきた。
何ごとがあったかね、そもそもあんた、人かね狐かね。そう尋ねる小鬼があった。童子丸は火の息を吹きかけ、焼いて殺して肉を喰らった。母が飲み込んだ童子丸の肉が、床にこぼれる。
よくも我らが縄張りを荒らしたな、そう言って烏天狗どもが襲いきた。童子丸は風の刃を放ち、裂いて殺して骨まで
我が神域を荒らすのは貴様か、そう
駆けた先の家へと押し込み、驚き叫ぶ家の者らを尻目に、蓄えの生米をつかんでは喰らい。叫ぶ者らへと目を向けた。震える夫婦者と、その向こうで互いの体を守るように抱く、兄弟。童子丸はそちらへ目を向け、
吐いていた。吐いていた、喰らったもの全て。吐き散らしながら童子丸は逃げた。小便を洩らしながら逃げていた。
逃げて逃げて、日も月も無い闇の中を逃げて。山の中木々の中、落ち葉の腐った土へと
――わしは。
吐きながら思った。
――わしは、あれと同じか。子を、自分の腹を痛めて産んだ子を、喰らおうとしたあれと。
――あれを慕っとったんか、わしは。あれを慕っとんのか、
自らの手を、じっと見る。泣きながら思った。
――あれの血ぃが、流れとんのか。この、体には。あれの血肉で半分できとんか、この、わしは。
――わしの血は、わしの肉は、わしの肌は髪は、わしの歯は骨は、わしの脳髄は。わしの、心は。同じか、あれと。かあ様。
絞るような声をあげながら吐いた。遠吠えをしたいのか吐きたいのか、分からぬままに吐いた。