狐人と物狂いの帝 ~二人で一人の安倍晴明、仇を探す旅路にて空海と出会い、暴悪無双の上皇と相対する事~ 作:木下望太郎
「ひいい……」
「ひいい、いぃーっ!」
もはや自分のものか誰のものかも分からぬ悲鳴の渦の中、百鬼夜行は逃げ惑った。多くの者が血を流し、あるいは誰かの血を浴びたまま。
琴の甲羅を背負った亀は駆け去る鬼どもに踏み割られ、顔のある大岩の乗った牛車を引く者はもはや誰もおらず、岩はひび割れが形作った目をおろおろとあちらこちらへ向けるばかり。牙と舌を長く突き出した偽
大釜をかぶった大鬼が大鉄棒を振り上げて童子丸へ向かうが、幾度も
新たに悲鳴を上げ、散り散りになりつつも鬼どもは逃げる。
童子丸は追う。散っていく群れのうち、とにかく数の多い方を追う。狐の血を引く畜生の子の体は、息を切らすことを未だ知らない。くすんだ空色の目に映る鬼どもは、未だどこか、弟に似ている。
――早く目の前から消さなくてはならない、弟を。
こんな所に在ってはならない、弟は。こんな壊れた兄の前に在ってはならない。ここではないどこか別の所で、優しい兄に護られていなくてはならない。だから、ここに在ってはならない。尾花丸は――そしてあるいは、童子丸も、こんな所に在っては。
「ひいいい、いいい!?」
涙と鼻水と
不揃いな橋板を踏み揺らしつつ、鬼どもがそこを渡りゆく。踏み行く足が、あるいは杖のようについた鉄棒が、橋板を割るかのような音を立てる。
それらの音の間から、いや、真下から。ち、と舌打ちの音がした。
「おいおい、どこの田舎者ぞ。『橋の上では杖つくな』、言われよんのも知らんのか」
老年――四十歳――になるかどうかの、男の声であった。橋の下、砂地の川原の上から響いた。
その声を聞いたとたん。鬼どもが、ぴた、と動きを止めた。
彼らのうちからつぶやき声が上がる。わずか、震える響きを帯びて。
「『遍路道、橋の上では杖つくな』、それは――」
「『橋の下、お大師さまが寝て御座る』……」
大あくびを噛み殺し、剃り上げた頭をかきながら、その男は橋の下から姿を見せた。
「何や何や、お前らか。騒ぐんは
橋のたもとにいた鬼たち、橋の上を逃げていた鬼たちも、波が引くように後ずさった。まるで男を中心に、波紋が広がっていくように。
「ひいい……だ――」
「大師だ! 大師が出たぞ……!」
「
「助けて……誰か助けてえええ!」
橋の上にいた鬼どもはそのまま後も見ず、鉄棒も何も放り出して逃げ出した。
弘法大師と呼ばれた男は苦り切った顔をそちらに向ける。
「失礼なやっちゃ……人を鬼のように言うてくれるでないかだ」
視線を、橋より手前にいる鬼たちに向ける。
「ほんで? 何の騒ぎぞ。マショウモンミチの祭りにしろ、何や妙な様子やないかだ」
鬼らはまたも後ずさる。そこで、はたと後ろを見た。背後から未だ追ってくる、返り血と落ち葉にまみれた童子丸を。
「な……なあああいつがおったぁそうやったああ……!」
「あれから逃げるんでも必死やっちゅうのに、大師まで……!」
「前門の虎から逃げよったら、後門に狼が、っちゅうこっちゃ……! 虎よりでかい大狼がの……」
「! そや、それや」
鬼どもの中に、ぽん、と手を打つ者がいた。その者は両手と額を地につけて、大師へと頭を下げた。
「お大師さま! お救い下されええ!」
周りの鬼どもは顔を見合わせたが、すぐに自分たちも地に伏した。
「そうや、そうやお救い下され!」
「わしら今宵は、今宵は
「そや、謡い騒っぎょっただけですわ! そやのにあいつが、クソ狐連れたあいつが、わしらの仲間を次々殺して……!」
「なんや、唄やめえ、やの、弟に似とるけんそのツラやめえ、やの……難癖つけて殺しにくるんですわ!」
「どうか、どうか
「
弘法大師と呼ばれた男は腹をかきながら聞いていたが。不意に首をかしげた。
「狐やと? 妙やの」
その間にも童子丸は、鬼ども目がけ駆けている。
鬼どもはそちらを指差し、へたり、と尻を地につけて、大師の方へと後ずさる。すがりつくように。
「ひいい、いかん、いかんわぁ……!」
「もう駄目や……」
「
「うん」
一つうなずき、弘法大師は鬼へと歩み寄る。
へたり込んだままの一体の耳元へ口を寄せ。口元を隠すように、あるいは拝むように片手を上げ、何ごとかをささやいた。
「え……」
聞いた鬼は目を見開いた。大きな目を何度か瞬かせ、それから。納得したように、いや、安堵したようにうなずいた。
「あ。あー……うん」
そうして身を起こし、座り直して合掌し。
「
大師へ小さく頭を下げ、朝焼けに似た光をわずかにまとって。消えていった。
大師もうなずき、合掌する。
周りの鬼たちは口を開けていた。
「へ……」
「消え……た」
「いや、
「仏に
「成仏……仏に成りよった……!」
「逃げえ……皆逃げえ! 仏にされる、仏にされるぞおおお!?」
弘法大師は苦い顔で腹をかく。
「されるとはまた、的を射んことを言うわい。されるもんやない、仏には成るもんや。拝むもんやない、自分が成るもんや。それも、ちと
地を這うように逃げ去ろうとする鬼どもの傍らに身を寄せ、一体一体に何ごとかをささやいていく。
「え……」
「あっ。あー……」
「おぉっ……うん」
聞いた端から鬼どもは、得心したようにうなずいて。次々と合掌していった。
「南無阿弥陀仏」
「南無妙法蓮華経」
「
「
「げに有り難きは父母の恩」
「極上感謝」
「特上感謝」
「何や知らんがありがとさん」
鬼どもは仏への、神への、あるいは誰へとも知らぬ思い思いの言葉を述べて。あるいは喋れぬ獣、器物の
童子丸は、足を止めていた。止めざるを得なかった。何しろ、殺そうとした鬼どもなど、もうどこにもいなかった。
「何……ぞ、今の……今の、は」
わずかに顔を上げていた。目を瞬かせていた。いつ以来だったか分からないが――まるで生まれて初めてのような気さえした――出くわした、怒り悲しむ以外の感情だった。ただ純粋な驚きであった。
「何をした……何
男は、目の前の僧は、剃り上げた頭をぼりぼりとかいた。
「
身をかわす暇もなく、童子丸が目を瞬かす間に。男は、童子丸の耳元に口を寄せていた。
「――ここが仏国土。お前が仏」
童子丸は思わず耳を押さえた。身を引いていた。聞いてはならぬことを、聞いてしまった気がした。
「な……」
落ち葉まみれの頭を震わせ、童子丸は身を縮めた。それでもどうやら、自分の身はそこにあった。仏になどは、成ってはいないようだった。それが良いことか悪いことかは知らないが。
「ふむ、今ので
男は苦く笑う。いや、楽しげに笑った。
耳を押さえたまま童子丸はつぶやく。
「いったい、何じゃ……お前は」
男はまたも苦笑する。
「聞くなら耳塞ぐなや。知らんか、オレは空海。
口の端を吊り上げて、空海は楽しげに笑っていた。