狐人と物狂いの帝 ~二人で一人の安倍晴明、仇を探す旅路にて空海と出会い、暴悪無双の上皇と相対する事~   作:木下望太郎

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三十三話  弘法大師はどこにでもいる

 

弘法(こうぼう)大師(だいし)じゃと……」

 童子丸とてその名は知っている。

 

 ――空海、幼名は佐伯真魚(さえきのまお)讃岐国(さぬきのくに)に生まれ、官人となる教育を受けていたが自らその道を捨て、僧となる。後に遣唐使(けんとうし)の一員となり、後の伝教大師(でんぎょうだいし)最澄(さいちょう)らと共に海を渡り、唐の国へと赴く。

 その地にて密教を正式に継承し、日本へと帰国。その後は年月を経て時の帝の信任を得、密教を日本へ広める。

 今や日本の仏教は空海の真言宗(しんごんしゅう)、最澄の天台宗と、密教を修める二大宗派が席巻しているといえた。他の仏教宗派、そればかりか日本古来の神を奉る神道(しんとう)、密教と神道が混淆(こんこう)した修験道、さらには陰陽道までも、密教の影響を抜きに語ることはもはや不可能であった。

 だが、空海はすでに――。

 

「……とっくの昔に死んどるはずじゃ、弘法大師は。どの(ツラ)提げてそんな嘘ぬかしよる」

 

 ふふん、と弘法大師は得意げに笑う。

「ものを知らんの。確かにオレは死んだ、百一年前の承和二年にの。弘法大師の号も死後に受けたもんや。そやけど、こう伝えられとるんを聞いたことないか」

 仏像のような表情を作って、弘法大師は言ってのけた。

「空海は『結跏趺坐(けっかふざ)し、大日如来の定印(じょういん)を結んで、奄然(あんぜん)として入定した』。彼は滅したのではなく『ただ目を閉じ、語ることをやめて瞑想に入ったのであり、その身体は後にも生身と変わらなかった』」

 

 

 ――我々の知る歴史において。

 空海の説話を収録した『修行縁起』には先ほど空海が述べた内容が記されている。すなわち入定留身(にゅうじょうるしん)、空海は死しておらず永遠の瞑想に入っただけであり、肉体も生前のままである、という伝説であり信仰である。

ただし今、空海が語っているこのときは承平六年、西暦にして936年。『修行縁起』はそれよりも後、康保(こうほう)五年、西暦にして968年の成立とされる。そして入定留身(にゅうじょうるしん)説について、文書上の記録が見られるのは同書が最初とされている。

 つまりこの空海は、同書が成立する以前からその事実があった、と自ら語っていることになる。

 そして、『修行縁起』以降、入定留身(にゅうじょうるしん)の伝説については様々に伝えられることとなる。

 いわく、死後四十九日の法要の際、大師の髪が伸びていた。いわく、その後も体が腐ることはなく、ただ眠っているように見えた。いわく、五十六億七千万年後の弥勒菩薩の降臨を待っている。いわく、全国を行脚(あんぎゃ)しており、その証拠に衣の裾に土がついている。

 そして、生誕地たる四国の伝説にいわく。弘法大師(ゆかり)の八十八ヶ所の寺を巡る者は、その途上のどこかで、必ず空海と出会っている。――

 

 

「つまり、よ。オレは生きて、どこにでもおる。(こと)に、四国のどこにでもの」

 悪びれもせずそう言って、弘法大師は胸を張る。

 

 言葉が継げず、何度か口を開け閉めした後、童子丸はようやく言った。

「そんな、阿呆な……そんなわけが、あるか。だいたい、その大師とやらが、何の用じゃ」

 

 かか、と大師はのけ反って笑う。

「何の用も糞も、お前からここに来たんやろうが。鬼ども追いかけ回しての。とはいえ……面白(おもっしょ)い奴や。オレが経を唱えてやって、まだ(わか)らんとはの」

 

「経じゃと?」

 鬼どもにささやいていた、童子丸の耳元でも言われたあれだろうか。「ここが仏国土、お前が仏」。

 童子丸は、未だ厚く落ち葉に覆われたままの(かぶり)を振る。

「……あれのどこがお経じゃ」

 

 笑いもせず、空海は童子丸の目をのぞき込む。

「経も経よ、その真髄よ。それをざっくと要約したまでや。多くの経典は――全部とは言わんが――要するにそのことを言うとんや。そこに気づけ、との」

 目を瞬かす童子丸に構わず続けた。

「要約できるんや、真実は。単純至極ゆえにの。大般若経全六百巻を、般若心経わずか二百六十二文字に要約できるように。嘘は逆よ。嘘なら嘘ゆえほころびが出る、別の嘘で(つくろ)うてやらないかん。嘘一つもっともらしくするんに要る、別の嘘がだいたい三十。それらの嘘をもっともらしくするんに要る嘘の、また三十掛けることの三十……かどうかは知らん、適当に言うた。ともかく真実は一言で済む。この世の全てが、オレもお前も、曼荼羅(まんだら)一つに収まるようにの」

 大師は上に向けた掌を、童子丸の目の高さに掲げてみせた。まるでその手の上に曼荼羅(まんだら)――多くの仏菩薩を描いた、密教法要にて奉られる画――が載っているかのように。あるいはこの世全てがそこに載っている、それを見せるかのように。

 

 童子丸は顔をしかめた。理解し難い話と、そんなものを聞いている自分に。

思う間に、空海が一つ手を叩く。

「さてと。お前をオレの弟子にしよう」

「……は?」

 口を開け、次いで眉根を寄せる童子丸には構わず語った。

「お前のように頑迷で救い難い奴、それをこそ仏にしてやらにゃいかん。ま、救われるとまでは言わんが……今よりゃマシになるやろうの」

 

「……は」

 童子丸の頬がたちまち引きつる。ぎ、と犬歯の、爪の伸びる感覚さえあった。

「誰が……! 何でそうなる……!」

 傍らでは式神狐が、磨ぎ上げるように牙を擦り合わせた。

「大師か何か知らんが、お前こそとっと去ね。さもなくば、鬼どものように斬り裂いてくれる……!」

 

 弘法大師は肩をすくめた。

「分かっとらんの。鬼どものようになるんはお前の方や。経を聞いた鬼どものようにの」

 片手を合掌のように掲げ、もう片手を差し伸べた。くいくい、と手招きする。

「とっとと来い。(わか)らせてやる」

 

 

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