狐人と物狂いの帝 ~二人で一人の安倍晴明、仇を探す旅路にて空海と出会い、暴悪無双の上皇と相対する事~ 作:木下望太郎
「
童子丸とてその名は知っている。
――空海、幼名は
その地にて密教を正式に継承し、日本へと帰国。その後は年月を経て時の帝の信任を得、密教を日本へ広める。
今や日本の仏教は空海の
だが、空海はすでに――。
「……とっくの昔に死んどるはずじゃ、弘法大師は。どの
ふふん、と弘法大師は得意げに笑う。
「ものを知らんの。確かにオレは死んだ、百一年前の承和二年にの。弘法大師の号も死後に受けたもんや。そやけど、こう伝えられとるんを聞いたことないか」
仏像のような表情を作って、弘法大師は言ってのけた。
「空海は『
――我々の知る歴史において。
空海の説話を収録した『修行縁起』には先ほど空海が述べた内容が記されている。すなわち
ただし今、空海が語っているこのときは承平六年、西暦にして936年。『修行縁起』はそれよりも後、
つまりこの空海は、同書が成立する以前からその事実があった、と自ら語っていることになる。
そして、『修行縁起』以降、
いわく、死後四十九日の法要の際、大師の髪が伸びていた。いわく、その後も体が腐ることはなく、ただ眠っているように見えた。いわく、五十六億七千万年後の弥勒菩薩の降臨を待っている。いわく、全国を
そして、生誕地たる四国の伝説にいわく。弘法大師
「つまり、よ。オレは生きて、どこにでもおる。
悪びれもせずそう言って、弘法大師は胸を張る。
言葉が継げず、何度か口を開け閉めした後、童子丸はようやく言った。
「そんな、阿呆な……そんなわけが、あるか。だいたい、その大師とやらが、何の用じゃ」
かか、と大師はのけ反って笑う。
「何の用も糞も、お前からここに来たんやろうが。鬼ども追いかけ回しての。とはいえ……
「経じゃと?」
鬼どもにささやいていた、童子丸の耳元でも言われたあれだろうか。「ここが仏国土、お前が仏」。
童子丸は、未だ厚く落ち葉に覆われたままの
「……あれのどこがお経じゃ」
笑いもせず、空海は童子丸の目をのぞき込む。
「経も経よ、その真髄よ。それをざっくと要約したまでや。多くの経典は――全部とは言わんが――要するにそのことを言うとんや。そこに気づけ、との」
目を瞬かす童子丸に構わず続けた。
「要約できるんや、真実は。単純至極ゆえにの。大般若経全六百巻を、般若心経わずか二百六十二文字に要約できるように。嘘は逆よ。嘘なら嘘ゆえほころびが出る、別の嘘で
大師は上に向けた掌を、童子丸の目の高さに掲げてみせた。まるでその手の上に
童子丸は顔をしかめた。理解し難い話と、そんなものを聞いている自分に。
思う間に、空海が一つ手を叩く。
「さてと。お前をオレの弟子にしよう」
「……は?」
口を開け、次いで眉根を寄せる童子丸には構わず語った。
「お前のように頑迷で救い難い奴、それをこそ仏にしてやらにゃいかん。ま、救われるとまでは言わんが……今よりゃマシになるやろうの」
「……は」
童子丸の頬がたちまち引きつる。ぎ、と犬歯の、爪の伸びる感覚さえあった。
「誰が……! 何でそうなる……!」
傍らでは式神狐が、磨ぎ上げるように牙を擦り合わせた。
「大師か何か知らんが、お前こそとっと去ね。さもなくば、鬼どものように斬り裂いてくれる……!」
弘法大師は肩をすくめた。
「分かっとらんの。鬼どものようになるんはお前の方や。経を聞いた鬼どものようにの」
片手を合掌のように掲げ、もう片手を差し伸べた。くいくい、と手招きする。
「とっとと来い。