狐人と物狂いの帝 ~二人で一人の安倍晴明、仇を探す旅路にて空海と出会い、暴悪無双の上皇と相対する事~ 作:木下望太郎
口を開けたまま、童子は目を瞬かせていたが。
やがて無言のまま、獣のように爪の伸びる両手を握る。
目の前の男が本当に弘法大師か、それとも物狂いの
そこまで考えて、はた、と気づく。
月の下、川端に今、男と童子と――式神狐をのぞけば――たった二人。他には誰もいない、声とて無い。あの唄、都で弟と貞明と聞いたあの唄はどこにも無い。辺りにひしめいていた鬼ども、どこか弟に似ていた、弟を思わせたあの鬼ども、殺そうとしていた者らはどこにもいない。
なのにいったい、何を殺そうと言うのだ、自分は。殺すべき者がどこにもいないのに、何の邪魔になるというのか、目の前の男が。
「……!」
それでも、童子丸は歯を噛み締めた。獣の牙のように伸びた犬歯を剥き出した。
もはや何も分からない、目の前の男――弟とはどこも似ていない――を殺したところで何も変わらない。
それでも、爪の伸びる両手を構えた。
この男を、いや、鬼どもも。殺さなかったとしても何も変わらない、殺したとしても何も変わらない。
童子丸は何も変わらない。母を殺した童子丸は。弟に殺されかけた童子丸は。どうにもならない、どこにも行く場が無い、どうにもやる方が無い、どうにもならない。
なら。目の前の男もそうしてやろう、そうしたところでどうにもならないとしても。そうしたところで、何も変わらないとしても――。
式神狐は、うるる、と
童子丸も犬歯を剥き、貫くように空海をにらむ。その顔を真っ直ぐに指差した。
「や――」
れ、と言おうとしたとき。
黒い風のようなもの、何か大きなものが、童子丸の横を通り過ぎた気がした。
その圧に髪が揺れた、そのときには。
ず、と
「――れ……?」
目を開けたままでいた童子丸の傍らで、何かが白く光った気がした。鋭く光る刀のようなものが。
思う間に、黒い風のようなものは刃と共に、空海のもとへと戻っていった。
穏やかに空海は言う。
「見えたか、今のが。
童子丸は何も言わなかった。ただ両手を地面にかざした。
そこに眠る土のモノどもが集まり固まり身を伸ばし、岩の
だが。音も無く黒い風が吹き抜け、長い棒か槍のようなものを振るって、全ての岩を叩き折った。
「南方守護者『
聞かず、童子丸は水をかけるように両手を打ち振る。
水の気を帯びたモノどもが空海へ向け、流れながら集まり、無数の
「西方守護者『
またも黒い風が過ぎ、今度は大きな筆のようなものが
地面へ散った水の跡へ、童子丸は手を向けていた。
「
貞明から教わった
「北方守護者『
なおも黒い風が
それらの破片が空海の周りへ、うず高く積もった後。童子丸は声を上げた。
「
ちろちろと、火の粉のような赤いモノらが草木の破片に散ったかと思うと。ごう、と音を上げて燃え立った。背丈に倍して高く燃え上がる炎はすでに空海を呑み込み、その体を熱いはらわたに収めてしまったかのようだった。
猛火の中心を、童子丸は指差した。
「火ィのモン集まれ……焼き、尽くせッ!」
指先に集う炎が
式神が炎の中へと飛び込んだそのとき。
「オン・ア・ウン・ラ・ケン・ソワカ――『四天王』よ、適当にやれ」
空海の声が低く響くと共に、黒い風が四方から吹き
目を瞬かせる間も無く。黒い風が、暗く漂うもやのような塊が、四つの武器を童子丸の目の前へと突きつけていた。
「ようやった、四天王よ。殺しもせず適切に当たってくれた」
四天王と呼ばれたものが武器を引いてかき消える中、空海は一つ手を叩く。
「さ、もう終わりか? 次は無いんか、早よせい早よう」
急かすようになおも手を叩く空海の顔を見て。童子丸は、歯を
――我々の知る説話において。
〈讃岐国に赴いた安倍晴明が善通寺の大門を潜った際、供の式神が手にしていた
あるいは。
〈安倍晴明が善通寺の大門を潜った際、灯火を持って供をしていた式神が姿を消した。その後晴明が叱ると、式神は「この門は四天王に守護されており、その霊威で近づけなかった」と語った〉
また、一説には。
〈陰陽師・清明が善通寺の大門を潜ろうとした。だが、門に掲げられていた、弘法大師が書いた
そのように、いわれている。――
果たして。
童子丸は力を尽くした、木火土金水ありとあらゆる力を放った。思いつく限りの式神を作り出し、
それでも、全てが通じなかった。放つそばからかき消され、自らの放った力ごと打ち倒され。空海に一傷たりとも負わせることはできなかった。
「もう
荒く胸を上下させ、地へ大の字に倒れ込んだ童子丸を見下ろし、空海はそう言った。
「全てを出し尽くしたか。あらゆる知恵を絞ったか。全部の手段を使ったか。もう、力は残っとらんか」
空を見たまま、童子丸はかろうじてうなずいた。もう何も考えられはしなかった、それだけしかできなかった。
空海は笑ってうなずく。
「そうか、全て出し終わったか。――なら、ここからが始まりや」
黒い風が吹いた。暗いもやのような塊が生温かく童子丸を抱え上げ、身を起こさせ。無理やりに手を引き、立ち上がらせた。
にったり、と空海は笑う。
「ここからが始まりや、修行の。のう、我が弟子よ」
考える力もないまま、黒い風が小突くように後ろから吹く。押されるままに童子丸は歩いた。
後ろも見ずに空海は歩く。
「お前は
返事をする力もないまま、考える力もないまま童子丸は歩く。
「さて。修行や、我が弟子よ。お前にはこの世の全てを見せてやろう。生まれてきたんを後悔するような苦行に、ならんという保証はできんがの」
弘法大師は後も見ず歩いてゆく。