狐人と物狂いの帝 ~二人で一人の安倍晴明、仇を探す旅路にて空海と出会い、暴悪無双の上皇と相対する事~   作:木下望太郎

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三十五話  修行

 

 童子丸は歩いていた。()っているといってもよかった。

あれからずっと歩いていた。ただの一時も足を止めることなく歩かされていた。脚を止めようにも、後ろから黒い風が押す。もつれるような歩みを繰り返すことしかできなかった。

 

 登っていた、山道を。始めそれはわずかな斜面だった。やがて脚の肉に重くのしかかってくる坂となり、脚の骨を軋ませるような傾斜となり。今は、手で岩肌や生えている木をつかまねば、身を押し上げられないような山肌だった。やや緩やかな崖といってもよかった。

 それを登る。獣の如く四つ足で、這うようにして登る。行く先も見えず、果ても知らず登る。やがて頂上へ到達しても、脚を止めることなく空海は降りてゆき、童子丸も黒い風に小突かれてついていく。

 

 昼も無く夜も無く歩いていた。先を行く空海は死人(しびと)ででもあるかのように、眠りも食物も必要としなかった。ただ時折、竹筒の水で口を湿し、それを童子丸にも与える。飲むときも川の水を竹筒へすくうときも、空海は脚を止めなかった。脚を止めさせはしなかった。童子丸は小便を、糞を(はかま)の裾から垂れ流しながら歩いた。

 すでに足の裏に感覚は無い。血豆がいくつも潰れたが、もはやその感覚も無い。骨と肉のぎちぎちという悲鳴だけがわずかに膝下から伝わってきていた。それももはや薄れようとしている。

 

 誰なのだ目の前を歩く男は、本当に空海なのか。そもそもなぜこんなことをさせられる、何が弟子だ、承諾した覚えもないしこれの何が修行なのだ――そんなことは何度も思った、何度も何度も繰り返し問うた。

 けれども空海は何一つ応えず、無言で歩くのみだった。

 そんなことを繰り返すうち、いつしか疑問さえ薄れていた。

 

 手で木々の枝を押しのけ、隙間に体を押し込むようにして登る。松の葉が頬を刺し、(いばら)(とげ)がぼろ切れのような衣をまたも裂き、肌にかき傷を増やしていた。

 もはや流れ落ちる汗もわずかだった。塩の固まりと衣が、ざらざらと肌を(こす)る。

 

 獣のようだと自分を思った。四肢で地をつかみ、這うようにして進む自分と、四つ足で地を駆ける獣。まるで同じだと思った。いや、獣なら四つ足で、山だろうと苦も無く駆けるだろう。糞まみれの自分より、獣の方がよほど上等なのかもしれなかった。

 獣のことを考えるうち、母を思った。母も本来なら、不様な人間(ひと)の真似などせぬ、(あやかし)の力を持っただけの獣であったのだろうか。それが、なぜ。父を騙し、子を生し、その子を喰らおうと――

 母に喰われた傷跡に、その時と同じ痛みを感じ。童子丸は脚を止めかけたが、黒い風が後ろから押す。

 

 気づけば、大岩の積み上がる中を、岩から岩へと伝い歩いていた。あるいは雨が降れば、そこは川になるのかも知れなかった。

 草薙剣(くさなぎのつるぎ)のことをふと思った。神が大蛇(おろち)の尾から取り出したという剣。その舞台となった地も、あるいはこのような景色であっただろうか。

 貞明は、陽成上皇はその剣を以て、この国土に神とモノを満ちさせ、あらゆる人間にそれが見えるようにすると言っていた。その過程でこの国は乱れ、(ことごと)に壊れるだろうがそれで良い、と。

 果たして、人々に自分たちと同じモノを見せることが目的なのだろうか。それとも、国を壊し尽くすことの方がむしろ目的なのだろうか。

 そして、その計画に必要な、草薙剣を一度は盗まれたというのに。貞明は童子丸と尾花丸を許した。「分かるよ」と、それだけ言っていた。

 なぜだろう。怒りも恨みもしている顔ではなかった。分かるよ、と、ただその言葉のままの顔だった。分かるよ、と。

 何が、分かったというのだ。なぜ、許した。

 

 気づけば、山道を歩いていた。平坦とは言いかねる、両側からかぶさるように草の生い茂った道だが、それでも道が続いていた。頭上に厚く重なる枝々のせいで、空は見えない。

 見えない空を思い、ふと弟を思った。誰よりもそばにいたはずなのに、誰よりも分かり合えなかった――童子丸を殺そうとした――弟を。

 本当に、尾花丸は母を蘇らせようというのか。自分たちを喰おうとした母、実際に体を喰いちぎりさえした母を。

 あるいは、母の目的は肉体を得て蘇ることのようだった。蘇ることさえできれば、昔のように戻れるのか? しかし何かあればまた、兄弟を喰らおうとするのではないか? 

 

 そして。そんな母の血を引いているのだ、童子丸は。尾花丸は。

 また会えたとして何と言うだろう、尾花丸は。どんな顔をすればいいのだろう、童子丸は。何をしてやればいいのだろう、弟に。

 思いながらも、歩き続けた。歩き続けた。

 

 気づけば、山の(いただき)にいた。登ってきた山裾が、地に広がる家々が、その先にどこまでも広がる海が見えた。空海は脚を止めることなく、下りの道へと向かった。後を歩く童子丸の尻の後ろに、糞の乾いた下帯の他、裂けた衣か帯かがまとわりつく。

 気づけば、下り道を歩いていた。脚の肉を絞り上げるように重みののしかかる登りと違い、膝と(もも)を刺すような重みが一歩ごとに下から突き上がった。

 気づけば、里の外れを歩いていた。山道のように暴れることもない平坦な道だったが、己の体が重かった。尻の後ろでまた衣か帯かが揺れていた。

 気づけば、また別の山へ登っていた。腰から下の感覚はもう無かった。

 

 気づけば、山を下っていた。鳥の声が、耳の穴から反対の穴を通り抜けていった。まるでその間の脳髄など、無くなってしまったかのようだった。

 気づけば、また山を登っていた。目を見開いていた。呼吸はかすれていた。握っている岩肌と、握っている木の枝と、それらを握っている自分の手の、区別がもはや無くなっていた。感覚の無い足が木の根を踏み、木の根のような足が山肌を踏む。登る。

 気づけば、さらに山を登っていた。風の温度と、肌の温度の差が無かった。吹き抜けていった風は童子丸の横を過ぎていったのか、それとも童子丸を通り抜けていったのか。あるいは、その風が童子丸なのかも知れなかった。

 

 気づけば。いや、気づくことなど何も無かった。童子丸は山道を下っていたが、道と山と童子丸との間に何の違いもなかった。山がそこに在るのと同じく童子丸も在った、石が坂を転がるのと同じく童子丸は道を下った。山と石と風と木と鳥と川と土と、童子丸の間に何の隔たりも無かった。それらは同じものだった。一つのものだった。

 山肌を歩く蟻と童子丸と、違いは何も無かった。童子丸が潰されることと蟻が潰されることに何の違いもなく、それらのどちらにも重みは無かった。

 けれど。

 

「あっ」

 

 思い出した。山も石も風も木も鳥も川も土も蟻も決して思いはしないことを、童子丸はそれでも想っていた。

 

 脚を止めた。後ろから吹く黒い風の中、それでも脚を止めた。

 後ろを見ずに前を歩く、空海へと声をかける。かすれ、ひび割れたような声だったが、それでも腹から絞り出した。

 

「おっさん。わし、戻らないかん」

 

 空海が脚を止めた。振り向きはしない。

 

「おっさん。わし、弟を護らないかん。もう、帰るわ」

 それだけは。それだけは、しなければならない。母のことも、貞明のことも、ましてや自分のことなど全て()いて。それだけは、してみせる。

 

 空海は初めて振り向いた。

「ようやく、(わか)ったようやの。その上でその先を見た。その上で、ただのお前に還ってみせた」

 ぱん、と一つ手を叩く。

「飯にしょうか。それまで休んどれや、詳しい話は後で聞くわ」

 

 童子丸は崩れ落ちるように座り込み、ぐらり、と倒れて地に背を預け。目を閉じた。

 

 

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