狐人と物狂いの帝 ~二人で一人の安倍晴明、仇を探す旅路にて空海と出会い、暴悪無双の上皇と相対する事~ 作:木下望太郎
目を開けると、枝を伸ばす木の葉の向こう、薄ぼんやりと光を帯びた雲が見えた。空一面を薄赤い雲が覆い、夜明け前やら日暮れ前やら見分けもつかない。
けれど、童子丸には朝だと分かっていた。眠っていてさえ、湿り気を帯びた空気がそれを伝えていた。今も、童子丸と雲と地と風の間には、何の隔たりも無かった。近くを流れる川の水音が、風に響き地に響くように、童子丸の中にも響いていた。
いいにおいがした。においは鼻の奥を通り、舌の根をひどくくすぐった。絞り出されたように唾が口に溢れ、腹はとっくに鳴っていた。
「起きたか」
見れば、空海が五徳――金属製の三脚台――に載せた小鍋で何かを煮ていた。
考えるより先に体がそちらへ這いずる。腰から下には未だ感覚が無く、腕と肘で体全体を引きずるようにしてにじり寄る。
空海は笑いかけもせず、鍋の中身を木の椀に注ぐ。
差し出されたそれの中身を確かめもせず、両手で椀を持って童子丸はすすった。具のない汁物であったが、昆布の香りと塩気が、野草のものだろうか青い匂いが、汁の温かみが滋味が、舌に染み込み喉を通り、胃の腑を
舌が、どころか骨が脳が、痺れるような旨さだった。頭の先からつま先まで、どころか髪の毛の先、爪の先まで、染み通るような滋味であった。
「もの足りんかも知れんが、飢えた
童子丸は聞きもせず、空になった椀を突き出す。
昆布や野草をよけて汁だけを注ぎながら空海が言った。
「
椀の中身をすすりながら、童子丸は空海の目を見ていた。飲み終えてから言う。
「……そもそも、何で。何も知らんと、わしを弟子にしようとした」
空海は不審げに眉を寄せる。
「仏弟子が人を救うに、何の不思議があるものかよ。言うたはずや、お前のように業深く、迷うた奴ほど救わないかんとの」
そうか、と思い、童子丸は話した。
出生のこと、母の死のこと。仇討ちを誓ったこと、尾花丸と二人で生きてきたこと。貞明や純友と出会い、共に神世草薙剣を強奪したこと。母の声にそそのかされ、草薙剣を盗み出すも、母は弟と童子丸を喰おうとし。童子丸は母を殺し。尾花丸は、童子丸を殺そうとしたこと。
なるほどの、と空海はうなずく。
「母が狐か。それでお前、そんな
今度は童子丸が不審げに眉を寄せる。
空になった椀に、空海は近くを流れる川の水を汲んだ。童子丸の顔の下へ突き出す。
「見てみい」
膝立ちに起き上がり、言われるままに椀をのぞく。水面の揺れが収まるとそこには、童子丸の顔が映る。
ただ、その頭、額と頭頂の中間ほどの左右二ヶ所に、こぶのような盛り上がりが見えた。こぶにしては妙に平たく、三角形をして立っていた。
触れてみたそれはふさふさとした毛に覆われ、平たく柔らかく、しかしこりこりとした弾力がある。全く同じ触り覚えがある、弟の頭を撫でたときに。
「み、み……?」
耳。ぴん、と立った狐の耳が、そこに生え出ていた。
思わず元ある方の耳を触ったが、そちらは変わらず在った。何度かそこを叩いてみたが、音を聞く力も変わらずあるようだ。逆に狐耳の方を触ってみたが、耳の穴は開いていない。頭から生え出てはいるが、そちらに聴力はないらしかった。
さらには、気づけば。顔にかかる髪も全て、稲穂色をしていた。
目の前にかかる髪をいじり――知らず、狐の耳がひくつく――つぶやく。
「……いつから、こんなやった」
「いつからも何も。オレが会ったときにはその格好やったぞ」
口を開け、目を瞬かせていた童子丸だったが。
「ま……そうもなるわな」
腰を落としてへたり込む。尻の下で、何か踏んだような柔らかい感触と、どこか踏まれたような痛みを同時に感じた。
起き上がって尻の後ろを見ると。破れた衣の間から、ふさふさと尾が垂れていた。 そういえば歩き続けていたとき、何か垂れ下がっている感触があったものだが。
これか。こんなものまで、生えてきたか。
ふ、と息をついて笑った。なんだか笑えた。
「確かにわしゃあ母さまの……お
腹がくちくなったせいか、頭中をひたひたと満たすような眠気がのしかかってきた。
――増えた耳の片っぽ、できるもんならお前にやりたいもんや。お
そんなことを思いながら横倒しになり、胎児のように丸まって。尾っぽを抱いて、眠った。