狐人と物狂いの帝 ~二人で一人の安倍晴明、仇を探す旅路にて空海と出会い、暴悪無双の上皇と相対する事~   作:木下望太郎

37 / 48
三十七話  清明

 

 目を覚ましたときには、空海が川の端から脇へと溝を掘り、小さな支流を作ってくれていた。汚れ切った体と衣を洗うに、川の中でやったのでは下流の者に迷惑がかかる。なので、支流の方で洗えということだった。

 

 糞まみれの下帯も袴も、枝に裂かれてぼろ切れのような狩衣(かりぎぬ)も、(あか)まみれの体も髪もまとめて洗う。稲穂色の髪の存在が否が応にも目に入り、頭と体を洗うときには狐耳と大きな尾が自己主張を繰り返したものだったが。別に嫌ではなかった。それよりは、糞を洗い落とせたのがとにかく嬉しかった。皮の剥けた足裏は未だ痛む。ただ、寝ている間にそこは洗い落とし手当てしてくれていたのか、足裏や傷のある辺りは汚れてはいなかった。

 

 水から上がって首と尾を震わせ、水気を振るい落とした後。衣を辺りの枝に干し、借りた手拭いで体を拭う。素裸のまま、空海の(おこ)してくれた火に当たった。

 椀によそわれた重湯(おもゆ)は、どろり、と米の甘味がした。のったりと舌にのしかかり、ゆっくりと喉を降りる。重みを持って胃の底に積もり、はらわたに染みてゆく。

 

 空海が言う。

(みそぎ)は済んだ、っちゅうところか。黄泉国(よもつくに)から帰った伊耶那岐命(いざなきのみこと)ではないがの」

 

 狐耳をひくつかせ、裸のまま童子丸は言う。

「そりゃ仏道の話でもあるまい、日の本の神の話じゃろ。坊主が言うことかよ」

 

 空海は首を小さく横に振る。

「この国は神も仏も(さきわ)う国。唐じゃ色んな神の教えがあったが、だいたいのところてんでんばらばらに信仰されとっての。やけどこの国じゃあ、神と仏が護り合い、融け()うとる。神と仏が習合(しゅうごう)しとるんや、その教えものう」

 

 童子丸は鼻で息をつく。

「そら結構なこっちゃ。そんだけ神の仏のとおるんやったら、わしら兄弟も護ってほしかったもんや」

 

 空海は唇の端を吊り上げて笑う。

「さてもさても、と。それ言うんならお前も仏。もともと仏っちゅうもんは、『悟った人間』、それだけのことや。言うたはずぞ、『ここが仏国土、お前が仏』」

 

 空海がかつて、鬼どもに教えた経。その後を続けるように、童子丸は言った。

「『ここが地獄、わしが鬼畜生。どこでもない今ここがこの世、そこにおるんがわし』」

 

 空海はなおも笑って、童子丸の胸を小突いた。

「さて、や。その仏さんは何がしたい。言うとった、弟のことか」

 

 童子丸は立ち上がる。洗った後の、くくりもせぬ稲穂色の髪が背で震える。尻尾と、隠されもしない金玉が揺れた――ご丁寧に、そこの毛まで今は稲穂色だ――。

「仏の何のとは知ったことやないが。尾花(ハナ)のことは護る、そのためにお()んを蘇らせはせん。そのために、貞じいを止める」

 

 言ってから気づいた。そうだ、それが自分のやるべきこと。やりたいこと。

 それに、そうだ。貞明と純友、あいつらも――護ろう。 

 

 空海は剃り上げた頭をかく。

「お前が言うんはそりゃ、救う、っちゅうことや。お前を殺そうとした(もん)も、日の本壊そうとしよる(もん)もの。殺すより、よっぽど難儀なぞ」

 

「やる」

 

 空海は童子丸の目を見た。瞳の奥を、脳髄の底まで見通そうというかのように見据えた。

「できるんか。鬼ども殺しまくったお前が救うなんぞ、できるんか」

 

 童子丸の視線はわずか、うつむいたが。それでもまた、空海の視線を受け止めた。

「わしが地獄。わしが仏国土」

 

 空海は息をつき、空を見上げた。枝葉の間からのぞく空はよく晴れていた。

「まずは、衣が乾いてからやの。オレの(ゆかり)の寺に行こう、そこで足が癒えるまでおれ。その間にはなんぼか、密教でも教えてやろうほどに。ええぞ~密教は」

 歯を見せて笑った後、空海は表情を正した。

「その後は。何もかも見据えることや、その金色の目での」

 

「金色?」

 童子丸は目を瞬かせた。自分と弟の目は空色のはずだ、狐の幼獣のように。それも尾と耳が生えたのと、毛色が変わったと同じく変わっていたのか。

「……もう子狐や、ないっちゅうことか」

 

 思い出したように空海が言う。

「そう言えば。弟子にするっちゅうた手前、お前にも戒名(かいみょう)をやらないかんの」

 

 佐伯真魚(さえきのまお)が空海になったように、僧としての名ということか。童子丸は別に、坊主になるつもりはなかったが。

 それでも、変える名は決まっていた。

清明(せいめい)

 

 弟と流れていたときに名乗った、似非(えせ)陰陽師としての名。弟と生きるために名乗った名。新たに名乗るとすれば、その名しかない。

「わしは清明。もう安倍童子丸(あべのどうじまる)やない、ただの清明や」

 

「漢字二文字で音読み。ま、戒名としては()うとるの」

 

 うなずく空海の横で、清明は顔を上げた。尾を一つ打ち振るう。空は清く、晴れて明るい。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。