狐人と物狂いの帝 ~二人で一人の安倍晴明、仇を探す旅路にて空海と出会い、暴悪無双の上皇と相対する事~ 作:木下望太郎
だん、と音を高く上げ、男が庭で左足を踏み締めた。
「
忠行と名乗った男が、地面に右足を、ずう、と引く。さらに右足を踏み、左足を、ずう、と引く。まるで線を引くように。
「
忠行が懐から出し、地に叩きつけたのは紙だった。きちりと一部の狂いもなく、真四角に折り畳まれた二つの紙。
それが声に従うように、ぱたり、ぱたりとひとりでに広がる。広がっては山に折り、また広がっては谷に折り、明らかに元の紙の
高く伸ばした喉を、くきり、と折り曲げ、頭となした鳥細工。広く折られた翼をゆっくりと羽ばたかせて身を浮かせ、互い違いに折り曲げられた、
もう一方は、ぎざぎざと波打つ体を蛇のように伸ばす龍細工。もたげた頭からは幾本も、飾り立てるかのように角が突き出す。牙の伸びる顎をがふがふと、脅すように開け閉めしてみせた。
それらが形を取り切る前に。母は低く長く、尾を引くような舌打ちをした。その音に引きずられるように、みりみりみりと音を立て口が頬まで裂けてゆく。
見る間にその口が、鼻が前へと突き出し。草の萌え出るように毛を体中に黄色く生やし、たちまち狐の姿へと変じ。尾を打ち振るい、そればかりは人の姿のまま残る黒髪を振り乱し、着物を脱ぎ捨て四つ足で跳ね退く。
身を
「やれい! 青龍!」
忠行が命じるままに、白紙細工の龍が身を高くもたげた。息を深く吸うかのように口を空け、紙の鳴る音を立てて腹を膨らます。
童子丸の目には見えた。その呼吸に吸い込まれるように、辺りの宙を遊ぶモノどもが口の前に集うのが。葉の羽根を
それらが龍の口の前で浮かび、集まり、光を帯びる。青と緑の中間のような。そのモノらは身を寄せ合って輪郭を揺らがせ、いつの間にか光の塊となる。水面のように揺らめく、青緑の光の玉。
か、と龍が息を吐き出した。光の玉はその形を崩し、吐息に乗って飛び。風の勢いを明らかに増し、渦を巻く疾風と化した。風の流れの内には、青緑の光がそこかしこにこぼれていた。
光る竜巻は柱のように吹き上がり、縁と屋根とを砕きながら、母の身を――黒髪を乱した狐を――宙へと打ち上げた。
ぎゃん、と獣の悲鳴が響く中、忠行が声を張る。
「討て! 朱雀!」
翼をはためかす鳥細工の前でも、先と同じことが起こった。ただし集まったモノは火の粉を散らす
それらが集まり、輪郭を融かし、赤い火の塊に変じて。羽ばたきに打ち出され、炎の波となって母を呑み込む。
さらに床を砕きつつ、ごう、と燃え上がった炎の中に。くぅおおおおん、と遠く、狐の鳴き声を聞いた。泣くような、震えた声だった。
やがて炎は音を立てて散り、幾つかが童子丸と尾花丸の方へと飛んだ。童子丸の左腕を点々と焦がし、尾花丸の右肩の毛を小さく焼いたが。兄弟は、身じろぎもせず炎を見上げていた。
火の粉と煤が辺りに舞う。その中には母の捨てた衣、黒髪や黄色い毛の切れ端もあったが。母の体は見えなかった。人の体も、狐の体も。
ずっと後ろで、父がわななく声を上げた。
「な……ななななな、何が、起こったのです……
どうやら父の耳目には、あの炎や風は感じられなかったらしい。宙を遊ぶモノと同様。
振り返った忠行は、説明してやる気はないようだった。
「たわけが! 捕まえておれと言うたはずぞ、その二匹!」
身をすくめた父が視線をさ迷わせるも。童子丸はともかく、尾花丸は見えるはずもなかった。
舌打ちした忠行が歩み寄る。
「もうよい……さて、そこな混ざりモノども。冥途の土産に説いておく、うぬらの母は化け狐よ。この忠行が遠方での任に就き、娘、葛葉が世話に付き添ったを
唾を飛ばして言う忠行に、童子丸は何も言えなかった。口を開け両手を垂らして、ただそこにいた。尾花丸も同様で、尻尾まで垂らしてそこにいた。
「葬送は陰陽師の役にあらず、祈ってやる言葉とてないが。賀茂忠行の名が引導代わりよ、せめて苦しまず死ぬがよい。――式神青龍、式神朱雀」
ぎ、と太い首を揺らして、紙の龍が童子丸の前に出る。ざ、と
口を開けたままの童子丸の目に映る、火のくすぶる床、こぼれ落ちた屋根の
そのとき、腕が焼けつくように痛んだ。母を殺した炎、そこから散った火の粉を浴びた腕が。
とたん、童子丸は目を見開く。
そうだ、死ぬ、殺される、母と同じに、自分も――弟も。
目を上げれば。すでに龍と鳥の前に、光るモノらが漂い、集まり始めていた。
――薄情なもんじゃな、お前ら――そんな風に思った、宙を遊ぶモノらに対して。頬を引きつらせながら。
――薄情なもんじゃ、わしも
――それが、母さま殺すかよ。殺すかよ、わしを。弟を。
――そうじゃ、そうじゃ殺される。このままじゃ、弟まで。
とたん、歯を食いしばった。弟の、毛むくじゃらの手を引っつかんだ。自分の後ろへと引いて隠す。
敵へ向かって胸を張った、声を張った。
「させるか!
童子丸の声に張り飛ばされたかのように。爆ぜた、龍と鳥の前で集まり、それぞれ融け合っていたモノどもが。紙細工らと忠行目がけて。
「な……ぁっ!?」
龍と鳥が風と火に打たれ、身の端を黒く焦がす。倒れるそれらに巻き込まれ、忠行が地に膝をついた。
弟の手を引き、忠行に背を向けて走る。
「おのれ、待て!」
忠行のかざした手の前で、宙に遊ぶモノが小さく集まる。
童子丸は、走りながらそちらへ顔を向けた。
「畜生、お前ら……わしにも、わしにも味方せェ!」
童子丸が忠行に向けた手の先で。集まった、宙を遊ぶモノが。火をこぼす
それらは融け合い、炎となって混ざり。爆ぜ立った、忠行目がけて。
「何……ぃい!?」
打ち倒しはできなかった、散らばった小さな火の玉がいくつか忠行の体を打ち、裾を焦がすに留まった。それら火の玉の一つが、高い烏帽子を、こん、と落とした。
なでつけた髪を押さえ、烏帽子を拾い――言うまでもなく、人前で烏帽子を落とすことは下帯一丁の姿を見られることと同様恥であった――、忠行が唸る。
「馬鹿な、その術、どこで習った……!」
ここであんたにじゃ、
――後年。師は誰かと尋ねられ、安倍晴明はこう答えた。最初の師は、賀茂忠行。
間違いではない。ただ、その教授法は、水を