狐人と物狂いの帝 ~二人で一人の安倍晴明、仇を探す旅路にて空海と出会い、暴悪無双の上皇と相対する事~   作:木下望太郎

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四十八話  少年・陽成天皇

 

 ――我々の知る歴史において。貞観十八年、西暦にして876年、十一月二十九日。第五十六代清和天皇は譲位の(みことのり)を発している。自らの第一子、貞明親王へ皇位を譲る、と。

 そして新たな(みかど)となったのが第五十七代、陽成天皇。十七歳までのわずか八年、世の何事をも知らぬ少年時代しか皇位になかった、物狂いの帝――。

 

 

 

 九歳であった。貞明が、後の陽成院がこの国の(あるじ)となったとき。

 その立場の何たるかを解るには早過ぎる年齢であった。といって、何も分からずにいるには遅過ぎる年齢であった。

 

 すでに内裏(だいり)を去り、染殿院に移った父・清和天皇は咳込みながら、か細い声で――それでも、自分の声で――面前に立つ貞明へ語った。

 譲位の(みことのり)は百官の居並ぶ中で先ほど、新天皇の摂政へ任じられた右大臣・藤原基経(ふじわらのもとつね)によって、しゃちこばった声で高々と読み上げられた後であったが。その内容を噛み砕いては含めるように、父は幼い貞明へと改めて聞かせていた。

 

(ちん)は……父は、幼き日より皇位を継ぎ、日夜務めてきた……左様、お前と同じ、(よわい)九つよりな」

 

 清和天皇は身を預けるように玉座にもたれ、か細い息を整えた。金銀に飾り立てられた、唐風の玉座。永い年月を経たその飾りも今や、塗り立てられた金は剥げ落ち、銀の金具にはくすみが目立っていた。まるで盛りを過ぎ、腐り落ちるのを待つだけの花のような、とても流行らぬ遺物であった。

 絶え絶えに息を継ぐ、父はこのとき齢二十九。とてもそうは見えぬ、老い果てたように痩せた身であった。

 

「薄徳の身を以て務めてきたが、近年は身体の衰弱激しく……天下の(まつりごと)を為すに()えず」

 口を手に当ててまた咳込む。力なく笑った。

「我が身にはもはや、国を治むる力は無い。この上は皇位を退き、身の病を治めると共に、国の災いなきよう神仏に祈ることしか出来ぬ……後は、若いお前が頼りよ」

 

 ――後年の貞明、陽成天皇は父に対して良い想いを抱いてはいない。

 穏やかで人と波風立てぬことだけが取柄(とりえ)の、摂政・藤原良房(よしふさ)の完全なる傀儡(かいらい)。線が細く病弱で、そのくせあてがわれた女共の漁色にだけは余念のない男。幼い自分に皇位を押しつけて早々と隠棲し、早々と死んだ男。

 それでも、このときの貞明親王は、未だ送り名もない新天皇は、真っ直ぐに父の瞳を見上げていた。

 

 また咳込んだ後、父は続けた。

「元服後の譲位としたかったが、とてものことそうは待てぬ……そうは持ちそうもない。何、案ずるな。父も賢臣の補佐を得た上でやってこれた。お前も良き補佐さえあらば、一国の主としての大成は決して遠くあるまい」

 

 ――これも後年になってから意識したことではあるが。

 父の外祖父にして摂政・藤原良房(よしふさ)は四年前に死んだ。良きにつけ悪しきにつけ、父の治世はそのまま良房の治世でしかなかった。操る主のいなくなって、傀儡(くぐつ)が一人動けるものでもなかった。

 そうして、良房の養子であり後継者たる右大臣・藤原基経(もとつね)がすでに、新天皇の摂政へと任じられていた。

 

 体重の全てを玉座に預け、もたれかかって息を整えた後、清和天皇はようやく背筋を伸ばした。

「今ここに。皇太子・貞明親王へ、我が位を譲る。……さ、今上(きんじょう)(みかど)よ。こちらへ」

 立ち上がり、貞明を差し招いた。自らのいた玉座へ。

 

 貞明は、こくりとうなずき、それから慌てて礼をする。足を踏み出した。

 そうして腰かけた玉座は、幼い貞明には不釣合いに大きく。父の体温で、生温かかった。

 

 父は深く、深く息をついた。体の中身全てを吐き出して、しぼんでしまいそうな長い吐息だった。

 身を縮めるようにして、父は息子へ頭を下げた。

「重荷を負わせ奉るが、日の本を御頼み申し上げる。主上(しゅじょう)よ、さ。こちらを」

 

 掲げるようにして手ずから渡したのは、宝剣――神器たる草薙剣、その形代(かたしろ)――を納めた錦の袋。そして神璽(しんじ)――同じく三種の神器、ただしこちらは本物たる八尺勾璁(やさかのまがたま)――の箱を納めた錦の袋。

 ただ、残る神器の八尺鏡(やたのかがみ)形代(かたしろ)はこの場には持ち出されず、内裏の賢所(かしこどころ)に奉られている。第四の神器と呼ばれる大刀契(だいとけい)の霊剣なども同じく、実質として移譲されてはいるがこの場にはなかった。

 

 神器と形代を手にしても、重みは感じなかった、いや、九歳の童の手に重いことは重かったが、それよりも。貞明の目は宙を見上げていた。

 

 手にしたとたん神璽(しんじ)から、箱も袋も通り抜けて立ち昇る数多(あまた)(モノ)ども。

 桜花の羽根持つ小虫、龍の尾と(ひげ)(そな)えた芋虫。牙持つ河豚(ふぐ)。小さき人の姿をした、葉の羽根と根の足のある者。雪をこぼす雲の中を遊ぶ、脚の長い海老。他にも無数のモノどもが、後から後から湧き出、染殿院の天井に満ちるほどに溢れかえり。神璽(しんじ)の箱が、その勢いに揺れて音を立てた。

 こうした名も知らぬモノどもは、貞明には親しいものであったが。余人の目には見えぬらしかった、父にも、母・高子(たかいこ)にも。だが、これほどまでに多くのモノがひしめく様は貞明も初めて見る。

 

 今上天皇たる貞明は口を開けて微笑み、満ちるモノどもを見上げ。

 漂うモノどもは鱗を(きら)めかせ、翼を閃かせては天井高く舞い、貞明の頭へと花びらや粉雪を降らせ、目の前を横切り、頬に肩に擦り寄って遊び。足下では一抱えもある大蛙が、げっげっ、と喉を鳴らして楽しげに唄う。

 (こうべ)を垂れた百官らはその唄にも、顔の前を横切る魚の群れにも気づいた風はなく。

 小蛇にまとわりつかれる摂政・藤原基経(もとつね)も同様であったが。震えた神璽(しんじ)の箱へと眉をひそめ、硬い眼差しを向けていた。

 

 

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