狐人と物狂いの帝 ~二人で一人の安倍晴明、仇を探す旅路にて空海と出会い、暴悪無双の上皇と相対する事~   作:木下望太郎

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五十一話  今上の帝、少年陰陽師と共に内裏の怪異を鎮める事

 

 そうするうち、内裏から大股に歩み出た者がこちらへと向かってきた。固く糊付けされた大振りな束帯(そくたい)――朝廷での公務に就く貴族の正式な装束――に身を包んだ、四十歳辺りの男。

 

 角張ったあごをしたその男は帝の背に一礼した。身を起こした後、口を開く。

「御立ちなさいませ」

 大声ではないが、よく通る声だった。しゃちこばった、決まり切った規則を読み上げるかのような揺らぎの無い声であった。

(つつし)んで申し上げます。(しん)、卑しくも摂政たる藤原基経(もとつね)が自ら、主上へ『論語』などいくらか指南を奉ろうという時に、このような所へ一人御出であそばすとは。いったいどうしたことで御座いましょうか」

 

 帝は顔を上げない。

「……私は、(ちん)はそのようなことを命じておらぬ。それよりも、気にかけてやらねばならぬモノが――」

 

「謹んで申し上げます。左様な空言は果たして、勉学よりも御気にかけねばならぬことで御座いましょうか」

 さえぎるようにそう言った後、源益(みなもとのまさる)へ視線をやる。内裏の方へとあごをしゃくった。

「ここはよい、他の者らに伝えて参れ。主上は御無事、これより勉学に戻られると」

 

 去っていった(まさる)にも、促すような視線を無言で送る基経(もとつね)にも構わず、帝はうずくまったままでいた。追い払うような手の動きは変わらず、時折大蛙に向けてか、声をかけていた。頑張れ、だとか、私がついているぞ、だとか。

 

 やがて基経(もとつね)が苦り切った表情を浮かべ、声を大きく上げた。

「その辺りになさいませ! 謹んで申し上げまするが――」

 

 突如振り返った帝は、それより大きな声を上げていた。

「いかん! 危ない!」

 

 どん、と地が揺れた。先ほどのような柱や壁だけの揺れではない、柱の底、地の奥からの揺れだった。忠行も基経(もとつね)も足を継ぎかね、地べたへと転んで手をついた。

 そして今度も、間違いなく。帝の言葉は、地震(ない)が起こるよりも早く発せられていた。

 

 未だ続く揺れの中、帝は柱の根元へ何度も手を打ち振っていた。

「待て、お前たち離れろ! お前も落ち着け! どうしよう、どうしよう――」

 その顔が不意に、弾かれたように忠行へと向く。

「そうだ! そなたがいた、陰陽師が! 何とかしてくれ!」

 

「何とかっ、何とかと、言われても――」

 四つんばいのように地べたに伏したまま、忠行は震えていた。いや、自身が震えているのか地が震えるせいで体が揺れているのか、その区別はもはやつけられなかった。

 

 もはや何を考える力もなく、言われるままに、師から教わった(かた)をなぞる。片手の人差指と中指を伸ばし、形作った刀印を上から下へと振るう。

「朱雀っ、玄武。白虎、勾陳(こうちん)――」

 縦に四度振るった指先には何の手応えもなく、宙を空振っただけだった。

 

「こうか」

 真似るように帝が指を伸ばし、上から下へと振るってゆく。

 忠行の目には何も見えたわけではない。だが、帝が指を動かすたびに、風が巻き起こった。忠行の手と同じ、速くもないその動きに。まるでその指の内から、目に見えぬモノが吹き上がってでもいるかのように。

「次は?」

 

 聞かれて、忠行は横に五度指を動かす。先の軌跡と交差させ、格子を描くように。

「帝久、文王。三台、玉女っ、青龍……」

 

 同じ動きをした帝の指からまたも風が上がる。

 

 忠行の目には見えた。九字を切り終えた帝の幼い指から、光が上がるのを。その光の中、無数の微小なモノどもが舞い上がるのを。

 金属の羽根を持った小蝿や燃える尾の蜉蝣(かげろう)、光を帯びたモノの群れ――忠行が初めて目にするそれらは、曖昧(あいまい)な輪郭をした陽炎(かげろう)のようで。帝の手から上がる光の内から外れたものは、すぐに姿が見えなくなった――どうやら、あの光の中でのみ忠行にもその姿が見えるらしかった――。

 

「それで?」

 

 促されるまま、忠行の口は習ったとおりの(こと)を、もつれながらも垂れ流した。

四縦(しじゅう)五横(ごおう)禹為除道(ういじょどう)寒言神尊(かんごんしんそん)利根陀見(りこんだけん)

 

 (しゅ)を唱え終わったとき。

光るモノらが舞い上がり、帝が宙へ描いていた九字の軌跡をなぞるように集った。

 光る軌跡はそのままの形で膨れ上がり、壁の高さを越える格子となり。角の柱へと飛びかかった。帝いわく、大蛙の尾が底に挟まっているという柱。

 光の格子は歪み、網に絡めたように柱を包み。壁からもぎ取り、宙へと持ち上げて引っこ抜き。音を立てて地面へ倒した。

 

 忠行の目には(おぼろ)げに見えた。輪郭の定かならぬ、一抱えもある蛙のような影が地の底から這い出、跳びはねながら逃げてゆくのを。その背には草木の枝葉が、尻には引きずるような長い尾があった。その後、小さな蛇のような影が同じく這い出、八方へと散っていく。

 すぐにそれらの影は見えなくなった。ようやく気づいたが、地震(ない)はすでに止まっていた。

 

 おそるおそる、柱の抜かれた地の底をのぞき込む。そこにはもう何も見えなかった。いや、穴の底に柱の基礎であろう平たい石が見えた。妙に赤茶けた石であった――おそらくは鉄鉱石を含む石、その鉄分が錆びたもの。なるほど金剋木(きんこくもく)(ことわり)、木に属するあの蛙が逃げられず苦しんだのも道理か――。

 

 口を開けたままそうしていると、帝の手が忠行の背を叩いた。

「やった! やったな、すごいなそなたは! さすがだ、これが陰陽師の術か!」

 

 何も言えずにいると、帝は何度も背を叩いてくる。

天晴(あっぱ)れ! こたびの家鳴り騒ぎも地震(ない)も、そなた一人でよくぞ鎮めた! 陰陽寮の者どもではなく、この陰陽師・賀茂忠行一人がな!」

 

 未だ目だけ瞬かせていると。帝は真っ直ぐに忠行を見上げた。

「凄いなあ、そなたは。きっと()い陰陽師になると言ったが、あれは間違いだったよ。すまないな、すでに立派な陰陽師だった」

 微笑んで続ける。

「ね。天才だよ、そなたは」

 

 忠行は未だ、目だけを瞬かせていた。

 基経(もとつね)は地べたに手をつけたまま、口を開けて固まっていた。

 

 

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