狐人と物狂いの帝 ~二人で一人の安倍晴明、仇を探す旅路にて空海と出会い、暴悪無双の上皇と相対する事~   作:木下望太郎

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五十七話  陽成天皇の殺人

 

 ――元服の翌年、冬。

 

 貞明は――物狂いの帝と仇名(あだな)される今上の帝は――わななく口を無理やりに動かした。

「……もう一度、もう一度申してみよ」

 

 向かい合って立ち、嘲るように鼻息をついたのは。帝の乳母子(めのとご)、側近たる源益(みなもとのまさる)だった。

 辺りに人も無く静まりかえった内裏の一室で、(まさる)の声は高く響いた。

「えぇえぇ、何度でも申し上げましょうとも。主上、畏れながら貴方様の御覧あそばす(モノ)とやら……嘘っぱちであろうと、前々より思うておりました」

 

 震える唇を一度噛みしめた後、貞明はまた口を開く。

「……お前は、お前だけは言っていたはず……私が見ているモノを、その存在を、真実に違いないと」

 そう言ってくれたもう一人――賀茂忠行――は衆目の中でそれを否定し、早々に遠国での任に向かってしまった。一言の弁解も説明も、挨拶すらなく。

 

 あからさまに肩を落とし、またも息をつき。眉根を下げた(まさる)は声を上げた。調子を取るように掌を扇で叩きながら。

「良いですかな? そりゃあ私めだって、そっとしといて差し上げたかったですよ。貴方様の御覧になるモノだとか、そういった夢見がちな嘘、子供らしい遊びを。わざわざ否定して差し上げたくはありませんでしたよ」

 一際高く扇を打つ。

「ですがね! もういい加減、現実を御覧になっちゃあいかがです? その御遊びのせいで元服前、痛い目を見られたでしょうが。物狂いの帝の何のと言われて、もうついてくる者なぞおらんでしょうが。あのときもしもすぐにでも『いやいやあれは冗談なのだよ目に見えぬモノなぞというものは』『元服を機にあのような冗談はやめるつもりだったのだよ』ぐらい仰られておけば! 取り返しもついたと思いますがね」

 

 貞明の頬が引きつるように震える。

「冗談……私の、見ているモノが。冗談、だと」

 

 (まさる)は当然といわんばかりに大きくうなずく。

「誰もが存じておるように、貴方様が何よりご存知のように」

 かあっ、と息をつき、手を上げて背伸びをしてみせた。

「まったく、やってられませんよこっちとしちゃあ! 乳母子(めのとご)だからと貴方様についてたって、何の旨味もありゃしない。そこいくとあの方、忠行殿はよくやったなぁ……貴方様の冗談に乗って取り入ったかと思えば、不意に基経(もとつね)側への鞍替えだ。あの元服前の儀式だって、摂政殿の筋書きとはいえよくやったもんですよ」

 

「な――」

 

 元服直前、忠行は突然盟神探湯(くがたち)の儀式を行ない、貞明の見ている(モノ)と貞明の力を否定した。

 なぜそんな儀式が行なわれたのか、なぜ忠行が貞明を否定したのか。貞明を疎ましく思った摂政が、忠行を巻き込んで貞明を否定させた――理由としては、それしか考えられなかったが。

 信じたくはなかった。忠行の裏切りを、何かの間違いだと思いたかった。少なくとも、忠行自身の意思によるものではないと。

 それを目の前の男は、忠行自身によるものだと言った。

 

 (まさる)は鼻で息をつく。

「ほとぼりを冷ますためにか遠国へ出てらっしゃいますが、帰ってくりゃさぞかし優遇されるんでしょうなぁ藤原家から。うらやましいこって……いや、私めもたまたま摂政殿と忠行殿の話を耳にして、はした金は握らされましたがな。あんな小金じゃ旨味も何も……って、今喋っちまったんで口止め料にもなってませんがな」

 扇で強く掌を打つ。

「ま! 私めとしましちゃ、忠行殿が帰り次第、摂政殿への口利きを頼むとしましょうかな……そんときゃ主上、私もそっち側ということで悪しからず。いやいや、怒ってもしょうがありませんよそれが世の常、人の常……諸行無常ってやつでございますよ。忠行殿だって喜んでやったことでしょうよ。落ち目の帝を踏み台に、今をときめく藤原氏に飛びつけたんですから」

 

 貞明は、震えていた。指先が、頬が、髪の先さえ震えていた。足を踏ん張っていないと倒れてしまいそうだった、まるで自らの内に地震(ない)が来たかのように。

 震えを(こら)えることの他、何もできなかった。それ以外のことをしようと、考えようとすれば、たちまちに貞明の内に溢れかえるだろう――忠行の裏切りという事実が。忠行への怒りが。さらには、目の前の男への怒りが。

 

 それでも、貞明は言ってしまった。

「もう一度……申してみよ」

 

 どこからか、ずぅ、と引きずる音がした。

 

 (まさる)は眉を寄せる。

「もう一度って、何をです」

 

 また、引きずる音がした。ずぅ、ずずぅ、と。

 

「私の見ているモノがどうした。忠行が、どうした」

 

 引きずる音が近づいてくる中、(まさる)は口を開いた。

「えぇえぇ、なんべんでも申し上げましょうとも。貴方様の御覧あそばすモノは嘘っぱち。忠行殿は、貴方様を見限って自ら裏切った。それだけでございますよ」

 

 貞明はなおも震えていた。(まなじり)の切れんばかりに目を見開いていた。内から()ぜ飛んでしまいそうなほどに、震えていた。

 

 ずぅ、と引きずる音は気づけば、貞明の足下に来ていた。

 そこにあるのは唐錦の袋に入った、掌に載るほどの包みと。もう一つ、細長い包み。

 

 気づけば、叫んでいた。

「もう一度っ、申してみよ!!」

 

 足下から波が噴き上がった。

そこにある二つの包み――清涼殿、夜の御殿(おとど)に置かれている神璽(しんじ)・宝剣。すなわち八尺勾璁(やさかのまがたま)そのものと、草薙の剣の形代(かたしろ)――から、水の気を帯びた(モノ)が遠洋の波の色をして黒く立ち昇り、寄り集まって水と化していた。

 

 水流はたちまちのうちに(まさる)を呑み込み、どこにも押し流すことなく留まった。まるで海を切り取ってそこへ置いたかのように、四角い水の柱のように。そこだけ、内裏の床から天井までを水が満たしていた。

 

 突然のことに水を肺腑まで飲んだか――この事態を、この水を認識しているのかどうかも分からないが――(まさる)は青黒い水の中、髪を乱し衣を乱し、しきりにもがき。口から泡を昇らせるばかり。

 

 貞明は未だ震えていた。

「もう一度申してみよ、もう一度申してみよ! もう一度っ……申してみよ!!」

 

 ――もう一度言ってみろ。

――言えるものならな。

 

 震え続ける頭の中の片隅がそう思い。

 どれほど経っていたか、気づいたときには水は無く。

 床に、(まさる)が倒れてぴくりとも動かず。

 その部屋の見える庭に、遠く。忠行が立ち尽くしているのが見えた。

 

 

 

 ――賀茂忠行はそのとき遠国での任を終え、宮中へと帰ったところだった。

 内裏の方で(モノ)の乱れ騒ぐのを感じ、陰陽寮への挨拶もせずに内裏へと向かった。

 帝の声のした方、(モノ)の騒ぐ場所へたどり着いたときには。帝が、(まさる)を殺していた。

 濡れ跡一つ残さず水が消え去り、(まさる)の体が力の欠片も無く床へ落ちるのを、何もできず見ていた、忠行は。

 

 帝は(まさる)を見ていた後、視線に気づいたのか忠行の方を見た。

 二人の男は口を開け、何も見ていないかのように茫洋(ぼうよう)と目を見開き。垂らした指にも力はなかった。

 同じ顔で、立ち尽くしていた。

 

 やがて、帝の上げていた声を聞きつけてきた人々は、(まさる)の骸と、その前で立ち尽くす帝を見た。

 

 

 

 ――我々の知る歴史において元慶七年、西暦にして883年、十一月十日。

 殿上に()していた源益(みなもとのまさる)猝然(そつぜん)として格殺された、と『三代実録』にある。

 

 宮中で起こったこの殺人について、それ以上の詳しい記述はない。誰がなぜ殺したのかすら記されてはいない。

 この殺人からほどなく、元慶八年、西暦にして884年、二月四日。陽成天皇は病のためと称して退位している。この日までに摂政へ自ら二度の文を送り、退位の意を告げた後のことであった。

 

 

 陽成天皇と乳母子(めのとご)の間に何らかのいさかいがあり、その中で帝が衝動的に殺してしまったのではないか。あるいは故意ではなく、突発的な事故に近いものではなかったか。

 だが、帝による殺人を問題視した摂政・藤原基経(もとつね)が、陽成天皇の廃位を決定したのではないか。あるいはその廃位は、天皇による親政が行なわれる可能性を怖れて画策したことではないか。

 一般には、そのように解されている。――

 

 

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