狐人と物狂いの帝 ~二人で一人の安倍晴明、仇を探す旅路にて空海と出会い、暴悪無双の上皇と相対する事~ 作:木下望太郎
――一方、同じ頃。
貞明の、かつての帝の過去を聞いた晴明――尾花丸――は、狐の顔を足元の砂に向けていた。
貞明が深く息をつく。自らを、そして忠行を嘲るように吐き捨てる。
「ま、そういうわけさ。仕様もないといえば仕様もないが、私と忠行の間の因縁はそういったわけだ……全く、下らぬものさ」
聞きながら、顔を深くうつむけながら。晴明は、震えていた。
「……晴明? どうし――」
貞明がかけた声を、海の方から聞こえた大きな声がさえぎった。浜の先、舟をもやう桟橋の先端で、純友が声を上げていた。
「
指差す先の海面では部下らの乗った舟が、波間に潜ってはまた浮かび上がる大魚を遠巻きに取り囲んでいた――逃げられる前に草薙剣の力を浴びせたため、彼らの目にも、もやに包まれたおぼろげな何かとしては
伝説にあるように舟など一呑みにできそうな巨大魚であったが。部下らは舟と舟の間の海中に網を張り渡し、盛んに
貞明が
「よし、行――」
その声をさえぎるように、あるいは純友の声に応えたように。晴明は声を上げていた。天を向いて、喉の白い毛をあらわに、
「くぅぅ……ォおおおーーゥ……」
狩衣が砂に汚れるのも構わず浜に両手をつき、四つ足で天へと身を反らして。安倍晴明は
「くぅぅ……ぉオオオオオオぉぉぉ――ン……」
「晴明、どうし――」
気づかうように手を差し伸べた貞明にも構わず。安倍晴明は海へと駆け出していた、四つ足で。獣のように。
噛みしめる長い口が震え、犬歯が剥き出しになる。鼻先に固くしわが寄っているのが自分でも分かった。片方だけ残った耳もまた、立ったままびりびりと震えている。
遠吠えせずにいられなかった。駆け出さずにはいられなかった。もし悪魚発見の報がなくとも、きっと晴明はそうしていた。
悔しかった。
我が事のように思えた、かつての貞明が。
誰にも理解されず、たった一人解ってくれたはずの友には裏切られた、貞明は。それを巡るいさかいの中で、
誰の目にも見えず、兄と母たった二人寄り添ってくれたうちの母に喰われかけた、晴明は。それを巡るいさかいの中で兄は母を殺し。晴明は、兄を殺そうとした。
――同じだ。おれト、同じ。
――貞じいハ、おれだ。
さらに脚に力がこもった。湿った砂を蹴立てて跳び、波に呑まれかけたところで短く吠えた。
命じる声に答えるように、海面から水の気を帯びたモノどもが浮かび。湧き上がる水流となって晴明の四つ足を支えた。
飛沫を跳ね上げながら、四つ足で海を駆ける。行く先行く先で追うように水流が吹き上がり、晴明を押し上げる。
沖で悪魚を取り囲む、舟の上の者らが水音に気づいてか、晴明の方を振り向いた。
「な……」
「なんだあっ、ありゃあっ」
「また何か、別の
何者かが海面を踏むように、次々と飛沫だけが上がっていく――貞明以外の者にはそのように見えるのだろう。
五
「なああに言ってんだてめえらあああ! 大陰陽師の安倍晴明サマが、走ってんのに決まってんだろおおがあああ! 伝説の悪魚ぶっ殺しに、伝説の大陰陽師サマが海の上走ってよおおお! だよなああ貞じいいい!」
同じ舟に乗った貞明は大声に耐えかねたか、耳を塞いで顔をしかめていた。
「伝説とやらは知らないが……そのとおり、我が友、安倍尾花丸――安倍晴明だ」
知らず。晴明の目は濡れていた。跳ね上がった
――おれハ、違ウ。
――昔のおれとハ違ウ、母様と兄様だけがいた、あの頃とハ違ウ。
――おれハ、違ウ。
――兄とは違ウ、貞じいの
そうして、笑った。
音を立てて水面を蹴り、小舟が張り巡らせた網を跳び越える。飛沫を海面に散らして悪魚の前へと躍り出た。
悪魚が体を巡らし、毒々しげな鱗が暗い虹のように水中で光る。赤だの青だのてんでんばらばらな色をした鱗が覆う巨大な体には、いくつも太矢や
悪魚は黒い頭を海面へ突き出し、
純友や貞明が声を上げるより早く。晴明は片手で結んだ印を突き出す。幼い頃母が狐の影絵を作ってみせた、その指の形。
もう片方の手で、浜からすくい取っていた砂を宙へと放つ。
「こノ時こノ場こノ声に応じ、
山神界感通の秘詞に応じるように、黄色く土の気を帯びたモノどもが砂粒から立ち昇る。それらはたちまち
大式神『
大魚にひけを取らぬ巨人は海面へと落下しながら土造りの剛腕を振るい、岩の拳を大魚の頭へと叩きつけ。一撃の下に、その頭蓋を砕き散らした。
拳に打たれた海面が揺れ、大波となって周囲の舟を揺らす。海賊らはどよめきと友に、船縁にそれぞれしがみついた。
「う、おおおおっ!? なんか分かんねえけど……やったのかああ!?」
純友の大声に貞明がうなずく。
「ああ、これほどとは! それにしても
二人の声に構うことなく、晴明は沈みゆく悪魚の方へと駆けた。
その体が海に没してしまう前に、海面に突き出た毒々しい色の体をつかみ。大口開けて、かぶりついた。
「な……何をしている、尾花丸っ、晴明! その魚は毒魚だと語ったはず、伝説にも――」
貞明の声に構わず、晴明はさらに咬みつき、かじり取り、
母に
ならば、喰らってやる。毒でも何でも構うものか。
力が――力が、欲しい。
かつて草薙剣の力を借りて母を蘇らせたとき。母には半ば、実体がなかった――確かな肉体を持たぬ
だが、あのときの尾花丸に、晴明にもっと力があったなら。母を止めることも――殺さず止めることも――できただろう。どころか、そうする必要すらなく、母を完全な姿で蘇らせることもできたのではないか。
かつての貞明だってそうだ、誰の目にも明らかなほどの力があったなら、神器がなくともその力を使えたなら。きっと、あのような事にはならなかったはずだ。
いや――
あのような事には、決してさせない。させるものか。
――そのために、力が欲しい。力が要る。
虹色にぬめる鱗を犬歯で噛み砕き、黒い血に顔中の毛が濡れるのも構わず。毒魚の赤黒い肉を喰らっていた。狐の顔の安倍晴明は。
「えええ、何い!? 尾花の奴があ!? 毒魚喰ってんのかあ!?」
「いかん、手当てをっ、
慌てて舟の水桶を持ち出す二人を横目に。
ぴりぴりとした毒の感覚が舌から
「助けテやル……おれガ。貞じいも、母様も」
そうだ、きっと助けてやる。貞明が悲しみ怒る必要のない世を、母が隠れ潜む必要のない世を、創ってみせる。純友とも、一緒に暴れてやる。
さらなる神、こんな妖物とは違う大いなる神の力を、晴明自身と草薙剣に得てやる。そのために神域へ向かう――貞明が言っていた場所『
「いかんっ、沈み始めたぞ!?」
「えええっっ!? 元々見えねえってのによお、どこ行ったか分かんねえよおお!?」
海中で二人の声を遠く聞きながら。晴明は痺れた体を水流にたゆたうままにし。放たれた投網に、巻かれるに任せていた。