狐人と物狂いの帝 ~二人で一人の安倍晴明、仇を探す旅路にて空海と出会い、暴悪無双の上皇と相対する事~   作:木下望太郎

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六十一話  大いなる精(モノ)の主

 

 下草を踏み締め、落ち葉を踏み破る音を立てながら歩を進める。一足登るごとに空気が変わっていくのが分かった。息苦しくさえあった。といって、大気が薄まるような高山ではない。むしろ濃くなっていた。山道の周囲を覆う木々や茂る草と共に。

 

 晴明も今は輿(こし)を降り、自らの足で歩いている。一歩行くごとに苔が足へと、弾むような反動を分厚く返す。そこから立ち昇る、胞子か埃か微細な塵(ちり)状のもの、あるいは精(モノ)。

 

 濃くなっていたのは大気ではない。辺りの草木の色の強さであり、波の如く跳ね上がり火の如く燃え立つかのように生(お)う樹勢(じゅせい)であり、立ち昇り立ち込める生気だった。

 倒木をびっしりと覆い土へと還しゆく苔(こけ)から、積もる落ち葉との境目を忘れた土から。木々の呼吸に浸(ひた)された風から、地の奥を巡り根へ吸い上げられ、草木の内を密やかに巡る水流から。火の如き熱を血に巡らせ、それらの間を飛ぶ小さな鳥から。あるいは鳥に混じって飛びゆき、あるいはたゆたう精(モノ)ども――羽根を具(そな)えて不器用に飛ぶ苔玉(こけだま)、岩の鱗を擦る音を立てて這う蛇。雀ほどもあるおたまじゃくしどもが尾を揺らして後脚で駆け巡る――から。

 目に見えぬ蒸気のように、生気が立ち昇り立ち込めていた。胸に吸うたび熱いほどに。

 

「この国でも正に指折りの神域――そう言っていいだろうね、ここは」

 額の汗を拭い、歩きながら貞明は続けた。

「何せこの地に鎮まるものは、太古の日本を領有していた神々の中でも最大の存在。かつてのこの国を、記紀――『古事記』『日本書紀』――に記された内容に倣(なら)えば〈磐根(いわね)、木株(このもと)、草葉(かやのかきば)も猶(なお)能(よ)く言語(ものい)ふ〉――岩や草木さえも言葉を語る――〈道速振(ちはやぶ)る荒振(あらぶ)る国つ神等(ども)の多(さわ)に在り〉〈水穂国(みずほのくに)は、いたくさやぎて有り〉――猛々しく荒くれた国津神らが多く在り、日本はひどくさわがしい――、そんな状態で在らしめていた神々のね」

 

 山道の向こう、社(やしろ)があるのだろう方向へ顔を向ける。

「精(モノ)とはつまり命。正確に言えば、我々のような生き物やあるいは神のような、はっきりとした形を成す前の生命。者(もの)と物(もの)との間であり、どちらでも在り得る精(モノ)。それらが満ち満ちていた太古の国土に、あるいは者(もの)と物(もの)との区別はなかった。区別の必要がないほどに、精(モノ)で、生命で満ち溢れていた」

 

 

 前を行く純友が振り向く。

「難しい話は分かんねえけどよお、この山がなんともすげえってのは分かるぜ。風に葉っぱの匂いがするしよお。青々とした葉の匂いも、土に還る落ち葉の、虫の腹みてえな匂いも。なんもかも活き活きしてるっつうか、かいた汗さえ躍り出しそうなよ」

 

 晴明もうなずく。

 生気に満ちている、この地は。おそらく、そこに在る神の力によって。あるいは、これがかつてのこの国の姿なのだろうか。

 いや、貞明によれば封じられているということだった、その神は。ならば、封印を解いたときには。今以上の生気が溢れるということか、貞明が語った太古の日本のように。

 

 そうなれば膨大な精(モノ)が満ち満ち、人も精(モノ)を認識する。あまりにもそれらが濃く存在するゆえに。おそらくそれらに触れた人間が、精(モノ)を視る眼をこじ開けられるほどに。

 そうすれば。晴明も、誰の目にも映る。

 それに。精(モノ)や妖(あやかし)の溢れる世になれば、母も――蘇らせた後の母も――その中で生きられるだろう。

 

 そこまで考えて、晴明は思い出す。物心つくかつかぬかの頃に嗅いだ、母の胸の匂いを。甘く、薄く血のにおいを秘めた乳の香りを。

 同時に思い出す。草薙剣の力で蘇ったときの母の姿を。牙を剥いた形相、大事に取っておいた食い物を見るかのような、尾花丸に向ける眼差しを。

 そうして母は、尾花丸の右耳に牙を突き立て。肉と皮を裂く音を立てて喰いちぎった。

 

「……!」

 痛みが走り、晴明は右耳のあった箇所を押さえていた。

離した手には血がついていた。

 

 ――母様を蘇らせる。そうするはずだ、俺は。

 ――あの母を。それから、俺は? それから、母は? 

 

「どうした、傷が痛むかね」

 

 顔をのぞき込む貞明に、首を横に振ってみせる。

「……別に。それヨり、まだ着かナいのか」

 

「気の早いことだ、私のような年寄りでも文句一つなく登っているというのにね。そうだ、爺(じじ)が昔話でもしてあげよう。この地に奉られし神の由来をね」

 

 

 

 ――貞明が語った金刀比羅宮(ことひらぐう)とそこに奉られる神について、現代に生きる我々の知識を交えて説明するならば。それはおおむね、このような内容であった。

 

 琴平(ことひら)の社(やしろ)に奉られる神は――あるいは祭神未詳、あるいは天竺(てんじく)より来たれる仏神との異説もあるが――『大物主神(おおものぬしのかみ)』。

 

 大物主とは何か。

 いくつもの側面を持つその神について、結論からいえば――

 祟(たた)る神である。この国土において人民の大半を死滅させてなお、平然としていた荒ぶる神である。

 

 さらにいえば。

 かつてこの国土を領有していた荒ぶる神ら、国津神の中で最大の存在。

 そして草薙剣は、かの神のものである。いや、かの神のほんの一部が、草薙剣であるに過ぎなかった。

 

 

『日本書紀』崇神(すじん)天皇五年の条にはこうある。

「国の内に疾病(えやみ)多くして、民(おおみたから)死亡(まかる)る者有りて、且(か)つ大半(なかばにす)ぎなんとす」(日本に疫病が流行り、民の半数以上が亡くなった)

 そこで、時の帝である崇神天皇は天照大御神(あまてらすおおみかみ)と倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)を宮中に奉り、天神地祇(てんじんちぎ)――天津神と国津神――へ朝に夕に祈りを捧げたという。

 

 ところが、その記述の直後に奇妙なことが語られている。

 せっかく奉った天照大御神(あまてらすおおみかみ)、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)を、その霊威を畏(おそ)れて宮中から遠ざけ、それぞれ別の社(やしろ)に奉ったというのである。

 そして、天照大御神(あまてらすおおみかみ)――天津神であり天皇家の祖とされる存在――を奉ることは問題なくできたものの。倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)を奉る巫女は、髪が抜け落ち体は衰え、その役目を果たすことができなくなってしまった。おそらくは、時の帝すらも畏れるその神の霊威に当てられて。

 

 自らを奉る者にすら祟る、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)とは何者であるか。

 崇神天皇は天神地祇(てんじんちぎ)――天津神と国津神――を奉った。天津神の長たる神が天照大御神(あまてらすおおみかみ)であるなら、共に奉られた倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)は当然、国津神――かつて日本を領有するも、天津神によって征討された、服従させられた神々――の長である。

 

 天地(あめつち)の初め、伊奘諾尊(いざなぎのみこと)、伊奘冉尊(いざなみのみこと)の夫婦神が日本の国土を産み給うた後。その国土を造り固めた国津神の長の名について、『日本書紀』にはこうある。

 大国主神(おおくにぬしのかみ)。またの名を国作大己貴命(くにつくりおおなむちのみこと)。別名として葦原醜男(あしわらのしこお)、八千戈神(やちほこのかみ)、顕国玉神(うつしくにたまのかみ)。

 さらに別名として大国玉神(おおくにたまのかみ)。そして大物主神(おおもぬしのかみ)、とも。

 

 つまり。

 帝さえも畏れた国津神の長、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)はそのまま、大国玉神(おおくにたまのかみ)。そして大物主神(おおもぬしのかみ)である。

 

 崇神天皇の治世のその後について『日本書紀』にはこうある。

 帝が卜占(ぼくせん)によって災いの原因を求めたところ、ある神のお告げがあった。

「天皇、復(また)な愁(うれ)へましそ。国の治まらざるは是(これ)我が意(こころ)なり」〈国に災いがあったのは我が意思である。憂うことはない〉

 

 自らの意で民の大半を死に至らしめておいて、憂うなと言い放つ。その畏(おそ)るべき啓示を語った神はこう名乗った。大物主神(おおもぬしのかみ)と。

 

 その神は告げた、〈もし我をよく敬い奉れば、必ず世は鎮まるであろう〉と。

 そうして、かの神の言うとおりの方法で奉ったところ疫病は収まった。天津神の長を奉ってすら、鎮められなかった災いが。

 そうして世は鎮まり、五穀はよく実って民は栄えたという。――

 

 

 

「――というわけだ。国作りの神にして、その国を亡(ほろ)ぼしかけた神。天津神にも抑えられぬ祟(たた)り神にして、豊穣の神。それが大物主(おおもぬし)。そうしてさらにいえば、だ。奇妙な言い伝えがあるのだよ、この神について」

 歩きながら、貞明は薄く笑う。

「ところで。一年のうちこう呼ばれる月があることは知っているかな。『神無月(かんなづき)』」

 

 晴明は鼻で息をつく。

「それぐらイ知っテるさ、十月だろウ。なんでも、その時には出雲(いずも)に神様が集まルから、国中から神様がいなクなルって」

 

「そのとおり。だが、それに当てはまらない神がいることはご存知かな。つまり、神無月(かんなづき)に出雲(いずも)へ行かない神が在る。こんな言い伝えがあるのだよ――金毘羅(こんぴら)様が十月に出雲(いずも)大社へ顔を出したら、他の神から『お前の体は長いがどこまで続いているのか』と問われた。『尾は家の方にある』と応えたら『それなら来なくてよい』と言われた。以来、金毘羅(こんぴら)様は十月にも出雲(いずも)に行かない留守居神となったという。……それではと帰ったら、今度は尾の方が出雲(いずも)に来た――とまで続ければ笑い話だがね」

 

 貞明は笑みを浮かべ、晴明の顔をのぞき込んだ。

「要は、だ。金毘羅(こんぴら)様、つまり大物主は『蛇の如き長い体であり』『神無月(かんなづき)にも出雲(いずも)に行くことはない』。そして、同じような留守居神の言い伝えが他の地にも存在する。武蔵国の六所明神、諏訪(すわ)の地の諏訪(すわ)明神などだが、そこにはある共通点が存在する――いずれも『蛇体をした神』であるという、ね。……つまり。『蛇神は、出雲に来てはならない』」

 

 晴明は目を瞬かす。

「何デ? 何デ蛇の神様は、出雲に来ちゃいけナいんダよ?」

 

 貞明は微笑み、前を向いて歩を進める。

「その話をする前に、一つつけ加えておかねばなるまいね。崇神天皇は奉っていた天照大御神(あまてらすおおみかみ)と倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)を宮中から遠ざけた、とはすでに語ったが。これはつまりどういうことか?」

 

 自ら肩に吊った荷袋をなでて続けた。

「『古語拾遺(こごしゅうい)』にはこうある。神武天皇の代に、八尺鏡(やたのかがみ)と草薙剣が宮中に奉られた。だがその後、崇神天皇はその神威を畏(おそ)れ、それら神器を宮中から離して奉った。宮中においては、それら神器の形代を造って奉った、と。つまり」

 

 荷袋を強くつかむ。その内の、草薙剣を納めた箱を。

「崇神天皇が遠ざけた天照(あまてらす)とは、すなわち八尺鏡(やたのかがみ)。これは無理のないことだ、『古事記』にも〈此(こ)の鏡は専(もは)ら我が御魂として、吾(わ)が前を拝(おろが)むが如く斎奉(いつきたてまつ)れ〉――我、天照(あまてらす)そのものとして八尺鏡(やたのかがみ)を奉れ、とある。であれば、遠ざけたもう一方、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)とは? 当然、遠ざけられたもう一つの神器――草薙剣だ」

 

 前を行く純友が音を立てて頭をかく。

「何べんか聞いたけどよお、結局何だ、倭大国魂(やまとおおくにたま)ってのが国津神の長で、大物主で、これから行くとこの神さんの金毘羅(こんぴら)さんで?  で、そいつが何で草薙剣なんだったっけ?」

 

 晴明としては初めて聞く話だったが、腹心たる純友は何度も説明を受けた内容なのだろう。全てを理解しているわけではないらしいが。

 

 貞明は息をつく。

「何度も言ったことだろうに。いいかね、天津神から子孫たる天皇家へ与えられた三種の神器。このうち草薙剣だけは『そもそも国津神に由来する』。この剣がどのように現れたかは知っているね」

 

 荒ぶる神、須佐之男命(すさのおのみこと)が出雲の地で八俣大蛇(やまたのおろち)を討ち、その尾から取り出した。記紀神話にはそう伝えられている。

 

 貞明は指折り数え上げる。

「大蛇(おろち)もまたその地における畏(かしこ)きもの、霊威あるものであればすなわち神――地祇(くにつかみ)。その尾から現れた草薙剣。宮中において奉られていたとき、国津神の長を象徴する神器もまたそれ。そして国津神の長は、つまり大物主は――」

 

 導かれるように晴明はつぶやく。

「――蛇の、体をしテる。つまり……『大物主は』『草薙剣に象徴さレる蛇であるそれは』『八俣大蛇(やまたのおろち)である』……」

 

 貞明は微笑んでうなずく。

 

 純友が拳の底を大きな手に打ちつけた。

「あー! あー、あーあー……そういやそういうことだったなあ!」

 

「とはいえ、その結論をまったくそのまま受け取るわけにはいかないがね。何しろ、記紀神話においては八俣大蛇(やまたのおろち)が討たれた後に大国主(おおくにぬし)――先に挙げた国津神の長であり、大物主の異名――の活躍がある、という矛盾がある。だが、これもこのような解釈が可能だ。『八俣大蛇(やまたのおろち)とは、複数の神から成る存在である』」

 

 晴明が目を瞬かせていると、貞明は続けた。

「記紀にはいずれも『大国主と大物主の出会い』が描かれているのだよ。そもそも同体異名とされるはずの彼らのね。それを併せて考えるに『国津神の長は複数いた』――『天津神勢力に対する国津神らの連合勢力』『各勢力の代表たる蛇神たちから成る、彼らの首長陣。それが八俣大蛇(やまたのおろち)』」

 

 晴明はつぶやく。

「『蛇神は出雲に来テはならナい』、っていウのも――」

 

「ああ。天津神に征討された後の彼ら、八俣大蛇(やまたのおろち)はおそらく各地へ、別れ別れに封じられたのだろう。ある神は諏訪(すわ)へ、ある神は武蔵へ、またある神は讃岐へ。彼らが再び出会うことのないよう、集うことを禁じられた」

 貞明はそこまで語り、静かに歯を剥いた。

「だが。その神に私が返そうというのだよ、彼らのものたる草薙剣をね。それが神話のとおりに彼らの肉体の一部であったものか、それとも神話はあくまで象徴であって、たとえば彼らが宝としていたものなのかは分からないがね。……そうしておそらく、彼ら複数の長でも最大の存在が。ここ、讃岐(さぬき)は金刀比羅宮(ことひらぐう)の大物主だ。なぜそう推定されるかといえば――」

 

 そこで言葉を切り、貞明は足を止めた。大きく息をつき、汗を拭う。

「ようやく。着いたようだね」

 

 先を行く純友がこちらへ手を振り、もう片方の手で指差す先には。檜皮(ひわだ)拭きの屋根が緑に苔生(こけむ)す、旧(ふる)い社(やしろ)が見えていた。

 

 足を止めた晴明は気づいた。空気に、重さが無い。

 先ほどまであれほど濃かった生気が、乾き果てていた。

 視線を巡らすも、地にも宙にも枝葉のどこにも、精(モノ)の姿が見えなかった。まるでこの先に在る大いなるモノを、畏(おそ)れて身を隠したかのように。

 

 

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