下草を踏み締め、落ち葉を踏み破る音を立てながら歩を進める。一足登るごとに空気が変わっていくのが分かった。息苦しくさえあった。といって、大気が薄まるような高山ではない。むしろ濃くなっていた。山道の周囲を覆う木々や茂る草と共に。
晴明も今は輿を降り、自らの足で歩いている。一歩行くごとに苔が足へと、弾むような反動を分厚く返す。そこから立ち昇る、胞子か埃か微細な塵状のもの、あるいは精。
濃くなっていたのは大気ではない。辺りの草木の色の強さであり、波の如く跳ね上がり火の如く燃え立つかのように生う樹勢であり、立ち昇り立ち込める生気だった。
倒木をびっしりと覆い土へと還しゆく苔から、積もる落ち葉との境目を忘れた土から。木々の呼吸に浸された風から、地の奥を巡り根へ吸い上げられ、草木の内を密やかに巡る水流から。火の如き熱を血に巡らせ、それらの間を飛ぶ小さな鳥から。あるいは鳥に混じって飛びゆき、あるいはたゆたう精ども――羽根を具えて不器用に飛ぶ苔玉、岩の鱗を擦る音を立てて這う蛇。雀ほどもあるおたまじゃくしどもが尾を揺らして後脚で駆け巡る――から。
目に見えぬ蒸気のように、生気が立ち昇り立ち込めていた。胸に吸うたび熱いほどに。
「この国でも正に指折りの神域――そう言っていいだろうね、ここは」
額の汗を拭い、歩きながら貞明は続けた。
「何せこの地に鎮まるものは、太古の日本を領有していた神々の中でも最大の存在。かつてのこの国を、記紀――『古事記』『日本書紀』――に記された内容に倣えば〈磐根、木株、草葉も猶能く言語ふ〉――岩や草木さえも言葉を語る――〈道速振る荒振る国つ神等の多に在り〉〈水穂国は、いたくさやぎて有り〉――猛々しく荒くれた国津神らが多く在り、日本はひどくさわがしい――、そんな状態で在らしめていた神々のね」
山道の向こう、社があるのだろう方向へ顔を向ける。
「精とはつまり命。正確に言えば、我々のような生き物やあるいは神のような、はっきりとした形を成す前の生命。者と物との間であり、どちらでも在り得る精。それらが満ち満ちていた太古の国土に、あるいは者と物との区別はなかった。区別の必要がないほどに、精で、生命で満ち溢れていた」
前を行く純友が振り向く。
「難しい話は分かんねえけどよお、この山がなんともすげえってのは分かるぜ。風に葉っぱの匂いがするしよお。青々とした葉の匂いも、土に還る落ち葉の、虫の腹みてえな匂いも。なんもかも活き活きしてるっつうか、かいた汗さえ躍り出しそうなよ」
晴明もうなずく。
生気に満ちている、この地は。おそらく、そこに在る神の力によって。あるいは、これがかつてのこの国の姿なのだろうか。
いや、貞明によれば封じられているということだった、その神は。ならば、封印を解いたときには。今以上の生気が溢れるということか、貞明が語った太古の日本のように。
そうなれば膨大な精が満ち満ち、人も精を認識する。あまりにもそれらが濃く存在するゆえに。おそらくそれらに触れた人間が、精を視る眼をこじ開けられるほどに。
そうすれば。晴明も、誰の目にも映る。
それに。精や妖の溢れる世になれば、母も――蘇らせた後の母も――その中で生きられるだろう。
そこまで考えて、晴明は思い出す。物心つくかつかぬかの頃に嗅いだ、母の胸の匂いを。甘く、薄く血のにおいを秘めた乳の香りを。
同時に思い出す。草薙剣の力で蘇ったときの母の姿を。牙を剥いた形相、大事に取っておいた食い物を見るかのような、尾花丸に向ける眼差しを。
そうして母は、尾花丸の右耳に牙を突き立て。肉と皮を裂く音を立てて喰いちぎった。
「……!」
痛みが走り、晴明は右耳のあった箇所を押さえていた。
離した手には血がついていた。
――母様を蘇らせる。そうするはずだ、俺は。
――あの母を。それから、俺は? それから、母は?
「どうした、傷が痛むかね」
顔をのぞき込む貞明に、首を横に振ってみせる。
「……別に。それヨり、まだ着かナいのか」
「気の早いことだ、私のような年寄りでも文句一つなく登っているというのにね。そうだ、爺が昔話でもしてあげよう。この地に奉られし神の由来をね」
――貞明が語った金刀比羅宮とそこに奉られる神について、現代に生きる我々の知識を交えて説明するならば。それはおおむね、このような内容であった。
琴平の社に奉られる神は――あるいは祭神未詳、あるいは天竺より来たれる仏神との異説もあるが――『大物主神』。
大物主とは何か。
いくつもの側面を持つその神について、結論からいえば――
祟る神である。この国土において人民の大半を死滅させてなお、平然としていた荒ぶる神である。
さらにいえば。
かつてこの国土を領有していた荒ぶる神ら、国津神の中で最大の存在。
そして草薙剣は、かの神のものである。いや、かの神のほんの一部が、草薙剣であるに過ぎなかった。
『日本書紀』崇神天皇五年の条にはこうある。
「国の内に疾病多くして、民死亡る者有りて、且つ大半ぎなんとす」(日本に疫病が流行り、民の半数以上が亡くなった)
そこで、時の帝である崇神天皇は天照大御神と倭大国魂神を宮中に奉り、天神地祇――天津神と国津神――へ朝に夕に祈りを捧げたという。
ところが、その記述の直後に奇妙なことが語られている。
せっかく奉った天照大御神、倭大国魂神を、その霊威を畏れて宮中から遠ざけ、それぞれ別の社に奉ったというのである。
そして、天照大御神――天津神であり天皇家の祖とされる存在――を奉ることは問題なくできたものの。倭大国魂神を奉る巫女は、髪が抜け落ち体は衰え、その役目を果たすことができなくなってしまった。おそらくは、時の帝すらも畏れるその神の霊威に当てられて。
自らを奉る者にすら祟る、倭大国魂神とは何者であるか。
崇神天皇は天神地祇――天津神と国津神――を奉った。天津神の長たる神が天照大御神であるなら、共に奉られた倭大国魂神は当然、国津神――かつて日本を領有するも、天津神によって征討された、服従させられた神々――の長である。
天地の初め、伊奘諾尊、伊奘冉尊の夫婦神が日本の国土を産み給うた後。その国土を造り固めた国津神の長の名について、『日本書紀』にはこうある。
大国主神。またの名を国作大己貴命。別名として葦原醜男、八千戈神、顕国玉神。
さらに別名として大国玉神。そして大物主神、とも。
つまり。
帝さえも畏れた国津神の長、倭大国魂神はそのまま、大国玉神。そして大物主神である。
崇神天皇の治世のその後について『日本書紀』にはこうある。
帝が卜占によって災いの原因を求めたところ、ある神のお告げがあった。
「天皇、復な愁へましそ。国の治まらざるは是我が意なり」〈国に災いがあったのは我が意思である。憂うことはない〉
自らの意で民の大半を死に至らしめておいて、憂うなと言い放つ。その畏るべき啓示を語った神はこう名乗った。大物主神と。
その神は告げた、〈もし我をよく敬い奉れば、必ず世は鎮まるであろう〉と。
そうして、かの神の言うとおりの方法で奉ったところ疫病は収まった。天津神の長を奉ってすら、鎮められなかった災いが。
そうして世は鎮まり、五穀はよく実って民は栄えたという。――
「――というわけだ。国作りの神にして、その国を亡ぼしかけた神。天津神にも抑えられぬ祟り神にして、豊穣の神。それが大物主。そうしてさらにいえば、だ。奇妙な言い伝えがあるのだよ、この神について」
歩きながら、貞明は薄く笑う。
「ところで。一年のうちこう呼ばれる月があることは知っているかな。『神無月』」
晴明は鼻で息をつく。
「それぐらイ知っテるさ、十月だろウ。なんでも、その時には出雲に神様が集まルから、国中から神様がいなクなルって」
「そのとおり。だが、それに当てはまらない神がいることはご存知かな。つまり、神無月に出雲へ行かない神が在る。こんな言い伝えがあるのだよ――金毘羅様が十月に出雲大社へ顔を出したら、他の神から『お前の体は長いがどこまで続いているのか』と問われた。『尾は家の方にある』と応えたら『それなら来なくてよい』と言われた。以来、金毘羅様は十月にも出雲に行かない留守居神となったという。……それではと帰ったら、今度は尾の方が出雲に来た――とまで続ければ笑い話だがね」
貞明は笑みを浮かべ、晴明の顔をのぞき込んだ。
「要は、だ。金毘羅様、つまり大物主は『蛇の如き長い体であり』『神無月にも出雲に行くことはない』。そして、同じような留守居神の言い伝えが他の地にも存在する。武蔵国の六所明神、諏訪の地の諏訪明神などだが、そこにはある共通点が存在する――いずれも『蛇体をした神』であるという、ね。……つまり。『蛇神は、出雲に来てはならない』」
晴明は目を瞬かす。
「何デ? 何デ蛇の神様は、出雲に来ちゃいけナいんダよ?」
貞明は微笑み、前を向いて歩を進める。
「その話をする前に、一つつけ加えておかねばなるまいね。崇神天皇は奉っていた天照大御神と倭大国魂神を宮中から遠ざけた、とはすでに語ったが。これはつまりどういうことか?」
自ら肩に吊った荷袋をなでて続けた。
「『古語拾遺』にはこうある。神武天皇の代に、八尺鏡と草薙剣が宮中に奉られた。だがその後、崇神天皇はその神威を畏れ、それら神器を宮中から離して奉った。宮中においては、それら神器の形代を造って奉った、と。つまり」
荷袋を強くつかむ。その内の、草薙剣を納めた箱を。
「崇神天皇が遠ざけた天照とは、すなわち八尺鏡。これは無理のないことだ、『古事記』にも〈此の鏡は専ら我が御魂として、吾が前を拝むが如く斎奉れ〉――我、天照そのものとして八尺鏡を奉れ、とある。であれば、遠ざけたもう一方、倭大国魂神とは? 当然、遠ざけられたもう一つの神器――草薙剣だ」
前を行く純友が音を立てて頭をかく。
「何べんか聞いたけどよお、結局何だ、倭大国魂ってのが国津神の長で、大物主で、これから行くとこの神さんの金毘羅さんで? で、そいつが何で草薙剣なんだったっけ?」
晴明としては初めて聞く話だったが、腹心たる純友は何度も説明を受けた内容なのだろう。全てを理解しているわけではないらしいが。
貞明は息をつく。
「何度も言ったことだろうに。いいかね、天津神から子孫たる天皇家へ与えられた三種の神器。このうち草薙剣だけは『そもそも国津神に由来する』。この剣がどのように現れたかは知っているね」
荒ぶる神、須佐之男命が出雲の地で八俣大蛇を討ち、その尾から取り出した。記紀神話にはそう伝えられている。
貞明は指折り数え上げる。
「大蛇もまたその地における畏きもの、霊威あるものであればすなわち神――地祇。その尾から現れた草薙剣。宮中において奉られていたとき、国津神の長を象徴する神器もまたそれ。そして国津神の長は、つまり大物主は――」
導かれるように晴明はつぶやく。
「――蛇の、体をしテる。つまり……『大物主は』『草薙剣に象徴さレる蛇であるそれは』『八俣大蛇である』……」
貞明は微笑んでうなずく。
純友が拳の底を大きな手に打ちつけた。
「あー! あー、あーあー……そういやそういうことだったなあ!」
「とはいえ、その結論をまったくそのまま受け取るわけにはいかないがね。何しろ、記紀神話においては八俣大蛇が討たれた後に大国主――先に挙げた国津神の長であり、大物主の異名――の活躍がある、という矛盾がある。だが、これもこのような解釈が可能だ。『八俣大蛇とは、複数の神から成る存在である』」
晴明が目を瞬かせていると、貞明は続けた。
「記紀にはいずれも『大国主と大物主の出会い』が描かれているのだよ。そもそも同体異名とされるはずの彼らのね。それを併せて考えるに『国津神の長は複数いた』――『天津神勢力に対する国津神らの連合勢力』『各勢力の代表たる蛇神たちから成る、彼らの首長陣。それが八俣大蛇』」
晴明はつぶやく。
「『蛇神は出雲に来テはならナい』、っていウのも――」
「ああ。天津神に征討された後の彼ら、八俣大蛇はおそらく各地へ、別れ別れに封じられたのだろう。ある神は諏訪へ、ある神は武蔵へ、またある神は讃岐へ。彼らが再び出会うことのないよう、集うことを禁じられた」
貞明はそこまで語り、静かに歯を剥いた。
「だが。その神に私が返そうというのだよ、彼らのものたる草薙剣をね。それが神話のとおりに彼らの肉体の一部であったものか、それとも神話はあくまで象徴であって、たとえば彼らが宝としていたものなのかは分からないがね。……そうしておそらく、彼ら複数の長でも最大の存在が。ここ、讃岐は金刀比羅宮の大物主だ。なぜそう推定されるかといえば――」
そこで言葉を切り、貞明は足を止めた。大きく息をつき、汗を拭う。
「ようやく。着いたようだね」
先を行く純友がこちらへ手を振り、もう片方の手で指差す先には。檜皮拭きの屋根が緑に苔生す、旧い社が見えていた。
足を止めた晴明は気づいた。空気に、重さが無い。
先ほどまであれほど濃かった生気が、乾き果てていた。
視線を巡らすも、地にも宙にも枝葉のどこにも、精の姿が見えなかった。まるでこの先に在る大いなるモノを、畏れて身を隠したかのように。