狐人と物狂いの帝 ~二人で一人の安倍晴明、仇を探す旅路にて空海と出会い、暴悪無双の上皇と相対する事~ 作:木下望太郎
神さびた、枯れたような
この宮は
二礼と二
「
貞明の声が岩肌の前に穏やかに響く。
純友以下、身を
一人、誰の目にも映らず貞明の傍らにいる、晴明だけが顔を上げ。続く
「――を
風が、湿った。
そう感じられたのは晴明のひげと鼻だけであったか、純友らも貞明も変わった様子はなかった。
草薙剣が、ぶ、と震えた。
男たちがどよめき、貞明の声が止まる。
そうして、貞明は笑った。
「ふ。……ふふ、そうか、そうだな大物主よ、嬉しいかね。草薙剣よ、お前も懐かしいかね。……私も、同じ気持ちだ」
歯を剥き、天を突くように剣を高く捧げ持った。
「さあ、共に造り還そうではないかこの世を、お前たちの懐かしき世へと。静かなる今の世ではない、岩も草木も
草薙剣がさらに震え、虫の羽音のような音を立てる。沸き始めた湯から泡が吹き上がるように、ぽつ、ぽつと光る
見れば。岩肌から、辺りの草木から、湿る風の内から。男たちの足下、地面から、同じく
ぶ、と震えた、一斉に。草薙剣も全ての
男たちのどよめきが強まり、転ぶ者も多くあった。純友でさえよろめき、片手をひざについていた。
晴明は長い口を開け、いつの間にか雷雲の如く曇る空の下、輝きを強める剣を見ていた。
貞明は強く立ち、剣を掲げていた。
「さあ、今こそ
続いて口を動かした貞明の言葉は、しかしかき消された。天から降る、別の大声の内に。
「待てッッ! 待て、貞じい、
見上げれば。龍――としか見えないもの――の、長くうねる背の上に。たてがみにしがみついた兄が、そしてなぜか、賀茂忠行――母の仇――がいた。角をつかんだ、見知らぬ僧も。
兄が僧の方を見上げてわめく。
「待てッ、ちょお待ておっさん! これ、どうやって降りるんじゃ!?」
こうや。僧の口がそう動くと同時、天を駆けて落ちる稲妻のように、龍が晴明らの方へと
――轟音が静まった後、立ち込める土煙の中で。兄たる清明は自分が地に立っていることに気づいた。片手を握っては開き、自分の頬を触っては耳を引っ張り、狐耳も同じようにしてみる。もう片手に握り締めていた、剣の袋も触ってみる。
肉体のいずれにも、確かな感覚があった。白羽草薙剣は袋の内で硬い感触を返し、壊れた箇所はないようだった。
「良かったァ……」
崩れ落ちるように地にひざをつき、両手も地べたにつける。肩が震え、笑みがこぼれ、涙が湧き出て地に落ちた。鼻水も。
それを手で拭い、泥だらけの顔になったところで。
薄まった土煙の中、目の前に。弟が立っていたのに気づいた。
「えー、と……久し、振りやな。
固く無言の弟の前で、地べたにひざをついたままそう言い。
立ち上がって手の土を払い、ひざの土も払い。顔の土を袖で拭って、咳払いした後。表情を正した。
「久し振りやな、
――土煙の中、忠行は。その向こうにいる影へと真っ直ぐに向き合っていた。砂埃のうちにも分かる、光る
「院よ。もう、
深く深く、頭を下げる。
「
土煙の向こうで人影がつぶやく。
「……忠行」
忠行は顔を上げる。
「はい」
「賀茂忠行。……か・も・の・た・だ・ゆ・きぃぃっ!」
引き裂けるような叫びと共に、光る剣が繰り出される。
とっさに身を引いた忠行の前で。振り払われた土埃の中、貞明が顔を歪めていた。
「忠行、忠行よ。……よくもこの私の前に、のこのこと顔を出せたものだなあ。ん?」
忠行が無言でいると、貞明はなおも頬を震わせた。
「いや会いたかった、会いたかったよ賀茂忠行、だがお前の頼みは聞けないね」
突きつけるように、草薙剣の切先を向ける。
「殺してやりたいとは思っているが、今も思っているがそれだけでは足りないね。お前を血と泥にまみれさせ、地べたに
目を背けるように、忠行は顔をうつむけたが。
再び向き合い、手に印を結んだ。
――空海は縮んで小蛇へと変じた龍を、
「よう頑張ってくれた、おかげさんでどうにか間に
見れば、薄まりつつある土煙の中。遠巻きに自分や清明らを囲み、武装した男たちが刃を向けていた。
「っとと、そう易々とはいかんか。しゃあないの」
苦笑する空海の前に、男が一人歩み出た。ざんばら髪を背に流した、上背高く肩幅の広い、分厚い偉丈夫。囲みを作った他の者たちと同じく身を
「よおう、坊さん。なんか知らねえけどすんげえな、今の! まさか飛んでくるなんてよう! 初めて見たぜ人が飛ぶとこなんて、話に聞く
大きな男は人なつこい犬のような、大きな瞳を空海に向ける。どうやら、龍や
空海も笑う。
「そうやの、事が終わりゃあお前も乗せてやろうわい。ただし、お前らがとっとと手ぇ引いて無事に――」
言葉の途中で。背後から横から雄叫びと共に、武装した男たちの槍刀が繰り出される。
「――終わりゃええんやけどの。お前らが無事に」
つぶやく空海の周囲を、武器を携えた黒い風――空海の
目を見開き、固まった男たちとは対照的に。
大男は目を見開き、大口を開けて笑った。
「うおお、何だ今の! すっげええな、あんたも貞じいみたいなことができるんだなあ! ……いや。あんたの方が強えのかな」
男の顔から笑みが消えた。
「おれは藤原純友。こいつら瀬戸内海賊の首領、そんで貞じいの親戚。尾花の奴とは友だちだ。ああ、貞じいとも友だちだぜ。童子の奴ともな」
空海は微笑む。
「ほう。姿の見えぬ者をも、友と呼ぶかよ」
純友は自らの胸を、どん、と叩く。
「人間は
「なかなか
純友は未だ太刀を抜かない。腰を落とし、じり、と砂を踏む音が響いた。