狐人と物狂いの帝 ~二人で一人の安倍晴明、仇を探す旅路にて空海と出会い、暴悪無双の上皇と相対する事~   作:木下望太郎

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六十三話  旧(ふる)き神への祝詞(のりと)

 

 神さびた、枯れたような旧(ふる)い社(やしろ)に貞明と純友、部下一同と参拝した後。晴明らは社(やしろ)の正殿の奥、山肌へと向き合う場所にいた。

 この宮は象頭山(ぞうずさん)山頂にあるわけではない。また、同じく大物主を奉る大和の三輪山(みわやま)と同様、社(やしろ)に奉られるものではなくこの山こそが御神体である、とする説もある。貞明はそのため、山と向き合う形で大物主へと呼びかけるつもりであるらしかった。

 

 二礼と二拍手(かしわで)、また一礼の後。苔生(こけむ)す岩肌の前で、貞明はゆっくりと木箱から神世草薙剣(かみよくさなぎのつるぎ)を取り出し、天へ切先を向けて捧げ持った。大きくはなく、だがよく通る声で祝詞(のりと)を上げる。

 

「八十日(やそかび)はあれども今日の生日(いくひ)の足日(たるひ)に、かつての天皇(すめらみこと)にして今の上皇貞明、掛巻(かけま)くも畏(かしこ)き象頭山(ぞうずさん)に鎮座す金毘羅大神(こんぴらおおかみ)・大物主神(おおものぬしのかみ)の廣前(ひろまえ)に、畏(かしこ)み畏(かしこ)みも申したまわく。殊(こと)には国造り海護りの大神と古今(いにしえいま)に――」

 

 貞明の声が岩肌の前に穏やかに響く。

 純友以下、身を鎧(よろ)ったむくつけき男たちは皆、神妙に頭(こうべ)を垂れて身じろぎもしない。

 一人、誰の目にも映らず貞明の傍らにいる、晴明だけが顔を上げ。続く祝詞(のりと)の中、緩く吹く風に狐顔のひげを震わせていた。

 

「――を國體見(くにがたみ)に遣(つか)はしし時、天の八重雲を押し別(わ)けて天翔(あまがけ)り國翔(くにがけ)りて、天(あめ)の下を見廻(みめぐ)りて申したまわく。豊葦原(とよあしはら)の水穂の國は、晝(ひる)は五月蝿(さばえ)なす水沸(みなわ)き、夜は火瓮(ほべ)なす光(かがや)く神あり。石根(いわね)、木立、青水沫(あおみなわ)も言問(ことと)ひて荒ぶる國なり――」

 

 風が、湿った。

 そう感じられたのは晴明のひげと鼻だけであったか、純友らも貞明も変わった様子はなかった。

 

 草薙剣が、ぶ、と震えた。

 

 男たちがどよめき、貞明の声が止まる。

 

 そうして、貞明は笑った。

「ふ。……ふふ、そうか、そうだな大物主よ、嬉しいかね。草薙剣よ、お前も懐かしいかね。……私も、同じ気持ちだ」

 

 歯を剥き、天を突くように剣を高く捧げ持った。

「さあ、共に造り還そうではないかこの世を、お前たちの懐かしき世へと。静かなる今の世ではない、岩も草木も水泡(みなわ)でさえも言葉を語り、五月蝿(さばえ)なす妖(モノ)ども光(かがや)く神どもの遊ぶ、精(モノ)溢れる太古の世へと!」

 

 草薙剣がさらに震え、虫の羽音のような音を立てる。沸き始めた湯から泡が吹き上がるように、ぽつ、ぽつと光る精(モノ)が、その刀身から浮き出し、宙へと昇りだした。

 

 見れば。岩肌から、辺りの草木から、湿る風の内から。男たちの足下、地面から、同じく精(モノ)が浮き上がり始めた。

 

 ぶ、と震えた、一斉に。草薙剣も全ての精(モノ)も。岩肌も草木も風も、地面も。

 

 男たちのどよめきが強まり、転ぶ者も多くあった。純友でさえよろめき、片手をひざについていた。

 晴明は長い口を開け、いつの間にか雷雲の如く曇る空の下、輝きを強める剣を見ていた。

 貞明は強く立ち、剣を掲げていた。

「さあ、今こそ旧(ふる)き戒(いまし)めを断ち、蘇りたまえ大いなるモノどもの主よ! 聞け、八百万の神の秘詞を――」

 

 続いて口を動かした貞明の言葉は、しかしかき消された。天から降る、別の大声の内に。

 

「待てッッ! 待て、貞じい、尾花(ハナ)ァ! 純友も、お前ら待て、待てッッ!」

 

 見上げれば。龍――としか見えないもの――の、長くうねる背の上に。たてがみにしがみついた兄が、そしてなぜか、賀茂忠行――母の仇――がいた。角をつかんだ、見知らぬ僧も。

 

 兄が僧の方を見上げてわめく。

「待てッ、ちょお待ておっさん! これ、どうやって降りるんじゃ!?」

 

 こうや。僧の口がそう動くと同時、天を駆けて落ちる稲妻のように、龍が晴明らの方へと翔(か)けた。辺り一面の精(モノ)を吹き飛ばすほど、風を震わせて。

 

 

 

 ――轟音が静まった後、立ち込める土煙の中で。兄たる清明は自分が地に立っていることに気づいた。片手を握っては開き、自分の頬を触っては耳を引っ張り、狐耳も同じようにしてみる。もう片手に握り締めていた、剣の袋も触ってみる。

 肉体のいずれにも、確かな感覚があった。白羽草薙剣は袋の内で硬い感触を返し、壊れた箇所はないようだった。

 

「良かったァ……」

 崩れ落ちるように地にひざをつき、両手も地べたにつける。肩が震え、笑みがこぼれ、涙が湧き出て地に落ちた。鼻水も。

 それを手で拭い、泥だらけの顔になったところで。

 

 薄まった土煙の中、目の前に。弟が立っていたのに気づいた。

 

「えー、と……久し、振りやな。尾花(ハナ)。その……元気か?」

 固く無言の弟の前で、地べたにひざをついたままそう言い。

 立ち上がって手の土を払い、ひざの土も払い。顔の土を袖で拭って、咳払いした後。表情を正した。

「久し振りやな、尾花(ハナ)。……元気か?」

 

 

 

 ――土煙の中、忠行は。その向こうにいる影へと真っ直ぐに向き合っていた。砂埃のうちにも分かる、光る精(モノ)を帯びた剣を携えた人影へと。

 

「院よ。もう、御止(おや)め下さいませ」

 深く深く、頭を下げる。

「御所望(ごしょもう)ならば私(わたくし)めの首、この場にて献上仕(つかまつ)ります。……申し訳、ございませんでした。院よ」

 

 土煙の向こうで人影がつぶやく。

「……忠行」

 

 忠行は顔を上げる。

「はい」

 

「賀茂忠行。……か・も・の・た・だ・ゆ・きぃぃっ!」

 引き裂けるような叫びと共に、光る剣が繰り出される。

 

 とっさに身を引いた忠行の前で。振り払われた土埃の中、貞明が顔を歪めていた。

「忠行、忠行よ。……よくもこの私の前に、のこのこと顔を出せたものだなあ。ん?」

 

 忠行が無言でいると、貞明はなおも頬を震わせた。

「いや会いたかった、会いたかったよ賀茂忠行、だがお前の頼みは聞けないね」

 

 突きつけるように、草薙剣の切先を向ける。

「殺してやりたいとは思っているが、今も思っているがそれだけでは足りないね。お前を血と泥にまみれさせ、地べたに這(は)いつくばらせたまま見せてあげよう。この日の本の壊れる様(さま)をね。――ね、忠行」

 

 目を背けるように、忠行は顔をうつむけたが。

 再び向き合い、手に印を結んだ。

 

 

 

 ――空海は縮んで小蛇へと変じた龍を、袂(たもと)の内へ仕舞っていた。

「よう頑張ってくれた、おかげさんでどうにか間に合(お)うたようや。こっからは、あいつらの頑張り次第かの……と」

 

 見れば、薄まりつつある土煙の中。遠巻きに自分や清明らを囲み、武装した男たちが刃を向けていた。

「っとと、そう易々とはいかんか。しゃあないの」

 

 苦笑する空海の前に、男が一人歩み出た。ざんばら髪を背に流した、上背高く肩幅の広い、分厚い偉丈夫。囲みを作った他の者たちと同じく身を鎧(よろ)っていたが、三尺を超える野太刀は腰の鞘に納められたままだった。

 

「よおう、坊さん。なんか知らねえけどすんげえな、今の! まさか飛んでくるなんてよう! 初めて見たぜ人が飛ぶとこなんて、話に聞く天狗(あまきつね)かと思ったぜ! どうやったんだよあれ」

 

 大きな男は人なつこい犬のような、大きな瞳を空海に向ける。どうやら、龍や精(モノ)が見える類の人間ではないらしい。

 

 空海も笑う。

「そうやの、事が終わりゃあお前も乗せてやろうわい。ただし、お前らがとっとと手ぇ引いて無事に――」

 

 言葉の途中で。背後から横から雄叫びと共に、武装した男たちの槍刀が繰り出される。

 

「――終わりゃええんやけどの。お前らが無事に」

 

 つぶやく空海の周囲を、武器を携えた黒い風――空海の喚(よ)んだ、かつて童子丸を叩きのめした四天王――が吹き荒(すさ)び。男たちの槍をへし折り、刀をひん曲げていた。

 

 目を見開き、固まった男たちとは対照的に。

 大男は目を見開き、大口を開けて笑った。

「うおお、何だ今の! すっげええな、あんたも貞じいみたいなことができるんだなあ! ……いや。あんたの方が強えのかな」

 男の顔から笑みが消えた。

「おれは藤原純友。こいつら瀬戸内海賊の首領、そんで貞じいの親戚。尾花の奴とは友だちだ。ああ、貞じいとも友だちだぜ。童子の奴ともな」

 

 空海は微笑む。

「ほう。姿の見えぬ者をも、友と呼ぶかよ」

 

 純友は自らの胸を、どん、と叩く。

「人間は形(なり)じゃねえさ、ボロは着てても心は錦ってな。おれもよくボロは着るんだ、今の褌(ふんどし)にだって穴開いてるぜ」

 

「なかなか面白(おもっしょ)い奴や。オレは見てのとおりの坊主、空海。とっくに死んだ身や、今の世に手出しするんは気が進まんがの。せめてあいつらが決着つけるまで、他のもんにゃ手ぇ出させんわい」

 

 純友は未だ太刀を抜かない。腰を落とし、じり、と砂を踏む音が響いた。

 

 

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