狐人と物狂いの帝 ~二人で一人の安倍晴明、仇を探す旅路にて空海と出会い、暴悪無双の上皇と相対する事~ 作:木下望太郎
「えー、と……なあ、そやから。元気やったか」
聞こえなかったのかと思い、三度目の同じ言葉を吐いた兄、清明。
弟は無言で目を伏せている。
清明は頭をかく、稲穂色の髪が揺れる。
思い出して狐耳を震わせ、尾をつまみ上げた。
「おお、そうそう。あれから色々あってな、今じゃすっかりこんな
微笑んでみせた。
「見違えたじゃろうが、中身は変わらずお前の
「……兄」
弟の長いひげが震えた。次いで眉間にしわが寄り、黒く薄い唇が震え、歯が剥き出しとなる。
「兄、兄、だト? お前が?」
牙を剥いて弟は言う。
「兄じゃあナい。己で己の母を殺ス奴が、俺の兄のはずがナい」
半ば偶然とはいえ母を突き殺した感触が手に蘇り。童子丸は――いや、清明は――頬を歪めた。
「
「晴明、だ」
弟は固い顔のまま続けた。
「もウ尾花丸じゃナい。安倍晴明……そレが俺の名だ」
清明の顔がわずかに引きつる。が、
「ほゥ? よう
震えるほどに晴明の顔が引きつる。
「童子ぃ……いや、清明。そウ言ウお前はどうシて、賀茂忠行と一緒にイる。賀茂忠行だぞ……何年も、探シた。母様の、仇だ」
噛み潰すように放たれた弟の言葉に、清明は自らの両手へ目を落とした。母を殺した手に。
「……それ言うなら、わしも
口を開きかけた弟を制するように、兄は先に続けた。
「なあ、
「当たリ前だ。童子――清明こそ、本気か。そうスる方法があるノに、そうシないでいらレるのか」
「分かっとンのか。お前がそうするなら、この国壊す言うンなら。いくらも出るぞ、親ァ死ぬ子。わしらと同じじゃ。日の本壊してわしらみたいな奴たぁんと出して、引き換えに生き返らすようなお
弟はわずかに身じろいだ。
「……ああ。母様は、母様だ。引き換えようもなイものを引き換えらレるなら、安イ取り引きだとは思わナいか」
弟の目の奥を見据える。
「賭けてもええ。またやるぞ、あのお
弟は視線をうつむけた。
「……ああ。そウかもな」
「なら――」
目だけが上を向き、兄を見た。
「それデも。やルさ。……強くナる、俺は。もう喰わレることのないぐらい。そうスる必要もナいぐらい、母様を完全に蘇らセることのでキるぐらい。……そうでなかったとしても、喰うことなんてできナいぐらい」
今になって気づいた、にらみ上げる弟の目は金色をしていた、清明と同じく。もう、小狐の目ではない。
その目の奥が燃えるような光を宿した――そんな風に見えた。
頬を歪めて弟は言い放つ。
「行クぞ、清明。船の中では殺シ損なっタが……阻ムならばここデ殺す!」
強く唱える
清明は笑う。
「ほォ、優しいなお前は。やめるなら見逃してくれるっちゅうんかい。とはいえ、わしの方は許さんがな」
低く唱える
それらが飛び込んだ地面が盛り上がり、八つ首の大蛇の形を取る。鱗代わりには黒々とした鉱石が並び、牙も同様だった。それぞれの頭には、枝葉が一対の角となって突き出ている。
「今やめようがやめまいが、
弟の顔から表情が消える。
「やメろ。俺の名は……安倍晴明。お前に、邪魔はさせナい」
兄は固く笑う。
「名なぞどうでもええが、お前らは止める。ただの清明がお邪魔するわ。――さあ行け、【大式神・
「舐めルな……行け【大式神・
あるいは地を這いあるいは宙高く鎌首をもたげ、四方八方から安倍晴明へと蛇が向かう。
岩土の巨人はそれをまとめて踏み締め、あるいはつかんで引きちぎる。
巨人の手を逃れた二つの首が、左右から孤を描いて晴明へと向かった。
「そレが、どウしたっ!」
稲穂色の毛が覆う晴明の両手に、白く金気の
風を裂いて振るう十本の刃に、蛇は断たれて土へと還る。
「いいや。どうもせんわ」
兄たる清明はそう声をかけた。爪を――かつて兄を殺そうとした、鋼の爪を――振るったばかりの弟の背に。
多方向から向かいくる式神に目を向けさせ、対処に忙殺させておいて、その隙に背後へと回り込む。大式神という名の目くらまし、それが清明の仕込んだ化かしであった。
すでに袋と鞘を払い、腰だめに構えた白羽草薙剣から光を帯びた
「さんざと破ケや――【
弟は振り向きもしなかった。ふさふさとした尾を打ち振るうと、稲穂色の毛が舞い散った。
そのうちのいくつかが絡み、宙を舞いながらさらに絡み。八つ股となった毛が、風を吸ったように膨らみ、
「うおおッ!?」
剣を右に左に振るい、首を二つ、三つとまとめて斬り払う。
「そラああっ!」
その間に振り向く弟の、繰り出す爪が八面王ごと、兄を斬ろうと振り下ろされる。
半ば目をつむりながら振り上げた剣が、甲高い音を立てて爪と打ち合い。どうにか、へし折った。
慌てて飛び退く兄へ、安倍晴明は牙の並ぶ口を開けて笑った。
「何やら強イ剣ダな。お前自身よリよっぽどな、清明」
歯噛みした後で剣を握り直し、兄は構え直す。
「あァ、悪いが強いぞ、この剣。お前らが神器を持つと同じに、わしらが持つはもう一つの草薙剣。神霊を封じた白羽草薙剣よ。どうじゃ、試してみるか」
清明が低く
「焼き尽くせ……【
飛びゆく白羽朱雀はその身を火焔へと変じ、燃え盛る音と共に晴明を包み込んだ。熱風が辺りを打ち、兄たる清明の髪と尾をもなぶる。
本当に焼き尽くす前に止めねばと、清明が水の
燃え盛る焔が、内から斬り裂き散らされた。黒く濁った色をした、
黒いもやのように
「悪イが、清明。お前たちが神霊トやらを得たよウに、俺たちも力を得テる。草薙剣には志度の龍、俺の身には大悪魚。龍神と神魚を喰らっテな。お前たちにはもはや――」
清明は歯を見せて笑った。笑ってみせる他なかった。
「知ったことか、お喋りは終いじゃ! それ、
狐影の印を突き出し、粗く削り出したような金属塊を放つ。片手に持った剣から追いかけるように
弟たる晴明が尾を振るう。そこから立ち上る漆黒のもやが巨大な尾となり、その毛が金属塊を絡めて止め。同じく夜の黒さを持った爪が縦横に走り、金属を斬り裂き落とした。
口を開けたまま言葉もない兄に、晴明は言い放つ。
「なるほど、お喋リはお終いのよウだな。これももウ終わりにしよウ……下らナい兄弟ごっこはな」