狐人と物狂いの帝 ~二人で一人の安倍晴明、仇を探す旅路にて空海と出会い、暴悪無双の上皇と相対する事~ 作:木下望太郎
賀茂忠行は懐から出した折紙を四方に
「――南斗北斗・三台玉女。左に青龍、万兵を避く。右に
ぱたり、ぱたりと音を立て、畳まれていた体積をも越えて紙が展開され、忠行の背丈を越える四聖獣を形作る。
「相変わらずだね、実に見事な術だ。そして実に――つまらない」
鼻で笑って貞明は続けた。
「
貴人の合図を受けて参上した下人のように、しゃがんでなお貞明の背を大きく越える鬼どもが、いつの間にか傍らにひざまずいていた。
無言であごをしゃくる、貞明の合図のままに。鬼どもは地面を揺らして忠行へと駆けた。胴と変わらぬ太さの一本足の鬼、一つ目の鬼。
「
忠行の短い合図と同時に、式神らは折紙細工の羽根を広げ首をもたげ、牙を剥いた。吹き出す風が炎が、雷が
ばらばらばら、と音を立て、黒い破片が辺りの地面と式神の上に降る。
式神らが進み出、貞明を取り囲む。
「院よ、もう御
貞明の表情は変わらなかった。
「つまらないね、と言ったはずだよ。君のその型通りではね。
さりさりさり、と音がしていた。まるで小雨の降るような。やがて、ぱり、ばりり、と音は強まり。気づいたときには遅かった。
「何……!?」
式神どもが、食い破られていた。紙の体中を、あるいは内側すら這い回る、無数の虫どもによって。枕ほどもある芋虫もいれば、犬猫ほどもある甲殻多足のものもいた。同じようなものが、辺りの地面にもうごめいていた。
砕き散らしたはずの鬼どもの破片、あれを変化させていたのか。
式神が
「
貞明は苦笑してはいなかった。歯を見せ、見下ろすように
忠行は表情を変えず、口の中で歯噛みした。
問題は、陽成院――貞明――の言うような型通りだの型破りだのといったことではない。
単純に、陰陽の力が違い過ぎる。
――我々の知る、歴史上の説話において。
陽成天皇は幻術を習い覚えていた、と『今昔物語集』にある。
術を教わった相手は滝口の武士・
道範はその者に頼み込み、全てを習得することはできなかったものの幻術を覚えて帰った。陽成天皇は道範に手ほどきを命じ、自ら
人々は、帝ともあろう御方が神仏に背き、魔道の術を操るとはなんということだろう、と嘆いたという。――
陽成院はおそらく、まともな陰陽術を習ったことがない。
習ったとしてせいぜい法師陰陽師――官人としての正式な陰陽師ではない、無位無許可の民間の陰陽師――や、それを自称する妖術師くずれ、後は陰陽寮の管理からこぼれ落ちたわずかな書物からだろう。初歩的なものはともかく、体系立てた術式を覚えたことも先人の経験が蓄積された正統な修行を行ったこともあるまい。
にもかかわらず、性質の異なる四体の式神を、構わずただの紙と見なして虫で食い破る――人間の積み上げた道理を無理矢理に、そしてあっさりと引っくり返す。
皇家の祖先と伝えられる神そのものを一身に
かつては、その手に神器がなくば力を発揮することもできなかった――そう仕向けた、神器も
今は正に、神器が院の手にある。荒ぶる国津神の神器、草薙剣が。
黒錆びた剣を片手で掲げ、
「さて、次は何を見せようか。君は何を見せてくれるね?」
言う間に。土の中から縄のようなものが、忠行の足へと放たれた。
縄にしては分厚く赤いそれにたちまち足を取られ、引きずり倒される。
「ぐ……!」
地面の上でどうにか身を起こすと。地面の下から顔を上げた、縄の――いや、長い舌の――主と目が合った。大蛙の、拳ほどもある目玉と。
大人一人丸呑みにするであろう大蛙が、土を散らして地面から身を起こす。その背には草木が生え、一面緑色を成していた。
そうして、蛙の周りには。鉄の鱗を持つ蛇どもが群れを成し、鎌首もたげ。蛙と、その舌が捕らえたものに跳びかかった。
「な……」
潮のように血が引いていく音を、忠行は自らの内に聞いた。この状況への危機感恐怖感だけではない、もっと怖ろしいもの。過去の罪を暴かれ指弾されるような――この蛙は、蛇は。大きさこそ違えどまるであの時の、幼き帝、貞明と初めて出会ったときの。そして忠行が
胸の内は
「南山有地・地中有
唐書『千金翼方』禁経に記された、朝に三千、夕に八百の鬼を喰らい病を滅すという蛇形の神。それを模した式神が貪欲に首を伸ばし、大口あけて蛇どもをかっさらい、大蛙の身を喰いちぎる。忠行を捕らえていた舌も同様に
貞明は微笑んだままでいた。その、手を叩く音が響くと同時。
忠行は水音を聞いた。ごぷ、と水が注がれる音。
気づけば。身を起こそうとしていた忠行は、空中にいた――いや、水中にいた。
四角い柱のように、その空間だけ水が満ちていた。海を切り取って置いたかのように。忠行はその中にもがいていた。
――これは。あのときの。院が、帝が、
思う間にも口からは
身に染み込むほど繰り返し覚えたはずの印も、唱えるべき
ぱん、と外から音が響いた。
とたん、水は消えた。いや、変わった。
花に。
菊の桜の百合の紅葉の、百花の花弁と葉に、満ちていた水は変わっていた。積もれる花弁の中に忠行は落下し、倒れたその上にまた百花が降り積もる。
忠行は身を丸めて何度も咳き込み、身の内から花を吐いた。
「ふ」
声を洩らしたのは貞明だった。
「ふ。……ふ、ふ。……いい顔だよ、忠行」
積もる花弁を蹴散らし、歩んできては忠行を見下ろす。腰を曲げ、のぞき込むように。
「どうだね、ずいぶん懐かしいじゃないか? あの夜、父の葬儀の後もこうしたっけねえ。――ね」
笑んでいた顔を突如、歯を剥くほどにひき歪め。貞明は脚を振り上げ。
蹴った。忠行の腹を。踏んだ。忠行の顔を、背を。烏帽子を落としたその頭を。
足を止め、荒い息づかいの中で、笑っていた。
「うくくく……ははは、は、は、は、はは! いい顔だ、いい
再び歯を噛み、蹴り上げた。
くぐもった声をこぼして転がった忠行の上に、貞明の歪んだ声が降る。
「ええ、おい? いい
身をのけぞらせては折り曲げ、体を震わせて笑う貞明を、地べたから見上げながら。
忠行はつぶやいた。
「……院。院よ。……お変わりに、なられました」
笑い声を止めた貞明の視線が忠行に落ちる。
「院よ、
その先を口にしたものか、長くためらった後。吐き出した。
「まるで。
大気が、止まった。
何の音もしなかった。
貞明は影のようにそこにいた。ただ、その手の草薙剣から、ぼう、と光が湧き上がった。
忠行は身を起こし、泥にまみれたまま烏帽子もかぶらず立ち上がる。何の手立てがあるわけでもなく。
「院よ。……
そのとき。横合いから何かが放られた。忠行の手元に。
思わず手に取ったそれは金銀と
「使えじじい。太刀持ちとの
声を飛ばしたのは清明だった。弟たる狐顔の男と向き合い身構えてはいたが、稲穂色の髪のいくらかは赤く染まり、胸の傷――
「しかし、お前は」
唾を吐き捨て、清明が笑う。
「
忠行へ向けていた視線を、清明は再び弟へと向ける。手招きしてみせた。
「さてと。もう一番、思う様