狐人と物狂いの帝 ~二人で一人の安倍晴明、仇を探す旅路にて空海と出会い、暴悪無双の上皇と相対する事~ 作:木下望太郎
その夜。兄弟は、安倍の家へと向かっていた。
つい先日まで、一月経つか経たぬかの頃まで自分たちの家だったそこは、もうすっかりよそよそしかった。
母屋まで来たものの、裏口の引戸には突っかい棒がされている、そこからは入れない。足音を忍ばせて庭を行く。みし、と軋む音を立てて、土も拭わぬ土足のまま縁に乗る。真新しい板の
童子丸はそれでも、先に歩き出した。立ち尽くしたままの尾花丸の袖を引いて。
格子状の
そうする兄弟を眺める母はいつも、目を細めて笑い。父は遠巻きに、固い笑みを浮かべて見ていた。
やがて、床に畳を敷いた上の、寝具の内に身を横たえた父と。隣に――父の手が届くよりも離れた位置に――敷いた畳と寝具で休む母が――いや、母にそっくりな女性、父の本当の妻、
「
何度か身じろぎした父がやがて目を開け、身を起こし。童子丸から、跳びすさるかのように身を引いた。
畳からも降りたわけではない、わずかの距離だったが。童子丸にはもう、手の届くことのない距離だった。
童子丸は、表情を変えずに言った。そんな顔しか、もうできなかった。
「……わしらァ、何ぞしようと思うて来たわけやない。教えてくれ。賀茂忠行は
父は何度か目を瞬かせた後、大きくかぶりを振った。
「……知らぬ。分からんよ、
父はわずかに、童子丸の方へ身を乗り出した。
「なあ、わしはの……何も知らなんだ。知らなんだ、
父いわく。
家同士のつき合いのあった、賀茂家から妻をもらうこととなったが。それは数年後との約束であった。
だが、程なくして
そうして共に暮らし、子を生し、また年月が経った頃。忠行から文が届いた。仕事を終えたため、
父がそのことを話すと、たちまち忠行の顔が険しくなった。無言のまま、折り畳んだ紙――式神――をいくつかひっつかみ、父と
「そういえば昔、怪我をしていた狐を見つけて。別の方に逃げたと狩人に教え、
その話を聞き終えた後も、童子丸は身じろぎもできずにいた。
父の話はおよそ突拍子もないが、忠行が言っていたことと矛盾はない。そして実際のところ、尾花丸が狐の姿であるからには。母が化け狐であったというのも、うなずけるところではあった。
だとしたら。悪いのは結局、母なのではないか?
他人の姿に化けて、他人の夫と子まで生した、と。すればまあ、追われるであろう。
そのとき、隣の寝具の上で女性が身を起こした。ひ、と小さく声を上げ、畳から落ちるほどに後ずさる。
尾花丸が身を乗り出す。
「母サま……!」
弟の衣を強く引き、童子丸は止めていた。女性の方へ――本当に母と似ている、いや、同じだ――向き直る。
なのに気づけば、自分の足は。母のような女性の方へと踏み出していた。そのまますがりつきたかった、その手に、胸に。
それでも、両の手で無理やりに腿を押さえつけ、
「……御婦人。この
尾花丸は未だ立ち尽くしていたが。やがて、隣で同じく頭を下げた。
童子丸は顔を上げる。
「されど。母の仇は変わらず仇、そなた様の
たとえ、父と忠行の言が一字一句真実であったとしても。悪いのは母であったとしても。
命まで取ることであったのか。童子丸らの命まで、同じく取ろうとすべきであったのか。
いや、たとえ理屈がどうであろうと。母が殺された、真実はただそれだけだ。
女性は後ずさり、兄弟から身を遠ざけつつ、慌てたように枕元を探った。やがて取り上げた
父は受け取った箱に目を落としていたが。しばしの後、枕元に戻した。
大きく息をついて言う。
「なに、
童子丸も尾花丸も、とたんに身構えて飛びすさったが。
父は疲れたように笑って、小さく首を横に振る。
「ま、それはええじゃろう。童子丸、ああ……尾花丸、も、おるのか? これから、どうする」
尾花丸は兄の顔を見た。
童子丸は荒れた黒髪を揺らしてかぶりを振る。
「さて……童子の尾花のと、
背を向ける。
「我ら、兄は清き明かりの
そうして、兄弟は家を出た。土足の跡を残したまま。