潮風が頬を撫でていく。
波の音が、遠くから寄せては返す。
ぼんやりと、海岸線を歩いていた。
――どうしてだろう。
休暇をもらったというのに、心はまるで晴れない。
議長の言葉が、ずっと胸に残っているせいかもしれない。
ふと、前方からエンジン音が近づいてきた。
赤いオープンカー。窓を開けて、陽気に走る一台の車。
そのときだった。
「きゃっ――!」
助手席から身を乗り出していた金髪の少女が、ふと手を振った拍子に何かを落とした。
アクセサリー。小さな、水色のブレスレットが風に流されるように宙を舞う。
シンは咄嗟にそれを見て、反射的に手を伸ばした。
――キャッチ。
ギリギリで掴んだその瞬間、少女が勢いよく車から飛び出してきた。
「うわっ!?」
気づけば、彼女の身体がこちらに倒れ込んでくる。
「っと――!」
シンは思わず彼女を抱き止めたが、そのまま二人とも地面に転がってしまった。
「いててて……」
砂混じりのアスファルトの感触。
肘を擦ったようで、少しだけ痛む。
「な、なにしてんだよ……! 死ぬ気か、馬鹿!」
目の前の少女を見て、思わず声を荒げてしまった。
「はッ!」
目を見開いた彼女は、まるで恐怖に支配されたかのように怯えている。
その唇が、震えながらか細く動いた。
「……ぁぁ……いや……ぅぅ……死ぬのは……嫌……」
「――え?」
その言葉に、思わず動きが止まる。
「おい、ちょっと……!」
少女は急に立ち上がると、まるで逃げ出すように走り出した。
向かう先は――道路。走る車が――
「危ない!」
叫ぼうとした瞬間、一人の男が少女を抱きとめた。
サングラスに、ラフな服装。
彼は彼女の背を優しく撫で、ゆっくりと呼吸を整えるように語りかける。
「大丈夫だよ。怖くない」
少女はその腕の中で小さく震えながらも、次第に落ち着きを取り戻していった。
「……君、助かったよ」
男がシンに向かって頭を下げた。
「えっと、いえ……別に」
「いや、お礼がしたい。時間があれば……」
「いいです、本当に。気にしないでください」
それでも男は、シンの汚れた服に目をやり、言葉を重ねた。
「せめて、これで服をクリーニングしてくれ」
そう言って、折れた札束を差し出してきた。
「あ……ありがとうございます……」
ぎこちなくそれを受け取ると、男は少女を助手席に乗せ、再びオープンカーのエンジンをかけた。
――行ってしまう。そう思った瞬間、シンは声をかけていた。
「あの!」
男の顔が振り返る。
「……その子のこと、しっかり見ててあげてください」
サングラス越しに、少しだけ優しい目が細められる。
「……ああ」
男は片手を軽く上げ、それが返事だった。
やがて車は発進し、潮風のなかに遠ざかっていった。
――“死ぬのは、嫌”。
その言葉が、どこか自分にも向けられたような気がして、海の音がやけに遠く感じた。
◆
ドミニオンのブリッジ。
緊迫した空気の中、通信回線が開かれていた。
主モニターに映し出されたのは――アークエンジェルの艦長、マリュー・ラミアスの姿。
「……オーブが、地球連合軍に参加? それは本当なの、ナタル?」
マリューの声音には信じがたいという色が滲んでいた。
かつて同じ船で共に戦った者として、その言葉はただの報告ではなく、懇願にも似ていた。
ナタル・バジルールは一拍の間を置いてから、冷静に告げる。
「ええ。オーブは地球連合との同盟条約に基づき、黒海のザフト軍に対する派遣軍を正式に承認しました」
その事実は、あまりに重かった。
マリューの表情が揺らぐ。
「そんな……それじゃあ……オーブは、再び戦火に巻き込まれる……」
「……はい」
ナタルの声に迷いはない。だが、その瞳の奥には、確かな痛みがあった。
その沈黙を破ったのは、隣に立つバスク・オムの低い声だった。
「――ロゴスの差し金だろう。代表不在という異常事態に、奴らが目をつけぬわけがない」
冷酷な分析だった。
だが、その言葉には、連合上層部の腐敗を熟知する彼なりの警鐘が込められていた。
「オーブの若い議会など、ロゴスにしてみれば容易く転がせる駒に過ぎん。現実はそういうことだ」
言葉が途切れる。
ブリッジ内には、艦の機器音だけが静かに響いていた。
――誰もが、それ以上に言葉を継げなかった。
それほどに、この事実は重く。
そして、避けられぬ戦いの兆しを告げていた。
◆
ドミニオンの格納庫
蒼い海を背に、金属の匂いと静寂が満ちる広大な格納スペース。
その中央に――一機のモビルスーツが、ただ黙して佇んでいた。
『ムラサメ』。
オーブ国防軍の主力量産型可変MS。
だがそれは、ただの量産機ではない。
全身を覆うのは、漆黒と深紫を基調とした――“サイコガンダム・カラー”。
鋭いエッジと隠しきれない異質さが、この機体を“異端”として際立たせていた。
その口部には、内蔵式のビーム兵器《ツォーン》が搭載されている。
これは、かつてボクの心臓に繋がれていた兵器だ。
だが今は――選び取った“手”として、備えた。
“与えられたもの”ではなく、“望んで掴んだもの”として。
機体は、かつて何度もテストパイロットとして搭乗したもの。
可変機構の挙動も、戦闘時のクセも、すでに掌の内だ。
そして何より――
この可変機の“背中”を、ずっと隣で見てきた。
だからわかる。
――使える。この手で。
足元では、薄緑の球体がぴょんぴょんと跳ねている。
「キタイヲコンナゲヒンナイロニ!ユルセン!ユルセン!」
声の主は、ハロアイン。
文句を言ってるつもりなのだろうけど、いつも通りすぎて、どこか落ち着く。
「……ふふ、相変わらずだね」
ヘルメットの下で小さく笑う。
この機体に、過去の名残りを宿していても。
この道が、誰かに“汚れている”と言われたとしても。
それでも――
「……いこっか」
静かに呟き、コックピットへと歩き出した。
今度は、誰かの“命令”じゃない。
自分の意志で、この戦場に立つために。
◆
連合艦の一室――
薄暗い照明の下、廊下を歩いていると、不意に微かに聞こえた声が耳に引っかかる。
「嫌! 駄目! これは駄目!」
聞き慣れた声だった。俺は足を止め、ドアの隙間から中を覗く。
部屋の中では、ステラが一人の研究員に掴みかかるようにして暴れていた。
その手には、水色のブレスレット。あの時、ディオキアで買ってやったものだ。
「……あっち行って! 触んないで!」
必死に抱きしめ、乱れた息を吐きながら睨みつけるステラ。
対する研究員は戸惑いを浮かべつつ、ついには両手を上げて下がった。
「あー、分かりました。もう触りませんって」
俺は思わず声をかけながら、部屋に入っていく。
「どうした?」
「ネオ!」
俺の姿を見た瞬間、ステラが縋るように駆け寄ってくる。
研究員がバツの悪そうな顔で俺に向き直った。
「あ、いえ……寝る前に足の傷を確認しようとしただけで……。そのブレスレットを取った途端、突然取り乱しまして……」
なるほど。
大切にしているらしいな。あのアクセサリー。
俺は一歩、ステラのそばに歩み寄ると、そっとしゃがみ込む。
「……ごめんな、ステラ。大丈夫だ。誰も、取ったりしないさ」
そう言って、彼女の頭に手を伸ばす。
乱れた金の髪を指先で梳きながら、優しく撫でた。
ステラはしばらく黙っていたが、やがて震える声で呟いた。
「……ほんとに?」
「――ああ」
俺はゆっくり頷く。
「ステラの大事なものを、誰が奪うもんか。ここにいる限り、俺が守る。だから……安心して、おやすみ」
少しずつ、ステラの肩から力が抜けていく。
ブレスレットを握った手が、ようやく落ち着きを取り戻した。
その様子を見ながら、俺は胸の奥で小さく息を吐いた。
この世界に、彼女の“守りたいもの”がある限り――
俺は、それを奪わせはしない。
静まり返った連合艦の一室――
薄暗い照明の下、ステラはベッドの上で静かに眠っていた。
胸の前で両手を重ね、水色のブレスレットを握りしめるようにして。
その寝顔には、戦場で見せる獣のような表情など微塵もない。ただ、あどけない少女のそれだった。
俺は壁にもたれ、ふと、自嘲気味に呟く。
「……なかなか悪い男になった気がするよ」
背後から聞こえた乾いた声が、それに応じた。
「毎度毎度、お見事ですよ。しかし――」
研究員の男は、淡々と続ける。
「彼女たちには“記憶”などない方が幸せです。余計な感情は戦闘に支障をきたすだけ。無駄な苦痛を避けるためにも、いっそ――」
言葉の途中で、俺の中に何かが軋んだ。
感情が、込み上げる。
拳に力がこもりそうになるのを、必死に抑える。
「……その話は、前にもしただろう」
低く、押し殺すように言う。
「記憶はそのままでいい。俺は、彼女たちを“戦闘マシーン”だなんて思ったことはない。これからも、思わない」
研究員は眉一つ動かさず、答えた。
「情を移されると、辛いですよ。……あなたのような人ほど」
そんなこと――最初から、分かっている。
それでも、選んだんだ。この道を。
「……辛いのは、覚悟の上さ。だからせめて……」
ベッドに目をやる。ステラの肩が、微かに上下している。
彼女はまだ“生きている”。
「俺にできることをやるしかない。メンテナンスは入念に頼むよ。あの子が、また戦場に立てるように」
「……了解しました」
研究員が静かに頭を下げる。
その背を見送りながら、俺はもう一度、ベッドの傍らへと近づいた。
ステラの寝息は、かすかに震えていた。
「――あれほど“死ぬのが怖い”と泣いた子だ」
誰よりも、生にしがみついている。
誰よりも、生きたがっている。
「だったら俺が、代わりに……敵を倒し続けるしかないんだ」
それが、この手でしか守れないものなら――
たとえ、どんなに泥を被ろうとも。
俺は、この手を汚すことを、選び続ける。
少女の小さな寝息が、俺の胸の奥に、痛いほど沁みた。