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生まれたときから、私と縁壱は大きく差をつけて育てられてきた。
初めはそういうものなのだと気にも留めなかった。しかし言葉を学び、己でモノを考えるようになって、漸くそれが異常なことであると気付いた。
健やかに育つように学びの機会を与えることが、子を成した親としての責務である。幼いながらも、それくらいのことは理解できた。
しかし私たちの両親、特に父はそうではなかった。
跡目争いを懸念した父は私と弟に明らかな優劣をつけて育て、母はそれに憤慨して言い争いばかりしていた。
二人の言い争いを見る度、聞く度、心の奥深くに罪悪感のようなものが少しずつ蓄積していく。
ひょっとすると、
弟が生まれなければ、私がこれほどまで思い悩むこともなかった。私が生まれなければ、弟は父から冷遇されることはなかった。
私たちが生まれなければ、両親は無意味に言い争いをすることはなかった。
考えれば考えるほど、己が生まれたことに意味はあったのだろうかと卑屈になってしまう。
しかし幼い私には、与えられた命に対して直向きに生きる以外の選択肢はなかった。
何せ私は優劣の優を与えられているのだから。
「縁壱。今日は双六を持ってきたぞ」
三畳の小さな部屋で、何かをする訳でもなく静かに座り込んでいる縁壱。
毎度毎度父の目を盗んで此処へ来るのは骨が折れるが、それでも私は此処へ来る。縁壱は優劣の劣を与えられている。いや……ひょっとすると、それすらも父からは与えられていないのかもしれない。だから私だけでも縁壱に何かを与えたい。どんな粗末なことでも構わない。
孤独を感じたときに吹くようにと渡した手製の笛。結局は縁壱が吹く前に私が来ているのであまり意味はなかったが、どうせ外れた音しか鳴らないがらくたの笛だ。吹く必要もなければ、大事にしておく必要もないだろう。
七つになって、私にとっても縁壱にとっても、ひいては両親にとっても転機が訪れる。
「兄上の夢は、この国で一番強い侍になることですか?」
鍛練中、いつの間にか木陰に立っていた縁壱が発した言葉。
七年間で初めて耳にした弟の声色は透き通っており、驚きのあまり木剣を取り落としてしまった。
「あっ……ああ……。最終目標はそうだが……」
驚きと困惑で空返事しかできなかった。これではまるで、私の方が言葉を発していなかったみたいではないか。
「俺も兄上のようになりたいです。
俺は、この国で二番目に強い侍になります」
しかし縁壱は特段気にした様子もなく、これまでピクリとも動かさなかった表情を綻ばせて言った。
七年の間、これまで何度も何度も話し掛けてきた。耳が聴こえないのかもしれないと両親に言われても、懲りもせずに話し掛けてきた。だというのに、今まで一言も発さず、表情を変えることもなかった。
何故今更私にその顔を向ける。何故今更私に話し掛ける。何故今更私に付いて回る。
驚愕、困惑、歓喜、不服。汎ゆる感情が身体の中を駆け巡り、
気味が悪い
たった一つの言葉が私の頭に浮かび上がった。
その後の展開は目まぐるしい。
剣を習ったことのない縁壱が、私が幾度も挑んでは一本を取れなかった父の輩下を、赤子を捻るが如く撃破してしまった。
輩下は縁壱のことを報告し、私が寺送りになるのだと思いきや、母が病死したと同時に縁壱が寺へと発ってしまった。
翌日、
父の輩下には手を出さないよう願い、私は一人で母の私室を整理し始めた。
母にとっての私たちがどういう存在だったのか、それを確かめたかったのだ。
「これは……母上の日記か……?」
節々は汚れつつも、丁寧に扱われていたであろう年季の入った日記が、引き出しの中に何冊か仕舞われていた。
内容は殆どが大したことではない。だが私たち兄弟を、父を想っていた事は、字面からでも十分に理解できた。
日記を読む限り、どうやら母は縁壱の耳が不自由ではないことを、随分前から知っていたようだ。ある日を境に花札の様な耳飾りを着けていたが、あれは母からの贈り物で、お守りにと渡したらしい。
縁壱が耳が不自由ではないという事実を言わなかったのは、父を庇うため。故に私にもそれを打ち明けなかったのだろう。
「…………」
私は父に叱られることを理解した上で縁壱に話し掛けていたのだが、縁壱にとっての私は何だったのだろう。
発つ直前、何故私に笑い掛けた。何故がらくたの笛を大事にしまい込んだ。何故私に頭を下げ、謝意を示した。何故私に手を振り、別れを告げた。
気味が悪い
縁壱に対してそんな感情を抱きつつも、日記を読み進めていく。
最近の日付に近づくにつれ、大したことではない内容が減り始める。
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自分に死期が近付いていることが分かるくらいに、左半身が重い。縁壱が支えてくれるから何とか歩けているけれど、私一人ではまともに動かすこともままならない。
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「左半身……」
気の所為であってくれ。そう願いながらも、日記をもう一度読み直す。
最初は気にも留めなかった。だが読み返せば分かった。
母は随分前から左半身が不自由になり始めていた。そして縁壱はそれを知っていて、弱った母を支えていた。
「……!!」
思わず母の日記を鷲掴みにして、紙を皺だらけにしてしまうほどに、私の中には嫉妬と憎悪が駆け巡る。
私にはもう、日記を読めるほどの余裕はなかった。
「……父上。遺品整理をしていたのですが、母の日記と思われる物がございました」
「……そうか」
私は父に押し付けるように手渡し、自室へと戻った。遺品整理すらも忘れて。
嫉妬と憎悪に塗れた私の姿を見た父は、どんな顔をしていたのだろう。
呆れていたのだろうか。それとも母を亡くして悲しみに暮れていると思っていたのだろうか。今となってはもう分からない。
その日のうちに、父の命令により、家人総出で縁壱の捜索に乗り出した。
一足先に寺へ発つということも、母の日記には書かれていた。父はそれを読んで、縁壱を探す決意をしたのだろう。
「…………」
縁壱が見つかれば、この家に連れ戻され、反対に私が寺へと送られることになる。
しかし三日三晩経過しても縁壱が帰ってくることはなかった。
「一体何処へ行ったというのだ……」
安堵する私に対して、父は異様なまでに縁壱を探すことに積極的だった。これまで冷遇してきた息子に、今更情でも湧いたのだろうか。
「朱乃……私はどうすれば良い……」
部屋から廊下へと聞こえてきた父の声はあまりにも弱々しく、これまで見てきた威厳のようなものは一寸たりとも感じられなかった。
直後に父は輩下に呼ばれて、私室を出て行く。
「…………」
こんなことをしてはならない。頭では分かっていたが、それでも私は父の私室へと無断で上がる。
机上には何枚かの紙が置かれていた。それは恐らく母が父へ向けた遺書だ。
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私は自分が死ぬことよりも、家族皆が仲良く過ごしてくれるかどうかが気掛かりです。
あなたが縁壱を不吉に思うことは重々承知していますが、それでもどうか、三人仲良く過ごして欲しいのです。
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長々と書かれていた内容の殆どが私には分からない事柄であったが、この二文だけは目が釘付けになった。
父は縁壱に家を継がせ、私を寺送りにしたいのではなく、亡き母の遺言を守るために縁壱を連れ戻そうとしているのだ。
この七年間の考えや行いを否定してまで守ろうとするということは、父にとっての母はそれほどまでに大切な存在だったのだろう。
日々言い争いをしていたが、それでもお互いを大事に思っていたということなのだろう。
なら、私の縁壱に対するこの感情は何なのだ。
縁壱が言葉を発さなかっただけにすぎないが、七年間で言い争いなど一度たりとてなかった。先日の一件が起こるまで、私は縁壱に対して憎悪の感情を向けたことなど一度たりとてなかった。
日々喧嘩をする両親が大事に思い合っているというのに、私はただ劣等感だけでその思い全てが瓦解したというのだろうか。
憎い
ただひたすらに憎い
そんな憎しみも、時が経てば綺麗さっぱり消えるものだ。
父にとってはそうではなかったかもしれないが、私にとっては平穏な日々が続いた。
「父上。みんなで凧揚げがしたいです!!」
私に仕事がないときは、息子も剣の稽古を休む。そうしなければ、同じ時を共有する余裕がないからだ。
日々の任務で疲労が着実に溜まっていくが、妻子の平和な暮らしを見ているだけで、疲労は不思議と何処か遠くへ消えてしまう。
「
一人で遊べるか?
そう言いかけたとき、妻が私の肩を優しく叩く。
「結月は私が見ておきますから、あなたは誠勝と遊んであげて」
「……何かあったときはすぐに呼ぶのだぞ。
これから遊ぶ者が言う台詞にしては少々滑稽なものだったが、妻は特に気にした様子もなく、穏やかな笑みを浮かべたまま手を振った。
息子と呑気に凧揚げや双六、将棋をする。それを妻は傍らで愉しげに眺める。
これでもかというほどに平穏で退屈な日々が続いていた。
……野営の最中に、鬼に襲われるまでは……
獣の如く呻き声を上げながら此方を見据える鬼。
部下は全員やられ、私は刀を折られてしまった。たった一人の化け物によって、私の命は終わりを迎えるのだ。
そう覚悟した時、煌々と輝く満月に人の影が重なる。
「……縁……壱…………」
頸を狩り取られ、塵と化していく鬼の傍には、血を分けた双子の弟である縁壱の姿があった。
瞬間、過去の出来事が鮮明に蘇る。嫉妬と憎悪が火山の如く噴き出す。
「申し訳ございません、兄上。私が遅れたばかりに、兄上の部下を死なせてしまいました」
縁壱に落ち度などは微塵もない。野営をする選択をしたのは私であり、鬼に敗れたのは私たちの力が足りなかっただけに過ぎない。嫉妬と憎悪に塗れていようとも、そんなことは分かり切っていた。
「いや……構わない……。私が至らなかっただけなのだ……」
そう。力が足りなかった。足りないのだ。化け物をも凌ぐ強さを、剣技を……我が手に……。
真夜中だというのに、気付けば支度をしていた。
二度と此処へは戻らぬよう、身辺整理を済ませて。
「父上……何処へ征かれるのですか……?」
勘が良いのだろうか。私が出立しようと支度を終えたとき、息子が私室へとやって来た。
「……すまない」
ただ一言。それだけを言い残し、私はまとめた荷物を持って私室を出て行く。息子の狼狽する声を尻目に。
「……あなた……」
敷地から出るときには、妻ともう一人の子も居た。
分かっているのだろう。今私が出て行くと、二度と戻って来ないと。
しかし再燃した劣等感に振り回された私には、平穏が続く道に戻ることなどできない。
せめて、この嫉妬と憎悪が皆に伝染せぬように。皆が鬼という化け物を知ることのないように。
「…………」
そうして別れも告げることなく、地位を、家を、家族を、全てを捨てて、私は鬼狩りの世界へと足を踏み入れた。
「呼吸法……。何をどうすれば良いのだ?」
「肺に大量の酸素を取り込み、血中の酸素濃度を増加させる。そうすることで、身体能力を向上させることができるのです」
鬼を狩る者に必要不可欠となる"呼吸"。此れこそが縁壱の強さの根幹なのだという。
ならば其れを会得すれば、私も縁壱のような強さを手にすることができるはずだ。
その日から、私は"呼吸"を会得することを、縁壱の剣技を手にすることを最優先に、鍛練を繰り返した。
日の呼吸 壱ノ型 円舞
弐ノ型 碧羅の天
参ノ型 烈日紅鏡
肆ノ型 灼骨炎陽
伍ノ型 陽華突
陸ノ型 日暈の龍・頭舞い
漆ノ型 斜陽転身
捌ノ型 飛輪陽炎
玖ノ型 輝輝恩光
拾ノ型 火車
拾壱ノ型 幻日虹
拾弐ノ型 炎舞
鬼と戦うときも、縁壱の呼吸法を、剣技を会得するため、何度も何度も試行を繰り返した。一つでも扱うことができれば、希望の道が開かれる。
だが悲しいことに、縁壱の剣技を扱えることは終ぞ叶わなかった。
次第に私の剣技は成長を止め、自他共に見て分かるほどに停滞することとなる。
やはり私では駄目なのか。どうすれば私は縁壱のように強くなれる。どうすればこの劣等感を拭うことができる。
何処か寂しげに輝く満月の夜。私は苛立ちをぶつけるかのように、鬼へと刃を振るった。
-月の呼吸 壱ノ型 宵の宮-
するとどうしたことか。この十数年の人生で一番素早く、一番鋭い一太刀を放つことができたのだ。
日の呼吸を扱うことを一瞬忘れて放った一太刀は、閉じてしまった成長の扉を開く鍵のようであった。
その日を境に、私の鬼狩りとしての強さは桁外れに上昇していく。鍛練をすればするほどに更なる強さを手に入れ、やがて鬼狩りという組織を支える"柱"となった。
"柱"となってからも私の成長が止まることはなく、有象無象を嘲笑うかの如く"呼吸"と"剣技"に磨きがかかっていく。
「巌勝殿……あんた……その顔の"痣"は……」
今宵の任務を完遂し、拠点へと帰還した時、態々出迎えをしてくれた"炎柱"の者に顔を指差された。訳も分からず首を傾げていると、炎柱の者が急ぎ足で手鏡を持って来て私に覗かせた。
「何だ……これは……」
これは私の顔なのか?
見た瞬間、茫然とした。燃え盛る炎を彷彿とさせる"痣"が、私の額と頬を真っ赤に染め上げていたのだ。それはまるで……
「縁壱殿の"痣"とよく似ているな……。何か変わったことはあったのか?」
「……特段変わったことは何も……。
強いて言うなら、体温と心拍が普段以上に上昇しているくらいだろうか」
鏡で痣を見てからは、半ば空返事で応対する外なかった。
また一つ、縁壱に近付くことができた。だが鍛練を重ねれば重ねるほど、縁壱に近付けば近付くほど、嫌でも理解してしまうのだ。
私の才覚では、私の努力では、どれほどの月日を重ねても縁壱には届かないと。
視界を"透き通らせる"ことはできず、刃を赫く染めることもできない。日の呼吸を超えることなど夢のまた夢。
私にできることは、縁壱にもできる。縁壱が唯一できなかったのは"呼吸と剣技を後の者に継がせる"こと。
ならば私は、"それ"ができるようになれば良い。
しかし縁壱と同じく、"月の呼吸"と名付けた私の呼吸と剣技は他の者が会得できる代物ではなかった。
炎、水、風、雷、岩。五種の呼吸と剣技は扱える者が何人も居るというのに、私の呼吸と剣技はただの一人も扱えない。
「後継をどうするつもりだ?」
私は焦りを感じていた。
このままでは私の、縁壱の呼吸と剣技が失われてしまう。そんなことはあってはならない。
極めた技が途絶える。それ即ち、私たちの生きた証が、生まれた意味が全て失われてしまうということに他ならない。
「兄上。私たちはそれ程大そうなものではない」
それなのにお前は妙に楽観的で、心穏やかでない私を嘲笑うが如く顔を綻ばせる。
誰もがお前の剣技に焦がれ、藻掻き苦しんだ果てに、決して到達できない領域であると思い知らされる。
手の届かぬ太陽のように神々しい、唯一無二の才覚を持つお前が特別ではないとでも言うのか。そうでなければ、私は一体何なのだ。
所詮は私も有象無象の一人……。
それどころか、剣技を進化させて継承できる、基本の五つの型を極めし柱たちよりも劣っているとでも言うのか。
気味が悪い。腹が立つ。吐き気がする。
しかし諦める訳にはいかない。剣技だけが私の生きる道。肉体に疲労が蓄積しようとも、心が砕け折れようとも、"頂への道"を歩み続けるのだ。それこそが私であり、私が生きる意味なのだから。
だが、世の理は私を真っ向から否定する。
私に続いて痣を発現させた者たちが、次々と倒れ始めたのだ。
「また痣者が一人……。歳は……この者も二十五……」
他の柱たちと、最近の死者名簿を確認していくと、痣を発現させた剣士は戦死を除いて、全て二十五の歳に死亡していることが分かった。
多少の差異はあれど、二十五を迎えてからみるみる衰弱し、三日前後で全員が息を引き取っていた。
「"痣は寿命の前借り"ということか……」
私も次の年には二十五を迎える。
"月の呼吸"の継承者は未だ見つからず、縁壱の領域に指が掛かりすらもしない。
「来年には死ぬのか……私は……。
私には……鍛練を重ねる時間すらも与えてはくれぬのか……」
毎夜毎夜鬼を狩っては、己の技量と時間の限界に絶望を繰り返す。
「ならば鬼になれば良いではないか」
鬼狩りとしての最後の任務で出会った鬼の始祖。
縁壱を越えるため、我が命が生きた証を見せ占めるために斬り伏せようとしたとき、鬼の始祖は思いもよらぬ提案を投げ掛けてきた。
「鬼となれば……世の理をも踏み越えられるとでも言うのか……」
「どうだろうな。少なくとも、鬼となれば無限の刻を生きられる。
お前は技を極めたい。私は呼吸とやらを使える剣士を鬼にしてみたい。
どうだ、利害は一致しておろう?
二十五で意味もなく死に逝く烏合の衆とは違って、お前は選ぶことができるのだ。
私の提案を受け、無限の刻を生きるか。それとも私の提案を撥ね、ここで私に殺されるか。己の欲求に従って選択するが良い」
無限の刻。
何と甘美な響きであろうか。
無限に鍛練を重ねることができれば、縁壱をも超えた侍となることも夢ではない。縁壱を超えられたなら、この世で最も優れた剣士となれる。
「現産屋敷家当主の首を持参の後、それを手土産として受け取って頂きたく存じます」
気付けば私は、斬り伏せるはずの鬼の始祖に頭を垂れていた。
「良かろう。では明日の
鬼の始祖は姿を消し、月光に照らされる生き物は私ただ一人となった。
私はこれから"裏切り"という、この世で最も重い罪を犯す。
現産屋敷家当主は既に病でまともに動けない。余命は一年と無いのだから、殺したところで大した問題ではない。
私は躊躇いなく、病床に伏す人間の首へと刃を振るった。
「…………」
亡き別れる首と胴。噴き出る鮮血。真っ赤に染まる床と壁。
何度も見てきた景色のはずなのに、動悸が激しく波打ち、眼球が小刻みに震える。
僅かに開いていた、鮮血に染まった襖に目をやると、静かに此方を見つめる幼子が居た。次期当主となる、産屋敷の子息だ。
「…………」
一瞬、手土産を増やそうとも考えた。だが脳裏に過ぎったのは、捨てた実家で健やかに育っているであろう我が子の顔。
私は赤く染まった刃をその場に放り捨て、一つの首を片手にその場を後にした。
そこから三日間の記憶はない。人間と鬼の狭間で、永遠とも思える苦痛を味わっていたように思う。しかしそれを乗り越え、鬼となってからは、頗る気分が好調だった。
睡眠も必要とせず、休息も滅多に取らなくて良い。本当の意味で延々と鍛練を重ねることができるようになった。
二十五を迎えても死なず、肉体的な衰えを感じることもない。
これならば縁壱の領域へと辿り着ける。二十五を迎えた縁壱は既に死に絶え、日の呼吸は成長を終えた。
無限の刻を積み重ね、いつの日かお前を超えて見せる。
そう思っていたというのに、お前はまたもや私の前に姿を現し、
「参る」
八十を越えた老骨でありながら全盛と遜色ない動きを見せ、寿命で勝ち逃げした。
痣者でありながら二十五で死なず、人間を超える身体能力を持つ鬼を一息で何千、何万と斬り伏せられる剣技。
私の欲する全てを持ち合わせ、幾度となく私を惨めにさせる。
憎い
憎い
私は怒りに身を任せ、躯となった弟"だったモノ"を斬り捨てた。
肉が裂け、血肉が飛び散る。上下半身が無残にも地面に転がり落ちた。その中には私が縁壱に贈った"がらくたの笛"も……。
― いただいたこの笛を兄上だと思い ―
もうやめろ
何も与えてやれなかったというのに、何一つとして学べることなどない兄なのに、嫉妬と憎悪ばかりを向けてきたのに、何故お前は私に尊敬の念を抱く。
憎たらしい
憎たらしい
弟に嫉妬する己が、弟に憎悪する己が、弟を誇りに思えぬ己が……。
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遠い昔の記憶。忘れていた父の、母の、妻の、子供の顔を、声を思い出した。それなのに一欠も消えてはくれない、嫉妬と憎悪に染まった虚しい記憶。
生きた証を求め続けて四百年余り。結局私は何も成せず、愚かにも醜く生き永らえることしかできなかった。
口惜しい……口惜しい……。
「何も成せぬまま……何も遺せぬまま……」
頸を刎ねられ、次第に塵と化していく黒死牟。
頭部が落下していく最中に目に入ったのは、
「縁壱……」
本人そっくりに象られた"縁壱零式"。
その存在に気付いた途端、黒死牟は消え逝く体を其方へと歩ませる。
「教えてくれ縁壱……。私は一体……何のために……――」
縋るように手を伸ばす体の足取りは次第に悪くなっていき、最期には声すらも途切れて、巌勝は此の世を去って逝った。
その場に遺ったのは、石畳模様の着物と、真っ二つに切られた無骨な木製の小さな笛のみ。
「……あんたが子孫を残したから、僕が居るんだろう。
それだけで……十分じゃないか…………」
【あとがき】
お読みいただきありがとうございます。
今回は巌勝のお話でした。
私なりの解釈で巌勝の過去話を書きましたが、どうだったでしょうか。
猗窩座と童磨は未来を見ましたが、黒死牟は忘れてしまった
縁壱零式は兄上関連の最後で出すためだけに量産した次第です。
決め手になったのが剣技で負けていたからではなく、母の障害に気付いて支えていたことというのが兄上の生々しいところですよね。
救いようがないのは当然ですが、真っ向から否定しきれないのが兄上……というか上弦達の難しいところです。
旧肆と伍は知りません。自業自得です。
努力を重ねれば大概のことができてしまう巌勝だからこそ、縁壱の存在は悪い意味で大きかったのでしょう。
そんな考えのもと、この過去話を書いていました。
日の呼吸の型の順番はピクシブ百科事典を参考にしています。
巌勝の過去話に関して、原作で細かく描かれているところの大半は、当然ですがバッサリカットしてます。なので異様に端的に説明している箇所がありますが、ご理解ください。原作を読んでください。
加えて、縁壱を除いて最初に痣を発現させたのは巌勝ではなかった筈ですが、話の流れを考慮して、巌勝が最初に発現したことにしています。
無惨の台詞も若干改変していますが、大筋は変わっていないので大目に見てください。
私の文章での表現方法ですが、
-〇の呼吸 〇ノ型 〇〇-
のように、ハイフンで括っているのは、型として成立している攻撃になります。ハイフンがない場合、型としては成立していない攻撃ということです。
次回は漸く童磨戦の続きです。
全く書き進めていないので、毎度の如く半年後くらいに覗きにきてください……。
誤字脱字があれば報告していただけると幸いです。
余談
11話のタイトルがあまりにも気に食わなかったので変更しました。中身は弄ってないので多分大丈夫かと……。
以下、巌勝の妻子の名前
(何となく思い付いた名前で、意味も合っているかは分かりませんが、ご承知ください。)
妻
和:穏やか。誠実。平和。等々……
紗:上品さ。優しさ。等々……
第一子
誠:誠実。正直。嘘偽りのない。等々……
勝:困難に負けない強さ。優れた才能。等々……
第二子
結:縁を結ぶ。繋ぐ。等々……
月:静かで美しい。神秘性。等々……
一応第二子は女の子として考えています。
詳しい意味は記載しませんが、調べると普通に出てくる名前です。
気になった方は調べてみてください。
敢えて言っておきますが、巌勝の妻子はもう一度登場させます。
メインではないので、今回みたいに少し出るだけですが。