その結果猗窩座がしのぶとカナヲと戦うことになったら。
自分でも「辛抱が足りない」と認める猗窩座が、毒を使うしのぶへ理不尽な怒りを抱いたら。
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空気が歪む。壁と床、天井の区別さえ曖昧な、鬼舞辻無惨の精神が具現化したかのようなこの無限城において、方向感覚は意味をなさない。胡蝶しのぶは、己の感覚を研ぎ澄ませながら、ただ一つの目的のために進んでいた。姉、胡蝶カナエを殺した鬼──上弦の弐、童磨。その首を、この命と引き換えに落とすこと。それだけが、彼女をこの地獄の奥底へと推し進める原動力だった。
だが、突如として開けた空間で彼女を待ち受けていたのは、探していた顔ではなかった。
「俺への当てつけ……というより、女女とうるさい上弦の弐のやつへの当てつけか。上弦の肆も迷惑な」
全身に刻まれた藍色の罪人のような刺青。白橡(しろつるばみ)の短髪に、黄金色の瞳。その瞳には「上弦」「参」の文字が刻まれていた。
「上弦の……参?」
しのぶは、完璧な微笑みの下に隠した落胆を密かに噛み殺した。姉の仇ではない。煉獄杏寿郎を屠った鬼、猗窩座。鬼殺隊にとって、そして今の彼女にとって、この男を滅することに異論はない。仇討ちという私怨よりも、鬼舞辻無惨を倒すという大義を優先すべきなのは、柱として当然の心得だった。
(本当は姉さんの仇を討ちたかったのですが……仕方ありませんね。それに上弦の参は煉獄さんの仇。相手に不足はありません)
自らの手で宿願を果たせない無念を、より大きな目的意識で塗りつ潰す。しのぶは、腰に提げた日輪刀の柄にそっと指をかけた。
「それにしても……ふん。女か。俺は女を殺す趣味はない。死にたくなければ大人しくしていろ」
猗窩座は心底不機嫌そうに吐き捨てた。強い男との戦いを何よりの喜びとする彼にとって、目の前の小柄な女剣士は、戦いの相手として認識することすら億劫だった。彼自身、なぜ自分が女を殺せず、食うこともできないのか、その理由は思い出せない。ただ、魂に深く刻まれた禁忌のように、それは彼を縛っていた。
(なぜだ……なぜ俺は、女を殺せない? 思い出せない。だが、この胸の奥が、女に拳を向けることを拒絶する)
「おや、随分と時代錯誤な考えですね。鬼になると、価値観まで大昔のままで止まってしまうのですか?」
しのぶの挑発が、静寂を切り裂く。その言葉に、猗窩座の眉間に深い皺が刻まれた。
「黙れ。俺を馬鹿にしているのか?」
「馬鹿になどしていませんよ。ただ、女性を見下すような鬼に、あの煉獄さんが殺されたとは認めたくない。それだけです」
煉獄、という名を聞いた瞬間、猗窩座の纏う空気が変わった。不機嫌から、闘争を渇望する者のそれへと。
「煉獄──ああ、杏寿郎のことか。杏寿郎は強かった。至高の領域に近かった男だ。だが、お前のような小娘がその名を軽々しく口にするな」
「……あの、その武人ごっこ、楽しいですか?」
しのぶは、哀れむような微笑みを浮かべたまま、すっと息を吸い込んだ。
「蟲の呼吸 蝶ノ舞・戯れ」
瞬間、しのぶの姿が蝶のように舞い、掻き消える。その体重を感じさせない軽やかな動きは、武の理を極めた猗窩座の目から見ても異質だった。次の瞬間には、彼の背後に回り込み、日輪刀の切っ先が頸筋に迫っていた。
「速い……!」
猗窩座は反射的に身を捻る。刃は皮膚を浅く切り裂くに留まったが、その切っ先から何かが流れ込んでくる感触があった。
「チッ……」
しのぶは内心で舌打ちする。毒を回らせるには、もっと深く、長く刃を突き立てなければならない。
「面白い。女にしては動きが良い。その速度、見事だ」
猗窩座は肩の傷に目をやることもなく言った。鬼の驚異的な再生能力が、既に傷口を完全に塞いでいる。
「ですが、本当の舞はこれからですよ」
しのぶは再び構え、今度は正面から猗窩座の懐へと突進する。
「蟲の呼吸 蜂牙ノ舞・真靡き」
最短距離を突き進む直線的な刺突。猗窩座はそれを余裕で迎え撃とうと拳を繰り出す。
「破壊殺・空式」
不可視の拳圧がしのぶを捉えようとした刹那、彼女はまるで柳のようにしなり、軌道を変えて猗窩座の防御をすり抜ける。そして、無防備になった胴体へ、無数の連撃を叩き込んだ。
「蟲の呼吸 蜈蚣ノ舞・百足蛇腹」
一撃一撃は浅く、致命傷には程遠い。だが、そのすべてが確実に藤の花の毒を猗窩座の体内へと送り込んでいく。
「くっ……!」
猗窩座はたまらず後方へ大きく跳躍し、距離を取った。じわり、と体内を蝕む異物感。それが毒だと理解した瞬間、彼の胸に説明のつかない不快感がこみ上げた。
「毒か……卑怯な。所詮は女か」
「卑怯?」
しのぶは心底不思議そうに首を傾げた。
「人を喰らい、無限に再生する鬼が、人間に対して卑怯とは。随分と都合の良い理屈をお持ちなのですね。笑ってしまいそうです」
しのぶの言葉が、猗窩座の中で何かに引っかかった。毒。その言葉が、彼の記憶の最も深い場所、固く閉ざされた扉を無理やりこじ開けようとする。
(なぜだ……なぜ「毒」と聞くと、こんなにも……腹の底が煮えくり返るような怒りが沸いてくる……?)
思考の隙を突き、しのぶが再び舞う。猗窩座の動きは、毒のせいか、あるいは心の動揺のせいか、明らかに先程より鈍っていた。
「破壊殺・乱式」
無数の拳が乱れ撃たれるが、しのぶは蝶のようにひらりひらりとそのすべてを躱していく。そして──
「蟲の呼吸──」
しのぶが日輪刀を順手に持ち、全神経を集中させたその時だった。
「毒で……毒で殺すだと……?」
猗窩座の声が、低く震えていた。彼の脳裏に、忘れていたはずの光景が、灼けつくように浮かび上がった。
──井戸に投げ込まれた毒。苦しみ、もがきながら冷たくなっていた、小柄な女性の姿。助けを求めるように伸ばされた、たくましい男の手。
「あ……ああ……あああああああああ!」
猗窩座は頭を抱えて絶叫した。封印されていた人間としての記憶。完全に思い出したわけではない。彼らが誰なのかも分からない。だがそれでも、人間だった頃に大切だったはずの人なのは分かってしまった。
「毒で……! あの人たちが……毒で殺されたんだ……!」
「え……?」
目の前の鬼の豹変に、しのぶは困惑を隠せない。その全身から立ち上る気配は、先程までの武を求める者のそれとは全く異質だった。憎悪、絶望、そして純粋な殺意。
「許さない……許さない許さない許さない! 毒で殺すなど……どいつもこいつも……絶対に許さない!」
猗窩座の中で、絶対に破られることのなかった枷が、音を立てて砕け散った。「女は殺さない」という、彼自身にも理由の分からなかった絶対の制約が、毒への狂的な憎悪によって吹き飛ばされた。
「破壊殺・滅式」
猗窩座の拳が、初めて本気の殺意を込めて、しのぶの華奢な体を狙った。
「危ない!」
絶体絶命のその瞬間、しのぶの前に割って入る影があった。
「姉さんっ!!」
栗花落カナヲだった。彼女は花の呼吸で猗窩座の必殺の一撃を辛うじて受け流していた。憎しみで視野が狭まっていた猗窩座は、カナヲの接近に気付かなかった。
「カナヲ……」
しのぶは安堵したような、彼女だけでも上弦の弐と戦って姉の敵を討ってほしかったような、複雑な吐息を漏らす。だが、猗窩座の狂気は止まらない。
「また女か……! 邪魔をするなァ! 毒を使う奴は……毒を使う奴だけは……絶対に、生かしておかない!」
猗窩座自身も混乱していた。なぜ自分が女を殺そうとしているのか。なぜこんなにも毒という存在が許せないのか。
(俺は……俺は今、何をしようとしている? 女を……殺す? 今まで、絶対にできなかったことなのに……! だが、こいつは……こいつだけは……!)
怒りは理性を喰い破っていた。恋雪と慶蔵を奪った道場の者たちへの憎悪が、百年以上の時を経て、目の前のしのぶへと向かっていた。
「姉さん、下がって!」
カナヲは青眼に日輪刀を構え直す。だが、猗窩座の狂気に満ちた猛攻は、カナヲ一人の技で凌ぎきれるものではなかった。
「邪魔をするなぁ!」
「くっ……が、ああっ!!」
少しずつ被弾していくカナヲ。単独で戦えているのは、猗窩座に辛うじて残った理性が「毒を使ったわけでもない女」への全力攻撃を避けているからに過ぎない。
そしてその加減も、今の狂気に陥った猗窩座は長くは続けないだろう。
しのぶは、膝をつきながらも、蒼白な顔で戦況を見つめていた。
(このままでは、カナヲまで……。私の毒も、まだ足りない。どうすれば……)
そして、彼女は一つの結論に達する。鬼の頸を斬る筋力を持たない自分が、この上弦の鬼を滅する、唯一にして最後の手段に。
「……やはり、鬼は鬼、ですね」
しのぶは、カナヲの腕にすがってふらりと立ち上がる。その瞳には、穏やかな諦観と、鋼の決意が宿っていた。彼女は自らの日輪刀を手に取ると、ためらいなく自分の手首を深く、鋭く切り裂いた。
「姉さん、何を……まさかっ!?」
カナヲが悲鳴を上げる。しのぶは、血の気の引いた唇で、静かに微笑んだ。
「……カナヲ。私は私の責務を全うします。だから貴女も……やるべきことを成して」
溢れ出す鮮血。だがその血は、常人のものではなかった。実験で長期にわたって摂取し続けた藤の花の毒。彼女の血液そのものが、鬼にとっての猛毒と化していた。
しのぶは、最後の力を振り絞って地を蹴った。それはもはや全集中の呼吸の型ですらない、ただの決死の突撃だった。
「もうやめるんだっ! なぜそこまでする!」
猗窩座が叫ぶ。その声には、怒りよりも純粋な戸惑いと焦りが滲んでいた。彼はしのぶの突進を止めようと手を伸ばし、その細い肩と足の関節を掴んで、力任せに動きを封じた。ゴキリ、と鈍い音がして、しのぶの四肢が不自然な角度に折れ曲がる。
だが、しのぶの決意はそんなものでは揺るがない。
「私には……これしか、できませんから」
彼女は、自分を拘束する猗窩座の腕の中で、最後の微笑みをカナヲに向けた。
「鬼の頸を切り落とせない非力な私が……最期に自分の頸を斬るとは、皮肉ですね」
次の瞬間、しのぶは残った力で自らの頸に日輪刀を振り下ろした。鮮血が噴水のようにほとばしり、致死量の毒を含んだ血飛沫が、至近距離にいた猗窩座の顔と全身に降り注いだ。
「やめろ……やめろぉおおおおぉぉっ!」
「姉さぁあああああああん!!」
猗窩座とカナヲの絶叫も虚しく、しのぶの体は糸の切れた人形のように崩れ落ちていく。カナヲが駆け寄り、その亡骸を震える腕で抱きしめた。
猗窩座はその場に立ち尽くす。
直接手を下したわけではない。だが、自分が戦って追い詰めた。自分が、彼女を死なせた。間接的に「女を殺した」。
全身を内側から焼くような毒の痛みと、心を引き裂くような罪悪感が、猗窩座の中で渦を巻く。
「女を、殺した……俺が、女を……」
「毒は、許せない……なのに、なぜ……」
矛盾した激情が、彼の精神を崩壊させていく。
「そんな……姉さんっ!! しのぶ姉さんっ!!」
目の前で、カナヲがしのぶの亡骸を抱きしめて泣いている。
その光景が、引き金だった。
かつて、人間だった頃。道場の井戸に毒を投げ込まれ、祝言を約束した許嫁、恋雪の亡骸を抱きしめて泣き叫んだ、役立たずの狛犬だった自分自身の姿と重なった。
──恋雪……慶蔵さん……俺は……俺はまた……守れなかった……!
頭の中で、全ての記憶が繋がる。
毒で奪われた大切な人たち。守れなかった悔しさ。自分を鍛えてくれた師。そして、道場の連中を皆殺しにした、あの夜の怒り。
猗窩座の膝が、がくりと崩れ落ちた。
(毒は卑怯で許せない──そう思っていた。だが、決死の覚悟で戦う彼らに対し、斬られても斬られても再生する俺の戦い方は、卑怯ではなかったのか? たとえ非力な体でも、命を懸けて毒という技を編み出した彼女を、否定する権利が俺にあったのか?)
自分は、女を殺した。それも鬼になって基本的には死なないという、絶対的に安全で卑怯な手段を使って。
あれほど憎んだはずの、恋雪たちを毒で殺したあの下衆な男たちと、今や何一つ変わらない存在になってしまった。
絶望が、猗窩去の鬼としての魂を、根底から蝕んでいく。
「上弦の参……あなたは確かに、他の鬼とは違ったのかもしれない」
カナヲが、涙に濡れた顔を上げて静かに立ち上がる。その瞳には、悲しみと、氷のような怒りが宿っていた。
「でも、所詮は鬼だ……!」
日輪刀を構える。その切っ先は、一切の迷いなく猗窩座に向けられていた。
「カナエ姉さんや炭治郎なら、あなたに同情したのかもしれない、寄り添ったのかもしれない……でも、今の私からあなたに言うことは、一つだけ──」
カナヲの声が震え、憎悪に染まる。そして放たれた言葉は、本来なら姉が、上弦の弐に向けて放つはずのものと同じだった。
「とっととくたばれ、クソ野郎!」
「ち、違う……違う違う違う違う!!! お、れは……おれはぁ……!!」
最早彼の精神は崩壊した。半狂乱になって暴れる猗窩座。型も規則性もない動き故に、その動きは読みにくい。嵐のような暴力の中に突っ込んで頸を斬るには……この目では足りない。
「花の呼吸 終ノ型……彼岸朱眼」
カナヲの視界が真紅に染まる。それと同時に猗窩座の動きが緩慢に見えるようになった。猗窩座の拳の動きを正確に見切って躱しながら、一気に肉薄する。
「姉さんの……炎柱様の……お前が今まで殺してきた人たちの……仇っ!!!」
彼女の放った渾身の斬撃が、毒と絶望に苛まれる猗窩座の頸を、正確に捉えた。
ゴトリ、と頸が地に落ちる。
「くっ、目、がぁ……!」
目に凄まじい負荷をかける終ノ型を使ったカナヲが、片目を抑えて苦しむ。急速に視力が落ちていくのを感じながら、カナヲは姉の仇を振り返る。
「なっ……!?」
だが、上弦の参の肉体は、頸を切り落とされてもまだ活動を止めなかった。頸を失った胴体が、闘争本能のままに立ち上がり、構えを取る。
しかし、その動きはすぐに止まった。
(……もう、いい)
猗窩座の、いや、狛治の意識が、自らの肉体に「再生」を拒絶させた。
(俺は……杏寿郎のように、強者との死闘の果てに敗れるのではない。女を死なせ、守るべき信念を自ら踏みにじり、最も憎むべき存在に成り果てて……正に生き恥。これ以上、生き恥を晒すことはできない)
後悔と絶望が、彼の全てを塗りつぶしていた。
本来ならば、炭治郎に正面から負けることで、ある種晴れ晴れとした気持ちで心置きなく死んで逝けた。だが今の信念すら捨ててしまった彼に、そんな慈しい鬼退治はやってこない。
(殺した数で言えば……俺はアイツらよりさらに下、か……本当に……本当に情けない、どうしようもない男だ、俺は)
「破壊殺・滅式」
猗窩座は、最後の力を振り絞り、自分自身の心臓めがけて、その拳を突き立てた。
「すまない……名も知らぬ女性……許してください……恋雪さん……」
自らの手による一撃は、鬼の再生能力すら上回り、その体を内側から破壊していく。
狛治としての罪と、猗窩座としての絶望を抱えたまま、上弦の参の体は静かに崩れ落ち、塵となって闇に消えていった。
後に残されたのは、姉の亡骸を抱きしめ、声もなく涙を流し続けるカナヲの姿だけだった。