THE CHERRY BLOSSOM AND THE RAIN 作:さーもんありなん
遅く帰路に着いた、その道中。
夜の闇にぽっかりと浮かぶ街灯の丸い光の下、誰かが立っていた。
──少女だ、と直感する。
十にも満たないであろう年頃の小さな少女が、じっと佇んでいる。
同時に、またか、と思う。
写真のような映像のような、現実味のない、世界から切り離されたような光景を、もう幾度となく目にしていた。
真上から光が落ちているというのに、彼女の顔は見えない。靄がかかったように、そこだけが黒く塗り潰されている。
だが、彼女の髪が肩下まである黒髪であること、それがウェーブがかかって柔らかく波打っていること、瞳がブラウンであることは、見えずともわかる。
少女は何も言わない。口を開くこともなく、じっとこちらを見つめている。
物言いたげな目で、ただ、じっと。
/
まんじりともできなかった夜が明け、石田はひとまず普段通りに登校していた。
職員室に寄って担任にしばらく来れなくなるかもしれないという旨を伝えてから教室に向かう。長引くなら父から連絡がいくだろうが、念の為だ。
他の生徒に混じって廊下を歩いていると、後ろから声がかけられた。
「早いな、石田」
「やあ、茶渡くん。おはよう」
横並びになって、話しながら廊下を歩く。
話題は今日の午後に行われる休み明けテストの事だったり、昨日やって来た転校生の事だったりと他愛のない話が続いたが、ふいに茶渡が尋ねた。
「石田、何かあったか?」
敏いな、と思った。
茶渡は寡黙な分、人の事をよく見ている。
「なんでもないよ。ただ、そうだな……しばらく学校を休むかもしれない」
「そうか……わかった。井上と一護には俺から言っておこうか」
「井上さんはともかく黒崎は別にいいよ……」
教室に到着すると、目当ての人物を探して窓際の席に目を向ける。
机の天板が白っぽい朝の陽射しに照らされているだけで、席の主はまだいなかった。
◇
桜が登校して来たのは昼休みも終わりに差しかかった頃だった。
教室に入ってきた桜の姿を見るなり、織姫が勢いよく立ち上がる。
「あーっ、桜ちゃん! 遅かったねえ、今日来ないのかと思ったよ」
「ちょっと用があって……。ごめんなさい、今度から連絡するわね」
「桜ちゃん携帯持ってたっけ?」
「持ってないけど、伝書鳩的な何かを飛ばしたりするわ」
「原始的だね……」
石田は眉間に皺を寄せて、織姫と話す桜の横顔をじっと見た。言語化し難いが、その立ち振る舞いにはどこか違和感が感じられる。
それを指摘する前に桜が他の女子に声をかけられてしまったので、話しかけるタイミングを逃し続け、結局声をかけられたのは放課後になってからだった。
「桜さん」
席に座っていた桜に呼びかけると、振り向いた赤い瞳が、まるで鏡が映ったものを反射するかのように石田の顔を映した。
「……具合でも悪い?」
「──え?」
一瞬呆気に取られた桜はすぐに怪訝な顔になって、「別にどこも悪くないけど」と言う。
「そんなふうに見える?」
「いや……なんとなくそう思って。何もないならいいんだ」
不思議そうに瞬きをする彼女からは正体不明の違和感は消えている。思い過ごしかと気を取り直した。
「ちょっと話があるんだ。場所を変えてもいいかな」
「ええ」
荷物を持って教室を出た。人のいない場所を探し、いつぞやのように屋上へ辿り着く。階段室横の日陰に入り、二人並んで壁に凭れかかった。
天気は快晴で、晴れ渡った空にはまばらに雲が散らばっている。真夏に比べればどこか秋の気配を漂わせる爽やかな風が吹いていた。
「──そう。お父さんが……」
昨夜の出来事をかいつまんで話せば、桜は難しい顔で黙り込んだ。影の中にいるせいか、白磁のような頬は病的なまでに白く見える。
「〝滅却師最終形態〟で失った力を取り戻す方法があるなんて、にわかには信じ難い話ね」
「僕も正直半信半疑ではあるよ。でも、この件については信じていいと思ってる」
桜の言うことは尤もだ。石田とてそんなものは祖父から露ほども聞かされていない。
だが、失った能力を元に戻せると断言し、あんな条件を課してきたくらいなのだ、確かな方法があるのだろう。
何より、下らない嘘をつくような奴ではない。曲がりなりにも親であるあの男の事は、多少は理解しているつもりだ。
「なんにせよ、良かったわ。霊圧はあるのに戦う力がないんじゃ色々大変だし、力が戻るなら越したことはないもの」
「あー、その事なんだけど。この前僕の家に来た時、何かした?」
「え?」
数日前──尸魂界から帰還したその日。
自宅に招いた桜が帰った後、アパートの周囲に結界が張られているのに気がついたのだ。
結界の性質は内部の霊圧が外に漏れないように遮断するスタンダードなタイプのものだが、恐ろしく緻密な造りで、霊圧感知を研ぎ澄ませなければそこにある事すら気づけないような代物だった。
「虚避けだろう、あれ」
「──なんだ。バレないようにこっそりやったのに」
「やっぱり君だったのか……」
ひょいと肩を竦めた桜に、石田は眉を下げた。タイミング的に彼女だろうとは思っていたが、申し訳ないやら何やらで複雑な気分だった。
しかし、それももう終わる。否──終わりにする。
「ありがとう、色々気遣ってくれて。でも、もう大丈夫だから」
「……石田くん、」
半身の姿勢から正面に向き直る。
気遣かわしげに揺れる目を真っ直ぐ見つめて、硬く手を握った。
──思えばいつも、この手からは大切なものがことごとくこぼれ落ちていく。
二度と果たされない約束。見届ける人のいない誓い。
残るものといえば後悔と焦燥ばかりで、突きつけられる己の無力に拳を握るしかなかった。
そんな中で、父に話を持ちかけられたのだ。それは思いもよらない幸運であり、降って湧いたように訪れた好機だった。
驚きも不信感がないわけではなかったが、それよりも期待と喜びが勝った。たとえ話を持ちかけてきたのがどんな相手でも、使えるものは全て使うと、石田はその場で即断した。
力を取り戻す。
今度こそ、何も取りこぼさない為に。
護りたいものを護る為に。
「僕は必ず滅却師の力を取り戻す。きっと前より強くなる。
そうしたら────もう二度と、君を一人で行かせたりしない」
……風が吹く。
強く吹きつけた風は桜の長い髪を乱して、彼女の顔を覆い隠した。
だがそれも一瞬の事。乱れた髪をそっと抑えながら、桜はわずかに視線を落として、呟くように言った。
「……石田くんって、お人好しってよく言われない?」
「え、言われたことないよ」
考えもしなかった言葉に目を丸くする。
人見知りするというわけではないが、そう積極的に他人と交友関係を築く性質でもないと自覚している。特に祖父の一件があってからはずっとピリピリしていたので高校に入るまでは友人も碌におらず、当然そんな事を言ってくる人もいなかった。
桜は石田の返答に「そっか」と頷いて、
「わたし、石田くんのそういうところ好きだな」
小さく笑いながら、そう言った。
…………………………………………。
……………………………………。
……………………待て。落ち着け、石田雨竜。
六秒数えて深呼吸しろ。他意はない。彼女に限ってそれはない。こういう心臓に悪い事をいきなり言ってくるのは今に始まった事じゃないじゃないか。動揺するな。
そもそも──
(
混乱の只中に叩き込まれながらも、石田はたっぷり六秒──ではなく念の為十秒数えて動揺を完全に鎮めてから口を開いた。
「……君ね。そういう事は軽々に言わないように」
最近どこぞで聞いたような台詞である。
不自然に空いた間を誤魔化すように眼鏡の位置を直しながら平静を装って咎めると、桜は途端にむっと顔をしかめる。
「何よ、軽々って。人の良いところを指摘するのに軽いとか重いとかあるわけ?」
「言い方の問題だよ、言い方の!」
発言に込められた意味がどうのという話ではない。客観的な事実として、思春期の男子高校生にそういうことを面と向かって言うのは非常によくない。
という事を懇々と説くと、桜はわかっているのかいないのか、拗ねたように唇を尖らせている。日頃から冷静で一歩引いたような態度でいることが多く大人びて見える彼女だが、感情のままに表情を変える姿は年相応に見えた。
「石田くん」
「うん?」
「がんばってね。待ってるから」
「! ああ……!」
/
屋上から見下ろす校庭は、下校する生徒や部活動に励む生徒でごった返している。
その中の一人。真っ直ぐ校門に向かう黒髪に白いシャツの少年を見つけ、桜はそれを目で追いかけた。
随分薄れてはいるが、その後ろ姿からはまだわずかに霊圧が感じられる。元に戻るかどうかは、彼と彼の父親次第だ。
石田が完全にそうだと思い込んでいたのでわざわざ勘違いを訂正することもしなかったが、虚避けの結界を張ったのは桜ではない。彼の家に招かれた時、念の為にそれに類する結界を作製しようとしたのは事実だが、その前に既に結界が張られていたのだ。
そんなことができ、尚且つする動機のある人間は一人しかいない。
「……過保護なお父さんだこと」
ぽつりと漏れた声は低い。
おそらく桜達がまだ尸魂界にいる時に浦原から石田が滅却師の能力を失った事を聞いたのだろうが、結界に術者の霊圧の痕跡すら残さないとは徹底している。
親子仲に確執があることは認識していたが、こうも回りくどいとは。昨晩の事といい、親子揃って素直ではないらしい。
だが素直でなさ過ぎるのはいただけない。
少しでも石田に〝帝国〟の情報を渡していれば、彼とて桜のような怪しい人間を懐に入れることはしなかったろうに。
とはいえ、竜弦がそうしなかった理由もわからないわけではないのだ。
何も知らせず、伝えず、教えないことでしか守れないものというのは、確かに存在する。
「何ががんばって、よ……笑えるわね」
後ろの壁に背を預けて、天を仰いだ。
ため息交じりに漏れ出た声には疲労とも言い難い虚脱感が滲んでいる。何か特別な事をしたという訳でもないのに、ひどく体が重かった。
……入れ込み過ぎだという自覚はある。
だが、もう遅い。
この数か月で、石田雨竜という少年がどういう人間かは大体把握した。──してしまった。
甘いくらい優しくて、どこまでも真っ直ぐで。
誰かのために躊躇なく走り出せて。
そして、滅却師である事に誇りを持っている。
その在り方が眩しくてならなかった。
自分にはもう手の届かないものだから。
「……そんな子じゃなかったら、もっとやりやすかったのにな……」
もしも彼が何もかも知っていたら、話はずっと違っていただろう。
〝帝国〟の事も、滅却師の歴史の事も、何もかも承知の上で腹の探り合いでもして、互いに笑顔の下で敵意を向けている──そんな相手だったら、きっとこんなふうには思わずに済んだ。
けれど実際はそんな事はなくて、彼は闇から徹底的に遠ざけられて、遍く悪意から守られている。それは、これ以上ないほど愛されているという何よりの証左だろう。
そして。
そう遠くない未来で、自分はそれを汚い足で踏み躙ることになる。
あらぬ場所を見つめていた視線を校庭に移せば、そこにはもう彼の姿はない。
無数の人影が蠢く地上に降り注ぐ陽射しが眩しくて、硬く目を閉じた。
──いつか必ず訪れる訣別の日に。
彼は、どんな顔でわたしを見るのだろうか。
この子いっつも高いところから見下ろしてんな