THE CHERRY BLOSSOM AND THE RAIN 作:さーもんありなん
肌に微弱な電流が走ったような感覚を覚えて、桜ははっと顔を上げた。
視線の先で黒い蝶がひらりと舞う。──地獄蝶だ。
蝶はルキアの肩に止まり、二・三度翅を羽ばたかせる。彼女が目の色を変えたのと、崖上から浮竹の声が降ってくるのは同時だった。
「──朽木っ!」
「はい! こちらにも今報告入りました!!」
「鬼道衆が開門処理に入っているはずだ! 隊舎前の穿界門に急げ!!」
緊迫した二人の様子に否が応でも事態を悟る。破面が動いたのだ。
駆け出すルキアを織姫が追いかけようとするが、ルキアがそれを冷静に諭す。
「待って朽木さん、あたしも……!」
「駄目だ井上。こちらへ来る時に教えたろう。私と一緒に穿界門を通っても地獄蝶を持たぬお前達は自動的に断界へ送られる」
ルキアの言う通りだ。
今の桜と織姫には、現世と尸魂界を自由に行き来する術はない。無理にルキアを追って断界を通っては余計に現世への到着が遅れるだろう。それでは本末転倒だ。
「断界を安全に通過できるように界壁固定の指示を出しておいた。半刻ほどかかるが君達はそれから現世へ向かいなさい」
降りてきた浮竹の言葉に織姫が視線を落とす。歯がゆさを隠しきれないでいる彼女に、ルキアが「そんな顔をするな、井上」と励ますように声をかけた。
「先に行って待っているぞ」
「うん……!」
「朽木さん、気をつけて」
「ああ」
力強く頷いたルキアは軽やかに崖を登り、隊舎の方角へ消えた。
それを見送って、浮竹に尋ねる。
「現世に現れた破面の詳細はわかっているんですか」
「観測班によれば、襲撃してきたのは十刃と見られる個体が四体だそうだ」
「四体……」
どうして今なのだろうか。
織姫から聞いた話では〝崩玉〟の覚醒には時間がかかるらしく、それ故に藍染が動くのは冬だと護廷十三隊は判断した。だがその覚醒期間を算出したのは涅マユリだったはずだ。
彼の予測を藍染が上回った。それ自体は別段おかしな事ではない。〝崩玉〟がどのような物質なのか、どんな性質を持っているのかを最も知っているのは藍染なのだから。
だが腑に落ちない。本格的に戦いを始めるにしては四体という数は少なく、しかし偵察にしては目立ちすぎている。
現世にはまだ日番谷達が残っているはずだ。現役の隊長格が複数名と、元隊長が二人──いや、三人。仮面の軍勢も戦力に数えていいだろう。現世の守りも決して手薄とは言えない。
意表を突いて各個撃破し、早い段階で戦力を減らす算段か? だとしたら畳み掛ける為にこの後すぐに藍染率いる本隊がやって来る可能性も否めない。それとも他に目的が?
……何故だか、無性に嫌な予感がする。
◇
じりじりと待つこと一時間。界壁固定完了の呼びかけと同時に、断界の中に駆け込んだ。
門をくぐった桜と井上に随伴の死神がついてくる。客人の往来には死神二名が同行するのが習わしだと言う彼らをあしらう時間も惜しい。
桜は走りながら隣の織姫をちらりと見た。彼女は急いてこそいるが、焦ってはおらず、冷静さも失っていないように見える。これならばどんな事態に直面しても大丈夫だろう。
織姫の能力は驚異的だ。どれだけ戦線が壊滅していても、彼女さえいれば立て直せるのだから。
(待て。まさか──これか?)
頭の片隅で警鐘を鳴らし続けていた嫌な予感の正体に思い当たり、桜が足を止めかけた、その時。
「──なんだ。護衛は二人か」
唐突に、背後から男の声がした。
勢いよく後ろを振り向けば、黒い染みが滲むように空間に亀裂が走っている。
「存外、尸魂界も無能だな。最も危険が高いのは移動の時だということを知らんらしい」
巨大な怪物が口を開けるように、空間が歪に開く。中には虚無に近い暗闇が広がっている。
その闇を背にして立つ男を見た瞬間、桜は浦原の織姫への戦力外通告と、不可解なタイミングでの襲撃の真意を悟った。
深い緑の目をした破面。
名を、ウルキオラ。
「護衛が二人だけというのは拍子抜けだが……煩わしい拘流の動きが固定されていたのは都合が良かった。話をするのに時間を急ぐのは性に合わんからな」
「──ッ!!」
矢を番え、弦を引き、放つ。一連の動作は瞬きの間に完了する。
だがウルキオラが袴から出した手から閃光を放つのも、また瞬きの時間だった。
光と光がぶつかり合う。
衝突の瞬間に一際強い輝きを放ち、攻撃はあっさりと相殺された。
躊躇わず第二波を番える桜に、ウルキオラは無機質な眼差しを向ける。
「……気の早い女だ。話があると言っただろう」
「こっちにはないの」
ぎちぎちと音がするほど強く弓を引きながら、背後の織姫に素早く告げる。
「走って井上さん」
「え、」
「早く。行って!!」
ウルキオラ──藍染の目的は織姫だ。おそらく現世の襲撃は陽動。彼の言う通り、最も危険が高い移動のタイミングをまんまと狙われてしまった。
躊躇いがちに、迷いながら、しかし現世へと繋がる出口に向けて走り出す織姫を見て、ウルキオラはわずかに目を細めた。
「そこの二人も行け! 早く!!」
「……は、はいッ!」
護衛の死神二人に怒鳴るように言い放てば、一人は遅れて織姫に追随していったが、もう一人は狼狽したままその場に留まっている。そこまでは責任は取れない。
残った死神の上半身が吹き飛んだ。矢を撃ち放つのはそれと同時。
噴き上がる血飛沫を裂いて飛来した幾本もの矢を、ウルキオラは体を捻って回避する。
「察しがいいな滅却師。そうだ、用があるのはお前じゃない」
彼は矢を避けた体勢の勢いを活かすように宙を蹴った。──否、撫でた。
靴先が通った軌道上にわずかに光が散ったかと思えば、光は一点に集束し高速で発射された。
「──っ!?」
頭目掛けて放たれた虚閃を間一髪で避けるが、直撃を喰らった弓の上部が欠ける。
くそ、と口の中で悪態をつく。今まで指先からしか虚閃を放たなかったのはブラフだ。
欠けた大弓を修復するのではなく二つの小弓に構築し直し、両手に構えて矢を撃ち放った。
ズダダダダダダダ!! とマシンガンさながら放たれた矢は、弾幕となって狭い通路内にまき散らされていく。
小弓は矢の威力こそ大弓に劣るが連射性能は上回る。当たったところで大したダメージにはならないだろうが、多少行動を抑制できれば織姫が断界から脱出するまでの時間稼ぎにはなるはずだ。
だがそう考えるのと、視界の端にウルキオラが現れたのは同時だった。
「ああもう鬱陶しい──!」
〝
霊圧知覚が鋭敏であるほど不意を突かれるのだ、やりにくいにもほどがある。
ウルキオラは白い衣装を血で染めていた。弾幕を掻い潜るのではなく、外皮の硬さにものを言わせた正面突破か。
かと思いきや、男の全身に刻まれた傷がみるみるうちに塞がっていくではないか。
(超速再生……!?)
ヤミーやグリムジョーといった他の十刃にはなかった機能だ。グリムジョーの部下達にも傷が回復するような様子はなかったと日番谷から聞いている。てっきり虚が破面に進化する際に失われるものかと思っていたが、あるいはこの男が例外なのか。
何にせよ厄介だ。一撃で急所を潰さなければすぐさま再生される。
舌打ちをこぼしながら矢を番えた弓を向ければ、ウルキオラがこちらに手を伸ばしていた。
小弓を握る手に力を籠める。拳銃の引き金を引くような軽い動きによって矢は発射され、蝋のように白い手のひらを貫通した。
だが男は眉一つ動かさない。痛みも傷も無視して、彼は桜の右手を掴んだ。
──ぐしゃり、と右手が弓ごと握り潰される。
顔を歪めた桜にウルキオラは無機質な瞳を向け、感情の乗らない声で、ただ一言。
「言ったはずだぞ──お前は生かしてはおかん、とな」
激痛と衝撃が、胸を中心に全身を突き抜けた。
視界の色彩が一瞬でひっくり返り、世界が白と黒の明暗だけで塗り潰される。
「ッ、あ、が──」
肉と骨と神経と、柔らかい塊が磨り潰される湿った音が、体内からした。
脳裏を灼くような熱と、電撃を浴びたような強烈な寒気が全身を襲う。
喉の奥から熱いものがせり上がってきて、生温かい液体が口からごぼりと溢れる。地面にばちゃばちゃと落ちて靴を汚したそれは鮮やかな赤色で、端々が泡立っていた。
──心臓を潰された。
そう理解した時には既に、胸部に突き刺さった腕はずろりと引き抜かれ、支えを失った体は大量の血を噴き出しながら地面に崩れ落ちている。
だがその衝撃も、胸を貫かれた痛みすらも遠い。
それを感じるだけの余裕が、ない。
「っ、──ぁ、 あ゛、、、ッッ ッ……!!」
肉が焦げ、
骨が砕け、
神経が断絶し、
細胞が溶け崩れる──そんな感覚。
破れた心臓が動きを完全に停止するより先に。
血液の循環の止まった脳細胞が死滅するより先に。
「────、────ッッッ!!!!」
悲鳴が、わんと反響したのが、かすかに聞こえた。
顔面を蒼白にして駆け寄ってくる織姫の姿が、明滅する視界にぼやけて映っている。
……それも一秒後には見えなくなる。
呼吸器官の次に目が死んだから。
薄れる意識で、にげてと念じたけれど、たぶん、ダメだろうなとも思った。
だって、彼女はそういうひとだ。
きずついた仲間を残してにげるような子じゃない。
……そう。
やさしくて、あたたかくて、きれいで。
そんなひとの近くにいられるのがうれしくて、でも、おなじくらい、つらくて──……
……──あ
あおぞらが みえる
あの子の かお が
………………ちくしょう
ま ってる って
いった の に
い しだ くん
/
ぐっしょりと赤く濡れた腕を振って血を払い、ウルキオラは足元に転がる死体を睥睨した。
血だまりに沈む女の顔に生気はない。黒崎桜は間違いなく、その生命活動の全てを停止させていた。
胸に湧くのはわずかな落胆。
(……この程度か)
心臓を潰せば人間は死ぬ。道理だ。ウルキオラとて超速再生には脳と臓器以外という条件がある。
女は自分が殺したから死んだ。それは単純にして明解な因果。
──だが。
本当にこれで終わりなのかと疑ってしまう。
そもそもこの女、本気を出していたのだろうか。わずかだが、反応速度に肉体が追いついていないような節があった。
ウルキオラの速度についていける優れた反射神経がありながら、脳からの指示を実行する身体機能が劣っている──不自然だ。訓練を積み、戦いに慣れた者ならそのような挙動には成り得ない。どちらも等しく鍛えられていくからだ。
何か事情があって全力を出さなかったのか、あるいは出せなかったのか。
しかし、どちらにせよ。
(無駄なことだ)
女は死んだ。最早どう足掻こうとも動かせず、また覆すこともできない現実である。
強くこちらを睨みつけていた紅い目に、何がしかの期待を寄せていたのは事実。だがもうそれも過去の事。
ウルキオラは死体に縋りつく人間の女──井上織姫に目を向けた。
「……な、んで……、……どうして……、」
先ほどまで半狂乱になって回復術を展開していた女は、今や死体を覆うオレンジ色の膜を前に呆然と座り込んで、うわ言のようにブツブツと呟いている。
死体の胸にぽっかりと空いた穴は塞がらない。それは出力が足りていないというよりは、何か大きな力が阻害しているように見えた。
ウルキオラは膜を踏み砕くと、そのまま物言わぬ肉塊を蹴り飛ばした。
喉の奥で小さく悲鳴を上げた井上織姫の前に立てば、血の気の失せた青白い顔がのろのろと上げられる。
「これでようやく話ができる」
「……、……」
「俺と来い、女」
絶望に乾いた瞳が見開かれる。
震える唇が何かを言う前に、それを遮った。
「俺にはお前を無傷で連れ帰る使命がある。現世にいるお前の仲間をこの女と同じ目に遭わせたくなければ……わかるだろう」
如何にも安い脅迫だった。
だがこの手の、仲間を見捨てられない愚直な人間には覿面に効くものであると、ウルキオラは表面的に理解していた。
「もう一度だけ言う。──俺と来い、女」
二つの世界に続いていた扉は閉ざされ、通路は闇に沈んだ。命の気配の絶えた空間に、血で湿った沈黙が満ちる。
────そこに。
昏い闇の中から、何かが現れた。
それは光を持たない。
輪郭を持たない。
実体を持たない。
それは──影だった。
蠢く影は周囲の闇と同化しながら、冷たくなった少女の体ににじり寄った。
寄り添うように、あるいは絡みつくように、または縛るように、血で濡れた体を這い上っていく。
やがてそれは彼女の肉体に空いた傷を埋めるように、体の内側に入り込む。
伽藍洞の体が、びくりと痙攣した。
「──あまり無茶をしてくれるな、桜」
低い、声。
甘やかで、穏やかで、深く、暖かく、子を諭すような慈愛に満ちた声が、言う。
「お前の体は、お前一人のものではないのだから」
というわけでこれにて破面篇前半終了です。そしてストックが尽きたので再び書き溜め期間に入ります。
完結させる気はモリモリにあるので、気長にお待ちいただけると幸いです。それでは~