内海アオバは、いつもと変わらぬ夕暮れを眺める。

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 なにも、乗り終わらなくてもいいものを。





乗り越えられない

 鴻園の裏路地、その奥まったところにある酒場の構えは他所と違っていずれも皆、曲尺形の大櫃台(カウンター)を往来へ向けて据え、櫃台の内側には絶えず湯を沸かしておき、(かん)酒がすぐでも間に合うようになっている。

 仕事をする人達は正午の休みや夕方の手終にいちいち十(アン)銭を出しては茶碗酒を一杯買い、櫃台に靠れて熱燗の立飲みをする。――もし後一眼出しても差支えなければ、筍の塩漬や茴香豆(ういきょうまめ)の皿盛を取ることが出来る。もし果して十何眼かを足し前すれば、(なまぐさ)の方の皿盛りが取れるけど、こういうところに来るような人は大抵袢天著(ばんてんぎ)の方だからなかなかそんな贅沢はしない。中には多少身装の整った者などがいて、店に入るとすぐに隣接した別席に著き、酒を命じ菜を命じ、ちびりちびりと飲んでる者もいる。

 

 ――なんて。

 

「ねえおチビちゃん。聞いてる? もしもーし、ねえってばぁ」

 

 教科書かどこかで読んだ話のように思考を巡らせてみても、眼の前の景色は変わらない。いつかあったのかもしれない酒場の喧騒を思い起こしつつ、火の一つも灯らない冷たい闇を眺める。

 隙間風の吹く陋屋(ろうおく)、あばら屋。出来たばかりの頃は多少程度の一財産だったのだろう店先も、今や店主はどこかで丸に呑まれ。店は再積日で大きく抉られ、誰かに荒らされ。その廃墟にはもはや、奥まって常に影さす小路に面した櫃台しか残っていない。

 ただ一人。いいや二人。夜が来る前に潜り込んだ私と、もうひとり。”巳”と呼ばれる女の人を除けば。

 

「酔っぱらいの対応なんて、ほんとに久しぶりなんですけど……」

 ため息交じりに横を向く。深い黒のボロ切れみたいな羽織物と体中に巻き付いた紫色の包帯を揺らして、私とまったく同じ格好をした巳を向く。

 上背の高い大人の彼女は、真新しい血のベットリとついた茶碗を持ち上げながら笑った。

「誰が酔っ払いらってぇ? まだ老酒も1本しか開けてないんだから良いでしょうに、ねえ。おチビちゃん。あなたも飲まなきゃやってられないでしょ?」

 茶碗から唇を放し、ぷへと息を吐きながら、巳は私の方を見つめた。

 ちんちくりんな裾と包帯だらけの短い腕。どこからどう見たって大人とは思えないだろうに。

 私は当然、うわさに聞いていた不良生徒とは違ってアルコールのアの字も知らない――でもメの字だけは物品の消毒でよく使っていたからよくわかる。だけどまあ、ほら。巳もこんなところにメチルアルコールを飲む趣味は無いだろうから。

「は、はい。……私、酒はまだ飲めないんですけど…………」

 

 何かに酔った人は、いつもこうだ。銃声にも、(ワン)にも、酒ですらも。

 列車の中で暴れる人も、ただ管理センターの配属だってだけで私の仕事を増やす人も。結局、言葉で理解してくれたことなんてないんだから。

 むしろ効果的なのは――感情。私がどういう顔で、どういう反応をするか、ってことだけで。

 

 大櫃台の前でしおらしく肩を縮める私を蛇にも似て眺め、巳はにまりと口角を上げる。

「たまにはいいじゃんか、ねぇ? シー家の蛇使いサマだって、こぉんなところまで見てらいって。となるとぉ、おチビちゃんは何が好きかな。清酒? 濁酒? どこかに転がってれば荔枝(ライチ)酒なんかも…………」

 独り言のように呟きながら、ぐいと飲み干した茶碗を乱雑に叩き置き。眼の前の甕をひっくり返して一滴も注がれないことを確認すると、巳は縄で括られた甕をどこか遠くの壁に向けて手首の力だけで放り投げた。

 

 その瞬間。巳の腕が長く伸び、ケロイドじみた掌が投げ捨てられた甕より早く壁を打つ。

 はらりと風に揺れる紫色の包帯を解けさせた片腕がまた元の長さに縮むのと同時、ガシャリと重い陶器が割れる音がする。

 やばっ。巳の喉から、声に出ない呻き。酷く醜いモノを自ら見てしまった時のような。それを誰かに見せてしまった時のような。

 

 壊れた甕から目を逸らし、巳が私を見つめる前に。

 私は大櫃台の片隅に手を伸ばし、安い黄色硝子の大瓶を巳の傍へと持ってきた。

 

「はぁ……また甕を空けるなんて……もう甕を一つ空けてるっていうのに」

 眼の前で巳が起こした事を曖昧に無視して、代わりの感情を返してやる。

「まだ飲むつもり、なんですよね? ……ほんっと、信じられないんですけど」

 

 呆れた口調でにへらと笑う。つられて、巳も笑う。笑ってくれる。

 つい今しがたのことなんて何もなかったとでも言うように。茶碗になみなみと大衆向けの黄酒を注いだ巳は、ぐいと一息で飲み干してからさらに一杯。

「信じはれないほどよく飲むねってぇ? いんやねぇ、私なんてまだまだなんらって」

 相手のことを考えながら、相手の反応を上手いこと調整する。そうすれば勝手に、酒飲みというのは勝手に気分が上がってくれる。

 

 こういうのは、どうしたって慣れない。

 

「それじゃ、もっと信じられない話をしてあえる。あのね、この前やり合ったシュエ家の勢門にはもっと凄いのがいるんらよ。そう、(しと)呼んで酔手夜――」

「…………信じられない馬鹿の意味なんですけど」

 不意に。すぱっと竹を割るように飛び出した舌を、しまったと言うように遅れて噛みしめた。

 唇をかみしめ、目線を落とし。ごくりと唾の嚥下される音。

 痛いくらいの沈黙から眼を逸らすよう櫃台(カウンター)の上に置いた水筒へ手を伸ばし、ぬるい水温を爪の上から感じた。

「……ふふっ」

 くすり。巳が背を曲げ、肩を震わす。

「あっはっは! そしたら裏路地住まいなんて、丸酒(ワンしゅ)で味の染みた天下一品の大馬鹿者ねぇ!」

 呵々と笑った彼女はそのまま、安い黄酒を煽る。(かわ)いた茶碗に注ぐこともなくラッパのように口をつけ、ドンと大きな音を立てて櫃台へ置いた。水筒の中の(スープ)が揺れる。

「え、えへへ……」

 曖昧に口元を緩ませながら私は水筒の蓋を手に取り、注いだ羹をずずりと啜る。

 

 こんな大酒飲みでも、私にとっては先輩だ。

 こんなところで目が覚めて、気づいたら紫色の包帯でぐるぐる巻きにされていた私にとって。初めての先輩。

 黒獣(ヘイショウ)――どこかの誰かに手綱を握られることでその通りに動き回る、この鴻園の影の特殊部隊。内側から体を作り替える巳丸(ワン)を飲まされるだけで、私みたいな子供だって少なくとも飢えることも寒さに凍えることもなくなる……ちょっと、いやすごく怪しい秘密の集団。

 その中でも、一番私に絡んでくる先輩だ。

 

「いやぁ笑った笑った……ぁ、そうだそうだ、ねぇおチビちゃん。読み書きは出来るぅ?」

 ひとしきり笑った後、巳は私に語りかける。

 私は当然だとばかりに小さくうなづく。今日このご時勢、読み書きが出来ない人なんてそうそう聞いたことがない。

 あの、と小声で呟いた喉を覆い隠すように、巳の首元に巻かれた紫色の包帯がゆらりと風に揺れた。

 ちらり。目線を上へ。汚れた包帯でサラシのように締め上げられた胸元を超えて、他の巳たちに比べればまだ肌色のよい頬へ。薄紫色に変色した瞳孔をきっと見開き、背筋を伸ばした彼女は朗々と歌を詠む。

 

上大人(しゃんだーれん)孔乙己(こんいーじー)。三千七十の(さむらい)を化したり。汝ら小生、八九の子らよ。佳く仁を作り、礼を知る()き也――――」

 

 聞きなれない歌。キヴォトスでは聞いたことの無い歌。きっと、この都市の、鴻園の。

 それを口に出しながら、巳の彼女は包帯だらけの指先で空中に何かの文字を書いていく。

 ちらりと見える鱗交じりの指先。不健康な色合いの、ぐずぐずの指の腹。槍のひとつも持たないままに、何の呪いも、何の力もない――ただの手習いの字のように。

「い、今時読み書きくらい、学校で習うと思いますけど……」

 むっとした顔を隠すように、羹を啜る。ちょっとした不満が舌に出る。

 あっけらかんと笑った巳の視線が、まっすぐ私を舐る様に上下する。

「ああ。そっかぁ。そういえばそうだったね、裏路地とは違うんだった。……ん。ってことはおチビちゃん、あなたってもしかして羽だったわけ?」

「え」

 ハネ。聞き覚えの無い単語で、一瞬だけ頬がひきつる。

 すぐにこの都市特有の言葉だと気づいて言葉を返そうとするけれど――巳は、先んじるように包帯でぐるぐる巻きの手を振った。 

「……ああ、ごめんごめん! 聞きすぎちゃったね。同じ巳同士、昔の事なんて聞かないし知らないことにしないといけない。あくまで没個性な、誰にでも首輪を握られる黒い獣――だもんね……」

 徐々に小さくなっていく言葉尻。しゅんと縮こまっていく肩を支えるよう、私は咄嗟に声に出す。

「で、でも……その。歌、凄く上手かったです。それに私、古典の授業は苦手で……」

「そ、そう? いやぁ、苦学しててホントに良かったぁ」

 ほっと息をついた巳から目を離し、小さく水筒の蓋に向けてため息をこぼす。ふうと羹が揺れていく。

 

「それじゃあおチビちゃん。この歌はどうやって綴るか、知ってる? 最近流行ってる歌なんだけどねぇ……」

 

 少しだけ得意げに、流れるような古語まじりの言葉で歌い始めた巳の姿を一瞥し、器で隠しながらにへらと緩ませた口元を解く。真一文字に口角が落ちる。

 

「瞳の宿光(ひかり)は五色玲瓏、四海に照りつく宝玉か。されど秘めたる胸曇り、幾星霜にも(とづ)きなば――」

 

 はぁ。ため息。羹を啜る。

 最近裏路地で流行っている歌なんて、聞いたこともない。さして興味も無い。

 そういうのは私には似合わないし、ちゃんと歌を聞いてる暇なんてない。何にも知らされないまま包帯を巻かれて、黒獣の仕事についていくだけで精一杯。

 だけど、この巳の彼女は好きみたい。

「やがて凶運訪れば、紅涙流るる川に似て――……これは全部、七字揃えの詩になっててね」

 指先を酒に浸して楽し気に櫃台へ文字を書く巳は、そこだけ見れば先生そのもの。……だけど、記憶の中の大人とは全然違う。全部が違う。

 もっと優しくて、私をちゃんと見てくれて、もっと頼れて。酒場だった廃墟なんかじゃなくて、ちゃんとしたディナーに連れて行ってくれて。

 言葉を聞き流しながら、ぎゅっと指を折る。包帯を巻かれた自分の醜い指先が、どうしようもなく作り替えられたことを明示するようで。

 

 気づくと、巳の言葉は止まっていた。

 器から唇を放し。無理矢理笑顔を取り繕って、彼女に問う。

「えっと。それで、その……私、何か……したり、しましたか? たった二人で、こんなとこで……」

「え、うん、あぁ…………いんやぁ? あなたと酒が飲みたかっただけ。なーんて、カッコつけちゃ駄目?」

 この人は、ほら、こんな事を言ったり。

 調子が良くて、気分屋で、いつも静かに怒っている。薄暗い場所を這う蛇みたいな、触りづらい人。

 私のことなんか見てか見ずにか、巳は櫃台に伏せるかのようにして茶碗を揺らす。

 

「ホントはね、だぁれも酒に付き合ってくれなさそうだからなの。例えばほら、あの無精髭の巳、何回(ワン)飲んだのか知らないけどさ。なんでも見通してるって顔していけ好かないじゃない?」

「へっ、ま、まあ……怖い人、ですけど……」

 突然振られた話をいなすと、巳は目を瞑り膨らませた頬の隙間から言葉だけを漏らしていく。

「そうなのよぉ。怖いっていうか、不気味? (ワン)の常習者なら感情が薄くなるって言うらしいけど、あれは薄いとか薄くないとかじゃないって。それこそ生粋、何食べたらああなるのって思うのよねぇ」

 まるで虫みたい。

 ぽつりとぼやいた巳の呟き。ちらりと向けられる目は、きっと同意を求めてのもの。

 

 数瞬。

 

 咄嗟に返事ができなかった私から目を逸らし、巳は茶碗を空にした。

「……あぁもう。何から何まで腹が立つなぁ。シー家だってジア家だって、やることやってるならとやかく望まなきゃいいのに」

「わ、ワン家とか……シュエ家とかも?」

「あの頭でっかちの呪い僧でしょぉ……怪文字は良いヤツだけど、そんなの、雲の上の人が勝手に組み込んできただけじゃない。……ああその、黒獣仙人サマって言うんだって? (ワン)しかくれないくせに、こういう要らないことだけは無駄に早いんだから…………」

 くだを巻く。見もせずに黄酒を茶碗に移し、巳の唇が力なく啜る。

 これまでに溜まった鬱憤を全部吐き出すかのように、背を丸めた女が震える唇を揺り動かす。

「シー家の輩どもと真っ向勝負させられたときも……松庵(ソンアン)のときも……巳ってのは、いつも。いつも。私なんか乗り越して、何もかも早く決めちゃうんだから」

 

 数拍。

 口をつぐむ。情動を抑えるように、唇を噛みしめ酒を煽る。

 他でもない巳が喋らなくなったのを見計らい、私は慌てて黄酒の瓶を手に取った。

 

「そ、そういえば。あの……酔手夜客と戦ったって、ほんとですか?」

 へ。薄紫の瞳が見開かれ、続けて柔らかく三日月に歪む。

「えぇ? あの話が聞きたいの? …………しょうがないなぁ、おチビちゃんは」

 張り付けたような満面の笑みで黄酒を呷った巳は、うんと頷いて胸を張った。

「これは誰にも話したことがないんだけどね……」

 そういって話し始める巳の言葉。笠を被ったシュエ家お抱えの暗殺者――酔手夜客との間の、たった一夜の交戦の話。

 私はにへらと笑いながら何度か相槌とばかりに打ち頷き、冷めた羹を飲みくだす。

 

 この話だけで、三回目だ。

 

「――それでね。朴刀の暗殺者たちの足を絡めて、酔手夜客の刀をこの槍で弾いてさぁ。その時が一番、今だ!って思ったの。一呼吸も置かず、巳腕を伸ばして一気呵成! ざっと三人まとめて吹っ飛ばしたら、アイツもちょっとは本気になったみたいで――――」

 何度だって聞いてきた話だけれど、きっと。必要なこと。

 この先輩が楽しく、機嫌を損ねたりしないようにしないと……明日以降の私に響くから。

 

「ね。私って、なかなかやるでしょ? 巳の中でも一級棒(いちばん)、とびきり優秀だって主君にもお褒めの言葉を頂いてね」

 ――それって、ただのお世辞じゃないですか。

「いいですね。凄く活躍してて……」

 心にもない事を口に出すのが、だいぶうまくなった気がする。

 キヴォトスではちょっと銃で撃たれるくらいだったのに、この都市じゃもっと痛いことをされてしまうから。

「……羨ましいです」

「でっしょぉ? ……あぁ。早く、きっちり100回仕事しないとなぁ」

 

 ぽつり。アルコールで緩んだ巳の口から、やけに具体的な数字が漏れた。

 私は自然と、オウム返しとばかりに繰り返す。

「100回?」

「そうそう。これは言っちゃいけないことかもだけどさ。今回の主はね……ちゃんと百回活躍すれば、どんな願いでも叶えてくれるって約束してくれたんだ」

 巳は胸を張りながら、少しだけ自慢げに頷いた。

 

「しっかり百回活躍したなら、何十人もの家主候補を蹴落としたなら……きっと。噂にもある、例の条件も認めてくれるかもしれない」

 

 黒獣の中には、一つの噂話がある。それくらい、私だって聞いたことがある。

 鴻園では無類の強さを誇る黒獣の、その手綱を運良く握った主君。彼か彼女かが自分からその手綱を解き放ったならば…………黒獣の中の一人を、自由の身にすることが出来ると。

 そうして実際に、ジア家にはそうやって自由になった黒獣の男が一人の少女の侍従として控えているんだと。

 だけど、そんな夢物語。噂程度の大ボラだと思っていた。

 

「…………それって」

「……私さぁ。夢があるんだ」

 

 呟きかけた言葉を遮って、巳の酒臭い舌が回る。

 

「あなたみたいな子供が、吐瀉物を食べて死んじゃわないこと。間違ってる人なら誰だって……たとえ中指だって親指だって、いるかもわからない小指だって、悪事(つみ)を働いたら当然報い(ばつ)を受けること」

 

 痛いのを、つまらないのを我慢して、なんでもない道具として生きなきゃいけない。そんな黒獣の生活から、抜け出すことが出来るかもしれない。

 将来への期待なんて持てない夕暮れが、暗く閉ざされた人造の天蓋の向こうから。ほんの少しだけ茜色の日差しが増す。

 

「…………そんな時代を切り開いた私を、皆が褒めてくれること。特別だって、認めてくれること」

 

 それは誰かに使われるだけの人生だと、考えるだけ無駄なこと。もしかしたらの幸運で、黒獣じゃなくなった後のこと。

 期待なんてしなかった明日のこと。

 面白くもなんともなかった巳の話に、自然と引き寄せられていく。

 

「おチビちゃん。あなたには、どんな夢があるの?」

「私は……」

 

 こんなところで目が覚めて。帰りたいと願った場所がある。

 ……誰か他の巳に黒獣をやめたいだなんて言ったりなんかしたら、半殺しなんかじゃすまない話。

 話してみてもいいのかな。小さく揺れる心を、巳の射抜くような視線が穿つ。

 

 例えばもしも。いつか。ここから出た後でなら。

 こんな仕事を辞めた後なら、気味の悪い色合いに変わった身体を治してもらった後なら。

 

 十夜を10回数えて、それをまた10回数え終わった後でなら。

 きっと。褒めてくれる、抱きしめてくれる。あの人と会う準備が出来ていることだろう。

 

 そしたら。やっと、ようやく。やり遂げられる。

 

 寝て、起きて。傷んで呻いて。泣き叫んでしまいそうなほどの胸痛だって。

 打たれて転んで、足も腕も折れてしまうかのような激痛だって。

 

 きっと、必ず。乗り越えられる。

 

 ――だったら。

 

 

 ぎゅっと閉ざしていた目を開く。硬く閉ざしていた口を開く。心の鍵を、少しだけ開く。

 この人なら、少しは。

 

 意を決して、光なんて越えて飛び出す言葉は、いつの間にか巳の手元にあった竹簡なんて――目にもとめず。

 

「……あのっ、」

「おチビちゃん、仕事だよ」

 

 すとり。冷たい声色で、刺し込まれる。

 ちらり。見上げる。さっきまで上気していた顔は、酒の酔いなど最初から無かったかのように、白く冷たく無情を表す。

 ――――あの。続けて出るはずだった言葉など、喉の奥へと押し込まれてしまうだけ。

 巳はそんな私を一瞥し、気楽に行こうとばかりに微笑んだ。

 

「あっ。仕事のことが気になるんだ? 大丈夫大丈夫。ジア家の侍女をね、たったの一人噛み斬るだけなんだって。なんでも話されたり考えたりしちゃいけないことを考えた罰なんだってさ。だから警備も無し、護衛武士のリン家も無視していいらしい。お誂え向きだよね?」

 そっか。目線を落とし、水筒の蓋を締めて。二度と決して開かないように。傍らの短槍を、小さな腕を伸ばして引き寄せて。

「いやぁ、ついに私もタブーハンターと同格の扱いかぁ。今回の主君はお目が高いな。……まったくもう。話したり考えちゃいけない事なんて、この都市には無限にあるのにね」

 続けざまに、自分に言い聞かせるみたいに。呪いが染みついた紫色の包帯で覆われた口元から放たれるのは、確かに巳の言葉なんだろうか。

 

「ね。おチビちゃん。わかったらさっさと、この仕事終わらせちゃおっか」

 

 はい。頑張りましょう。

 にへらと張り付けた笑みを包帯で覆い隠し、薄暮に沈む窓から目を逸らした。

 

 きっともう、園の青葉は枯れてしまったに違いない。

 


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