若き枢機卿シードは、大司教団からの命を受け、十数名の部下を引き連れ教国領内のとある平野へ足を踏み入れていた。
目指すは、この地に巣食うという水竜の討伐。だが、見渡す限りの草原は穏やかで、目立った異変の兆候は見当たらない。
「本当にこんな所にドラゴンなんているんかえー?」
柔らかな波がかった金髪を修道服のベールから覗かせた修道女イリューフェが、青い瞳を細めながら気の抜けた声を上げた。
彼女の見た目こそ少女のようだが、その佇まいには転生を幾度も繰り返してきた者特有の長寿者の雰囲気が漂う。
「っるせーな、どうせババアに出番なんかねえんだから、そのへんに大人しく座ってろや」
僧兵アダンが不機嫌そうにぶっきらぼうな言葉を返した。
赤茶の短髪をオールバックにし、橙色の目を光らせる彼は、屈強な体躯に軽鎧を身につけた、まさに戦いのために生まれたような男だった。
二人の軽口を遮るように、シードが静かに声を発した。
黒い法衣に包まれた姿は神聖でありながら冷徹で、短い銀髪と銀色の瞳がどこか非人間的な冷たい印象を与える。
「イリューフェ、アダン。敵が水竜であれば、近くの水源に潜んでいる可能性が高い」
彼の冷静な声が指し示す先、遠くに森の間を流れる細い小川が見える。
「……あんなちっちゃい川にドラゴンが?」
イリューフェが疑わしそうに目を細める。
「おい、猊下の言葉を疑うのかよ」
アダンが不満げに口を挟むが、シードはそれを無視して歩を進めた。
部下たちは彼の背に従い、緊張感を高めながら森の中へと向かう。
* * *
森の中を流れる小川は静かにせせらぎ、風の精霊の囁きが耳を掠めていく。
草木の隙間から陽光が差し込み、穏やかな雰囲気が漂うその場所に敵の気配は感じられない。
「巧みに気配を隠しているか……あるいは、こちらを観察しているのかもしれません」
シードは呟くと、両手を広げた。
短く詠唱を紡ぐと、空気が震え、冷たい風のような魔力が周囲に立ち込める。
「来たりて迸れ、
その瞬間、彼の掌から青白い稲妻が地を這い、小川へと一直線に駆け抜けた。
雷鳴が轟き、水面が激しく跳ね上がる。
「ギシャアアアアア!」
甲高い咆哮とともに、水面を突き破るようにして巨大な影が姿を現した。
青い鱗に覆われた長い胴体。鋭い目が敵意を宿し、大きく開かれた口から高い唸り声をあげる。
「っ……でけぇな……!」
水飛沫を浴びたアダンの表情が一瞬驚愕に強張るが、すぐに興奮を滲ませた色に染まる。
水竜はシードの魔術で一瞬痺れたもののすぐさま体勢を立て直し、螺旋を描くように身体をうねらせながら鋭い爪を振り下ろしてきた。
地面が抉れ、木々が薙ぎ倒される。僧兵たちは慌てて後退した。
「……全員防御陣形を」
シードの冷徹な声が響く。
水竜の巨体がしなり、今度は鋭利な尾を薙ぎ払う。
空気を切り裂く重い音とともに、砂利や枝が舞い上がり視界を遮った。
「アダン、前に」
「おうよッ!」
シードの命令を受け、アダンは即座に魔力を凝縮し、両手斧を具現化。その魔術には詠唱がない。
尾の一撃を斧で受け止め、膝をつきながらも必死に耐えた。
「さすがドラゴン……バカみてぇな力だぜぇ……っ!!」
アダンの足元の地が沈む。
「拘束します。イリューフェ、光の結界を。後方部隊は支援体制を構築」
「まかせんか!」
イリューフェが両手を掲げ、神聖魔術の光が渦を巻くように竜を取り囲んだ。
輝きが水竜の動きを鈍らせると、続くように僧兵たちが魔術で追撃を仕掛けた。
竜は怒りに震える咆哮と共に身を捩らせ、凄まじい怪力で結界を砕こうとする。
「ちッッ……化け物が!」
アダンが吠え、跳躍と同時に魔力の斧を振り下ろす。
竜の鱗に刃が食い込み、血飛沫が舞う――だが浅い。
「……硬ぇ!」
「……充分です、アダン」
シードが前に出ると、アダンはにやりと笑い、ウインクを飛ばした。
そして飛び退くように水竜から距離を取る。
シードの銀の瞳が淡く輝き、呪文が紡がれる。
「来たりてかの者を捕らえよ。火炎の
詠唱と同時に紅蓮の魔力が連なり、束となって具現化した。
それは炎の鞭のように水竜を絡め取ると、中心に巨大な魔方陣が刻まれた。
凄まじい熱閃が陣内に収束した、次の瞬間――
爆ぜるような轟音と共に、竜の胸が爆裂する。
「ギャアアアアア!!!」
水竜の悲鳴が森全体に響き渡る。
血煙が立ち上り、鱗が陽光を浴びながら彼らの頭上に散っていく。
残った僅かな肉片が、雨音のような音を立てて地面に崩れ落ちた。
静寂の中、シードは光となって消えゆく竜の骸を見下ろし、冷たく呟く。
「無駄な足掻きでしたね」
勝利を確信した僧兵たちが歓声を上げる中、イリューフェが光の粒をそっと掴み、悲しげに目を伏せた。
「……可哀想に」
その言葉は、どこか不吉な余韻を残しているようだった。
シードは彼女の横顔に目を向けたが、何も言わずに小川へ視線を戻す。
流れる水の音が耳を満たす中、僅かな違和感が胸を掠めた。
「……」
だが、その違和感を口にすることなく、彼は黙ってその場を離れる。
枢機卿団は勝利を背負いながら森を後にした。
その誰一人として、この討伐が後に教国全土を揺るがす惨劇の幕開けになることを――
すなわち、「教国の呪い事件」の始まりだったということを、まだ知る由もなかった。